35. 開封された手紙
ふと気が付くと、私は真っ白な場所に居た。最初は、霧の濃い朝に目覚めたのかと思ったが、どれだけ目を凝らしても昨日までの森の姿はまったく見えてこない。朝霧に包まれていると言うよりは、まるで雲の中にでも押し込めれたかのような感じだ。第一、私は横になって眠っていたはずなのに、気付いた瞬間には既に立ち上がった姿勢でそこに存在していた。
ようやく理解した。どうやら私はまだ目覚めていないらしい。つまりこれは夢だ。
「ヌビク」
私を呼ぶ声がどこかから聞こえた。それは前から聞こえたのか、後ろから聞こえたのか、右か左か、頭上か足元かすら把握出来なかった。優しい女性の声だった。ごく最近に聞き覚えがある声だが、どこか違和感がある。
そうか、思い出した。
あなたが僕をそう呼んだことはないんだ。
「知っててとぼけてるんだよ。そのほうが面白いでしょ?」
姿が見えない。どこに居るんだ。そもそもここはどこなんだ。夢の中なのか。
「確かに君は眠っているけど、夢とは少し違うかな。普段はこっちが一方的に受け取る側だけど、眠っている人は少しだけこっちの世界に触れることが出来る位置までやって来るから、そこを捕まえたんだ。と、言っても今この瞬間に話しかけてるわけじゃないよ。例えるなら、私が事前に送っておいたお手紙を、眠りについたことで開ける状態になったってところかな」
予め書かれていた手紙にしては、会話が成り立っている気がする。
「今、君が私の声と認識している感覚は、実際には君の記憶の中に居る私でしかないんだよ。この声は君自身が、ある言葉に対して私ならきっとこう答えるだろうなと予測した結果に過ぎないんだ。それだけなら普通の夢と変わらないんだけど、その予測は私が君の中にお手紙として送り込んだ追加の情報も加味された上でのものであるという点で違うね」
わからない。超自然的な感覚を言葉で説明されても、その感覚を持たない人間に理解できるはずもない。生まれつき目の見えない人に向かって色彩を説明するようなものだ。
「面と向かって話してる時と感じが違うね。なんだか理屈っぽいなあ。君の言葉も、私の言葉もね」
あの二日間の間に、理由も無く夢の中で逢引を申し込んでくるほどあなたと親密になったような気はしない。あなたは何か伝えたいことがあってその『お手紙』とやらを送ったのではないのか。
「ふーん。私としてはこの際もう少しくらい理由の無いおしゃべりをしてもいいかなって思うけど、これは一方的なお手紙だし、意味無いか。私は他でもない君のことを助けに来たんだよ。森の中で怪物に襲われて、隊からはぐれてしまった君のことをね」
僕らの身に起きたことを知っている?襲撃を受けたのは森の奥へと半日以上歩き続けた後だった。僕らの後ろを追いかけて来ていたわけでもなければ、あなたの能力によって認識できるほどの距離だったとは思えない。
「その事件そのものを感知したわけじゃないよ。口頭で報せを受けて初めて知ったんだ。一体誰が教えてくれたのか、気になる?それはきっと君が今一番心配してることについての答えになるはずだよ」
セリトのことか。つまりセリトは無事なのか。
「やっぱりね!その通りだよ、安心して。セリトさんはうちにやって来るなり、いきなり君の救出に協力するよう頼んできたんだ。頼まれたと言うか、ほとんど命令された感じだったけど!それで彼は今、私と一緒に森の中に戻って来てるよ。太っちょの副長さんも一緒に居る。二人とも結構怪我してるけど、うんざりするほど元気だよ」
可能であれば、すぐにでも合流したいのだが。
「もちろんそのつもりだよ。ヌビク、君の――既に捕捉――夜が明け――の班――待っ――………」
あれ、なんかちょっと声が遠く…。
視界が暗くなってきた。私は今…、横になっているのか。しまった。これは現実だ。
目が覚めてしまう。
目が覚めてしまった。
やはり夢だったのだ。そうでないと説明できる理由が一つも思い浮かばない。むしろ見て当然の夢を見たといった感じだ。セリトらの生存も私が心の中で希望していたことであっただろうし、また、この深い森の奥ではぐれた彼らの行方を知ることが出来そうな人間がオーリスくらいしか思い浮かばなかったので、それだけの理由で彼女が夢の語り手になったと考えるのが自然だ。
