1. 覚醒
首はもげていなかった。
ほとんど無意識に両の掌で触れていた。自分の頭部のあるべき位置に顔の輪郭を確認する。開放された窓から差し込む西陽に照らされていたのであろう、熱を持った肌の感覚が、掌を伝って徐々に私を覚醒させた。私は生存していた。
私は真っ白く清潔そうなシーツの敷かれた大きく柔らかいベッドから身を起こした。腰掛けたまま足を下ろすと、裸足の裏にやはり柔らかい毛皮のカーペットの感覚があった。くすんだ青銅の窓枠の向こうの緑の木々や、豪奢な彫刻が施されながらも漆のような黒一色の落ち着いた印象の一対の机と椅子、頭上にぶら下がる灯されていない獣の牙のシャンデリア。部屋にあるものすべてに見覚えがない。私は見知らぬ部屋で目覚めた。分かることはそれだけだった。
裸足のまま立ち上がる。どれだけ眠ったのかは分からないが、驚くほど平衡感覚はしっかりしている。部屋の出口に設置された光沢のある赤茶色の扉もまた開放されており、私は吸い寄せられるように部屋の外へと出た。風の吹き抜ける長く薄暗い廊下には部屋がいくつか並んでおり、開け放たれた扉ごしに見る限りどれも私が目覚めた個室と同じような間取りのようだが、どこにも人っ子一人として居ない。外から聞こえてくる木々のざわめきや小鳥の囀りだけが建物全体を支配している。
唯一戸の閉じられた部屋の前で私は足を止めた。
唐突に風がやんだ。
中から人の気配がする。
何かの動く音や話し声や息遣いが耳に止まったわけではない。ただ漠然と、中に誰かが居るという確信だけが私の中にあった。
中に居るのが誰なのかはまったく分からないが、この際誰でもいい。この中に居る人物が、私自身が今置かれているこの状況を説明してくれるのか、することが出来るのかどうかも分からないが、何らかの手がかりになるのは間違いないのだ。
扉の取っ手に手を伸ばした瞬間、不意に視界の端に人影が存在していることに気が付いた。無言で咎められているように感じたので、私は一度持ち上げた手を引っ込めて振り向いた。
「目覚めたんですね」
薄暗い影の中に、紅の瞳が浮かんで見えた。黄昏時の長い廊下に再び風が吹き抜け、ゆっくりと歩み寄って来る彼の黒髪を揺らした。他の部屋の空いた戸から差し込む西陽で、その整った顔が照らし出される。
「ゼーム、やっぱり君の家か。そんな感じの趣味だと思った」
「歩けるんですか?もう少し休まれたほうがいいかと思いますが」
「むしろどれだけ休んでいたのか聞きたいね。あれからどれだけ経ったんだ?どうして僕は無事なんだ?あれがまさか夢だったなんてことは…」
私はそこまで言って、全身の血の気が引く感覚と共に言葉を飲み込んだ。記憶が途切れる一瞬前に見た光景を今頃になって唐突に思い出したのだ。私を庇って戦った少女のことを。
「メセ」
私は考えるよりも先に右手を再び持ち上げ、戸の取っ手に掛けていたが、その動作は今度こそ明確にゼームに咎められた。手首を掴まれたのだ。
「あなたの探している方はここには居ませんよ」
振り向く。私を見つめていたのは裏の無い、哀れみの視線だった。
「じゃあどこにいる。僕が生きていると言うことは…あるいは彼女も…」
言いながらも、彼女の手足が私の頭上で千切れて舞った光景が眼前に蘇っていた。
私はゼームの手を振り払い、赤い瞳を睨み付けた。
「ニャリキミヒさんの護衛をしていた少女のことを言っていらっしゃるのでしたら…、詳しくは落ち着いてからお話しします。今はやはりお休みになったほうがいい…」
ベッドに戻り一人で考えていても仕方の無いことばかりだった。私はかぶりを振った。
「鏡は…この場所に鏡はあるかい?」
「…では居間へ案内します。全身鏡もありますし、ゆっくり話が出来る椅子もあります」
