15. 裏切り
「馬鹿め!袋のネズミだ!」
予想していたとは思えないが、リデオは待ってましたと言わんばかりに剣を抜いた。
対照的に、隣のノラッドはまるで何事も無かったかのように表情を崩さない。
「俺たちの本部に単独で乗り込んでくるとはな。随分とお仲間が大切なようだ」
「チッ!」
ノラッドに対して腹を立てたわけではないだろうが、今のやり取りに気に入らないところがあったのだろう。リデオが苛立たしげに地面を蹴った。
「おいデコ助!現状は!誰かやられたか!?」
「まだ本格的な戦闘には至っていません。隠密で潜入していたところに鉢合わせた他の小隊の者が小競り合いをしたようですが、現在奴はまた姿を隠しています」
ロウィスは敬語で答えた。それはつまり不仲の不良傭兵の質問に対する回答としてではなく、隊長のノラッドに向けて報告しているのだろう。
「奴の目的地はここだろう。ここで迎え討ったほうが被害は抑えられそうだ」
ノラッドが言うと、階段を降りる靴音が聞こえ、鉄格子の向こうにロウィスが姿を現した。
「…いえ、隊長。奴は残忍な殺戮者です。地下牢の場所を聞き出すために他の者を捕らえ、尋問するかもしれません。そうでなくとも次に会った者が殺される可能性も高い。そうなる前に腕に覚えのある者で早急に討伐するべきです…」
彼はそう告げたが、格子越しの視線は隊長に向いておらず、血と汚物にまみれてぼろぼろになった私に哀れみを示していた。
「そのとおりだぜ!身を隠せる場所なんてそんなにねえんだ。奴が見つかるのも時間の問題さ。ノラッド、打って出るぞ!」
リデオは剣を抜いたまま格子戸を潜り、ロウィスを一瞥しながらすれ違って階段のほうへと進んだ。その様子は、どうも性急にこの場を離れたがっているように見える。
「落ち着け。打って出るのはいいが、どこに居るかは分からないんだろう。囚人を一人で残しておくわけにはいかん」
「それなら私が残ります。隊長とリデオは討伐に当たってください」
ロウィスが提言すると、ノラッドはふんと鼻を鳴らし、――意外な事だったが――すんなりとそれを採用した。
「…おまえは捕虜を甘やかし過ぎるから気が進まんがな…」
単に嫌味を言ったというよりは、他に思うところがあるような様子だった。
二人が階段を上りきり、足音が遠ざかっていくのを確認すると、ロウィスは矛槍を逆さまに机に立てかけ、丸椅子に腰掛けた。
彼は大きく息を吐いてから、目を伏せたまま言う。
「実際おまえが密偵とやらかどうかは知らんが、少なくとも最初から山火事と組んでいたなどとはあり得ん事だ。俺はおまえがあの晩、奴を脱獄させた理由を知っているからな」
「それについては僕自身もいまいち分かっていないことですが…」
意識しなかったが、私の口からは自然に敬語が出た。私はロウィスをいまだ関係修復可能な相手、あるいはここから救い出してくれるかもしれない相手だという期待を持っていた。
「それが答えだろう。おまえは個人的な感情を理由に奴を救った。そこに打算なんて無かった。俺は隊長が山火事を尋問してる時に見せた、おまえの表情こそが唯一の真実だと思っている」
「今の僕の表情はどう見えますか」
私は薄汚れた顔に、引き攣りながらも精一杯微笑を浮かべてロウィスの目を見た。
「むしろ俺の表情はどう見える?あの晩のおまえと同じだろうか」
じれったい。私はきっぱりと告げる。
「ここから出してください」
すると彼は無言で立ち上がり、卓上の鍵束を手に取ると、身を屈めて格子戸を潜った。もはや捕虜を甘やかし過ぎるとかそういう次元では無い。私の最大にして唯一の要求はあっさりと受け入れられてしまった。
「そもそも、山火事の襲撃というのはおまえをここから連れ出すためのでっち上げだ。本当は誰も来ちゃいない。元々隊長もリデオも気に入らなかったが、元隊員にあらぬ疑いをかけ、あまつさえ暴力を伴う尋問にかけるなど許しがたいことだ。もう我慢ならん」
「ロウィス副長はこの後どうするつもりなんですか」
