19. 久遠の旅路
私たち二人はアイリスたちの向かった方向とは逆に、店の表側の通りから路地へと抜けた。店の前には路傍の酔漢に扮したロウィスが私たちの姿を見つめていた。私は通りを隔てて、予め取り決めてあった小さな動作の手合図を送る。
逃げろ。
逃亡決行日がノラッドに筒抜けであり、その事実をロウィスが知らなかったであろうことから考えて、彼の裏切りはとっくにばれている。ろくに礼も出来ず申し訳なく思うが、今の私にはこれが出来る精一杯だった。彼はのっそり立ち上がると、樽の後ろに隠していた矛槍を肩に担ぎ、そのまま通りを歩いていった。
寝静まった通りにそれ以上人の姿は無く、路肩には人の代わりに猫だけが歩いている。彼らは私たちを警戒することもなく、すれ違いざま、あるいは追い抜きざまにまるで会釈のように頭を下げたり、にゃあと挨拶したりした。でこぼこの石畳には昼間に降ったにわか雨が残り、月明かりを反射する鏡がまだらに姿を現していた。空気は澄んでおり、たまに吹くゆるやかな風がとても涼しく清々しい。どちらかといえば肌寒いほどだ。
「人気の無い夜の街って素敵だね。今晩は月も綺麗だし。最後にヌビクリヒュくんとデート出来て嬉しいな」
オーリスは口元を覆っていた薄手の手ぬぐいを包帯だらけの指で下ろすと、口元に楽しげな微笑を浮かべて、私を見た。月明かりのほのかな光では彼女の頬に涙の痕はもう見えない。月のように青いその顔は、かつてノンドバドで見せていた健康的に日焼けした姿とはかけ離れているが、私はどちらも美しいと思った。
「なんだかすみません、僕なんかで。なんならもっとゆっくり見て歩きますか?真夜中だし、港と反対方向に進んでるから、きっとこっちに見張りなんて居やしませんよ」
「少し見ないうちに随分口が上手くなったね。前は恥ずかしがってちっとも喋れなかったのに」
「僕くらいの年齢の人間はそんなものじゃないでしょうか。アイリスも随分責任感が付いたように見えました」
「はは…あの子は相変わらず口が汚いけどね」
「それでも、彼女は上手くやっていきそうな気がします」
「…ありがとう」
口には出さなかったが、オーリスの方も、初めて能力を喪失して錯乱していた時のことを思うと、私に対して随分と心を開いて大人らしく接してくれているように思える。引き篭もり生活では何か特別なものを得られるようにはあまり思えないが、アイリスやハステによる彼女への無償の奉仕に大きな意味を見出したのかもしれない。彼女は第六感に頼らずに人の心を信じられるように成長していた。
だが、そんな彼女にはもう未来が無い。
私は、敢えて無防備に、道中彼女との雑談を楽しんだ。初めて出会った時の思い出や、セリトのこと、ゼームのこと、ハステのこと、それから色々と前置きした上でホルズのことについても話した。だが、ニャキたちのことについては意図的に避けた。彼女に不快な思いをさせたくないというのも勿論あったが、私が怒りを思い出したくないというのと半々だった。
「いつかはごめんね。ヌビクリヒュくんとゼームくんが一緒にうちに来た時のこと。私、ゼームくんのことばっかり構っちゃって」
「そんな恥ずかしいこと、もう言いっこ無しですよ。むしろその後のオーリスさんのフォローで僕は救われたんです」
「今はもうゼームくんよりヌビクリヒュくんの方が好きだよ」
「ははは、そんなバカな」
「いやいや、バカじゃない、バカじゃないよー」
のんびり歩いても夜は長く、変わらぬ月明かりの元で私たちは帝都方面へ向かう北門までたどり着いた。もっと遠回りしたい気持ちはあったが、疲れて歩けなくなる前にせめて街の外へ出る必要があった。
「それじゃあここでお別れだね」
オーリスは足を止めた。彼女がそう切り出すことは予想していたので、私はすぐにかぶりを振った。
「一緒に行きましょう。最後までお供させて下さい」
「一人で大丈夫だよ」
「オーリスさんは苦しむべきじゃない」
深い眠りの中で自ら気付かない内に最期を迎えることが、最も苦痛や恐怖の薄い手段だと人々の間で信じられていたし、私も珍しく大衆と意見の合うところだった。だが、それは独りで行うことは出来ない。
