2. ギリザの門
地下書庫の入り口の戸が開く音が聞こえ、背後から足音と共にカンテラの灯が近づいて来た。彼は私の背後まで来ると少しの間黙っていたが、私が振り返ろうとしないことに痺れを切らしたのか、一度大きくため息をつくと、肩越しに声を掛けてきた。
「またギリザかい」
「哲学は興味深いね」
私は卓上の哲学者ギリザの本に羽の栞を挟み、その表紙を閉じた。
「そろそろ夕飯?今日は何?」
振り向いて立ち上がるそぶりを見せると、彼は一歩身を引いてそれを促した。だが、ゼームの眉は八の字に曲げられたままだ。
彼は私の質問には答えない。
「…しつこいようだけど『ギリザの門』を開こうなんて考えないでおくれよ。下手に近付けば不意に罠に触れてしまうかもしれないし、暴こうとすれば私の知らない別の罠が姿を現すかもしれない」
「確かに、あの哲学者の名前が冠された封印の扉の存在がこれを読み始めたきっかけではあるけどね。読んでたら面白くなっただけさ。別にあの扉を開けようなんて考えてもいないよ。僕も罠は怖いし、故人の秘密を暴こうなんて悪趣味だろ」
「それならいいのだけど、一週間で四冊とはね。哲学書はもっとじっくり読むことをおすすめするよ」
ギリザの門――この樹海の古屋敷の地下に広がる広大な書庫の最奥に設置された仕掛け扉だ。全体が分厚そうな真っ黒い金属で作られており、表面に円形に配置された十六の突起と、上部に記された哲学者ギリザの名がいかにも謎掛け遊びを挑む気満々といった佇まいだった。
ゼームが最初に私をこの地下書庫に案内した日、左右双方にカンテラで照らしきれないほど広がる広大な書棚の列に目を奪われる私を先導し、彼は真っ先にこの仕掛け扉の前に私を連れてきた。
「…紅白の虎…?」
暗闇の中の赤い灯りに挑戦的な表情で浮かび上がる巨大な黒い扉を見上げ、そこに書いてあった文字をほとんど無意識に読み上げると、ゼームはぎょっとした面持ちで振り向いた。
「メメトー文字が読めるのかい」
私はしまったと思ったが後の祭りだった。
「あ、いや、違うね。大文字で書かれてるから文字通りの意味じゃなくて固有名詞か。なんて発音するんだい?」
私は咄嗟に無知を装うこともできず、素直に疑問に思ったことをそのままゼームに尋ねてしまった。彼は隠し切れない訝しげな視線を私に見せないようにするためか、扉のほうへ向き直ってから答える。
「…レー・レカッギ・リザ…。これは…教国の哲学者レンレーカ=ギリザのことだよ。どうしてノギントリ教国出身の哲学者の名前がここデウィーバ帝国の書庫の扉にメメトー文字で記されてるのかは不可解だけどね。この仕掛け扉を開けるためのヒントなのかもしれないな…」
彼は独り言のようにそう呟くと、持っていたカンテラを私に手渡した。
「と、言っても、この『ギリザの門』を開けようなんて考えたら駄目だよ。この十六ある突起をなんらかの法則に従って操作することで開くのだと思うけど、間違った操作をすると…」
彼は腰から提げていた木製の棒をまるで騎士剣のように胸の高さで構えた。
「下がっててもらっていいかい」
「え?」
私が二、三歩後ずさると、彼は手振りでもっとだと促した。
「部屋の真ん中くらいまで、門が見えるぎりぎりまで下がったほうがいいよ」
「え?そんなに?何すんの?」
「階段の位置は分かってるね。合図したら走って。頼むから転ばないでおくれよ」
そう言いながら彼はおもむろに門の突起の一つを棒で押した。
「おいおい」
「さあ、扉から棒を離すよ。それ、走って!」
「おいっ!うわあーっ!」
私が後ろ向きに下がっている最中にもう、彼は扉の罠を起動させた。逃げ去るために振り向く暇も無いままにやってくれたので、その瞬間をしっかりとこの目で見ることができた。扉の周辺の広範囲の床や天井から溢れ出た毒々しい紫色の煙は猛烈な勢いで広がるとゼームの全身を一瞬で飲み込み、私のすぐ足元にまであっという間に追いすがったのだった。
一度だけ足がもつれて危なかったが私はなんとか転ばずに階段まで辿り着き、両足だけでなく両手まで使って犬のように駆け上がった。階段の真ん中を過ぎた辺りで背後から強い力で担ぎ上げられ、そのまま上階へと押し出された。尻餅を突きながら振り返ると、私を絨毯の上へと放り投げたゼームが大急ぎで鉄の扉を封鎖していた。