「逃げるさ。傭兵なんかうんざりだ。必要ならおまえを手伝ったって構わない」
そしてついに手錠が外されたが、自由を取り戻せるのはここを脱出した時だ。急いで立ち上がろうとしたが、気持ちが逸る反面ぬかるんだ足元はおぼつかず、私は自らの胃液の上に膝から崩れ落ちてしまった。
ロウィスは水筒の蓋を開け、私に差し出した。
「ありがとうございます」
「そこに装備がある。ヘルメットを被って、帯剣しろ」
飲み終えた水筒を手渡すと、ロウィスはそれを放り捨て、矛を手に取った。
「小隊の人たちと斬り合うのは気が進みません。見つからないように逃げられませんか?」
「剣を抜いて戦えと言っているわけじゃない。他の者と同じ装備を身に付けていれば、遠目に見られる程度なら脱獄囚だと気付かれることはないだろう。今なら騒ぎに乗じて駆け抜けられるはずだ。走れるか?」
「いけそうです」
私はロウィスの指示に従い、見覚えのある忌まわしい形のヘルメットを頭に載せた。剣は刃渡りの短い片手用のもので、ゼームから譲り受けた幅広剣と比べると随分軽く感じる。
「とは言え、さすがに隊長やリデオに鉢合わせるのは大いにまずい。彼らが去っていった道と反対方向に進むから、若干遠回りになりそうだ」
地下牢の階段を上っても、そこはまだ地階のようだった。外が見える窓の類はなく、一定の間隔で下がっているランタンで通路の明かりが保たれている。傭兵団の本部だけあって、脱獄対策の一環なのだろう、地階はおそらくは意図的にかなり入り組んだ構造に作られているようだった。
「図書室はどっちですか?」
私がそう尋ねると、ロウィスはふっと笑った。彼が笑うのを初めて見たような気がする。
「借りたい本でもあるのか?」
「まだ本部で暮らしていた頃、よく図書室に出入りしていたので、その周辺であれば僕でも地上への道が分かりそうです」
「分かった。図書室方面の出口を目指そう」
しかし、私たちが駆け出して少しもしない内に、遠方から怒号が響いたので足を止めざるを得なかった。
「居たぞ、山火事だ!みんなこっちだ、援護しろ!」
それは聞き覚えのある声ではなかった。ノラッド小隊の者でないかどうかまでは自信がないが、少なくともノラッドやリデオではなかった。
「なんと…嘘から出た真か…」
「ホルズ、本当に来てくれたんだ」
「あの騒ぎと逆方向に走ればまず安全に脱出できるだろう…」
私は一瞬その言葉にも従いかけたが、踏み出そうとした足をすぐに止めた。
「待って。ホルズは僕が既に牢を抜けたことを知らない。このまますれ違えば最深部まで突き進んでまさに袋のネズミだ」
「…それで…おまえはどうしたいんだ?おまえはその剣を抜くことなく事を終えたいと言っていたな。だが、ホルズの周りには既に団員たちが殺到しているはずだ。おまえがそこへ姿を現して、今更話し合いで解決できるとは思っていまい」
「とにかくあいつを見殺しにするわけにはいかない。あいつは今僕を助けようとしているんだ」
「その思いは感心だが、手を汚さずに全てを得ることは出来んぞ。ホルズを捨てるか、かつての仲間と斬り合うか。おまえが選んで、進む道を決めろ」
以前にも似たようなやり取りをした覚えがある。それは他でもないホルズがかつて私に課した選択でもあった。誰かを助けたいが自らの手は汚したくない。そんな虫のいい考えが許されるはずなどない。今度こそは。
私は剣を抜いた。そしてロウィスに許可を仰ぐこともなく駆け出した。
通路の向こうから断続的に響いてくる戦闘音は常に移動しているようだった。真正面から応戦はせず、攻撃をいなしながら逃げ続けているのだろう。私は遠ざかる音を追って駆ける。途中何人かの団員を追い抜いた。彼らが私の正体に気づいたかどうかは定かではないが、そのような事を気にかける余裕は無かった。
