3. 黒衣の司書
青ざめた顔だ。
雨上がりの森や坑道の暗闇で最近同じものを見た。しかしそれは真っ白いメメトー人の顔にしては随分と高い位置にある。それどころか、長身のゼームやホルズ、大男と呼ぶに値するロウィスを思い出して比べてもさらに一回りも上に存在している。竹馬に乗っているわけでなければ、私が知っているどんな人物よりもさらに背が高い。
驚くべき長身の見知らぬ誰かは私を警戒する様子も無ければいきなり獲って食おうとする様子も無く、ひたひたと近づいてくる。
裸足の白い足が見えるまで近付いた。その肌や爪にはまるで生気が無い。
私は右手のカンテラを胸の高さまで持ち上げる。
やはり生気の無いその白い顔に貼り付いた、湿ったような真っ黒い長髪の間から、切れ長な二つの赤い目が私を見下ろしていた。顔の輪郭は病的に痩せこけ、死や破滅を連想させる半面、その目鼻立ちは奇妙なほどに整っていた。その美しい顔を支える細い首の下にはまるで灰を集めたかのような禍々しい黒い襤褸を纏っている。それは死を想起させるどころかまるでお伽噺に出てくる死神そのものだ。
色の無い唇がゆっくりと動いた。
「おまえは…」
外見の印象どおりの低く重たい声でそう呟いた彼は、私の目を、その奥に何かを探すかのようにじっと見つめた。
「…そうか。ようやく会えたな…」
そして彼は真っ暗な天井を隔てて天を仰ぎ、少し笑ったように見えた。
のけぞりながら見上げたその顔から視線を逸らせないまま、私はようやく言葉を口にすることが出来た。
「誰だ?人違いじゃないか?」
このような特異な人物を以前に見たことがあるとすれば非常に強く印象に残っているはずだった。たとえ街中の人ごみで一目見かけただけであっても夢にまで出てきそうな存在感だ。
男は首を振る仕草の代わりとばかりにゆっくりと目を伏せて否定した。
「人違いではない…それは確かだ…。私はまさにおまえを待っていた。だが…実際に顔を合わせたのはこれが初めてだ。人に会うこと自体稀なのでな」
「その格好を見れば分かるよ。一体何者なんだ?そもそもこの場所はなんなんだ?」
彼は私の問いかけを恐らくは意図的に無視し、その恐ろしく長いマントを翻して背を向けた。
「…どれほど待ったのか思い出せない。本当に随分と長い間、ただただ待っていた。だが私は分かっていた。運命は必ず実を結ぶと。悠久の時の果てに、今ようやく歯車が回り始めた。ここから先はもはや一瞬に過ぎ去りし未来の歴史に過ぎない」
「そりゃこんな場所で待ってたらなかなか会えないだろうね。あの黒い門の罠を外して、代わりに呼び鈴を付けときなよ。あと表札も」
私の言葉が届いていないわけではないだろうが、彼は私に近付いてきた時同様、暗闇の中を灯りも持たずにひたひたと歩いて行った。優雅に歩いているように見えるが、脚の長さが随分違うせいだろうか、それは私の駆け足の速度に匹敵する。慌てて追いかけると、背中越しに言う。
「おまえは…神の存在を信じるか?」
会話が噛み合わないな、こいつ。
「当たり前だろ」
「どうして信じる?」
「むしろどうして信じないんだ。皆が居ると言ってるし、存在を記した書籍も山ほどある。三大国の指導者を含めた王族や大勢の聖職者や学者たちが実際にテリと会って話したとも言ってるよ」
「テリと呼ばれる男は確かに実在する。だが、今は神を自称するおこがましい老人の話をしていたわけではない」
男は何度か角を曲がりつつ、足を止めずに歩き続けた。既に私がまだ通っていない場所まで来ていたので、私は会話しながらも道を忘れないようにするのに必死だった。
「と、言うとあんたは異教徒かい。見たまんまだけど」
「おまえたちから見ればそうなる…。だが私は真なる神の信徒だ。…恐らくはこの世で最も敬虔な…。ああ…!!」