「アハハハハハ、ハッハッハ!やっぱりこれは愉快だなあ!どうだい、ヌビク。びっくりしてくれたかい?アハハハ!…ゴホッ、ゴホッ!…窓のそばまで行こうか」
こいつ、ホルズと仲良しだった頃は毎日こんな危ないことばっかりやって遊んでたんだろうな。
「あぁ…死ぬほど愉快だった。何あれ?」
「何って、罠だよ。でも昨日言った通り致死性のものではないよ。私も一度だけ逃げ切れなかったことがあるけど、数刻ほど気を失うだけだったから。後遺症のようなものも無かったしね」
「へぇ…一度だけか。安全性ってのはもっと何度も試行してから確立されるものだと思う」
「ハハハ、確かに」
ゼームは開放されたベランダに向かって設置された肘掛け椅子に腰を下ろし、なおも愉快そうにけらけら笑った。私も並んで設置された肘掛け椅子に背中を預け、朝の光に照らされた中庭の菜園に視線を投げた。一匹のリスが横切って行った。
「罠の『安全性』についてはよく分かったよ。あれには触れないほうが良さそうだ。でもどうすんの、あれ。充満したガスを抜かないとしばらく入れないんじゃないのか」
「それも心配要らない。昼までには完全に元通りになってるはず。どういう構造なのかはまったく分からないけど、あの書庫には不思議な換気機能が備わってるんだ。本の保存目的にもその機能が使われてるのか、あの地下書庫にある古書はどれも奇妙なほど状態が良い。その中には君の興味をそそるような珍しい本もきっとあるはずだよ」
例の山賊の要塞でも思ったが、この樹海にはどうにも不思議なモノが多いようだ。様相はかなり違うものの、この謎めいた屋敷もあの巨大な要塞と同じ文化に由来するものなのかもしれない。
「どっちにしろ昼までは暇なわけだ」
私が欠伸をして目を閉じると、隣でゼームが立ち上がろうと椅子を軋ませる音を立てるのが聞こえた。
「じゃあ昼までそこらを歩かないかい。君はここしばらく屋敷に篭りきりなのでは?」
しばらく外に出ていないどころか、二週間前に見知らぬベッドで目覚めてから、一度も靴すら履いていない。
「え?いや、いいよ。今朝はいつもより早いし少し寝ようかと…。昼食の準備が出来たら起こしてくれ…」
目を閉じたまま言うと、軽く肩を叩かれた。
「いやいや。たまには歩かないと鈍ってしょうがないよ。森は朝に歩くと気持ちがいいんだ。木々のおかげで涼しいしね。歩きながらこの辺について教えるよ。それに…少量とは言えあのガスを吸っただろう?肺に新鮮な空気を入れ替えたほうがいい」
彼の整った顔をまっすぐじっと見つめるのも癪なので、私は横目でちらちらとゼームの笑顔を観察した。どう穿った視点を探してみても、そこに裏があるようには思えなかった。
別の夕餉の席で彼の境遇について尋ねたことがある。彼はこの五年前にさる理由から『名も無き老人』の元へ転がり込んで以来、友人と呼べる相手は歳が一回りほども離れたホルズくらいしかおらず、そのホルズともまだ出会って一年も経っていないらしい。山賊団の中にも歳の近い友人候補は居そうなものだが、誰とも「話が合わなかった」とのことだ。私なら合うのかと疑問に思ったが、とにかく彼はホルズと決別して以来ずっと退屈で、孤独を感じていたと私に言った。
そんな理由からか、この数週間で彼は随分と私に打ち解けた。様子から見るに、彼はきっと私と友人になれたことに本当に満足していたのだろう。しかし私は当時も、そして今もなお、そのことについてはなるべく考えないようにしている。
私は彼がホルズに対して行なった所業を忘れていない。
彼はあの覆面の男について一切言及しようとしないが、そんなことは関係無い。
いずれ彼自身の口から、山賊団に関する一連の疑惑の答えがすべて打ち明けられようとも、私はその言葉の真偽を疑い続ける。彼もすぐに気が付くことだろう。このまま仲良しごっこを続けていても、遠くない未来に必ず彼が私を裏切るはずだし、私がそう確信している以上はこちらから先に裏切ることになるかもしれない。そしてその時は激しい怒りを伴った報復があるはずだ。これは予言などという曖昧なものでは決してなく、私の中に存在する明確な『意志』に他ならなかった。
