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星と羽虫  作者: 病気
第二章・久遠の旅路
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4. リドニッツ




 不意に気持ちが吸い寄せられるような感覚があった。


 手を伸ばし、ガラスのような半透明の石の表面に触れる。


「そして、おまえは第一の鍵を手に入れた」


 黒衣の男はいつの間にか私のすぐ隣まで来ていた。つい一瞬前まで彼は離れた場所に居たように思えたのだが、ひょっとしたら私は自覚が無いまましばらくこの老翁の顔を持つ巨大な昆虫に見惚れていたのかもしれない。


 私はきっとそれに美しさを感じていた。


「これは一体何なんだ」


 私は再び視線を正面の老翁へ戻した。視界の外で男が言う。


「これこそがおまえに与えられた恩恵の源となる存在だ。その男は力に溺れ、裏切りに気付くことが出来なかった。追い詰められた彼は自身の持つ強大な力を奪われぬよう、その一部を遠く離れた人間の中へと隠したのだ。そして自らはこの透明の殻の中で沈黙した」


 私はそこまで聞くとすぐに気が付いて片手を上げた。実際は彼の話を聞いて気が付いたわけではなかったかもしれない。何故だか元々予感めいたものがあったようにも思える。


「…さっき、僕に与えられた恩恵は僕らの神による祝福だと言ってなかったか…?つまりあんたは…この…老人が、神だと?」


「彼がテリだ。だが神ではない。愚か者たちが神と崇めているだけのただの老人だ」


 男の顔と石の中の老人の顔を交互に見る。強烈な青白い光の中でも、男の顔に差した闇は存在感を持って浮かんでいるように見えた。


「バカなことを」


 私自身あまり信仰に篤い方ではないが、襤褸を纏った得体の知れない異教徒のこのような言葉を肯定することは恐ろしい冒涜のように思えたので、私は口先ではまるで当たり前のようにそれを否定した。

 しかし心の中では裏腹に、予感が確信に変わった実感がはっきりとあった。


「テリは人の姿を纏っているはずだ。胴体がでかい虫だったなんて聞いたことがないが」


「…この姿は力の一部を奪われた代償だ…。もはや二度と人の形には戻るまい…」


「…さっきから力を奪われたって…一体誰に?彼がもし仮に本当に神だとするなら、一体誰がそんな絶対的な存在に抗えるって言うんだ?」


「それはまだおまえが知るべきことではない。私がおまえをここへ連れて来た目的は、ただ鍵を渡したかった、それだけだ…。次はここより遥か北、おまえたちの国の都のさらに北に位置する第二の聖域テリリドニジグを目指さねばならない」


「…え?なんで?今度は随分遠いな。テリリ…なんだって?無茶言うなよ。都までだってここから何年掛かると思ってんだ」


 そう言いながら私は、先日聞いたセリトの父親が開拓したという航路の存在を思い出した。テンベナから船に乗れば帝都まできっと二ヶ月と少しあれば届くだろう。だが船に乗るには金が要るし、そもそも何故この男の言葉に従わなければならないのか、その理由が無い。


「運命がおまえを導くだろう…。おまえの神が定めたものか、私の神が定めたものか…、それは与り知らぬことだが…」


 なんなんだこいつは。私が行くと確信していやがる。


「…聖域ってのを巡ることで僕に何か見返りはあるのかい」


「既に知っているかもしれないが、おまえに与えられた祝福は使いこなすことで常人を遥かに凌駕する力を発現させる。力を欲したことは無いか?敵対する者を一瞬で跡形も無く消滅させてやりたいと思ったことは…?これからおまえが手に入れる鍵は、おまえ自身に掛けられた錠を開けるための鍵に他ならない」


 極端に物騒なことを考えたことはないが、これまで剣を握る機会が何度かあった以上、力さえあれば自力で解決出来た問題も多いのは確かだ。


「かと言っておまえは力を得たところで世界の均衡を脅かすような軽率な真似はすまい。そのような人格だとすればまず選ばれないはずだからな。それ故に力への渇望も他者と比べると薄いだろう…。だが、何かを守るためならどうだ。閉ざされた島を出奔し、今日この場所に至るまでの旅のさなか、己の無力さによって失った何かがあったはずだ…」