安否の不明な者たちについて夢の中で無事を告げられると、安心どころかまったく逆の気持ちにさせられる。こんな夢を見てしまったせいで、今まで目を背けていたセリトらの末路について改めて自覚させられる羽目になった。崖から落下しても木の枝をクッションにしてほぼ無傷で済んだ私が奇跡的だっただけで、あの高さから投げ落とされれば普通は即死に違いないのだ。
「畜生」
私は狭い穴ぐらの中でごろりと寝返りを打って反対側を向いた。私の体はほら穴の入り口の方へと向き、白い朝靄に包まれた外の景色が目に入った。きっと明け方に夢うつつで一瞬目を開いた時にでも見た朝靄がそのまま夢に出てきたのだろう。さっき見た真っ白な世界と似ているがここは違う。現実だ。目を凝らせば森の風景が見えてくる。
目を凝らすと、すぐに異変に気付いた。
そう遠くない位置で何者かが激しく動き回っている気配がする。踊りを踊っているのでなければ、戦闘をしているに違いなかった。ふと、同じ穴ぐらの中で寝ていたであろうホルズの姿を探したが、彼はここには居なかった。
私は寝床から這い出て、身を低くしたまま頭だけを少し持ち上げて外の様子を窺った。霧の中を高速で動き回るその何者かの姿はすぐに見つけることが出来た。煙幕のごとき朝靄がその人物の輪郭を曖昧にしてしまっているが、それは武器らしき棒状のものを振り回しながら、まるで蛇のように俊敏に、且つ不規則に動き回っている。それだけ認識出来れば十分だった。もちろん踊っているというわけでもなければ、軽く朝の体操をしているといった感じでもない。やはり何者かが戦っている。
私は木々の後ろに身を隠すように大きく迂回して移動しながら少しずつ接近し、その正体を見破らんとしたが、ある瞬間、唐突にその人物が身を反転し、こちらへ向かって一直線に突っ込んできた。尋常じゃない殺気だ。気取られたのだ。
目を離して背を向けたらすぐにでも追いつかれて首を刎ねられるのは明らかだ。だからと言って、目を逸らさずに後ずさりで逃げ果せる余裕などもない。発見された時点で既に詰んでいるのだ。奴の刃の間合いに入り込んでしまうまで、あっと声を上げる間も無かった。
刃が首筋に触れる感触が確かにあった。
「ボロ雑巾じゃねーか!」
しかしその刃が血で濡れることはなかった。わざと寸止めしたのであれば大した集中力だ。
「…ホルズか。一体誰と戦ってるんだ」
するとホルズは興奮した様子で、刀を右手に構えたまま、サッと素早く後ろを振り返り、そして忙しなく辺りを見回しながら言った。
「バケモノだよ!バケモノ!熊よりでかくて、全身トゲトゲで、口から酸を吐き出すんだ。触れただけで昨日のネズ公みたいにパリパリにされちまうから、流石の俺も苦戦したぜ」
私も周囲を見渡してみたが、動く影は既にひとつも無い。耳を澄ませても虫の声と鳥の声が断続的に響いているだけだ。
「…それは実際に居たの?」
「はぁ?居るわけねーだろ。イカれてんのか?」
「………」
まったくわけがわからないがとにかく不愉快だったので、私はホルズを睨みつけた。
「あ?なんか機嫌悪い?」
「寝起きはこんな顔なんだよ」
「そうか?なんかイヤな夢でも見たんじゃねーのか」
他人の気持ちなんか到底理解しそうにも無いイカレ野郎のくせに、妙に勘が働くんだな。
イライラしても仕方が無いので、落ち着いて一つずつ事情を聞くと、どうやら今しがたの奇妙な行いは彼の日課の訓練項目の一つのイメージトレーニングとやらであるらしい。想像上の強大な化物を実際にそこに居るものと仮定してそれと戦闘することで、本物の敵を殺さずとも実戦に近い戦闘経験を積むことができると考えているようだ。
「へぇ。きっとおまえはそんな無茶な方法で本当に強くなれてしまうんだろうな。羨ましい」
「てめえはどうなんだよ。一応傭兵の端くれだろーが。今、俺が誰かと戦ってるって思って近付いてきたんだろ。そのくせ丸腰ってのはなんなの。生き延びる気あんの?」
