46. 剣の向く先
シギミヒを追って進んだ坑道は入り組んでおり、すぐに現れた分かれ道でもう奴の姿を見失った。地面には複数の足跡が存在し、どれが奴のものかは判別出来ない。女たちを捕らえるために駆り出されているのであろう他の賊や鉱夫たちと遭遇することはなかったが、どちらに進むべきか決められない私は三叉路の松明の炎で焦る気持ちを炙られるばかりだった。
その時不意に、背後から人の気配を感じたような気がした。ハステが私を追って来たのかと思ったが、彼女はおそらくニャキたちとの合流を優先するだろうし、音も無く近付いてくるとは思えない。振り返ると、背後の暗闇の向こうからまるで染み出すように現れる一対の金色の瞳があった。数日前の雨上がりの森でこれに似た光景を見たことが思い出されたが、瞳の数が一対少ない点が違っていた。
「ダーマ」
何故か私はあまり驚かなかったし、警戒もしなかった。
「ここではおまえの力は封じられるはずだろ。シギミヒに来るなと言われてたんじゃないのか?」
ダーマは歩きながら右手を持ち上げ、右側の道を指さした。反対側の手には片手で扱える大きさの、柄まで金属で作られた戦闘用の手斧が握られている。それを使って誰かと戦うつもりがあるらしい。私はこの時既に、その対象が自分であるかもしれないなど考えもしなかったし、実際彼は私の横を素通りしたのだった。
彼はそのまま立ち止まらず、指さした先へ向けて足音も立てずに駆け出した。私は従うべきか否かを一瞬だけ迷ったものの、すぐにその後を追った。
すると通路の先に、松明の光に揺らめく影が見えた。シギミヒだ。彼の手には先ほどまでは無かった鈍い鉛色に光る頑丈そうな鞄が抱えられている。
彼は背後に居た私にも一瞬視線を合わせたが、それよりもダーマの姿に驚愕したようだった。
「な、なんでオマエがここに…?おい、ふざけんなよ!オマエが上の部屋に居なかったら正面出口から突破されちゃうだろ!一体どうして昨日からボクの命令を無視ばかりするんだ、このバカめ!」
彼はダーマの握っていた斧に目をやった。
「まさかそいつであの女どもと戦うつもりかい!?貧弱なオマエが能力も無しに白兵戦でどれだけやれるってんだ!とうとう本格的に壊れちまいやがったのか?とにかく今は早くその斧でオマエの後ろにくっ付いてる裏切り者の頭をブチ割れよ!…えっ?なっ…お、おい、待てよ!やめろ!」
私がぼーっと見守る目の前で、おもむろにダーマの斧が振り下ろされた。それはシギミヒの抱えていた鞄を直撃して引き裂き、その中身を床にぶちまけた。
「オ、オマエーッ!!」
そして叫びながら散らばった薬ビンを拾おうと屈んだシギミヒの顔面に、やはり無言で繰り出されたダーマの蹴りがめり込んだ。転がる薬ビンに紛れて、引き金のようなものが付いた取っ手が滑ってきて私のすぐ足元で止まったので、私は考えるより先にそれを拾い上げた。
ダーマは顔を押さえてうずくまるシギミヒを冷たい視線で一瞥すると、再び駆け出して通路の向こうの闇へと消えた。
「うっ…クソッ…うぐぐ…あぁ…返せよ、それ…」
真っ白い手に赤い鼻血を塗りたくりながらシギミヒが立ち上がり、ふらふらとこちらへ歩み寄ってきた。
「なんだい、これ」
「射出器だよ。へへへっ…素材も…形も…不思議だろ?弓の要らないクロスボウのようなもんさ。どういう原理か知らないけど、引き金を引くことで中に詰まった空気をどうこうして、その圧力で針を発射するようだね…。って、また喋りすぎたか…。そいつをボクに向けないでくれよ。後生だから」
私はそれをシギミヒに向けた。
「ははは…やると思った。バカだなぁ…薬ビンをセットしなきゃ、なんも撃てないよ」
どうやら少し複雑な吹き矢のようなものらしい。薬ビンとやらを装着することで針に薬が塗られるのだろう。薬とは即ち虫化を促すためのものに違いない。これを使って文字通り『虫化の引き金を引く』のだ。
「クスリの塗られていない針くらいなら飛ばせないかな」
「そんなもん飛ばすくらいなら…殴ったほうが早いよ!」