ホルズ。樹海の要塞では私が判断を誤ったから、あいつは幼馴染の苦痛に満ちた生と死を巡って、より苦悩する羽目になった。あいつはたった一度の牢破りの恩のために何度も命を賭けて私のために戦ったのに、私は奴の助力を当てにする一方、二者択一の状況であいつではなくあいつの敵に助力した。そんなことがあっても、なおも今、私を助けるために敵の本拠地に飛び込んで来た。
この期に及んでまたしても奴を裏切れば、それはまさに私が先ほど心から後悔したばかりの憎むべき冒涜行為に他ならない。私たちは必ず共にここを脱出し、今度こそ互いに対等な関係にならねばならない。
「ホルズ」
ついに戦闘音の発生源へと追いついた。赤い髪を振り乱して走るその男の背に向けて、私は自分でも思いがけないほど一際通る声でその名を呼んだ。男は足を止めて振り向いた。
「よう!元気そうだな!」
こいつはいつもそれだ。
この時点でホルズを追いかけていた傭兵たちは三名。彼らは振り向いて私の姿を認めると目を丸くし、何故だ、どうやって逃げた、などと口々に叫んだ。彼らのうち一人は別の小隊の者なのか見覚えが無かったが、残り二人はノラッド小隊所属の者だった。
ヨモラとトトロイ。
何故かこの時に限って私は彼らの名前を思い出してしまった。
ヨモラは先ほど泥酔した私を直接捕らえて投獄した者でもあり、その少し前にはハステたちを監視していた者でもある。ジッフェの情報によると、彼は任務に対して消極的だそうだが、それは女性の監視という野蛮な行為に対する忌避感によるものだと思われた。
戦いたくない――抜き身の剣を握り締めたまま全力で走り寄りつつもそんな考えが脳裏を掠めた。目の合ったホルズがそれを悟ったか否かは定かではないが、彼は敵の一瞬の動揺を突き、まず名も知らぬ者を斬り倒した。
躊躇してはならない。やるしかないのだ。
残った二人は左右からホルズへの挟み撃ちを試みたが、ホルズはトトロイへと狙いを定め、一歩踏み込んで間合いを狂わすと、まるで倒れこむように上体を低くしつつ全身を捻り、ほぼ真下に近いような位置から目にも留まらぬ斬り上げを放った。目にも留まらぬ――とは二重の意味で、おそらくトトロイにとってそれは死角からの一撃だったのだろう。彼は回避動作を取る事すらかなわず、得物の鉈はそれを握っていた右手ごと体から離れた。
それと同時に私は、考えるよりも先に体が動いていた。自分が頭上に剣を振り上げながらヨモラに向かって跳躍しているという事に、私自身とヨモラのどちらが先に気付いたのかすら分からないが、その時は既に間合いの中だった。
ヨモラはかつての仲間であるはずの私から攻撃を受けるなどとは予想だにしていなかった。彼は私とホルズの関係性については詳しくなく、状況は唐突で説明も無く混沌としており、侵入者であるホルズの撃退に私が助太刀しようとしていると誤認したのかもしれない。いや、きっとそうだったのだろう。隊長が認めるほどの一刀流の使い手と称されるヨモラの間合いで私のような素人が先に攻撃を仕掛けることが出来た理由は他に何も無かった。
それで私はいまだ空中に居る時点でもうすぐさまに後悔の念に襲われた。ホルズを裏切りたくない、ただその目的のためだけの、浅はかで盲目的な覚悟によって、私は咄嗟に私を味方と認識したこのヨモラという男を犠牲にしてしまった。
振り下ろされた剣はヨモラの肩口に命中し、衣服を、肉を、臓器を切り裂きつつ、そのまま袈裟懸けに抜けた。
致命傷。
「…ヌビク…やっぱりてめえは…裏切り者…」
まさにその通りだった。
ヨモラの憎悪の視線は私の視線のみならず全身を釘付けにしたように感じた。時間が止まったようだった。彼は力を振り絞って再び剣を持ち上げようとしたが、横から飛び込んできたホルズがその首に剣を突き立てた。そしてすぐさまヨモラの体を蹴倒し、視線から解放された私の時間は再び動き出した。
ホルズが言った。
「俺が殺した」
私は最初にホルズが斬り倒した者やトトロイの様子を確認した。彼らは重傷を負ってはいるが、止血さえ間に合えば命は助かるだろう。ホルズが言ったのはヨモラのことだ。
ホルズは分かっていた。私とは違う。誰も殺す必要など無かったのだ。