それについては彼の言も尤もである。狂ったような訓練をしているホルズは極端な例としても、確かに私に兵士としての自覚が欠落しているのは間違いなかった。
「やっぱり僕も日常的に訓練したほうがいいんだろうか。どう思う?」
「たりめーだろ。たとえ生き延びる気がなくたって訓練はしといたほうが得だぞ。だってぶっ殺される前に一人でも多くぶっ殺せたほうが楽しいだろ?」
「全然楽しそうに思えないけど」
「俺が指導してやってもいいぜ」
「おまえに師事して同じぐらいに強くなれたらいいんだけど、どう考えたって無理だよ」
私はいつものように卑屈になって俯きながらそう答えたのだが、ホルズはあっけらかんとして言った。
「いやイケるって。おまえ、目は良いし、勘も悪くないし、それに肝据わってるかんな。それが一番大事だ」
「へぇ…そ、そう…」
ホルズが他人をおだてるような人物とは思えないし、そもそもおだてられる理由も無い。きっと本心で言ったのだろう。とにかく私は誰かに自分の能力を認められたのは初めてのことだったので、悪い気はしなかった。
「うん。俺が師匠になってやるぜ。俺と同じ方法でやってみろ。イメージトレーニングだ。創造する敵は…初心者だし、一度戦ったことがある相手が簡単でいいな。…丁度良いや。おまえ戦ったことあったじゃん。俺と」
「いきなり師匠と対戦かよ」
「最初の内はすぐにぶっ殺されっだろーけど、百回くらい死んでりゃそのうちマシになってくるはずだから。まあせいぜい頑張れや。んじゃ、俺はそこの川に行ってクソしてくるわ。これ使っていいぞ」
ホルズは先ほどまで熊よりでかいトゲトゲのバケモノとの戦闘に使っていた曲がった刀を私に手渡すと、そのまま小走りでどこかへ行ってしまった。
「え…真剣でやれってこと?」
馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、とりあえず言われた通りに先日ホルズが刀を振り回していた姿を思い出し、それを眼前に置いてみた。現れた完全に透明なホルズは特に誰に向けるわけでもない殺意を持て余して刀でただ空を斬っていたが、私が心の中で合図を出すと同時に、その殺意の標的を私へと向けた。私は咄嗟に右手を持ち上げたが、ガタついた不恰好な構えの姿勢を取り終える頃にはもう彼の刃は私の脳天を薪のように二つに割っていた。
自分の想像力も捨てたものではないようだが、それ故にこの訓練はまるで意味が無い。私と奴ではまず身体能力に差がありすぎるのだ。猫が獅子を相手に本気でぶつかり合って強くなれるとは思えない。
次に私はホルズの手下だった盗賊の一人を創造した。相手は騎乗しているが、それでもホルズと比べれば断然鈍いし、斬り付ける際にわざわざ助走を付けて来る分むしろ動きを予測し易い。
しかし何度試してみても、横に飛び退いて身をかわすのがせいぜいだった。セリトがやったようにすれ違いざまに馬の首を切り裂くには、かなりぎりぎりの間隔まで引き付けてから回避しなければならない。それを試みるたびに何度も蹄に踏み潰され、結局ただの一度も反撃に成功しないまま、いずれ集中力の限界が訪れた。
疲労から散漫になった想像力で創り出された馬は本来ありえないような奇妙な挙動を取るようになってしまった。その動きがあまりに滑稽だったため私がついに刀を振り回しながらへらへらと笑い出すと、どうやら少し以上前から木陰で様子を窺っていたらしいハステが心配そうな顔をしてこちらに近付いて来た。
「おい…つらい目に遭ったのはわかるが、自棄になってはいけない…。話して楽になることがあるのなら私が聞くから…」
彼女が私の奇行を見て一体何を思ったのかは測り知れないが、何か勘違いをされていることだけは分かった。
「…いつからそこに居ました?」
「不気味に微笑みながら剣を片手に踊り狂う不審者を見つけたから、近付いてよく見てみたらおまえだった」