シギミヒが私に飛び掛り、顔面目掛けて拳を繰り出してきた。力に驕っていたのは彼も同じである。彼もまた武器の類を一切身に着けていなかったのだ。
私はシギミヒの殴打をかわすことまでは成功したが、距離が近付きすぎたため打撃で反撃することが出来ず、そのまま取っ組み合うことになった。彼の挑発に乗って殺傷能力の無い射出器とやらを両手で彼に向けてしまった私の過ちである。私とシギミヒは体格も近かったし、彼も私と同様ほとんど喧嘩などしたこともなかったのだろう。格闘能力は互いに均衡していた。今も向こうでハステたちが脱出のために必死に戦っているだろうに、私はここでレベルの低い軟弱者同士の取っ組み合いに興じる羽目になってしまった。
「ハァハァ…ちっくしょう…ダーマめ…あいつがボクに歯向かうなんて、意味がわからない…。あいつは心の無い人形だってのに、唐突に自我が芽生えたってのか。感動的だね」
私は邪魔な射出器を一旦放り捨て、両手でシギミヒの襟首を掴むとそのまま地面に引き倒そうと試みた。
「鞄のついでに脳天を割られなかっただけでもマシなんじゃないか。僕には分かってたよ。あいつは最初から正気だった。あるいは、サトヤの死を知らされたショックで正気に戻ってたんだ」
「ハァ?んなことなんで分かるんだよ!」
「それはあんたの知ったことじゃない」
逆に私が引き摺り倒され、その上にシギミヒが馬乗りになった。
「正気だったってんなら、なんでついさっきまではボクに従ってたんだよ」
「あいつの目的はきっと…そうだ…きっと、妹の仇討ちだ。あいつはメセが力を失って自分と互角になるのを待っていたんだ。だからそれまでは怒りを堪えながら従順な振りをし…おぶっ!」
喋っていたら顔面を殴られた。私はその手を掴み、上に乗ったシギミヒを振り落とそうと全身を激しく捻った。
「ほったらかしてもあの小娘は他の連中が捕らえるよ!その後で好きにすりゃいいのに。ボクはあんなガキに興味があるようなヘンタイでもないし、あいつにくれてやるのによ!」
「メメトー人ならみんな似たような体格だろ。いや、そんなことどうでもいい。メセは高レベルの適正者なんだろ。それを本当にダーマにくれてやるつもりだったのか?」
「ああ、構わないよ。ぶっちゃけあのガキどもばかりの国から与えられた任務なんかもうどうだっていいんだ!山賊稼業の方が性に合ってるんだよ!ボクはここで、ボクの国を作ったんだ…うぎゃああ!痛い、痛い!やめろ!」
今度は私が喋ってる途中のシギミヒの右手の指に思い切り噛み付いた。
「ぎえええっ!このクソが!このクソが!!」
シギミヒは私ともつれて転がりながら私の顔面に左手の指をかけ、力を込めた。このまま噛み千切ってやりたいところだが、眼球を抉られても代償が大きすぎる。
私は彼を突き飛ばすと、先ほど投げ捨てた射出器を手に取った。この場でシギミヒを絞め殺さなくとも、これさえ奴の手に渡らなければ虫人間を作り出すことは出来ないだろう。今はとにかく、表の出口を塞ぐ最大の障壁が居なくなったことを味方に伝えに行かなければならない。その障壁自身よりも先にだ。
私はそのままダーマが去って行った暗闇へと走り出した。背後でシギミヒが薬ビンを拾いながらふらふらと立ち上がるのが分かった。
「ううっ…何がなんだか分からない…。結局オマエは一体何者だったんだ…。忌々しいこのクソめ…。そうだ、オマエは本当に唐突に降って涌いたクソ以外の何者でもないよ…。どこもかしこも裏切り者だらけだ。ボクをこんな目に遭わせやがって。後悔させてやるからな!ボクからは決して誰も逃れられない…」
背後に遠ざかっていくシギミヒの恨み言と入れ替わりに、今度は前方から別の怒声が響く。
「あぁ?どうして俺に剣を向けんだ!てめえら一体なんのつもりだ」
この声は間違いない。今度こそホルズだ。
「こっちの台詞だ、裏切り者が!さんざん暴れてくれやがって」
「何がなんだか分かんねーが、てめえらが全員死にてーってのは分かった」
そのやり取りは曲がり角の向こうで行なわれているらしく、まだ姿は見えないが、状況は想像に容易い。先ほど遠くで大暴れしていた覆面の人物が実際にホルズだったのかどうかは置いておくとして、少なくとも賊どもはそうだったと思っているのだろう。