彼は唐突に短い叫び声を上げ、闇に溶けるように去っていった。非常に素早い動きであったが、走り出したにしては体の上下の振動も足音も無かったように思えた。何から何まで不気味な男だ。
ヒステリックに喚くような声だけが暗闇の向こうから聞こえる。
「神は存在する!そう、神が存在するからこそ、おまえがここへ現れた。偽りの神を罰する下僕に祝福をお授け下さった!使命という名の祝福を!裁きの槍を!奇跡の依り代としてこの敬虔なる下僕をお選びになったのだ!そう…奇跡…、それは誰もが…私をここに閉じ込めた愚か者たちですら知っていたはずだった…、しかし彼らは目を逸らし続けた。既にその肌に、首筋に、心臓に触れているのにもかかわらずだ…!」
大急ぎで演説の声を追いかけると、男は大きな金属製の赤い扉の前でこちらを向いて待っていた。
「なんなんだ」
私は苛立ちを込めて呟いた。
思わず道も確認せずに駆けてしまった。こうなればもう帰り道は分からない。この男を見失ってしまえば本当にここから出られなくなる可能性もある。どっからどう見てもまともな人物ではないが、もはや彼の導きに従う他なかった。
「…おまえは…聖域へ行かなければならない…!そして鍵を手に入れるのだ。第一の鍵を」
「えぇ…?だから、何の話だよ…」
男は再びマントを翻した。
両開きの赤い扉が手も触れないままに独りでに開いた。
その向こうは、まるで巨大な金属の筒のような部屋だった。凹面鏡のように私たちの姿を歪めて映し出す明るい鉄色の丸い壁には一切の継ぎ目が無く、どのような技術で建造されたのかまったく想像も付かない。ましてやそんなものがこんな樹海の奥深くに存在するなど理不尽さすら覚える。
「中央の円陣に入るのだ」
私は呆気に取られたまま、無言でそのようにした。私に続いて彼もまた円陣の中に入ると、突然周囲の空気が重量を得て私にどっとのしかかるのを感じた。私はよろめいた。
「何をした」
相変わらず彼は答えないが、空気の重さはすぐに元に戻った。
「こちらだ。付いて来い」
今しがた入って来たばかりの赤い扉から外に出ると、そこにあった風景は書棚によって作られた暗く狭い迷宮ではなく、打って変わった石造りの白い壁だった。通路の壁の両側にはいくつか窓が設置されており、そこからは太陽の光が差し込んでいる。
「どういうことだ。地下に居たはずだが。まさか空間を越えて瞬間移動したのか」
「世界のほうが動いたと考えないだけまだ理解が早いな…。だが、単純に部屋が下から上へと昇っただけだ」
「一瞬だったけど…その一瞬で一気にこの高さを吊り上げたって言うのか。それとも押し上げたのか。一体何の力で」
窓に走り寄って身を乗り出すと、見慣れた樹海の針葉樹は遥か眼下だった。
「聖域は本来、こちら側からしか入れないはずだった」
声に応じて振り向くと、彼はまた一人で歩き出していた。私は窓から身を引いて、カンテラの火を吹き消し、金具を使って腰に提げた。
「あんたと会話を噛み合わせるのは諦めた方がよさそうだね」
「しかし、どうやら何千年か前に起こった天変地異でこの盆地を隔絶していた谷が隆起し、人間が外側から容易く到達出来る道が出来てしまったようだ…。ここだけではない。第二の聖域テリリドニジグ、そして第三の聖域イェニスも同様だ。神の存在を感じずには居られぬ…」
そしてまた、彼の行く先にあった金属の扉が手も触れずに開いた。まるで毎日磨かれているような整った白い石造りの回廊から様子が一転、その先にあったのは洞窟の内部のようなぼろぼろの赤茶けた土の壁の通路だった。
この場所は見覚えがある。
「山賊の要塞だ…」
しばらく階段を降りた先にあったのは、四週間前にシギミヒが私を連れて通過した、要塞の食堂だった。あの時、数人の賊たちが休憩していたぼろぼろの木のテーブルには、今はもう誰も居ない。乱雑に蹴り倒されてそのままになっているいくつもの椅子が、ここが無人になる際に起こった混乱を物語る。
