16. 騎士団の偉い人
主人の合図によって、御者は二頭立ての箱馬車を発進させた。私は後部の小窓越しに、遠ざかっていくジッフェの姿を見ていた。彼女は馬車が曲がり角を曲がって見えなくなるまでずっと礼の姿勢を保っていた。
「ははは、たまにちょっとアレだけど良い子だろ?君だけじゃない、僕らはみんなあの子の事が大好きさ」
対面して着席しているフィノケリ卿が帽子を脱いだのを見て、私は慌ててフードを外した。
「閣下、よもや貴方様だとは露知らず、先日は大変な無礼を働きました。どうか、何卒お慈悲を賜りたく…」
このようなかつて本で読んだ事があるだけの言葉を遣うのは初めてだったので、揺れる馬車の中で舌を噛むのではないかと思った。向かいの金髪の貴公子も同じ心配をしたのか、私の膝を軽くぽんぽんと叩いて言葉を遮った。
「君が負い目に感じてるんだったら、協力を頼み易くなって助かるなあ。鼻血を出した甲斐があったね」
「出来る事なら何でもします。何なりとお申し付けください」
「じゃあまずは寛いでくれよ。一つ良い報せを伝えようか。昨日ノラッドに会って、君の誤解は全て解いてきたよ」
「ええっ!?そうなんですか?」
正直言ってこの時点まで彼が本当にフィノケリ卿かどうか半信半疑だったのだが、この言葉でそんな疑いは一気に拭われた。
そう言えばこんな明るいうちから私を待ち合わせ地点まで移動させるのに、ジッフェは特段警戒する様子も見せていなかった。私にその事実を伝えなかったのは、きっと私の自重を促すためだったのだろう。
「これについては君が僕らのとばっちりを受けた形だったしね…。こちらこそすまなかった。君が囚われた時、僕らが助けに行くべきだったのに、ホルズくんに任せっきりにしてしまったのも申し訳なく思う。殺されかけた君の受難に僕の鼻血が対価になるとは思ってないが…どうか許してくれないか」
「ああ、よかった!これで随分動き易くなります」
私は心の底から安堵したが、
「いや、それでも一人でこの町を歩くのは今後も避けたほうがいい。夜間の背後にも気をつけて。君が彼らから受けてしまった個人的な恨みはきっと生涯消えないと思うから…」
やっぱりそうだよな。
私がどんよりしてしまったのを見てか、フィノケリ卿は慌てたように話題を逸らした。
「いやー、それにしても、ノラッドやリデオと会ったのは十五年、いや二十年ぶり近くだったかな?懐かしいと言うより、誰こいつってなったね!おっさんじゃん!当たり前なんだろうけど、僕以外の人って年を取るんだね」
「そりゃそうですよ」
「僕はなんで年を取らないんだろうね?そういう超能力者だったりしてね。この体質のせいで同年代の部下の女性からいつも嫌味を言われてんだよ。実は今回もそれを理由に帝都から逃げてきたんだよね」
「ははは…、確かそんな感じの人の噂を以前ちらっと聞いたような…。確かタヤリクさんでしたか?おしろいを兜の代わりにしてるとかいう…」
「わはは!そうそう!そんな事一体誰に聞いたの?」
「ご息女からです」
よくよく思い出すとこの話をしていたのはニャキだったのだが、些か記憶が曖昧になっていた。ハステとフィノケリ卿には悪いことをした。
「…あー…。あれだ…。その、あの子は陰口を言うような子じゃないんだよ。僕と違って。多分悪いと思ってないんだろうな。次そういうこと言ったら窘めてやってくれよ…。えーと…うん、あれ?何の話をしてたんだっけ?」
「旧友がおっさんになっていたという話です」
「元々大した話じゃなかったな…」
ノラッドをはじめとした人物のフィノケリ卿についての評価を考えると、おそらくこの他愛の無い会話もすべて計算ずくのことなのだろう。少なくとも彼の助けによって『寛いでくれ』という私への最初の指令は見事に果たされた。
「…ハスタリメノはあんな感じの子だけど、顔だけは僕に似てくれて、その点については、まぁ助かったな。いやー、妻に似ないで本当に良かった。なんつってな…。ええと、ごめん、今の無しで」
数秒の間、ガタガタ鳴る車輪の音を聞いていた。
「すみません、よく聞こえませんでした」
フィノケリ卿は感嘆したように再び私の膝を叩いた。