私は彼から目を背け、肘掛け椅子からゆっくりと立ち上がると、靴を履くために部屋へと戻りながら、背中で言った。
「確かに…たまには散歩もいいか。僕も山歩きはそれほど嫌いじゃないからな。…敵の襲撃さえ無ければだけど」
その日の午後から、私は地下書庫に篭って『ギリザ』の著書を読み続けた。一週間が経過し、さらにそれから一週間が過ぎた頃、寝室の窓から吹き込んでくる風はだいぶ涼しくなっていた。森の深くで暮らすにはすっかり心地良い気候になったが、下界ではさらにもう四週ほど暑い夏が続くことだろう。
私はギリザのすべての著書を読破していた。
ひどく時間を無駄にしたような気がする。
「確かにじっくり読むべきだったな…」
結局さっぱり何も分からなかった。扉の開け方についても、哲学についてもだ。
ともあれ、結局私はふりだしから一歩も先に進んでいなかった。そう思った拍子に二週間分の徒労感が一気に私を襲い、地下書庫のひんやりとした空気も手伝い、瞬間的に眠りに落ちた。
夢の中で哲学者ギリザと思しき人物が私を指差して笑っていたが、私はギリザの顔を知らないので、彼は古めかしい古代ノギントリ衣装に身を包んだ二足歩行の虎の姿をして現れた。ギリザの名がメメトー語の当て字で紅白の虎を示すせいだろう。
私の頭上を赤いギリザと白いギリザがぐるぐると回る。その背後には真っ黒い夜空に円形に配置された十六の星。
「干支だ」
私は飛び起きた。
メメトー式の干支は十六年で一周する。そしてその十六年にはそれぞれを守護する動物が割り当てられている。その中に白い虎と赤い虎が存在するはずだった。私はメメトーの暦について詳しくはないが、まだ島に居た頃、メメトー語の書物で日付を表す部分にさまざまな動物が現れることを不思議に思ったものだった。
メメトー語の単語の意味を理解できる時点で既に私は限りなく正解に近い場所に居たのだ。それなのに私はゼームが恐らくあの時咄嗟に思い付いたのであろうこじつけに翻弄され、二週間もの間まったく無関係の哲学書を読み漁っていた。奴は扉を開けようと躍起になって見当違いの哲学の勉強をしていた私を見て、不満そうな顔を見せる内心でげらげらと笑っていたに違いない。私が「紅白の虎」と口に出した時の彼のぎょっとした顔が今になって思い出される。
「やられたなぁ!」
そう声を上げながら、メメトー語の本棚を当たった。そこから占星術のカテゴリの書列を見つけ出すまで耐え難いほど苛々したが、ついに私は望む情報の書かれた一冊を手に入れた。
私は開いた書を片手に持ったまま、忌々しい『ギリザの門』と向かい合っていた。時はまだ正午を回ったばかりだ。ゼームが仕事から帰ってくるまでだいぶある。やるなら今しかない。ゆっくり考えている時間が惜しいし、その間にゼームが帰って来たりでもしたら、この好奇心を満たせないまま明日を迎えられる気がしない。きっと死んでしまう。
赤い虎は西を守護する動物だ。私は本を傍らに置き、左手で西の方角に位置する突起を押した。
手を離してはならない。ゼームが罠を作動させた際、ガスが噴出したタイミングは突起を押した時ではなく、離した直後だった。その時点から、二つ以上の突起の同時操作で開くのだろうと予想はしていた。だとすれば答えは赤い虎の方角と白い虎の方角を同時に押すことに他ならない。
私は右手で南南西の突起を押す。
シュー、という鋭い音と共に、私の足元や頭上から白い煙が大量に吹き付け、一瞬で私の視界を奪った。だがそれでも手を離してはならない。偶然正解に触れてしまった者を驚かせて手を引かせるための仕掛けに過ぎない可能性もある。どうせこれが不正解であればまたふりだしに戻るのだ。ならば信じる他無い。
不意に、私の体が前方に傾いた。両手で体重を預けていたものが後方へ動いたのだ。重たい石が床をこする音が響く。あとは手を離しても観音開きの戸は勝手に最後まで開ききった。閉じる方法は分からないが今はまあいい。
即ち私は勝利したのだ。ひひひ、と自分の口から笑い声が漏れたことに気付いた。ゼーム、君は知らないだろうが僕が勝ったのはこれで二度目だ!