私はゼームに続いておそらくは正面玄関だと思われる一際豪華な調度品の設置された広間の階段を上った。玄関扉を見下ろしながら回廊を進むと、一つの部屋へと通された。
扉を開けるとすぐに、正面に大きな鏡を見つけた。そこに小さく映る自身の姿から目を離せないまま、かと言って歩みを速めることもなく私はそれに近づく。やがてその顔がはっきりと見える距離まで迫った。
傷一つない。
セリトやホルズやシギミヒに殴られた傷も、メセが私を庇い切れなかった時に焼かれた顔にも火傷の痕すら残っていない。顔面から岩肌に叩きつけられて確かに折れたはずの首は胴体と頭をまっすぐ繋いでいる。テンベナを発つ前に訓練場の鏡で見たそれと寸分違わない、健康そうな軟弱者の顔がそこにあった。
私は至近距離まで鏡に近付き、そこから目を離さず、目覚めた直後にしたように再び顔を両手でまさぐった。確かに見える通りの顔が存在する。
「僕は何日寝てたんだ?」
鏡越しに目を見て、背後のゼームに尋ねた。
「丁度一昼夜。貴方が山賊の砦から転落したのは昨日の午後のことです」
「バカな」
ゼームはそれ以上答えず、食卓らしい大きな机の前に数ある椅子の一つに腰掛けた。私は振り向いて鏡越しでないその姿を目で追った後、彼の斜め向かいの席に腰掛けた。机が無駄に大きすぎて互いの距離は近くないが、閉じられた窓からは時折小鳥の囀りが微かに聞こえるだけで、私たちは会話するために大きな声を出す必要は無かった。
「やっぱり…夢だったのか…?色んなことがありすぎて記憶が混乱しているのか…?と、すると、彼女も…」
ゼームは少しの間私から目を逸らして黙った後、私の顔に視線を戻し、ゆっくりと話し出した。
「まず、貴方が断崖から転落する直前に同行していた方たちについては…ホルズやシギミヒも含め…、からくも全員無事に砦を脱出したことを確認したとお伝えしておきましょう…。今回の騒動で命を落としたのは、貴方の顔見知りでは、ダーマ、それと…貴方がメセとお呼びになった超能力者の少女の二人だけです。経緯は…、恐らくヌビクさんの記憶は間違っていないでしょう。御存知のとおりです」
私は自分の膝に置いた片手に力を込めた。
「どうして分かるんだ」
「この目で見ていたからです」
彼はまず、山賊の砦で起こった出来事が夢や幻の類でないことを明確にした上で、川に落下した私を拾い上げて、介抱するために自らの住居へ運び入れたことを告げた。メセが私を守りながら戦っていた光景も崖上から見ていたとのことで、決着の後、まだ息のあった私の救出を優先するため、明らかに生存の見込みがなかった彼女の遺体を収容することは断念したとも語った。砦での件で彼に問い質したいことは山ほどあったはずなのだが、私は頭がいっぱいになってしまってどうしようもなかった。
再び短い沈黙を置いて、私は俯いて呟くように言った。
「川から拾い上げた時、僕はどんな状態だった?」
「…気を失ってらっしゃいましたが、呼吸を確認しました」
ゼームは一瞬間を置いてそう答えた。私も一瞬間を置いてから続ける。
「…外傷は?」
またしても間が置かれる。だがてきぱきと答えられるはずもないことは分かっている。なにせゼームは私が転落する様子をその目で見ていたとつい今しがたはっきり語ったのだ。はるか断崖から落下し岩肌に顔面で着地した私の姿を。
「…外傷の類は…無かったかと」
「何かおかしくないか?」
「しかし、今の貴方の姿こそが現実です」
そこで私は片手の掌を突き出し、休息を要求した。私はゼームに続いて再び回廊から玄関前を通り、先ほど目覚めた部屋の前まで歩いた。しかし、今度通されたのはその隣の部屋だった。理由を尋ねると、単にシーツが洗いたてだからだと言った。