「………」


 納得したくなかったので、私はただ目を伏せた。


「運命は否応無しにやってくる。大いなる流れに身を委ねるか、悩む間に飲み込まれ沈みゆくかのどちらかだけだとしても、その二択を選択する権利は少なくとも――他の多くの者たちと違って――おまえだけは確かに持っている。…しかし、時間は無限ではないとだけ告げておこう。これは競争なのだ。おまえは候補者として最初の一人ではない」


 男の声が急に遠ざかった気がして顔を上げると、既に彼は消えていた。私はやぐらから身を乗り出し離れた位置から届く声の方へと目を向けたが、眩しさでその姿を確認することが出来ない。


「どこへ行くんだ」


「行かなくてはならない」


 男の声はさらに遠ざかる。


「はぁ!?なんで!また唐突だな!聞きたいことはまだ山ほどあるぞ」


 とりあえずは帰り道だ。こっから一人でどうやって帰れって言うんだ。


「ならば北を目指し旅をするのだ。私たちは必ず再び出会うだろう」


「北?北だって?まずどっちが北なのかを教えてくれ」


 樹海で方角が分かれば苦労しない。森から出られずにいきなり旅が終了するぞ。


「それは今からここへ来る者にでも尋ねるとよかろう。では、さらばだ…。我が名はカナブーニウェロラッハ。今はそれだけ覚えておけばいい」


「カナブ…?何?さっきから固有名詞全然覚えられそうにないぞ」


 やぐらを駆け下りながら早口でそう言ったので危うく舌を噛みそうになった。


「おまえたちの言語で発音が難しいならば、カナベロとでも呼ぶがいい…」


 カナベロの言葉はそれきり途絶えた。


「待て!」


 大急ぎで奴が去った通路へと身を躍らせると、危うく反対側から走って来た者とぶつかりかけた。カナベロではない。よく知る別の男だ。


「ヌビク!一体どうしてここに!?今の男は…いや…もう追いつけはしないか…」


 この場所この状況では誰と会ってもそれなりに驚くだろうが、その中では最も意外性の低い人物だった。


「ゼーム」


 理由は不明だが、カナベロは彼の接近を察知して逃走したようだった。


 ゼームはたった今カナベロが去って行ったであろう通路の先の暗闇を凝視しつつ、手に構えていた長剣を腰の鞘に戻した。それは血で濡れてこそいないものの、先日この要塞に突然現れた覆面の男の持っていた剣とまったく同じ形状をしていた。


「剣を扱えるのかい」


 私は舌打ちするのを堪えてそれだけ尋ねた。まともな回答は期待しなかった。


「万が一のための護身に過ぎないよ。それより、一体どうして…どうやってここに?」


 当たり前のように受け流された質問には食い下がらず、私は彼からの問いに対し素直に答える。


「…それは…正直こっちが聞きたいくらいなんだが…ただ、隠せないと思うから言うけど、ギリザの門は開けたよ」


「あの男と会っていた様子だし、そうなんだろうね…。あの黒衣の男に導かれてここに着いたと?」


 私が無駄に隠そうとするそぶりを見せなかったことに呼応してか、彼もまた恐らくは意図的に、彼が過去にギリザの門を開いたことがあり、中でカナベロの存在を確認したことがあると暗に伝えた。


「そうだよ。…地下書庫の奥のあの昇降機に乗せられて、気が付いたらここだ」


 ゼームは首をかしげた。


「昇降機?」


「いや…昇降と言っても、降りるかどうかは分からないけれど、例のあの、部屋ごと上に釣り上げるやつだよ…」


「………?」


「原理不明だけど、すごい勢いでぎゅーん、って昇る金属張りのあれだよ…ひょっとして知らない?」


「いや、本当によく分からないけど何のことだい」


 私の言うことが本当に分からないのか、わざととぼけているのかは定かではないが、恐らくは前者だったのではないかと思う。彼は秘密書庫の存在は知っていてもその奥にある不思議な『昇降室』の存在は知らないのだ。彼は抜刀してカナベロを追いかけようとしていた、つまりカナベロのことは知っていても友好的な関係は築けていないのだ。カナベロの導き無しでは昇降室の入り口を発見するために自力で地下書庫を探索する必要があるし、辿りつけたとしても入り口の戸の開け方が分からないだろう。