「おい、臆するな!囲め!囲んで一斉にかかるんだ。俺が合図する」
どこかで聞いたことがあるような声が続いた。
曲がり角に到達すると、吹き抜けを隔てた向こう側で想像通りの光景が展開されていた。両手に一本ずつ刀を握ったホルズを取り囲むようにして、五人の賊が剣や斧を構えている。囲んで一斉に掛かれと合図を出した男はホルズの背後に位置していた。
「カムロの言う通りだ。この人数で同時に掛かればさすがのこいつも捌き切れやしねえ」
しかしホルズは構え手すら下ろしたまま、平然とした顔のままで返す。
「全員でまったく同時に来れりゃな。そんな奇跡が起きたとしても少なくとも四人くらいは道連れに出来ると思うが」
その台詞で賊どもは萎縮し、それぞれ一歩後退した。
「おいっ!ビビるなっつったろ!こいつだけは絶対に殺さなきゃならねえんだ。俺はこの日を待ってたんだ。ホルズの野郎をぶっ殺せる日をな!」
合図をすると言った男が発破をかけた。彼はまだそう古くない頭部の傷を忌々しそうに撫でながら、憎悪を込めた言葉を続ける。
「…ホルズよ…。てめえがここに来てからだ…。それから何もかもがおかしくなっちまった…。俺のダチも弟分も…みんなみんな死んじまった。てめえさえ、てめえさえ居なけれ…」
ホルズは振り向きもせずに背後に向けて左手を振りかざした。彼が投擲したものはぺらぺらと喋っていた男の額に突き刺さって貫通し、男は後頭部から刃を生やした。
「うるせー」
男はそのまま背後にぶっ倒れ、白目を剥いた顔面を後頭部の刃で地面に釘付けにした。
「カムロが死んだ!」
「死んだぞ!」
残った四人の賊どもはさらに一歩後退した。いまだ得物を握ってはいるが、もはや戦う意志がまったく残っていないことは明白だった。
「おいっ、今、吹き抜けの向こうをダーマが走ってったろ。あいつを応援に呼び戻すぞ!」
「あいつどこ行った?」
「きっと女どもを追い込むための袋小路に加勢に行ったに違いねえ」
「待てよ、あいつの役割は上の出口の封鎖じゃなかったか?どうしてこっちに居るんだ」
「知らねえよ!」
賊どもは一斉に奥の通路へと引っ込んでいった。
この吹き抜けを隔てた曲がり角の陰は角度的にホルズからは見えづらい位置だったが、私がそこから成りゆきを見物していたことにはとっくに気付いていたらしい彼は、私が声を掛けるまでもなくすぐに振り向いた。彼はセリトやリデオと追いかけっこをしながら早着替えをしたなんてことはやはりなく、その着衣は先ほど見た覆面の人物のそれとは色も形もまったく違っていた。暴れた後で再度早着替えをしたなら話は別だが。
「鼻血出てっぞ」
ホルズは私と目が合うなり言った。私は鼻の下を手首で拭い、初めてそれに気が付いた。
鼻を啜ってから言う。
「ホルズ、あの二人はどうなった?」
「ハッ!早速豚と金髪の心配かよ?断崖から落っこちてなければ生きてるんじゃねーの?昨日あの伊達男が使ったとかっつー外壁の絶壁を使って撒いてきたからよ。あそこをまともに通路に利用出来るような奴は俺とあのクソ野郎くらいのもんだ。あんな面白い場所があったなんて、もっと早く知りたかったぜ」
なんだかんだで結局は私の要求を飲んでくれたらしい。セリトに対してはともかく、彼はリデオに対しては恨みもある。それでもなお彼が私の意思を尊重したことは、つい先日までの彼の粗暴さや狂気じみた言動から考えればまるで想像も出来ないような変化だ。
「恩に着るよ」
「豚オヤジのほうはぶち殺しといたほうが良かったと思うがなぁ…。俺だけじゃねえ。てめえにとっても…今後のことを思うとな…」
ホルズは私と目を合わせず斜め上を見ながら、そう予言めいた言葉を口にした。
恐らくは小隊の意向とはまったく無関係に、部下たちの仇討ちの為だけに独断でここまでやって来たであろうリデオの山賊団に対する憎悪は計り知れない。その彼から、私はまったく言い逃れ出来ないほどの状況で裏切り者と認識されたのだ。