「そういえば気にもしなかった。ここは一体どうなったんだ。もう無人なのか。虫になった連中はどこへ行ったんだ」
「虫化した者は基本的には殺すべき人間や破壊すべき人工物を探し回る本能だけで動くものだが…ここの者たちは人為的に虫化させられたようだな。そういった者たちは虫化する前に意識に植え付けられた命令にある程度従う習性を持つ。ここの虫たちはこの縄張りを守り異物を排除する命令を与えられたようだな」
「へぇ…それって要するに…」
見覚えのある階段を降り、詰め所へ向かう通路を行くと、開け放たれた扉の向こうでこちらを見ている一匹の虫人間の姿が目に入った。セリトたちが脱出する際に掃討してくれたことを期待したのだが、賢明にも無駄な戦闘は避けたらしい。
しかし私の前を行く男は明らかにそれを視界に収めているにもかかわらず、まったく気にも留めぬ様子でどんどん進んでいく。
「先に行って退治してくれるつもりならここで待ってるけど、腕を信用してもいいのかい」
「退治…?聖域を守護する騎士たちを何ゆえに?図らずも彼らの存在は好都合でしかない」
「なんだよ。また謎掛けか。あんまり危険を伴うようなものは困るんだが」
その時私は壁際の暗がりで何かが光るのを視界の端に捉えた。
虫人間の眼光だった。前方に見えたのとは別の個体だ。
しかもそれは鉤爪を振り上げれば私に届くほどの近距離に居る。
「それ見たことか!」
私は咄嗟に反対方向に飛び退き、壁に背中をぶつけた。咄嗟に腰に手を当てるが、武器は提げていない。
「何をしている…?まさか…まだ気付いていないのか…」
男は、カンテラを握り締めて振りかぶっている私に向かって言った。
「虫たちはおまえを襲うことはない。とっくに経験しているものとばかり思っていたが」
「………!?」
目の前の虫人間は、まるで私などこの世に存在すらしていないかのように、両腕をだらりと下ろして棒立ちでただ宙を見ていた。
「…まさか…これまでもずっと…?」
「おまえに与えられた祝福だ。おまえの神のな。思い当たるところは無いか?今初めて虫を見たようにも見えぬが…」
思い当たる節なら山ほどある。
元を辿ればそもそも島を出た時からだ。故郷の島は私が知る限り私以外のすべての島民が虫化した。八方を虫人間に囲まれた状態で私が生きて島から脱出できたのは、彼らが何故か生きた人間である私よりも家屋の破壊を優先したためだ。
傭兵団員として行軍していた時もだ。私と同じテントで虫化した友人レニタフも何故かすぐの寝袋に居た私を無視し、数歩離れた別の兵士を最初に食らった。私は寝ぼけ半分でその様子をしばらくただ眺めていたにもかかわらず、副長のロウィスが駆けてくるまで結局レニタフに攻撃されることは無かった。
その後、樹海やこの要塞で何度か虫人間と戦闘する機会があった。その時はただ必死でまったく気付かなかったが、思い返せば私が奴らから直接狙われた経験はただの一度も無い。一振りで首を刎ねられる位置に居た時すら奴らは私を無視して私の背後に居た者を攻撃した。
「言われて気付いたよ」
目の前で立ち尽くすブサイクな虫から目を離せないまま、ふらふらとそいつに歩み寄った。縦に割れた口に横向きに生えた凶悪な牙の隙間から、シューシューと呼吸音が聞こえる。
発作的に、私は思い切り足を上げて、そいつの膝の辺りに全力で蹴りを入れていた。
そいつはまるで軽く小突かれたかのようにふらりと一歩だけ動き、また棒立ちで空を見つめている。
「先を急ぐぞ」
私の足は男のその言葉に従ったが、口からはどうしても押さえきれない疑問が溢れた。
「待て、さすがに説明が欲しい。一体何が起こってる」