 私はゼームを昇降室の出口まで案内すべく要塞内を先導した。彼は虫人間たちの跳梁する要塞内を警戒無く歩く私の様子をいくらか訝しく思うような表情を見せる一方で、それについて注意を促すこともしなかった。ひょっとしたらこの時点で彼は既に私の能力について知っており、それを確かめていたのかもしれない。


「要塞の最上階に開かずの間があることは知っていたよ。いずれ中を確認するつもりでいたけど、君はまさかこれが…屋敷の地下に繋がってるって言うのかい」


 ゼームは少しの間、取っ手すら付いていないその扉を押したり叩いたり凝視したりしていたが、それを開く手段が無いことを悟ると早々にあきらめ、ため息をついた。


「実は私は以前もこの扉を破ろうとしたことがあるんだけど、力技は何一つ通用しなかったよ。扉周辺の石壁を掘ろうとしたこともある。そこにその形跡があるだろう?でも壁の中に素材の分からない金属の板が存在して、それには引っ掻き傷すら付けられなかった。…昇降室か。ここにはそのくらい不思議なものがあるべきだろうね」


「しかし仮にこの昇降室で地下書庫に戻れたとしてもそこからギリザの門まで戻れそうもない。どちらにしたって今のところは森を歩いて帰るしかないな」


 私はゼームの腰に提げられた剣を見つめながらそう言った。私の視線の意図について彼が考えたかどうかは分からないが、彼は言葉の調子を変えずに続ける。


「お互いこれまでの経緯を整理するために、歩きながら話せるのは丁度良さそうだね」


 私は彼に対して話すべきことと隠すべきことを頭の中で整理しながら今度はゼームの先導に従った。道中、私の期待に反して一匹の虫人間とも遭遇しなかったが、それが偶然だったのかどうかは分からない。ともあれ私は、ゼームが剣で虫と戦えるだけの戦闘能力を持つのか、あるいは私のように特殊な能力で奴らを回避できるのか、それを確かめることが出来なかった。






「テリリ…?ああ、それはテリリドニジグのことでは?」


「そう、確かにそれだ。テリリド…ニドジ…」


「テリ・リドニ・ジグ――『神の見守る裁判所』だよ」


 地下書庫と要塞を繋ぐ昇降室の存在は確かにかなりの近道ではあったが、樹海の草を掻き分けるように作られた人一人分の小道を進んでも、屋敷に戻ってくるのにさほど長い時間は要しなかった。一月以上も生活していてまったく気付かなかったが、双方は地理的に非常に近い位置にあるようだ。辿り付いた屋敷の玄関先でゼームが振り返って指さした方向に目をやると、そこからでも四角い窓がいくつか並んだ岩山の要塞を視認すること出来た。以前一緒に森を歩いた時もあれはあそこに存在したのかと尋ねたら当たり前だと笑われた。


 ゼームは、今しがた自らが要塞に居た理由は、件の『遺物』こと巨大な昆虫の身体を持つ老人の調査のためであると語った。それは屋敷そして書庫の元の所有者だった彼の恩師・名も無き老人がその生涯をかけて研究した対象であり、ゼームはその遺志を継ぐことを使命と感じているとのことだ。