確かに私が彼女らに遭遇する以前にこの森の中で起きた出来事を思い返すに、少しくらいは頭がおかしくなっていたほうがむしろ不思議は無いのかもしれない。共に戦い、ようやくお互いを認めようとしていた仲間たちを無残に殺され、出会ってから数日の間ずっと行動を共にしていたセリトすらもおそらく死んでいるであろう現状で、私は何をバカみたいに朝っぱらから想像上の踊る馬と笑って戯れたりなどしているのだろう。死んでしまった彼らが今の私を見ていたとしたら一体何を思うだろうか。私は呪われてしまうのではないだろうか。
「…なんでもありません。剣の訓練をしていただけです」
「え…訓練だったのか…?」
ハステが私を見る目には深い哀れみの念が篭っていた。
心なしか、彼女は普段より元気が無いように見える。私の奇行について心配しているからというのもあるだろうが、それ以外にも何か他に心配事が増えたような顔だ。昨晩は恐らく彼女もあの後すぐに就寝したはずだが、それから今朝の間に何かあったとすればそれこそ何か嫌な夢でも見たのか、それぐらいしか理由が思い浮かばない。
「いえ…正気ですよ。大丈夫なんです」
彼女は相変わらず死に掛けの子猫を見るような目のままでぽつりぽつりと呟いた。
「剣を振る仕事に就いている以上は…、どうしても避けられないこともある。残酷に思うかもしれないが、今はとにかく忘れることだ…。意気消沈したまま敵と遭遇することになれば、その時は先に逝った仲間たちの後を追うことになる。弔いはすべてが終わった後ですればいい…。仲間たちはおまえを恨みはしない。彼らもそれをよくわかっているはずだからな…」
誰かの受け売りの言葉なのかもしれないが、それでも彼女の説教は私の胸に重く響いた。と言っても、言葉そのものに感銘を受けたというわけではない。私の心を叩いた強い感情は、こんな不謹慎な私なんかに親身になってくれるハステに対する申し訳無さでしかなかった。
「ありがとうございます」
私は目を背けながらそう答えたが、ハステの言葉には続きがあった。
「…だけど今朝、気になる夢を見た。たかが夢だが、これはおまえには話しておくべきなんだろうな。しかし実際あれは夢だったんだろうか。私は普段滅多に夢を見ないし、今朝のあれは特に異様にはっきりしていた。それに彼女もこれはただの夢じゃないと言っていた。夢の中で」
私は大いに驚いて即座にそちらに顔を向け直した。
「えっ?今なんて言いました?夢の中で、誰が何て言ったんです…?」
彼女が女性でなければ聞き返しながら勢い余ってその両肩を掴んでいたかもしれなかったが、相変わらず薄着のハステの姿が視界に入ると私はやはりまた吃驚して両手を引っ込めた。
「…ど、どんな夢だったんです…?」
「あ…うん。真っ白い場所で女の声だけが聞こえる妙な夢だったんだが、あれは誰の声だったかな。どこかで聞いたような声だったが…うーん…」
私はじれったくなって少し早口で言った。
「僕と最初に会った時に一緒に居た女性じゃないですか?それで、夢のことを『手紙』と例えていませんでしたか?」
両手の人差し指を頭に当ててしかめ面で俯いていたハステの顔がぱっと明るくなった。
「ま、まさにそうだ!どうしてわかった」
「同じ夢を見たんです」
私は興奮のあまり思わず咽かけたが、咳払いをするより早く、ハステに両肩を正面から強く掴まれた。
「セリト=リベイマは生きているぞ!リデオ殿もだ!間違いない!」
そう言った彼女の目は潤んでいた。
私自身はあの金髪剣士や不良中年の生存を泣いて喜ぶほど義理堅くはないのだが、ハステの顔を見ていると釣られて感極まってしまう可能性があると恐怖したため、私は一歩後ずさって彼女の手から逃れた。
私は目を背けつつも言葉で肯定する。
「そう思います。多分これは偶然じゃない」
彼女の性格から察するに、きっかけが無ければそもそも壊滅した私の班員にセリトやリデオが含まれていたなどということなど思いもしなかっただろう。しかし私がそれを伝えなかったにもかかわらず、今の彼女の言葉は彼らが居たという事実が前提とされている。彼女が実際に夢の中で私と同じ報せを受けた可能性は高い。
そして恐らくは、つい今しがた彼女が少し落ち込んで見えたのは、夢の中でそれを気付かされたからだったに違いない。
彼女は後ずさった私に再度しつこく一歩迫ると、またしても私の両肩を掴んで言った。