少しの沈黙の後、オーリスは私の腰に提げられている剣を見ながら口を開いた。
「私はあとどれくらい持つのかな?」
「今のところ両腕だけですか?」
「うん」
彼女は発症した原因が特殊であると考えられるので前例が参考になるのかは分からないが、発症した時期と進行速度を鑑みると、恐らくあと一週間程度というのが濃厚だろう。ただし、個人差がある。一ヶ月以上持つかもしれないし、今すぐかもしれない。
「一週間は持つはずです」
「ありがとう。じゃあもう少し一緒に居てね」
私が最後を引き受けるべきだ。引き受けねばならない。樹海に居た時から不思議な使命感に突き動かされるように、私がオーリスの元へ辿り着いたのはきっとこのためだったに違いない。
私たちは門まで歩みを進めた。
深夜に町から出ようとする者は当然ながら全員門兵に呼び止められる。わざわざ人目を忍んで出かける者に特殊な事情が無いはずは無いのだから。むしろ入ってくる者よりも出る者のほうがより厳重に警戒される。
私はなんと説明したものか迷ったが、個人的に追われているだけであって罪人ではない。適当な理由をつければ若干の荷物検査の後に通してもらえるだろう、といった程度の気持ちで職務質問に応じていたのだが、隣のオーリスが袖を上げて包帯を少しだけほどいて見せると、私たちを引き留めていた数名の兵士たちは即座に一歩引いた。
「気の毒に。さあ、行ってくれ。聖テリのご加護を」
彼らは私たちに敬礼まで残した。虫化病末期の者を深夜に人気の無い場所に連れ出して介錯するのは、私達に限ったことではないのだろう。
西の内陸部の都市圏へ続く街道を進むとアイリスたちと合流できるだろう。分かれ道、私たちは当然その道を選ばなかった。果樹園や牧草地、小規模な森を含む丘が点在する草原地帯へと進路を取り、しばらく歩くと空が白み始め、オーリスが朝日を見たいと言うので丘へ上った。日が昇ったら仮眠しようと、丘の上の木陰に寝袋を敷いて休んでいたら、そのまま二人して昼前まで眠ってしまった。
オーリスは朝日を見逃してしまったことを軽く笑い飛ばすと、
「機会があったらいつでもお願いね」
伸びをしながらそう言って、また微笑んだ。私が彼女よりも少しだけ先に起きていたことに気付いての言葉だろう。私は実際、葛藤しながら彼女の寝顔を見ていた。
彼女の微笑が心底からのものであると願うばかりだった。
「もう少しだけ先へ行きましょう」
糧食は十分過ぎるほどあったが、道沿いの牧場が旅行者向けの食堂としても営業していることを見つけると、私たちは中で食事を取った。日は高かったが既に昼をだいぶ回っており、この先は人里まで遠いとのことで、店主は部屋を貸すことを提案した。だが、私たちは目的上野宿する必要があったのでそれを丁重に断った。
食事の後、外の家畜たちを眺めながら私は職業上の雑学をいくつか披露した。オーリスは楽しげに聞いていた。イワウサギの話をすると大いに興味を示した。
「実家が醸造士じゃなかったら、牧場をやってたかもなぁ」
彼女は動物が好きだと語った。小さな頃からいつか動物まみれで暮らすという夢があったと言う。爬虫類でも、鶏でも、魚でもいい。
「オーリスさんの能力では動物の心も分かったんですか?」
「ううん。分かんなかった。なんでかヒトの存在だけしか感知出来なかったんだよね。でも動物は大好き」
意外ですね。と、言いかけたのだが、あながちそうでもないのかもしれない。常に人の心が読めるという能力は身の安全には寄与するが、人を好きになることにも役立つかと問われれば、嫌いになることのほうがきっとはるかに多いだろう。
「動物は人を騙さないし、人の気持ちに報いるし、人間もみんなそうなら争いも起こらないだろうにね」
動物同士でもしばしば喧嘩や殺し合いはしているのでそうとも限らない気がするが、そんな話は今絶対に望まれていないはずなので黙っていた。
「このお店ちょっと面白いよね。牧場と食堂が一緒だなんてさ」
「普通は食事の場に獣の匂いが入るのを避けますしね。僕は出身柄、気にならないけど、厩舎の位置や作りを工夫してもう少し匂いを抑えればもっと良い店になりそうな気がするな」