「テリ・リドニ・ジグ…。へぇ、帝国語のアナグラムだったんだな…」


「単語の順番を入れ替えて発音も元の語から変化させる。帝都デウィノトジグと同じで、古典的な帝国式の命名法だね」


「しかし君は何でも知ってるな」


 彼の持つ数々の知識も隠遁賢者が一生を費やし集めた情報の集約された地下書庫で学んだとすれば説明が付く。


 ゼームと私は屋敷の玄関をくぐるとその足ですぐに地下へと降りた。そして開け放たれたままのギリザの門を通過する。


「たった一度の挑戦で正解したようだね。恐れ入ったよ」


「夢でギリザが教えてくれたんだ」


「ははは」


 ゼームは迷宮書庫の暗闇をまるで線路の上を進むトロッコのように一切止まらず迷わず進んでいく。彼は背中越しに言う。


「ヌビク、この秘密書庫について君を欺いたのは悪かったよ。この先の情報は好奇心だけで覗こうとするには些か重たすぎると思ったんだ。だけど、君がそのカナベロと名乗った男の言葉に従うべきか否かを正しく選択するための情報は持っておく必要があるはずだ」


 私は道中で、カナベロが私をテリリドニジグへ誘おうとしていることをゼームに伝えた。ただ、奴が要塞の例の遺物は聖テリ自身であると断言したことや、その力の一部が私の中に存在していることを仄めかしていた件については黙っていた。


「知っていることを教えるよ。それに、私もあの黒衣の男の真意を知りたい。何故私を忌避して、君に接近したのか…、必ず理由があるはずだし、君を手伝うことでそれに近づけるはずだから」


 その台詞を言い終わるタイミングを計算でもしていたかのように、彼はある書棚の前でぴたりと足を止めた。


「テリリドニジグ…。デウィーバ帝国の国家機密だ。強化人間育成を目的として正式に運用されるようになったのは今から三十年以上遡る」


 彼の指はやはり一切の迷いも無く書棚の一部分へと吸い寄せられ、一冊の本の背表紙を傾ける。『テリリドニジグの発見と実用化』――。


「発見…?施設ではなく技術の呼称なのか?」


 私がこの秘密書庫で最初に手に取った謎の言語で書かれたものとは違い、その本は帝国語で書かれており、例の判で押したような細かく無機的な文字でもなく、自然な筆跡で書かれていた。


「いいや、施設だよ。でも帝国人によって設立されたものじゃない。最初からそこにあったんだ」


「元は遺跡の類だったということか。まるでそこの要塞のような」


 ゼームは革の表紙をめくり、私に見えるように最初のページを広げた。


「その通り。地理的にはだいぶ離れているけど、恐らく同じ古代文明に由来するだろうね。この本は帝国の施設としてのテリリドニジグの歴史の最初期を記したもので、遺跡としての発見から始まって、探索、研究の後、実用化に至るまでの経緯を示したものさ」


 著者名の記述が目に入った。イロドイアヌオズ=エズチカ。


「どこかで聞いた名前だったりするかい。彼はニャリキミヒさんのお父上であり戦争の英雄、エズチカ将軍その人だよ。彼は将軍であると同時に、三十余年前の創立当初から恐らく現在に至るまでずっとテリリドニジグの所長を兼任している」


「なるほど。その前情報があったなら、君がニャキさんを見て、彼女がノンドへ来た目的についてぴんと来たのも頷けるな。…これ、写本かい」


「ん…?いや、どうかな。先生なら原本を入手した可能性もあるけど…。確かに、写本だとすればもう少し…まぁ、別の人を使うだろうし」


 本のページをびっしりと埋めるその帝国語の文字列は所々墨が滲んでいる上に、決して達筆とは言い難いミミズが這ったような筆跡だった。これが将軍直筆のものだとすればニャキよりはいくらか付き合いやすい性格かもしれないとなと、少しだけ可笑しくなった。


「君の先生は一体何者なんだ」


「あいにく、彼は日記の類を付けない人だったし、私は彼の名前すら知らないんだ。ただ、数々の記録から推測するにテリリドニジグと縁を持つ人だったのは確かなようだね。そこの研究者の一人だったのかもしれないな。エズチカ将軍と面識があった可能性も高い」