関係修復は絶望的だ。つい先日、虫人間の群れに勝利した後の副隊長のブサイクな微笑を思い出そうとしてみたが、既にもはやどうにもぼんやりしていた。
「まぁ、どっちにしたってこの先までは責任取れねーかんな。連中が血走った目つきで俺を追いかけてここまで来りゃ、否応無しに要塞全体まで巻き込んでの乱闘になるだろーしよ。大体なんなんだ今のあのアホども。めっちゃ混乱してるみてーだったけど、一体なんで俺にまでいきなり食って掛かって来たの?」
「混乱してるからだろ。さっきおまえが上階に行った後すぐ例の女たちがやって来て、少しもしないで戦闘になったんだ」
「ふーん、やっぱ俺が上で遊んでる間にもう来てたんだ。どうせこんなこったろーと分かってたけど、やっぱあのガキはこのアホどもの仕掛けた罠なんぞでどうこう出来るレベルのもんじゃねーか」
私は一瞬だけ考えたが、罠の存在をホルズに告げた。
「それが、罠自体は効果があったみたいだよ。今、メセは超能力を封じられて逃げ惑ってる。このままだと捕まるか殺されるか、どちらにしても時間の問題だ」
ホルズもまた一瞬黙って、眉をしかめたなんとも言いがたい視線をこちらに向けてから返答をした。
「ほー…?封じられてる…?そりゃー…えらく都合良いな。だがよ、覚えてるか?俺がこの要塞に戻ってきた理由の一つはそのガキをぶっ殺すためなんだぜ。俺にその情報を伝えるってことは、殺してもいいってことだな」
一瞬黙った理由についてはどうやらお互いに理解出来たらしい。
「いいや…そういうつもりで言ったんじゃない。少なくともメセについては話し合う余地があると僕は思ってる。彼女自身は与えられた任務にあまり気乗りしていないのに、命令に逆らうことが出来ない。そんな風に見えたから」
「気乗りしねーなら逆らえばいい。反抗しねー時点でそれは自分の意志で決めたってことだ」
「そんな感覚的な話じゃなく、何か実際的な問題があってそれが出来ないようだった。恐らく彼女は何らかの力によって強制的に意志を曲げられている。ダーマやサトヤのようにね。おまえは見ていないけど、彼女はさっき、サトヤの死を侮辱したシギミヒに対して怒りを顕わにしたんだ。やけに急いだ様子でね。まるでニャキさんに咎められる前にそれをしようとしたように。それだけじゃない、昨日の一件の前からずっと引っかかってるんだ。彼女は…」
私は昨日崖際でハステが私にだけ告げたメセに対する彼女の評価について言及しようとしたのだが、それについては途中で口をつぐんだ。ホルズに対してハステの名を出して彼の意志を曲げようとする事はひどく不誠実な事と思えたのだ。
「…だから見逃してやれ、そう言いてーのか?」
私が口をつぐんだ事について訝しく感じたようだったが、敢えてそうしたのか、ホルズはそこに触れずに話を進めたので、私もすぐに返した。
「見逃すんじゃない。助け出して、協力するんだ。だから彼女の危機を伝えた。どうしておまえはサトヤの仇としてメセを狙うんだ?彼女も同じかもしれないのに」
「それなら、百歩譲ってガキの方はいいとして、あのクソメガネについては殺しちゃいけねー理由は何も無くなるが」
「………」
そう来る事が予想できなかったはずなどないのに、私はそれについて答えられなかった。
「何を迷うことがあるんだ?」
「…僕は自分に誰かを殺す権利があると思ったことは無いよ。それについては…何も言えない。おまえの判断に任せる」
私がしどろもどろにそう返すと、ホルズは吹き抜けの手前まで歩み寄って、柵に両手を突いて私の目をまっすぐ見た。
「誰かを助けたいが、自分の手は汚したくない。そう言いてーのか」
明確にそうだと自覚していたわけではないが、それはまったくの図星だった。私は目を細めてホルズのほうを見た。
「まあ…虫が良すぎるよな」
それ以上何も言えずにいると、ホルズはそれを確認するかのように少し待ってから一本の剣を抜き、こちらへ投げ付けた。
「分かってんなら話は早ぇ」
それは回転しながら飛んできて、私の目前の柵に突き刺さった。黙ってそれを見つめていると、ホルズは言葉を続ける。
「人を殺した事は」
「無いよ」