「ふむ!良かったなあ…うん。しかし、何故おまえと私だったのだろう。ひょっとしてニャリキミヒ殿…いや、ニャキ殿…、それとメセ殿やホルズも同じように『手紙』を受け取ったのだろうか」
私は頭の中で夢の内容をおさらいし、そして少し考えてから首を横に振った。
「…きっと、それは無いと思います。夢を見たのは僕らだけじゃないかと…。それに、このことは他の誰かには言わないほうがいいような気もします。夢の中でオーリスさんはそうは言っていませんでしたか?」
私へ宛てられた『手紙』は途中で途切れてしまったが、ハステが最後までそれを受け取っていたとすれば、きっとその忠告を受けているはずだった。
「あ、言ってた。確かにおまえ以外の誰にも言うなと。さっきから何故分かるんだ!」
盗賊であり殺人者であり根本的に信用出来ないホルズは置いておくとしても、恐らくオーリスはニャキとメセに対しても自らの超能力の証明となってしまうようなことを曝し出したりすることはないだろう。ニャキたちが旅をしている目的はおそらく他でもない超能力者そのものなのだ。セリトの言によると、ニャキらがオーリスの家に招かれた際に実際にその話をしていたとの事だし、能力によって相手がどのような感情を抱いているのかを知覚できる彼女が無駄に危険を冒すはずがない。夢での報せをただの夢ではないと私に理解させることが目的であれば、そのメッセンジャー役は善良極まりないハステ一人居ればそれで十分なのだ。
「ハステさんたちは、一体どんな目的でこのノンド樹海に来ているんです?」
「え、何。急に話が変わった?」
「いえ、続いてます」
「私はニャリ…ニャキ殿の護衛の一騎士に過ぎない。そしてニャキ殿が一体何故旅をしているかについては私は知らな…言えないな。極めて重要な極秘任務とだけ言っておこう」
オーリスも理解した上でハステに『手紙』を送ったのだろうが、やはりハステはニャキの目的については何も知らされていないようだった。ニャキの護衛についてはメセ一人が居れば十分すぎるだろうし、何も知らずにただ付いて来ているだけのハステにわざわざ足を引っ張らせる理由については私にもわからない。だが、どうやら能力に関係無く血筋によって新米の騎士として登用されたらしい彼女のことだ。きっと護衛とは名ばかりで、ハステ自身の研修あたりが目的で騎士団がニャキに押し付けたのだろう。とにかく、ニャキが一体どのような陰謀を秘めているかは現時点では不明だが、少なくともハステはそれに関わっていない。それだけは確かだ。
「そうですか。不躾なことを訊いてすみません。とにかく、ありがとうございました。おかげで随分と気分が良くなりました」
私が軽くお辞儀をして一拍置くと、話題が一旦途切れたことで視線の置き場所を持て余したらしいハステが、話している間ずっと私が右手に握り締めたままだった剣に目をやった。
「ふむ…気が晴れたのはお互い様だ。それで、おまえはさっき、剣の訓練をしていたと言ったか?」
「そうは見えなかったかもしれませんが」
ハステは再びこちらへ近付いてくると、なにやらそわそわしたように少し抑えた感じの声で言った。
「せっかくだから私が指導しようか?きっとおまえは良い生徒になるような気がする」
ホルズから与えられていた課題にはうんざりしていたところだったし、オーリスからの『手紙』について既にまったく疑いを持っていなかった私はかなりの上機嫌であったため、何も考えず二つ返事でそれを了承した。
「はい。是非お願いします」
「良い返事だ!そうだな。もう何も心配事は無くなっただろうし、きっと雑念に取り付かれずに集中して訓練できるだろう。うん、そうだ。素振りは無心でやらなければならないからな。おまえのさっきのアレが剣の訓練だと言うのなら、やり方を変える必要がある」
「やっぱり駄目でしたか」
「まるで駄目だ。あんなの一体誰に教わった。太刀筋に雑念が見られるとかもうそういう次元じゃない。まるでおまえ自身が雑念の権化そのものだったじゃないか。わざと自分を追い込んでるようにすら見えたくらいだ。あんなおかしなことを続けたらいずれおまえは壊れてしまうぞ。いいか。心を無にしてひたすら剣を振るんだ。やってみろ」