「ああ!君は確かにジッフェが言ってたように、見た目よりずっと賢い子なんだな!普段からずっとこないだみたいな調子だったらどうしようって、実は内心結構びびってたんだよね」
見た目よりずっと、という言い方は気にかかるが、好意的な評価として受け取ることにした。
その後、予想通りフィノケリ卿は私に対してノンド要塞の遺物や迷宮書庫についての質問をした。この三日間の内に私とジッフェで共有していた情報を彼もまた既にジッフェから共有したらしく、ある程度の前知識は持っていたが、当然発掘後の現地の様子について実際確かめたことはなく、実地体験者である私の話を興味深げに聞いていた。
「そのカナベロと名乗る男は、巨大な水晶に閉じ込められていた巨大な虫を、現人神テリその人と呼んだと…」
「それについてはさすがに異教徒の戯言だとは思いますが、人知を超えた存在に思われるのは確かです」
神に対する不敬を肯定して不愉快にさせてもまずいと思い、私は義務感からカナベロの言葉を批判してみたが、内心ではあの虫の体を持つ老人こそが本当にテリなのだと信じていた。
「うーん…」
フィノケリ卿は唸って、思案するように顎に指を当てたが、その視線は私の目の奥を見ていた。
「まあ、実物を見てみないことには何とも言えないな」
私が心にも無いことを言ったことは見抜かれたようだが、その意図や信仰心まで詮索するつもりは無さそうだった。
「…実は僕がこの地を訪れた理由は、タヤリクから逃げるってのもそうだけど、ノンド聖域の発掘物の確保ってのが大きいんだよね。それも、なるべく急いでね。分かるだろ。僕ら以外にもそれに興味を持ってる勢力が存在するって事は」
「排除に成功したとは言え、真っ先にメメトー王国の勢力がそれに手をつけたくらいですからね。でも、閣下の仰る勢力というのは、国内のものなんでしょうか?」
「そうだよ。ぶっちゃけると、テリリドニジグの勢力だね。ニャキちゃんたちだよ。まあメメトーの人が先に来てたのも相当ヤバいけど。でも幸いニャキちゃんは融通の利かない性格だから、従来の任務を現場判断で変更して偶然発見した遺物の確保を優先するってことはなさそうだし、彼女に入れ知恵する者が現れる前に騎士団で支配権を確保したいんだ。…それで、理想としては君にも同行してもらいたいんだけど、それは無理なんだよね?」
私はしばらく目を伏せた。私が誰か人の役に立ちたければ間違いなくフィノケリ卿に同行するべきだろう。樹海での先導は怪しいが、現地に到着さえすればその先の案内役は問題なく務まるはずだ。遺物だけでなく迷宮書庫も支配下に置くつもりだろうし、現在のそれの実質的所有者であるゼームとの交渉にも私が使えるはずだ。逆にそれを拒絶しここテンベナに留まったところでエジヤ姉妹の脱走の助力になれるかどうかは定かではない。
とは言え、私はこれ以上人を裏切るわけにもいかない。また、そのような心変わりの末に同行したところで、フィノケリ卿の信頼を得られるような気もしない。
「何でもすると言った手前、心苦しいのですが…」
私は試されていただけなのかもしれない。言いにくい言葉はまたしても途中で遮られた。
「いや、意地悪を言って悪かった!君には君の使命があると言うのは理解しているよ。もちろん醸造士姉妹の救出については出来る範囲で手助けするつもりだけど、あいにく僕はこう見えて結構がんじがらめの立場の公人でね…。すべきことの優先順位を変える事が出来ないんだ」
「と、仰ると、ノンドへ赴く前にご息女の問題を解決はなさらないのですか?もし閣下のお力で醸造士姉妹の安全を保障して頂ければ、ご息女もニャキさんの元へ戻ることが容易くなると思いますが…。その後であれば喜んでお供致します」
「予定の日程は変えられないが、出発までに首尾よく娘の問題が解決したらまた頼んでみようかな。その前提となるべき醸造士姉妹の救出については…」
そこで一旦区切って、フィノケリ卿は小窓を開けて外を確認した。
「今向かっている場所こそがその解決のために出来る僕からの最大限の助力さ。到着する前にそっちの説明を優先させたほうが良さそうだね」
窓から微かに潮の匂いが漂っていることに気が付いた。
「港ですか?」