「むしろあえて小さめの犬や猫なんかを食堂にいっぱい放すとかどうかな?お客さんが食事しながら撫でたり給餌したり出来るの」
「あー、いけそう。僕なら常連になるね」
「それで夜は酒場として私の作ったお酒も出すの。私、賑やかなのも大好きだから、一挙両得だね。ああ!これいいアイデアだな!もっと早く思いついてればよかった!さっきヌビクリヒュくんが話してたイワウサギってのも人気出そうじゃない?猫みたいに食卓に登らないだろうし、夜行性ってとこもいいよね」
しばらく二人で出店のアイデアを出し合って盛り上がっていると、店主が外に出てきて、私達に動物に触れることを許してくれた。私たちは豚を撫でたり、鶏を抱いたり、犬を走らせたりして遊び、終いにはオーリスは店主から酒を買って、ジョッキ片手に牛に跨って大笑いしていた。
「最初から、心なんか読めないほうがもっと色んな人と分かり合えたのかもなあ」
私と違って酒に強いオーリスはそのままぐだぐだになってしまうこともなく、私たちは日が暮れる頃に牧場を発った。店主は私たちを案じたが、それでもここに宿を取る訳にはいかなかった。進めた距離は僅かだったがその後も街道を歩き、完全に日が落ちる前に、小さな林の中に隠れるようにキャンプを張った。盗賊の目を避けるためでもあるが、私自身が人をあやめる姿、そして残された遺体を見られないためでもある。
「アイリスは今頃どうしてるかな」
「ハステさんは旅慣れてるし、きっとしっかり導いてくれていますよ」
「そうだよね…。あの人に会えて本当に良かった。勿論、ヌビクリヒュくんも…」
「………」
「おやすみなさい…」
彼女の「おやすみなさい」には胸に沈み込んでくるような重量があった。ランタンを灯したまま彼女をじっと見つめていると、そのうち寝息を立て始めた。私は近付き、そのペースを注意深く確認する。完全に一定だ。寝入っている。
どれだけ見つめていたのかわからない。
「…お。ここは天国かな?」
空が白くなり始めた頃にオーリスが目覚め、ぱちぱちと何度か瞬きするとすぐに私の視線に気が付いた。
私は自分でも気付かぬうちに多少は眠ったようだが、ほとんど眠れなかった。
「まだです。朝日が見たいかと思って」
それは半分本当で、半分は嘘だった。
だが、私はその晩は剣を鞘から抜くことすら一度もなかった。
寝袋を畳みながら見上げた空は曇りがちだったが、風が強く、雲の流れは速かった。しばらく待つと天高くそびえた黒い雲を割るように威風堂々と朝日が出現し、私たちは二人同時におおーと歓声を上げた。
「雨が来そうだね。このへんは林が多くて人家も無いし、もうこれ以上先に進まなくてもいいかな?」
「もう少し先の景色を見てみませんか。降り始めたらその時は夜でなくても休みましょう」
昼前に旅の薬売りとすれ違った。私が、何をしても目覚めない睡眠薬はないかと尋ねると、冗談半分に訝しむような言葉を投げられたが、オーリスが包帯の下を見せると薬売りは胸に手を当て、目を伏せた。
「からかって悪かったよ。あんたら姉弟かい?」
私が否定しようとすると、オーリスは私を肩で押しのけるようにして先に回答した。
「恋人同士なんです。彼が優しくて私、幸せです」
そう言って彼女は私の腰に手を回した。ひどく残念なことにその腕は金属のように硬くごつごつしている。
「ご注文どおりの薬があるよ。タダでいい。久遠への旅路が安らかならんことを」
いくら私達に同情したとは言え、商売人が今後会うことも無さそうな旅の者に商品を無償で譲るとは珍しいことのように思えた。去っていくその後姿を見ると、護衛らしき連れの男が慰めるように商人の肩に触れていた。彼も似た境遇を経験したことがあるのかもしれなかった。
私とオーリスは再び街道を歩き始めた。
だが昼を過ぎ、空が澱み始めると共に、徐々にオーリスの精神も不安定になってきた。歩きながら、彼女は自らの運命を呪う言葉を吐いたかと思うと、私を気遣ってかすぐに両手を振って微笑み、また少しすると垂らした頭髪で顔を隠しながらぶつぶつと何事かを呟き、その一連の行動を何度も繰り返した。