「はい。わかりました」
何も考えないのは得意だ。私は虚空を見つめながら頭上に剣を振り上げ、それを垂直に下ろして空を斬った。
「…それから、私のことは先生と呼びなさい。嫌か?嫌なら別にいいが…」
「了解しました。先生」
「おまえは素直で良い子だなあ。そうだ、先生だ。くっくっく…。よし、そのまま続けろ。何も考えるな」
私は考えるのをやめた。
「いいぞ、すごいぞ。才能あるな。それじゃあ先生はそこの川に行って顔を洗ってくるから、帰ってくるまで続けなさい」
「はい、先生」
私は振り向かずにぶんぶん刀を振り続けた。ハステの足音が遠ざかっていった。
そして入れ違いに別の足音が近付いてきた。
「全然才能ねーな」
ホルズは戻ってくるなり第一声でそう言った。
「今のやり取り、見てたんだな」
「いや?あのタヌキ姫様がどっかに去ってくのは見たが、あいつになんか言われたのか?」
「素振りは無心でやれと。あと、才能あるってさ」
「やっぱ、あいつバカなんだなあ。そんなんじゃ筋トレにしかなんねーし。訓練つっても、実戦とまったく同じように自分を殺そうとしてくる敵を本気で殺そうとする気概が無きゃ身に付かねーよ。訓練をずっと無心でやってて実戦でホイと有心に変われるの?そんな天才には見えねーぞ」
私は剣を振る動きを止めて、ホルズのほうに向き直った。
「でも反復訓練は有効なんだよ。教本でもそう読んだし」
「そんなデタラメの素振りを繰り返してそれが身に付いちゃったら逆に問題じゃん。ハンプク訓練こそ無心でやってちゃ駄目だって。初心者ならなおさらだ。鏡でも見ながら都度自分でフォームを修正してやらねーと」
今までのホルズの戦いぶりを見る限り、彼自身はいわゆる型というものにさほど拘っていないように思われるが、型通りの動きを習得することの有用性を知らないというわけではないらしい。出来ることなら、私に才能があると言ったハステの言葉のほうを信じたいものだが、どう考えてもホルズのそれのほうが説得力がある。
「もう一度聞くけど、僕は才能が無いのか、どうなんだ」
「俺が教えた方法通りにやってみた結果があの素振りだったらそうなんだが、そうでもないんだろ?」
「おまえのやり方だとハステさんが心配するんだよ」
「だからってあんなアホみたいな素振りなんかしてたら実戦じゃどうにもならねーし。そんなしょぼい腕前のままで敵と殺し合った日にゃ、それこそあの銀髪の女王様の心配が的中することになっちまって意味ねーどころかまったく逆効果じゃん。なんのための訓練なんだか」
「いいから今日のところは筋トレさせてくれよ。アレはまた今度試すから」
「あーヤダヤダ。要はあいつに良く見られてーんだろ。正直に言えよ。どうせバレバレなんだから」
私が黙ってしまうと、ホルズは呆れたように背を向けてその場を去ろうとしたが、私はあることをふと思い出して彼を呼び止めた。
「ホルズ。ところで、昨日ニャキさんの日誌を盗み読もうって言ってなかったか?結局どうするつもりなんだ」
「あ?」
昨日までの時点では実際ニャキの秘密任務についてわざわざ暴き立ててやろうなどとは思ってもいなかったのだが、つい今しがた、オーリスが抱いている警戒心の正体が何なのかを知っておきたくなったのだ。
「こいつのことか?」
ホルズは仏頂面でそう答えると、手に持っていた何かをだしぬけに投げ寄越した。一冊の本だった。私は驚き、両手を使って必死でそれを受け止めたが、見ると紐で十字に綴じられていたので紙がばらける心配は無かったようだ。
「これ、さっきまでは持ってなかったよな。今盗んで来たのか?」
「人聞きの悪いこと言うんじゃねーよ。俺はもう盗みはやんねーんだ。鞄の中に捨ててあったのを拾ってやって届けに行く途中だ」
「感心だね。中身はもう読んだのかい」
ホルズは肩をすくめながら、軽く地面を蹴っ飛ばした。
「いや、帝国語じゃなくて、俺の読めるノギントリ文字で書かれてたから最初はしめたと思ったんだけどよ。読んでみても、暗号で書かれてんのかそれともイカれたクソ女が頭のおかしい散文を書き殴ってるだけなのか、とにかく何だか意味がまったくわかりゃしねーんだ」