「そうだよ。察しが付いたかい?僕らが乗ってきた船を使ってくれ。リベイマ商会長専用船の次くらいに速いやつだよ。これに彼女たちを乗せてどこか遠い町に、彼女らの望む土地まで運ぶんだ。乗組員はみんな身元のはっきりした僕の部下だから安全だし、どこだって運んであげるよ。タダでね!」
そしてしばらく後、車輪が回転を止めた。正直なところ、私は初めて乗った馬車に酔いかけていたところだったため、目的地がさほど遠い場所でなかったことに安心した。ドアを開けて外に降り立つと、秋の午後の優しい日差しと対照的に暴力的な生臭さが鼻を突き、危うく数日ぶりに嘔吐しそうになった。
「港の匂いは落ち着くなあ。これぞ男の世界って感じだね」
「はい。徐々に落ち着いてきました」
汗まみれの半裸の男たちが匂いのみならず怒声まで撒き散らして、まるでフンコロガシの行列のように右から左から樽を転がしまくっている。何をしているのかよく分からないが多分遊んでいるわけではないのだろう。なるほど、これが港という所か。傭兵団のほうがマシだな。
私は停泊していたいくつかの船のうち、最も目立っていた大きな黒い船に目を留めた。
「あれですか?」
「うん、あの超真っ黒な、超とっぽい感じの船ね。あれが僕の…だといいんだけど、あれはリベイマ商会の船だね。かっこいいよね。交換してほしい」
その時、丁度その黒い船から出てきた一人の人物が目に留まった。半裸の暑苦しい男たちの中で、その者だけはやたらととっぽい黒いシャツを着て、キザに襟を立てている。彼は拳を振り回しながら船内にいるらしき誰かに檄を飛ばしつつ、タラップを降りてくる。
「おっ、あの子のことは僕も一応風の噂で知ってるけど、君のほうが知ってそうだね。まったく良いタイミングで出てきたな。まるでわざとのようだな」
私が馬車の前でぼーっと突っ立ってその男のほうを眺めていると、彼もこちらに気づいたらしく、やはり拳を振り回しながら何事かを叫んでこちらへ駆け寄ってきた。
「また生きてやがった!なんて悪運の強い野郎だ!」
彼の現在の立ち位置についてはやや不安なところがあったが、私の生存を確認して真っ先に見せた表情が笑顔だったため、私はそれを疑わないことにした。
「セリト」
よくよく考えると彼が怪我をしていない姿を見たのはこれが初めてだった。ホルズに貫かれた右手についてはまるで星型の紋章のように痕が残っていたし、はだけたシャツの隙間から胸の刀傷の痕も覗いていたが、どれもすべて完全に治癒したように見える。当然、私が酔っ払ってぶん殴った顔もだ。
「ヌビク。おい、聞いたぞ!先日は随分と大立ち回りを演じたそうだな。トトロイが言うには、ヨモラを殺ったのは貴様だそうじゃないか。本当なのか?」
彼は数ヶ月ぶりの再会で挨拶も抜きにいきなりそう投げかけた。きっとそれだけその出来事について私に話を聞きたく思っていたと言う事だろう。責めるような口調でもないが、面白半分で尋ねてるという感じでもない。以前の彼であればそうでもなかったのだろうが、いくらかテンベナ義兵団の仕事を手伝った今となっては、傭兵たちに共感を得ているのではないかと思われた。
私は慎重に回答する。
「僕が殺した。でも、やるべきじゃなかった。ヨモラはきっと、仲間だった僕に斬られるなんて思ってもなかった」
セリトは普段から皺の入った眉間をさらにしかめて、肩をすくめた。
「ふん、思ったとおり、やっぱり甘ったれだ。斬らなかったらどうしてた?素直に牢屋に戻って鎖に繋がれ家畜みたいに殺されるのを待ったのか?今朝方ノラッドから通達があったが、スパイ容疑は冤罪だったそうじゃないか」
彼が私を見つけた時、最初から敵意を持っていなかったのは、その前情報があったためだったのかもしれない。そう考えると私は少しだけがっかりした。
「…他の隊員は知らないが、少なくともヨモラは僕を密偵だと疑ってはいなかった。僕の剣が命中したのは、それ以外に理由が無いから。交戦すること自体が悪かったとは思ってないけれど、殺すべきじゃなかった。すべての原因が誤解だった以上、あの場に悪者は誰も居なかった」
「何を言っている?勝手に誤解した奴が悪いに決まってるだろう。どうも貴様はヨモラを斬ったことに罪悪感があるような物言いだな。奴だってその気がなければ処刑されると分かっている貴様を投獄すまい。はっきり断言しておくが、貴様は間違ったことは何一つしていない。無実の者が自由を得るために剣を振るのは誰からも咎められてはならない。むしろ賞賛されるべき行為だ」