私は彼女を宥めながら都合の良さそうな林を見つけ、今日はもう終わりにしようと告げた。その言葉が何か彼女の心を酷く動揺させたのだろう。私は彼女に背後から突き飛ばされた。女性の、いや、人間のそれとは思えない物凄い力だった。直接当てられた部分がバックパックだったため怪我はせずに済んだが、私は藁を詰め込んだ軽い毬のように何メートルも吹っ飛んで、草地の上に滑り込むように転倒した。
彼女は自らの行為が信じられないといった目つきで、虫化した両手で頭を抱え、狂ったように何度も謝罪の言葉を口にした。私が立ち上がり手を差し出すと、彼女はけたたましく号泣し、私に抱きついた。私は彼女の恋人ではなかったが、頭を撫でてやる以外の対応が何も思い浮かばなかった。
オーリスは昼食を摂らなかったので、私も摂らないことにした。オーリスを座らせ、ほぼ屋根だけの雨避けの簡易テントを張り終えると同時にどしゃ降りになった。寝袋に下半身を突っ込んで蹲るオーリスの泣きじゃくる声は、天と呼応するかのようにずっと止むことがなかった。
一体どうしてこんなことに?ニャキは一体何が望みなんだ。おまえが手に入れようとした適性者はおまえの知らぬうちに知らぬ場所で永遠に消え去ろうとしているぞ。
日が暮れても、オーリスは食欲が無いと言った。昼を摂らなかったにもかかわらず私も同様だった。私は火を焚く必要が無く食べたい分だけ食べられる保存食を多少無理してでも摂ることにした。ラニ芋煎餅の袋を開けてオーリスとの間に置き、二人でぱりぱりと齧った。会話は無かった。私はもういくらか食べられそうだったが、あまり喉を乾かしても水筒の水を補充に行けそうもないので、オーリスが拒絶したタイミングで煎餅の袋を閉じた。
まだ日没から間もなかったが、私が天気を気にして真っ黒な空を眺めている間にオーリスは眠ってしまった。先ほど薬売りから譲ってもらったものが空き瓶になって無造作に転がっていた。
私はまたしてもオーリスの寝顔をじっと見つめるばかりだった。剣は腰から外しており、手に取ろうという気すら起きない。ランタンの紅い光の中、ただただ時間だけが流れた。
ふと気付くと紅い光は無く、私は白い霧に包まれてふわふわと浮いていた。ここは以前にも来たことがある。かつて樹海に居た頃、遠く離れたオーリスと私が二人きりで会話を交わした夢の中だ。いや、あの時とは違う。今、私たちは物理的にとても近くにいるはずなのだ。
オーリス、居るのか。
ここは霧というよりはまるで雲の中のようで、自分の手すらも見えなかったが、何故か離れた位置で背を向けて立っている一人の女性の姿だけははっきり見ることが出来た。
やっぱりそこに居たのか。
私は浮遊しながらどうにかして彼女に近付こうとするが、雲を掻き分けても体は進まない。ただ虚しく手を伸ばす。
どっちを向いてるんだ。今、微笑んでいるのか?振り向いてくれ。
君が僕をここへ連れて来たんじゃないのか?
彼女は既に人にこんな夢を見せる能力を失っているはずだ。これは私一人が見ているただの夢に過ぎないのだろうか。だとすれば私は眠ってしまったのか。すべきことを放り出して。
そう考えた時、私の右手の中に一本の槍が出現した。かつて虫化した友を埋めた時に使ったスコップ形の槍だ。今、この槍を投擲すればオーリスの背中から心臓を貫ける。槍と共にそんな絶対的な確信も私の中に出現していた。
だが私は投擲の構えも取らず、掌で槍を握り潰した。臆病な私に迷いは無かった。きっと私はまた知らず知らずに自分を騙していた。使命感など偽者だった。私は最初から、オーリスと連れ立ってテンベナの酒場を出た時からこうなることは分かっていたのだろう。私は三度も彼女の寝顔を見ながら、ただの一度も剣に触れさえしなかったのだ。スコップ形の槍だったものは私の手の中で粉々になり、そして霧となって白い世界に溶け込んだ。
その時、オーリスの背中から突如、煮えた油に水風船を投げ込んだかのごとく、真っ黒な影が猛烈な勢いで吹き出した。私はそれが巻き起こした突風に削り取られ塵になった。
これが私の選択への答えなのだろうか。
せめて振り向いてくれよ。顔が見たいんだ。微笑んでくれ。
オーリスの後姿も飲み込まれていく。塵となった私の欠片は影をこじ開けようと一点を目指して集束したが、世界は一瞬の残光だけを残し、黒が永遠を覆い尽くした。