その時になってようやく私は、いくら虫が好かない相手とはいえ、本来真っ先に言うべきだった言葉をまだ一度も口にしていないことを思い出した。
「ありがとう」
閉じかけたドアに向かってそう呟くと、閉じきった後で返事が返った。
「生きてて良かった」
実際、自分が生きている自覚は薄かった。今のことは、私が死の際で見た一瞬の夢だったのかもしれないと思いながら眠りについたが、翌朝にはやはり同じベッドで目覚めた。
それから二週間が経過した。私の体は、――極めて不可解だが――最初に目覚めた時点で既に山を下りられるほどの体力を有していたが、ゼームの勧めもあって、私はこの樹海奥深くの静かな邸宅でしばらく療養生活を送ることを選んだ。テンベナ義兵団員から疑いの目を向けられている以上、テンベナの本部へ帰還したところですんなりと報酬を受け取って団に復帰出来る確証もないし、復帰を望む意思もなかった。
それにここでは毎日寝ていても食堂へ足を運ぶだけでゼームが日に三度の食事を配膳してくれているし、彼は明らかに健康体の私に対して出て行くことを促したりもしない。唯一の煩わしさの種であるゼーム自身も日中は『きこり』の仕事とやらで留守にしていて、せいぜい夕餉の際に顔を突き合わす程度だ。こんな楽な生活は無い。誰が傭兵なんかやるか。
「日中、私が居ない間は何をして過ごしているんだい」
その夕餉の際だった。ついに小言を言われるのかと無意識に顔をしかめたら、内心を瞬時に見抜かれた。
「いや、咎めてるわけじゃないよ。むしろ退屈させたなら悪いと思って。広間の本が読まれた形跡があったから気になったんだけど、君は…本を読むのかい」
彼は恐らく、文字が読めるのかい、と聞こうとしたのを飲み込んでそう問いかけた。
「それ以外にすることが無いし。部屋には何度も読んだ聖典くらいしか置いてないから、あの広間に装飾品面して置いてある本を読み切ってしまったら後はどうしようと思ってるよ。僕に立ち入りを制限してる部屋にある本も持ち出してきてくれると嬉しいんだけど」
ゼームは私が喋っている間に口に運んだ鹿肉のソテーを優雅に頬張り、それを飲み込んでから口を開いた。
「地下にそこそこ大きな書庫があるんだ。そこの一部を開放するよ」
地下へ通じる施錠された扉の先が書庫になっているとは思わなかったので、私は冒険心をくすぐられた。森の奥深くの謎めいた屋敷の施錠された地下書庫だ。珍しい古書の一つも無いほうが不自然だ。
私はソテーを口に含んだままもごもごと言う。
「それはありがたいな。でも一部だけか」
「全部は無理だよ。危険だから」
わざとやってるわけではないが、私はさらに口にパンを詰め込みながら急くように言う。
「危険?書庫が?」
「あそこには仕掛けがあるんだ。ここの元の住人が隠したい秘密があったらしくてね」
「数日前に話してた、君の保護者だった『名も無き老人』のことかい」
「そう自称なさってたけど、私は先生と呼んでいたよ。危険のある箇所については念入りに教えてもらったけど、その先に何があるのかは彼が半年前に亡くなるまで結局分からず仕舞いさ。明日仕掛けについて教えるから、そこには近付かないでおくれよ。致命的な罠はさすがに無いと思うけどね」
そこから先は何を話したのかよく覚えていない。その晩は湯も浴びずにベッドに戻った。
致命的な罠は無いと思う――ゼームのその言葉が引っかかった。彼が当てずっぽうでそんな無責任な憶測を口にするはずが無い。即座に確信した。彼は秘密書庫に出入りした経験があるのだ。
秘密書庫…甘美な響きだ。誰が従うものか。絶対に暴いてやる。
そしてゼームの口ぶりから察するに、彼自身も私が秘密を暴くことを期待しているのではないだろうか、そう思えてならない。
乗ってやる。