私は目を丸くしてセリトを見つめた。
「えっ、賞賛しているのかい?君が僕を?」
ひょっとするとセリトは、私がかつての仲間を斬った自責の念に囚われているのではと心配していて、それ故に、会うなり真っ先にこの話題を振ったのだろうか。
「一般論を言っただけだ!学の無い田舎者の歪んだ解釈を正すためにな!私だけじゃない。小隊の他の者たちもすべからくそう思うはずだ。剣を手に取る者は皆そうあるべきだからだ」
「君はこの数ヶ月ノラッド小隊と行動を共にしていたんだろう?きっと彼らに共感しているだろうと思ってたよ」
「思うところが無いわけじゃない。ヨモラは善良だったとは到底言えないが、陽気でひょうきんな奴だったし、互いに剣術への意欲があったから言葉を交わす機会は多かった。あいつが殺されてノラッドやリデオをはじめ…多くの者が随分怒り狂っていたが、私は今貴様に言ったのと同じ言葉を伝えた。まあ…同意はされなかったが、理解はしていたようだ…」
「彼らの憎しみがほんの少しでも鎮められたことを祈るよ」
同じように彼らの仲間を殺したホルズが何年経とうと決して許されないのを見るに、きっと私が許されることもないだろう。
私が自嘲気味に、ふん、と鼻息を鳴らすと、セリトはそれを見て頭を掻き目を逸らしたが、次に彼の口から出た言葉は私の想定外だった。
「それと…一応…もう一つ言っておくが…、私は誰に言われるまでもなく最初から貴様がスパイだなどと疑ったことは一度もなかった。いや、一度や二度くらいはあったかも知れんが、その度すぐに思い直した!貴様はどう考えてもバカだし、軟弱だし、田舎者丸出しだし、そんな大層な役割が務まるような器とは到底思えんからな…!」
私はその台詞の途中から、つい堪えきれなくなって破顔してしまった。
「うわっ!おい、笑っているのか!気持ち悪い!」
どうも私は泣いたり微笑んだりすると気持ち悪がられるようだ。
私はまたしても自嘲気味に、しかしどこか愉快な気持ちで、今度は声を出して笑った。
「はは…。今日偶然、こんな場所で会えるとは思わなかったが…君に会えてよかった。ありがとう。なんだかちょっとだけ気分がマシになったよ」
「…けっ、貴様も随分素直に礼が言えるようになったもんだ…。初めて会った時と比べると、なんだか変わったようだな…」
セリトはそわそわして地面を何度か軽く蹴りながら、言葉を続けた。
「そもそも一体誰がわざわざスパイを差し向けてまで女どもの監視を邪魔するのかがまず解せんからな。それに依頼主はあのニャリキミヒ殿らしいじゃないか。帝国の権力者に楯突いてまでこんな簡単な仕事の邪魔をする勢力が居るなどとはどうにもあり得んことだと思ってはいたが、実際答えは暇を持て余した傭兵どもの妄想だったわけだ」
先ほどから私の一歩後ろで黙ってやり取りを見ていたフィノケリ卿のほうへ目を向けると、彼は張り付いたような微笑のまま顔の向きも変えずに視線だけ空に投げた。
「ノラッド小隊が請け負った仕事は、姉妹の監視だけなのかい?場合によっては何かそれ以上の危害を加えるようなことなんかは?」
私がそう尋ねると、――ようやく――彼は怒り出した。
「バカが!だとすればこの私が許すわけないだろうが!そうでなくとも、私は女どもの監視などという騎士道精神に反する不名誉な任務については一切協力していない」
「殊勝なことだね。君のその騎士道精神に、騎士団の偉い人が気付いてくれるといいね」
私はそう言って、再びフィノケリ卿の方を見た。
「ほんとにそう思ってんのか…?うん?そう言えばさっきからその後ろにくっ付いてる奴は誰だ?」
セリトも私の視線に気付いたようだが、その人物が誰なのかは知らなかったらしい。知っていたとすれば、腹を切ったってこんな言葉は出てこないだろう。
「新しいお仲間か?またよく似た者同士の軟弱者を見つけてきたもんだな。私はセリト=リベイマ。貴様は?」
私はまたしても笑いを堪える羽目になった。軟弱者と呼ばれた貴公子は笑顔のままで一歩進み出て私の隣に並んだ。