「…説明しても理解は出来まい。ただ事実として覚えておけばいい。おまえは選ばれたのだ。私とは対になる存在…そう、偽りの神の奇跡の依り代としてな」
詰め所を通過し、私たちの足は地階の発掘場へ向かう。
「誰だ。勝手に選んでくれたのは」
「誰でもない。人でも、神でも、偽りの神でもない。起動時の状況に応じて自動的に条件が設定され、それに合致した人物の中から無作為に選ばれるようになっていた」
苛立たしいことに本当にまったく理解出来ない。
「自動的って何だよ。水車か何かで動く機械で選んだりでもしたのか」
「機械と言えば機械だが…もっとずっと複雑なものだ」
「じゃあなんだ?振り子時計か?」
「水車も振り子も似たような技術水準だと思うが」
「次元の高い話だな!…選び方については置いといて、つまるところ…僕も適正者の一人だったってことか…?虫人間に攻撃されないという能力を持った…」
「ふむ…適正者…か。テリリドニジグの研究者の調査書に記述があったな。おまえたちはそう呼ぶらしい。人間を超越する力の器を持つ者…定義的にはあながち間違ってもいない。おまえも、おまえ以外の者も当て嵌まるだろう」
やはり私自身も適正者と考えるのが妥当のようだ。メセの能力で探知されなかったことや、適正者の力を封じるこの場所でも有効であったことなどが矛盾するが、未知の事柄について例外がまったく存在しないと断じる方がむしろ無理がある。そもそもこの能力について説明する引き出しが『適正者』という言葉を除いて皆無なのだ。今のところはそう考えておくしかない。
階段を降り、山賊たちと追いかけっこをした広場を横断する。この先の道についてはあまり記憶が無いが、いくつも枝分かれする坑道の中から最も太い道を選ぶように進む男の後を私は追った。
男が不意に立ち止まって振り向いた。私が再び灯したカンテラの灯に下から照らされることで出来た陰影によって、わざとらしいほどの不気味さが演出されている。
「…おまえは…罪人か?」
彼は少しだけ私の目を見つめてからそう言って、また前方へと歩き出した。
「え、何故。今度は何?」
「偽りの神の依り代が選ばれる際の条件の一つに、外界から隔絶されている者、という項がある。閉じ込められし囚人か…身動きの取れない病人…あるいは孤島の漂流者…。どういうわけかおまえはそのどれでもなかった。あるいは、選ばれた直後に自由を手にした。だからここにいるのだろう…」
「またその話の続きか。まったく分からない。なんの話だ?」
「質問の理由が知りたいのか?だが水差しも無しに泉の水を汲んだところで指の間から漏れ失せるだけだ」
その例え話だけなら奇跡的にすぐ理解できた。理解に必要な予備知識がなければ聞いたところで意味が無いと言いたいのだろう。
「おまえと違い、私は私の水差しを持っている。答えるのか、答えないのか」
私の質問に対して彼が答えるのは無意味なことでも、その逆は意味があるらしい。私は軽くため息を付いてから、過去に思いを馳せた。
「…故郷の離島に居た頃は確かに自分を囚人のように感じていたかもしれない。閉じ込められていたわけではないけど、あの島から出られる兆しも無かったし、出る意志も無かったから…」
夜に動物の世話をし、昼に書を読み家族とすら会話をしない。そんな生活が呪わしい反面、どこか心地よく感じていた――自分にふさわしいと感じていたことも事実だった。島民全員が虫化するあの不可解な事件が起こらなければ、実際にあの島で孤独な一生を終えただろう。
「そうか。そのような曖昧な状態でも判定が行われるのだな。考えられることだ」
「その僕を選んだ奴ってのは…機械とやらに選ばせようとした奴は一体何をしたかったんだ?外界から隔絶された人間じゃ祝福ってのが与えられても一生それに気付けないままかもしれないじゃないか」