 ゼームはそこまで言うと、本を閉じた。


「歴史については追々学ぶといい。この本は持って上がろう。今は単刀直入に、核心に近い所から入ろうか」


 彼は閉じた本を脇に抱えたまま、別の本の背表紙に指を乗せる。


「きっと君も個人的に知りたい情報だろう。この樹海に来てから何度となくその存在に振り回されてきたはずだ」


 ゼームは立て続けに二冊の本を手に取った。それぞれの題は『リドニッツ育成』『リドニッツ運用』。


「リドニッツ――つまり『裁判官』かい?ここに来て法律の本ということはないんだろう?」


「リドニッツはテリリドニジグで育成された強化人間を指す暗号だよ。神の見守る裁判所の裁判官…。おこがましい呼称にも思えるけどね」


 私は『リドニッツ育成』を手に取り、ぱらぱらと中を眺めてみた。先ほどの悪筆ではなく、几帳面そうな研究者気質の四角い文字が並んでいた。


「テリリドニジグで発見された数々の遺物は当初使い道が分からなかった。だけどもしエズチカ将軍がもっと前時代的な人で、その遺物の解読のために学者ではなく聖職者や予言者を召喚していたら三十年以上経った今でも謎のままだっただろうね。不思議な力を持つ様々な道具は神の力の宿った聖遺物なんかじゃなく、私たちの文明にとっては数百年、数千年、あるいはそれ以上も先の技術で作られた機械だったんだから」


「それで、使い道の判明したその機械とやらは強化人間…リドニッツを育成するためのものだったのか」


「大半はね。そうでないものも少なくないけど。ニャリキミヒさんの眼鏡や、彼女たちが使っていた武器を間近でよく見たことはあるかい。あれもテリリドニジグの遺物だよ。あの眼鏡のレンズは剣で斬り付けても傷ひとつ付かないだろうね。鋼鉄より硬いガラスだ」


 ゼームのそんな言葉を上の空で受け流しながら、揺らめくカンテラの炎の下でページをめくる。


 目次を見るに、『適正者の特徴と発見方法』、『能力レベルによる適正者の分類』、『強化手術に及ぶ際の注意事項(致死的なものも含む)』、『術後の経過観察と訓練開始時期』等の十余りに及ぶ項目で書が構成されており、一人の人間を生体兵器に変えるまでの方法が順を追って記されていることが理解できた。巻末には付録として適正者名簿が記載されているらしかった。


「テリリドニジグが確立されるよりも以前から、帝国は突発的に現れる超能力者たちを秘密裏に生け捕りにして研究対象としていた歴史があった。ただしその頃はまだ生体兵器としてではなく、彼らの持つ超能力を軍事以外の目的も含めなんらかの用途に役立てられないかとの意図が大きかったんだ。しかしテリリドニジグで不思議な能力を持つ『超能力者』たちと超越的な戦闘能力を持つ『超人』が根幹で因果関係を持つ存在であることが判明すると、帝国は適正者の拉致に多くの人員を割くようになった。ニャリキミヒさんもそのような拉致要員の一人で、ノンドを訪れた目的もそれだけだったんだろうな。彼女が遺物の存在を知った上でやって来た可能性も念のために考慮していたけれど、どうやら知らなかったらしい」


 その言葉もやはり上の空で、私は巻末の付録のページを開いていた。適正者名簿には数多くの帝国人、時には外国人の名前がずらりと並んでおり、各々には被験者番号とフルネーム、手術時の年齢と日付、出身地といった簡単な情報だけが併記されていた。


 そこに名前を探す。


 そしてすぐに見つけた。やけに空白が多く目立っていた項目に目をやると、探していた名前はまさにそこにあった。



 被験体番号61 メセ 聖暦986年施術



 その項目には番号、呼称、そして施術年として六年前の暦のみが書かれていた。他の者たちについては大半がフルネームを記載しており、年齢や出身地が不明な者についてははっきりと『不明』と書かれているにもかかわらず、どういうことかメセの項目にだけ空白が存在した。


「メセ、か。君はこの名前を探していたんだね」


 彼がいつの間にか喋ることをやめて私の様子を観察していたことにすら気付かなかった。


「ごめん。本題に戻ろう」


 私は本を閉じてゼームに先を促した。




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