「初めまして、セリトくん。僕のことは…ええと、サバ公とでも呼んでおくれよ」
「けっ!髪や瞳の色が私と同じだから帝都あたりの出身かと思ったが…苗字も名乗らんとはやっぱり田舎者か?おい、着ている物だけは随分と立派じゃないか。勿体無い!」
セリトはフィノケリ卿の襟を片手で掴んだかと思うと、ぐいと押しのけるように乱雑に離した。
「確かに無礼だよね…。ごめん、君が正しいよ。でも今は本名を名乗りたくないんだ」
「わかった、わかった、サバ公。勿体つけたところで貴様ごときの素性なんぞに興味は無いから詮索すまい」
そこまで言うと、セリトはたまたま船の前で休憩していた船員に火を借りて、目の前で煙草まで吹かし始めた。わざとやってるんじゃないだろうな。
「ふーーっ…。せっかくだからこの後貴様らと一杯やりたいところだが、生憎明朝にはテンベナを発つつもりで居るから、この後は支度で忙しい。これでしばしの別れになりそうだな」
些か唐突なような気もしたが、彼は旅の途中なのだ。同じ町に何ヶ月も逗留したこと自体がむしろ想定外であり、たまたま明日が出発の頃合いでも何も不思議は無いだろう。
「ひょっとして僕に会うために留まってたのかい」
「なわけないだろ。私は貴様らと違って暇じゃない。このテンベナ最後の日に私を捕まえられた幸運に感謝するんだな」
「君が港に居たという事は、やっぱりその船で帝都へ帰るのかい」
セリトは目を細めると、黙ったまま私の顔に煙を吹きかけた。
「貴様は本当にバカなんだな。以前私が話したことをすっかり忘れ去っていやがる。私の旅は敬虔さを証明するための巡礼の旅だ。クソ親父の船なんぞたとえ両足が折れたって乗るわけないだろうが!今日はたまたまそこに停泊している船の船長がかつての我が家の使用人だったから、激励に寄っただけのことだ」
「と、言うと、ずっと徒歩で帝都まで行くつもりなのかい」
「無論だ!徒歩だぞ!馬も使わんぞ!絶対に!」
私たちは彼が煙草を吸い終えるまで待つと、互いに別れの言葉を交わした。彼は握手を求めたサバ公――フィノケリ卿にごちゃごちゃ言いながらも一応応じ、その後私の肩を軽く二度ほど叩いて町のほうへと歩き始めた。
私はその背中に呼びかける。
「セリト、騎士団の偉い人がきっと君を見てるよ」
「気にするものか!神が見ている!」
彼の姿が見えなくなると、フィノケリ卿がにこにこと微笑みながら振り返った。
「ここでたまたま偶然彼に会えて本当良かったなあ。彼に会えて君は随分すっきりしたんじゃないのかい?まったく偶然、運が良かったなあ」
もしかしなくとも、知ってて時間を合わせたらしい。
その後、私が案内されたのは先ほどの黒い船とまるで遜色ない立派な赤い船だった。船上に居た者たちは私を先導する金髪の貴公子の姿を認めると誰もが立ち止まり深く会釈をしたが、船室に一歩立ち入ると船員たちの挨拶は会釈から敬礼へと変わった。ハステを始め、これまでに会った騎士や元騎士、そして騎士志望者が取っていた、拳を胸に当てるあの敬礼動作だった。やはりこの若々しい華奢な美青年こそが本当にフィノケリ卿なのだろう。私のような小物一人を騙すために演技をしているのであれば、あまりに大掛かり過ぎる。
フィノケリ卿は、歩きながらではあったが、一人一人に対して微笑みながら会釈や敬礼を返していた。感じは良いのだが、すれ違う皆から挨拶を受ける立場であるリーダーがいつもこの調子では組織として些か効率が悪いのではないだろうか。
「まあ、歩きながらまで物を考えなきゃいけないほど忙しいわけじゃないからね。考えるのは助手たちの役目で、笑顔を振りまくのが僕の仕事ってわけさ」
船長室のソファに腰を下ろしながら、フィノケリ卿が私の心を見透かしたようにそう言った。どうも笑顔を振りまいて歩きながら物事を考えられるタイプの人間らしい。
私はフィノケリ卿の隣のソファを勧められたが、船長と名乗った年配の男や、船員に扮している騎士あるいは密偵と思われる男たちが姿勢を正して立ったままでいるのでどうにも座りづらかった。私に憚ってか結局フィノケリ卿も立ち上がり、全員で立ったまま今後のことについて話し合うことになった。
私はなんでいつもこんな場違いな場へ連れて来られるのだろうか。