私が友情と信じた邪悪な行為さえしなければ。
「今のところこの三人以外は視界に居ねえ。今なら身を隠せる」
ホルズの言葉で、自分が冷静さを失い過呼吸を起こしかけているということに気付くだけの冷静さを取り戻した。血塗られた剣を握るのと逆の手を胸に当て、呼吸ペースを意識する。
いつの間にかロウィスはその場に居なくなっていた。ホルズがその存在に気付いていないところを見ると、どうやら移動中にはぐれたらしい。ロウィスが私の脚に付いて来れないとは到底思えないので、恐らく状況を知らないホルズから一方的に攻撃を受ける事を避けるため意図して一旦身を引いたのだろう。
私たちは生き残った二人の負傷者たちの視界から外れるため次の路地へと進んだ。壁に手を当て立ち止まり再び呼吸を整える。ホルズは上着のフードを持ち上げてその目立つ赤毛と共に顔を隠したが、影の奥から私を覗くその視線にはいくらかの神妙さが伴っているように感じられた。
「具合が悪そうだな」
しかし、足元にふわふわとした浮遊感はあったものの、思考は不思議と澄んでいくのを感じていた。むしろ先ほどまで感じていた二日酔いと苦痛による嘔吐感すら消え失せていた。
「すこぶる元気だ」
「そうかよ。とにかく、俺が先導する」
すると今度は、私が走り抜けてきた道のはるか背後から、聞き慣れた怒号が響いた。
「こっちだ!監獄のほうへ行ったぞ!」
ロウィスの声だった。私たちがランタンの灯りの届かない暗闇に身を潜めている間に、大勢の傭兵たちが上階への出口から離れて反対方向へばたばたと走っていった。
「どういうことだ?」
「ロウィス副長が脱走を手助けしてくれたんだ。矛槍を持った背の高い人だよ。おまえも知ってるだろ」
「俺を鎖に繋いだあのおっさんが、おまえの鎖を解いたってわけな。これでプラマイゼロってところか」
その後、私は再び剣を振り回すような事態に遭遇せずに済んだ。首尾よく脱出した私は数ヶ月ぶりに見ることになったテンベナ義兵団本部の玄関先にヘルメットを放り捨て、ホルズと共に夜明け前のテンベナの裏路地へと走り去った。通りの飲食店は既にどれも閉店していたものの、町はまだ夜闇の中にあった。
「うーん…なんだか俺が来た意味あんまり無かったか?」
「そんなことはないよ。本当にありがとう。おまえが僕を救ったんだ」
ロウィスにも大いに救われたのだが、この場に居ない彼への感謝は一旦省略した。そうでなくとも、ロウィスには申し訳ないのだが、私は実際ホルズに対してより大きく感謝していることに自分で気が付いていた。
「僕たちは本当に仲間なんだな…」
「おい…どうした…。気持ち悪ぃな。そんな台詞言うガラじゃねーだろ…。うわっ、泣いてんのか!きめぇ!」
「仲間だよなぁ…!」
「まだ酔っ払ってんのかよ。ああ、そうだよ!仲間だよ!…まぁ、傭兵団の連中からは永遠に敵になったと思うけどな」
「…そうだな………」
私がテンベナ義兵団の永遠の敵となってから三日が経過した。その間何をして過ごしていたかといえば、私の隣室に居を移したホルズに剣の稽古を付けてもらった程度で、エジヤ姉妹を救うという本来の目的ではまったく働いていなかった。だが、何も無気力を理由に自ら望んでそうしたわけではない。ジッフェたち密偵の判断だった。ノラッドたちによる私の捜索活動が以前よりもはるかに活発化したため、という説明を受けたが、後になって思うと、かつての仲間をあやめたショックから立ち直らせる事を目的に休養を与えられたのだろう。
私は相も変わらず老夫婦が経営する寂れた宿に留まっていたが、ジッフェの計らいで宿帳から名前は消されたし、主人夫妻の買収についても金貨袋がしっかり役に立った。
私とホルズが真昼間から食堂で茶菓子と盤ゲームに勤しんでいると、表玄関の鈴の音と共に、秋の風が吹き込んできた。
「お酒の配達でーす」
合言葉だ。私が寝てる間に勝手に決められていたのだが、考えたのはホルズに違いない。彼は衝立越しに訪問者へ向けて赤い髪をちらつかせ答える。