表紙の結びを紐解いて私もその内容に目を通してみたが、確かにそこにあったノギントリ語の単語の羅列は文章として意味を持つ繋がりをまったく含んでいなかった。ざっと見る限り、ノート全体がそのように書かれている。あからさまに暗号化された文書だ。
私が首をかしげながら文字の海にじっと視線を落としていると、ふと思いついたようにホルズは訊いてきた。
「なあ、今日って何日だ?」
「テンベナを出たのが第五週の九日だったから、今日は第六週の…八日?」
意図を理解出来ないまま私が答えると、ホルズは淡々と説明した。
「各ページの最初の一行目ってその日の日付じゃねーのかな。だとしたら最新ページの一番上の行は昨日の日付の第六週七日って書かれてるって事だろ。そっからどうにか解けねーか?」
確かに各ページの最初の一行は数文字だけで次の行へと改行している。文字数やその配置から見てそれが日付を意味すると考えるのは道理だ。
「なるほど」
今咄嗟に思いついたのだとすれば、やはりこいつは普段の振る舞いから想像できるほどの馬鹿ではないのかもしれない。
「狭い、靴紐、奏でる、しかし、牛の角…駄目だ。この単語の羅列をどうすれば第六週七日になるのやら。これ、なんて発音するんだい」
「はぁ?単語の意味がわかるなら読めるってことだろ?バカにしてんの?」
「いや、僕は小さい頃からノギントリ語の本もいくらか読んでたから大抵の文章の意味はわかるんだけど、実際に耳で聞いたことがないから何と声に出すのかはまったくわからないんだ」
「そんなのありかよ。すげーな。発音は順にバチ・コボラン・ヌバ・フー・デシャンだよ。なんかわかるか?」
彼の発した言葉のノギントリ語の部分だけは発音の感じが帝国語とまったく違っていた。発音が出来ることに加えて文字まで読めるということは、やはり彼の出身はここ帝国ではなく、樹海以南のノギントリ教国であるのかもしれない。
「…ふうん……あっ、ちょっと待って。一ページ遡って一昨日の日付でやったほう良くないか。第六週六日目だから六の字が二つ含まれてるはずだ。そっちのほうが規則性が判明しやすいんじゃない?」
「そっか、そうだな。…えーと、一昨日の分の一番上の行はだな…バリ・リャク・ソイバ・フー・デシャン…」
「近付いてきたね。後ろのほうの文字が共通してるってことは、そっちが週を表してる」
「つまり左右逆から読むってことだな。でも『六』を意味する字がこの行に二つあるはずなのに同じ文字がねーぞ」
「単語一つが意味一つに対応してるわけじゃないってことだろう。わかんないなあ…法則がわかれば一気に読めそうなんだけど」
「デウィーバ人のあのメガネ女がわざわざノギントリ語で書いてるってことは、多言語の知識があって初めて読めるようになってんじゃね?おまえ、メメメ…なんとか語は読み書き出来る?」
「うん、メメトー語ね。文字を置き換えてみよう…」
私が膝を曲げてその場にうずくまり、指で地面に文字を書き出すと、唐突に背後から尻を蹴られた。
「何すん…あっ」
いつの間にか日誌を隠すように後ろ手に抱えていたホルズが私に無言で合図したのだった。見ると、ハステが向こうから歩み寄って来ていた。
「先生の言い付けを守ってないな。けしからん生徒だなあ。どうだ?強くなったか?」
「なった、なった。こんな短時間でなるわけねーけど、十分なった」
黙っていた私の代わりにホルズが言った。そのわざとらしい言葉も気に留めない様子で、ハステは続けて言う。
「そうか。まあいい。おまえたちもそろそろ出発の支度をするんだ。ニャキ殿とメセ殿も既に顔を洗って荷物をまとめている。私もこれからテントを畳みに行かないと」
楽しい暗号解読作業も一旦切り上げざるを得なかった。
歩き去るハステが声の届かない距離まで遠ざかるのを待ってから、私は囁き声でホルズと話した。
「それ、返す気かい」
「うーん…夕方までならぎりぎりバレねーだろ…」
「そう思うよ。隙を見つけて続きをやろう」