結局――、私は夜明け頃に揺り起こされた。
オーリスは、上体を起こした私の顔を、にっこりと微笑みながら黙って見つめていた。
私に言えることはほとんどない。
「ごめんなさい。出来なかった」
頬を何かが伝う感覚があった。
「ありがとう。昨日みたいな日がお別れにならなくて良かった」
「ごめん、ごめんよ。僕は出来ないかもしれない。やるべきだと分かっているのに、出来ないかもしれない」
虫化病の恋人や家族を介錯するために連れ立って町を出る者はしばしば居るが、一人で帰ってくる者は少ない。みんな私たちと同じなのかもしれない。結局、最後の最後まで出来ないのだ。
昨夜の大雨がただの悪い夢だったかのように、真っ白な朝日がオーリスの笑顔を輝かせ、澄んだ冷たい風が長い胡桃色の髪をそよがせていた。彼女は笑顔のままで首を振る。
「ううん、必要無いよ。多分最初から必要なかった。なんだか、私は違うみたいなんだ」
「違うって?」
私はぎくりとした。オーリスが突然着ていたシャツを脱ぎだしたからだ。まさか本当に恋人になるのか。
「えっ、一体どうしたん…」
しかし私は絶句した。彼女の下着姿が魅惑的だったからと言いたいのだが、私が目を奪われたのは彼女の体の後方だった。確かに違う。
「ほら、見て。目が覚めたらこうだったんだ。ね、違うでしょう?」
彼女は上半身をくるりと捻って、背中のそれを見せた。
羽だ。
彼女の背中から、一対の蝶の羽が生えていた。差し込む朝日は彼女の羽の周囲の空間に虹のように色とりどりの鮮やかな波紋を浮かび上がらせている。
なんだこれは?昨日の薬売りが寄越した薬がおかしなものだったのか?いや、違う、あれはただの善意の薬売りだったに違いない。彼女は虫化が進行したに過ぎない。これが彼女の虫化なのだ。
「びっくりした?でも、私はほとんど驚かなかったよ。何故だか急に、どこへ行けばいいかわかるようになったんだ。誰かが私を呼んでるみたいな気がするの。きっと、この羽をくれた人」
「その人の元に行っちゃいけない」
やはり昨晩やらねばならなかったのだ!私は突如として押し寄せた禍々しい予感に戦慄し、悲鳴のような声を上げて彼女の虫の手首を掴んだ。その予感の正体が分からなかったためそれ以上の言葉を紡げずにいると、脳裏にいつかのカナベロの言葉が閃いた。
――人為的に虫化させられた者は、植えつけられた命令に従う。
彼女は人としての意識と自我があり、姿も半分は人のそれを保っている。だがどういうわけか私には分かった。彼女は今、既に完全に虫化を終えている。彼女が私を食い殺さないのは、私の持つ虫人間に襲われないという特性のために他ならない。
迷宮書庫に最後に書物が持ち込まれた時期がいつなのかは分からない。だが、テリリドニジグの最新の研究と比べると少なくとも数年遅れていることは確かだ。ニャキはきっと書庫の知識だけでは知り得ない新兵器をオーリスに行使したのだ。
「ヌビクリヒュくん、ごめんね。でも行かないと」
「駄目だ!」
両手を使って彼女の両手首を捕まえ、強く引っ張ろうとしたが、不意にとてつもなく甘い香りが襲い掛かり、私は朦朧とした。
朝日を受けて虹色に輝いていたのは鱗粉だ。催眠効果があるに違いない。間近で大量に吸い込んでしまった。
「ごめんね。それと、本当にありがとう。君のお陰で、私は最後まで孤独じゃなかったよ」
最後?最後までだと?彼女はどこまで理解しているんだ?
消え入りそうな意識の中、逆光を背負った彼女の微笑みに涙を見つけた。
そうだ。彼女は全部理解している。
自らの血塗られた運命を理解した上で、それを知らずに虫化を受け入れた振りをしている。私の心に傷を残すまいと、私に絶望させまいと振る舞っている。
なら何故行くんだ。行かないでくれ。
「待てよ…。僕は君の恋人だろ…。ここに残って…キスしてくれよ」
私は何を言っているんだ?
意識が戻った時には夕暮れで、体の自由はさらに遅れて夜になってようやく戻ってきた。失神した私に恋人が接吻してくれたかは分からない。だが、テントの外で前のめりに倒れこんで麻痺したはずの私の体は、まっすぐ仰向けに寝袋の中に納まっていた。