開いた扉の向こうから吹きつけた風が水蒸気を吹き飛ばし、視界が開けた。
「書庫だ」
私は背後を振り向き、そしてもう一度前方に向き直る。どちらにもまるで同じような光景が広がっていた。
本を読んで解き明かした謎の報酬が本。期待した通りじゃないか。ともあれこんな大それた仕掛け扉によって秘匿された宝が名も無き老人の書きかけの小説だったり、ロマンチックな愛の詩で綴られた未開封の恋文だったり、赤裸々な若き日の罪の告白の日記などではないことを祈ろう。その時はわざわざ再封印することになる。故人の秘密を暴くなんて悪趣味で喜ぶこともないから。
門をくぐってすぐの所にあった適当な書棚から適当な書物を一冊を手に取り、表紙を見ただけでもう私は度肝を抜かれた。そこに描かれていた女性の肖像はまるで本物と見紛うほど、目を凝らせば毛穴やうぶげまで見えてくるほど緻密に描かれていた。青い瞳の透明な眼差しは心の内を見透かして来るようだったし、今にも喋りかけて来そうな唇の躍動感は彼女がどんな声をしていたのかを私に即座に想像させるに容易かった。恐る恐るその唇に触れてみると、まるで鏡のように滑らかだった。絵の具や墨の感触ではない。
女性の肖像画の上部には恐らく書物の題名であろう文字列が、まるで見たこともない文字で書かれていた。この大陸の三大国のどの文字とも違うし、付近の小国で稀に使われるような三大国の文字を基にした変形ですらない。
古代文字だろうか?しかし大陸で紙が発明されてまだ百年も経っていないし、一般に普及されたのはごく最近のことだ。それにこの書を構成している紙はこれまで私が見たことのあるどんな高級紙よりもきめ細かい。
表紙を持ち上げて中を見てみると、やはり一切が表紙と同じ言語で記されていた。当然ながらまったく読むことが出来ないが、それでもある一点が非常に強く私の目を引いた。すべての文字同士が一切のぶれも無く完全に等間隔で並んでいるのだ。文字一つ一つも非常に小さく細かいが、筆跡は非常に安定していて墨のにじみ等の書き損じも皆無だった。
まるで魅了されたように随分と長いこと読めもしない本のページをめくり続けていた気がするが、私はついにあきらめてそれを元の場所に戻した。読める言語で書かれた本、さらに願わくばこの謎の言語を解読するための辞書がどこかにあるかもしれない。それ以前にまず、この秘密書庫の全貌を知っておくべきだ。私は床に置いたカンテラを持ち上げた。
暗闇を照らしつつ少し歩くとすぐにこちら側を向いて設置してある本棚にぶつかった。意外と狭いのだろうかなどと思いつつ、特に深く考えることもせずに私は突き当たりを右折し、少し進むとまた本棚にぶつかった。しかしそこには再び左へ進む道がある。一度右折して突き当りを左折すれば当然進行方向は元に戻る。まだ書庫の最果てではなかったということだ。
左折し、延々続く本棚で作られた通路をまた少し進む。
「なんてこった」
今度は十字路に出くわした。
それぞれの通路の先にはさらに不規則な分かれ道が存在しているのが見える。
ようやく気付いた。ここは迷宮なのだ。仮にこの場所が書庫としてまるで非常識な面積を有しているのだとすると、このまま無闇に突き進めばすぐにでも方向感覚を失って永久に出られなくなってしまう。通った道を把握するための何かしらの準備をしなくてはならないし、カンテラの燃料も補充しなければ心許ない。本を読みに来たのに何も見えなくなってしまってはまるでバカみたいだ。
私は両腕に鳥肌が立つのを自覚しながら、来た道を引き返すために背後を振り向いた。しかし私は歩みを始めることが出来なかった。
通路の正面の暗闇に、ぼうっと浮かび上がる白いものが見えた。
揺れながらゆっくり近付いてくるそれが何なのか、経験上すぐに理解出来た。