「麦酒をくれよぅ」
「やめろ!」
私が手荒く盤ゲームの駒を置くと、別の駒がぱたりと倒れた。
「性懲りもなく相変わらず無防備ですわねー…。あれ以来よもや飲んでらっしゃらないでしょうね?」
衝立の陰からジッフェが現れた。彼女も同じ宿に部屋を押さえてはいるのだが、この三日間は別の拠点で活動していたため、顔を合わせたのは私が脱獄した翌朝ぶりだ。
「悪かったよ。本当に反省してるって…。もう二度と飲まない」
この時点では本当にそう決意していたのだが、決意と言うのは得てして揺らぐものである。
「俺は毎晩飲んでるが問題ねーか?」
「ホルズさんについては結構ですわ。しっかりした節度をお持ちの常識ある方のようですから」
「ははは、言うじゃねーか。まったく、間違いねえ」
私が頭を抱えていると、ジッフェは私たちと同じ丸テーブルの席に着いた。その際、隣のテーブルに見覚えのあるバスケットを置くのを、私は目で追った。そういえばそろそろ昼飯時だ。
「悪いなジッフェ、このゲームは二人用なんだ」
指先でくるくると駒を回してにやつくホルズを尻目に、ジッフェは風で乱れた前髪を手で軽く整えた。
「真昼間からゲームなんかしませんわよ。お怪我の具合はいかがですか?」
ホルズは黙って肩をすくめる。ジッフェの質問は私に向けられたようだと認識した。
「…もうなんともないよ。大体、手錠の痕から軽く出血した以外は、口の中を多少切ったくらいだし…。それより、僕が鼻血を出させちゃった金髪の人の調子はどうだい」
今度はジッフェのほうが頭を抱え、大きくため息をついた。
「やっぱり覚えていらしたんですのね。忘れたなんて嘘ばっかり!」
「いや、思い出したんだ」
実際、あの晩の事は数日かけて少しずつ思い出したのだ。あの男の存在自体もそうだが、あの男がいつかのタイミングで口にしていた大仰な名前も。
「結局、あの人は誰だったんだ?」
「ああー、とぼけちゃって忌々しい!ご存知なのではなくって?」
「本当に分からない。彼がサーバリヌズ=フィノケリという名前を口にしていたことは思い出したんだけど、まさか彼がそうだと言うわけじゃないだろう?ハステさんの父親にしてはあまりに若過ぎるし、もしそうだとすれば、帝国騎士団の団長閣下ご本人だ。帝都から遠く離れたこんな国境ぎりぎりの都市まで自らやってくるには役職の割に腰が軽過ぎる」
「ヒャハハハ!あんなひょろひょろの軽薄な優男が団長閣下様と来たか!俺よりも、いや、あの銀髪女よりも年下に見えたぜ?マジありえねー」
私たち二人が否定すると、ジッフェが目をぱちくりさせながら口を半開きにした。てっきり正体がばれたものだと思っていたが、もし本当に気付かれていないのならこのまま誤魔化せないだろうか、などと思案しているかのような表情だ。と、言う事は…。
「…え、まさか本当にフィノケリ卿なの…?」
「ええっと…それはー、そのー」
「…本当らしいな…」
ジッフェは再び両手で頭を抱えて、さらには盤の上にその額を乗せた。
「また酔っ払ったか?」
ホルズが手に持った駒で邪魔だと言わんばかりにその頭をつつくと、ジッフェはうんざりしたような空ろな目で顔を上げ、再び大きくため息をついてから話し始めた。
「…ご本人よりお許し賜っておりますので、お話し致しますわよ。あの御方こそが我らがマスター、帝国騎士団団長サーバリヌズ=フィノケリ様です。確かに実年齢よりいくらかお若く見えるかもしれませんけれど、ヌビクさんの三倍近いお歳でいらっしゃいます」
「え…嘘…びっくり」
「いいなー」
顔を見合わせる私たちに二人に向けて、続ける。
「ヌビクさんが仰るとおり、マスターは立場上滅多に帝都を離れることはございません。先日の私の様子からもお察し下さいますでしょうけれど、あの御方がここテンベナへ自らお越しになっているということは、私もあの晩初めて知りました。それだけこの地で起きている出来事の重要性を大きく認識なさっているという事です」