「それが目的だ。本人の意思で行使させるために与えた力ではない。脅威から隠すため一時的に退避させたに過ぎない。おまえのささやかな生涯はその海の牢獄の檻の中で静かに幕を下ろすはずだった。しかし偽りの神が決めた運命など、真の神の前では児戯に過ぎない。おまえはきっと普通では考えられないような理由で外に出られたのだろう?それこそがまさに神の導きだ」
「僕以外の適正者たちもみんな、社会から隔絶された者たちから選ばれているのか」
「…さてな。それについてはなんとも答え難い」
ニャキやシギミヒのような各国の軍事関係者たちは本来日の目を見るはずの無かった隔絶された適正者たちを探し出し、それを生体兵器として戦争の表舞台に引きずりだそうとしているのだろう。だとすれば私自身も彼らの標的になり得るはずだったのだが、皮肉なことにしばらく間近に居たにも関わらず彼らはそれに気付かなかった。
男と私はさらに奥へと進む。途中、何体かの虫人間が通路に立ち尽くしていたが、彼らを避けて間近を素通りする私たちが干渉されることはなかった。虫たちに攻撃されないという能力はやはり謎の『遺物』の影響を受けていない。
「これまではたとえ僕が一緒に居ても僕以外の人間に対しては虫人間が反応していた。なのになんで奴らはあんたのことも無視するんだ。僕と同じ能力者なのか」
「また水差しの話をさせたいのか?」
「…いや、もういいよ…。それより、今僕らが向かっているのは超能力を封じる力を持つ遺物とやらの元なんだろうね?この発掘場で他に見るべきものも思い当たらないし」
「それだろうな。ただ、遺物…と呼ぶのは語弊がある。埋蔵されてから一年も経たずに発掘されたのだから。その口ぶりから察するに、存在は知っているが目にしたことはまだないようだな」
「まだ遠いかい」
「もう着いた」
男がその長い腕を持ち上げて指さした先には、松明やカンテラの灯とはまるで違う不思議な青白い光が漏れていた。光に近付くと、大きな円形の部屋の天井付近にその光源が存在することが分かった。
私たちは光源の存在する部屋に踏み入り、頭上を見上げる。
「随分と…でかいガラス…?いや、水晶ってやつか。しかしなんで光を放っているんだ?」
一軒の家ほどもある大きさの半透明の青白い石が、まるでそこから生えて来たかのように岩の天井にくっ付いていた。
「もっと近くでよく見るがいい」
言われるがまま、私はその巨大な存在から目を逸らさず、恐らくは山賊たちによって設置されたであろう粗末な木製のやぐらの階段を登った。眩しさに目を細めながらそこそこの距離まで近付くと、私はあることに気が付いてさらに目を凝らした。
「中に何か居る」
好奇心が歩みを速め、私はそれに手を触れることが出来るほど近くまで来た。すると何故か、周囲が真っ白になるほどの強烈な光の中に居るのも関わらず、苦も無く目を開くことが出来るようになった。
そしてはっきりと見えた。
発光する石の中には人間の十倍近い大きさの甲虫らしきものがまるで氷漬けにされたかのように閉じ込められていた。
「巨大な虫…?いや、これは…人間…?」
その虫の頭部と思われる辺りの部位には、一つの老翁の顔が存在した。
人間の顔を持った昆虫だ。これもある意味『虫人間』と呼べるかもしれないが、私たちが普段そう呼んでいる者たちとは全く違っていた。彼らは頭部も虫のような姿に変形している一方、二本ずつの長い手足を持ち二足歩行を行う人型の存在だ。しかし目の前に居るこの老人は大きな胴体と細い六本の足を持つ巨大な甲虫そのものの形状をしている反面、顔だけは完全に人間の形を保っている。
その顔に幾重にも折りたたまれた皺は単なる加齢によるものだけとも思えない。彼は苦悶の表情で眉をしかめ、目を伏せていた。