「あっそ。とにかく、好きなようにそいつを使え。それでどいつの血を流すのか、てめえの選択についてとやかくは言わねー。その結果次第で俺は俺が何をするか、その場で決める。そんだけだ」
「つまり、僕自身の手でニャキさんを殺したら協力するということか?」
「いや?ちげーよ。単純に、俺は俺が敵だと思ってる奴を殺す。それが理由でてめえにとっての敵が一人増えた時は、それを使えばいい。手心っつーもんを最大限試してみるからよ」
「なんだって…?」
私は驚いて眼前の剣とホルズの目を交互に見た。意図して無表情を装っているのかどうかは分からないが、彼は平然とした顔で私を見ていた。
「急いでんじゃねーのか?とりあえず剣を取れよ。どっちにしたって護身用にはなるからよ。…この距離を助走無しで跳ぶのもだりーし、今から迂回してそっちに行く。俺より先に行ったほうがいいんじゃねーか?」
私は言われるがままに手すりに刺さった剣を引き抜いた。
刃の銀色の煌きを眺めて思った。ホルズはまたしても私に謎をかけたのだ。私がこの剣を使って取った行動次第で奴は私を殺すかもしれないし、あるいは私の脱出を助けるかもしれない。この要塞に入る直前にホルズが予見したのは恐らくこのことだったのだろう。予見が的中したと言えるのか、あの時点で既にホルズは私にこの選択を課すつもりでいたのか、どちらなのかは分からないが。
しかしすぐにそんなことはどちらでもよくなった。直後に現れた者のせいで、ホルズの課した謎かけは永久にうやむやになってしまったのだ。
私が剣を握り締めるのを確認してから、ホルズはこの吹き抜けを迂回するために歩みを始めたのだが、彼はすぐにその足を止めた。
「あぁ?んだこいつ」
ホルズはすぐさま両手に短剣を構えた。彼が進もうとした通路の先に、気配も無く現れた一つの人影が存在していた。
その黒ずくめの衣服には遠目からではほとんど汚れが見えなかったが、顔を隠すように巻いていた地味な色合いの厚手の布は返り血で鮮やかに彩られていた。ここに至るまでに何人かの賊を斬り殺して来たのだろう。ひょっとすると先ほどホルズに睨まれて逃げ出した者たちも彼の手に掛かったのかもしれない。
「ホルズ、さっきの連中はおまえをその人と間違えたんだよ。彼はさっき突然現れて、賊どもを殺して回ったんだ」
「何モンだ?」
その謎の人物が先ほどまで振るっていた血まみれの幅広の剣は既に腰に収められており、私やホルズに対する殺意は今のところ感じられない。だが、彼は左腕で胸元に抱えるようにして先ほどまで持っていなかった不審な何かを持っていた。それは彼の被っている血まみれの布と同じような質感の粗い生地でぐるぐるに巻かれている。暴れ回ったどさくさにどこかで調達してきたらしい。
「…あ?…てめえ…手に何持ってんだ…?」
覆面の人物は無言でホルズに向かって手招きの仕草をして見せた。
その時だった。彼の腕に抱えられた何かがひとりでにもぞもぞと動くのが見えた。
私はすぐにそれの正体を理解した。
そして憤怒が猛烈な勢いで胸の中心から脳天へ駆け上がる感覚を一瞬だけ自覚した後、次に気が付いた時には手すりに手を突き身を乗り出していた。
「ホルズ!それを見るな!そいつに近付くな!!」
嘔吐感を堪えながら必死にそう声を絞り出した。
ホルズは私の唐突な怒りの声に驚き、一度はこちらに振り向いたものの、まるで催眠にでも掛かったかのように無言で覆面の人物の方へと、彼の抱きかかえている何かの方へと吸い寄せられて行った。
「やめろ!すぐに離れろ!そいつに構うな、ホルズ!!」
私は怒りのあまり、右手に掴んだホルズの剣を覆面の人物へ向けて投げつけようと思い切り振りかぶった。まったくの考え無しだった。仮にこれが奇跡的に覆面男の額に命中したところで事態は何も好転しなかったはずだ。
しかし私の攻撃をすぐさま察知したらしいそいつはホルズを誘いながら身を翻し通路の奥の闇へと消えていってしまった。ホルズも駆け出してその後を追って行ってしまう。
「おい、待て!ホルズに何をさせる気だ!ゼーム!!」
私は覆面の男の名を呼んだが、当然返事は無かった。