「この地で起きている出来事ってのはどれのことだい。人攫いか、娘の反逆か、樹海の遺物の発掘か」
いや、ハステの反逆に関しては違うな…。私は自分で言いながら心の中で否定した。帝都からテンベナまでは最近開通した航路を使っても三ヶ月はかかると聞いた。騎士団長の専用船なんかがあるのならだいぶ縮まるかも知れないが、フィノケリ卿が出発を決める前にまずは伝令が帝都へ情報を伝える必要があったはずだし、どうやっても到着はまだ月単位で先になる計算だ。
「それについてですけれども、あの御方はヌビクさんに直接話をお伺いしたいとおっしゃっています。昼過ぎに私が待ち合わせ場所までお送り致しますので、その後、マスターとお二人で次の目的地に向かって下さいますか?」
わざわざ私に聞きたいと言う事は、恐らくはノンド樹海での出来事についてなのだろう。そして私的な密偵を遣うに留まらずわざわざ本人が乗り込んでくるという事は、フィノケリ卿個人ではなく騎士団長としての仕事に違いない。どうやら彼がテンベナへやって来ると同時に自らの娘による反逆が起こったというのはたまたまの偶然のようだ。たまたま偶然。うんざりする言葉だ。
「…二人で?すごい気まずいんだけど、大丈夫?団長閣下、相当怒ってるだろ?また鎖に繋がれるのは嫌なんだが…」
「もちろんヌビクさんは大いに反省し、土下座して謝罪するべきかと思いますけど…、マスターにお怒りの様子は見受けられませんでしたわよ。元々寛容なお方ですが、とりわけお酒の席では無礼講主義でいらっしゃいますから」
まぁ、確かにあのハステの父親だしな。などと、ごく軽い感じで私は納得したのだった。
帝国騎士団団長という肩書きはなんだか大変偉大なものである、という程度の認識は私の中にも一応は存在していたが、セリト風に言えば「途方も無い無知蒙昧のド田舎者」たる私がこの時点で大陸一の大国の主力軍の総大将という存在の大きさを正確に把握していたとは到底思えない。
「騎士団って素敵なところなんだろうな。僕も入団したいよ」
「俺も俺も、ワハハ」
ホルズは上機嫌そうに笑って、盤上の駒を進める。既に私やジッフェによって荒らされ位置が狂っているのだが、お構い無しのようだ。
「怒ってないってんなら、喜んでお会いするよ。それより…君が持ってきたそのバスケットは、例のあれだろ?ちょっと期待してるんだけど」
私は盤上で指を迷わせながら、ちらりちらりとバスケットに目をやる。
「はぁ…、酔っ払って殴って鼻血を出させた貴人より、お昼ご飯のほうが気になるんですのね…。まあいいですわ。ちゃんと三人分作ってきましたから、お酒は無しで先日の乾杯の続きにしましょう」
「えっ、これって君が自ら作ってくれてたのかい」
私は素直にびっくりしたのだが、いくらかわざとらしく見えたのかもしれない。
「…あー、もう!そんな大したモンじゃありませんわよ!朝食の残りを適当にぱっぱと詰めてきただけですわ!」
「朝食の残り?それが三人分も?」
彼女は何故だかばつが悪そうに立ち上がって、バスケットで卓上の盤をぐいぐいと端に寄せた。ホルズは珍しく素直に応じ、盤を自ら持ち上げるとそれを隣の席へと移動させ、バスケットの覆いを取った。
「おまえって変なタイミングで照れるなぁ。おいおいサンドイッチじゃねーか。これならゲームしながら食えたじゃん」
「ジッフェのサンドイッチは美味いんだ。餌付けされないように気をつけろよ」
「あー、もう!あー、もう!ゲームは食べてからになさい!」
その後、今後についての実際的な話もいくらか交わしたが、半分ほどの時間は雑談で過ごした。一度だけだが、ジッフェはホルズと盤ゲームで対戦もした。結果はホルズの圧勝だった。
人を殺した者がこんな穏やかに過ごして許されるのだろうか。
私はゲームの結果であれこれ言いながらはしゃぐ二人を眺めていた。私は微笑んでいたかもしれない。おこがましいことだが、きっとそうする必要があった。




