33. 川沿いの野営地
「ボロ雑巾!ボロ雑巾じゃねーか!」
またしても頭上から声がしたので私は見上げた。そろそろ慣れてきたというわけではないが、その独自の喋り方で声の主が誰であるのかすぐにわかったので、警戒する必要は無かった。
彼は私たちが川原の砂利を踏みしめる音を遠くから察知して、近付いて来る者の正体が分かるまで樹上に身を潜めて警戒していたのだろう。この男は一見すると何も考えてなさそうな顔をしているのだが、実際には抜け目の無い男であることは、これまでの振る舞いから考えても間違いない。
「やっぱりおまえだったんだな。メセが言ってた案内人って」
「な?やっぱりすぐ会えたぜ。元気そうだな!」
ホルズは身長の倍以上の高さの枝から軽々と飛び降り、真下にあった岩の上へと二本の足のみで着地した。
「ああ、そう見えるだろうね。死にそうな目に遭った後、飲まず食わずで歩き続けたからな。でも見た目ほど元気じゃないんだ」
「あっそ。じゃあとっととそのバカでかいネズ公掻っ捌いて食おうぜ。あー、腹減った腹減った」
ホルズは私とメセが二人がかりで抱えていたイワウサギの死体をひょいとかっぱらうと、それを片手で振り回しながら、軽やかな足取りで火の元へと駆けて行った。彼もメセと同じく、私が樹海で一人彷徨っている理由や、偶然ばったりと出くわした奇跡についてはどうでもいいようである。
「てめーら!食いモンが来たぞ!」
ホルズがそう呼びかけた先には、この暑い中で火の側に突っ立ってこちらの様子を窺っている人物が居た。彼女はホルズと同じく彼女なりに周囲を警戒していたつもりなのだろうが、火の側に居ることで自らの姿ばかりが逆に目立ってしまうことや、その眩しさに慣れて視界が悪くなってしまうことに気が付いていないのではないだろうか。しかしどうやら、キャンプを離れるわけにはいかないという義務感によってそこから動けずにいるらしい。
彼女はホルズの呼び声で警戒を解いたのか、おそらく私たちの姿をまだ視認できていない様子であるにもかかわらず、こちらへ向けて元気よく片手を振った。
「メセ殿ー!やったんですな!流石ですなメセ殿…うわっ、なんだこれ…変な動物だな!」
ホルズが彼女の目の前に無造作にどさっと獲物を降ろした。
「それはイワウサギですよ。珍しいですか?」
私が声を掛けると、彼女はその時初めて私の存在に気が付いたらしい。
「お?…おー!ヌビ…おまえは…えーと、ヌ、ヌビ…」
「ヌビクです」
「ヌビク=リフュルシュ!しばらくぶりだな!」
「二日ぶりですね。ハステさん」
そう言いながら、火の側で棒立ちしているハステの姿を改めて見てみると、すぐにいつもと明らかに違う点に気が付き、私は吃驚して一瞬言葉を失った。彼女は例の顔全体を覆う仰々しい兜は脱いでいたし、上半身にはおそらく絹製であろう、普段と比べると随分と涼しげな衣服を身にまとっていたのだった。
私は、彼女がいつもの金属製の板金鎧を胸部に身に着けて居ない姿をこの時初めて見た。これまでその鎧によって隠されていた彼女の体型は、薄手の衣服一枚を隔ててかなり具体的な主張をしていた。
反射的に顔を背けたらこっちを見ていたホルズと目が合った。彼は珍しく小さな声で、ぼそぼそと言った。
「いや、うん。何考えてるかわかるぜ。俺もこいつ…いっつもバカみたいに分厚い胸当て着けてやがるなって思ってたんだけど、実際は…鎧の板金それ自体の厚みはそんなでもなかったんだな」
私がハステの姿を見て何を思ったかは完全に見透かされていた。
「しーっ、やめろ。それ以上言うな…」
私もホルズ以外の誰かに聴こえない程度の声量でそう返した。
ハステ本人は私たちの考えが分からない様子で首をかしげている。
「どうした?」
「どうしたもこうしたもねーよ…。なんつーか危なっかしい奴だな…」
ホルズがため息をつくと、後ろに設置してあった天幕の中からもう一人別の人物が現れた。彼女の登場でこの場に居る全員が揃ったはずだ。
「私がハステさんに、兜と共にあの鎧を買い与えた理由がお分かり頂けましたか。このような格好で街中や街道を歩かれては要らぬ心配事や厄介事が増えるというものです」
赤く揺らめく炎をその眼鏡の薄いレンズに反射させながら、ニャキが現れた。
彼女はあからさまに警戒するように、いや、警戒というよりもむしろ軽蔑するような視線を持って、レンズの横から私をじろりと一瞥した。
「人気の無い森の中ですので、山歩きで無駄に体力を消耗させる必要も無いかと、あの装備を置いていくことを許可してしまいましたが…。私としたことが軽率な判断だったかもしれませんね」
どんな危険が潜んでいるかわからない山の中でこそ防具は必要なものだと思うが、ハステがそれを身に着けている専らの理由は、物理的な危険から身を守るためではないようだ。
ハステは慌てた様子で手のひらをこちらにかざして言い訳をした。
「ああ、この格好のことか。確かに騎士として威厳の無い姿なのは自覚している。暑さで参りきっていた時に許可が下りたので思わず舞い上がって頷いてしまったが、本来ならそこで固辞するべきだったな…」
「威厳が欲しければ貴女は一生喋らずにいるべきですね」
ニャキはそう言ってため息をつくと、一拍置いてから私に向き直った。
「貴方はあの時の傭兵団員の方ですね。ヌビクさんと仰るんですか。しかし一体何故お一人でこんなところに?」
当たり前の質問がようやく飛んできた。それに対する返答は先ほどからいくらでも考える時間はあったので、私は用意した文句で即答した。
「偵察任務の途中で敵の攻撃を受けて班が壊滅しました。僕だけは何とか退却出来ましたが、複数の死者を出した上に、それ以外の者についても生死は不明です」
「それは本当ですか?盗賊相手に偵察で死者を出すとは呆れたものです」
彼女はそう言うと、火からやや離れた位置の、横倒しになった木の幹の上に腰掛けて、足を組んだ。
ハステはその目の前に立つと拳を握り締め、まるで懇願するような眼差しをニャキに向け、言った。
「助けなければ」
するとニャキは先ほどよりもいっそう大きなため息を吐いた。
「貴女みたいに思いついたことをそのまま言えれば人生が楽しいでしょうね。で、ヌビクさん、それはいつの出来事です?」
「今から丁度丸一日前です」
「それからどこをどう歩いたか、よく覚えておいででしょうね」
「いいえ」
「そういうことです。さあ、騎士道の名の下に、すぐにでも私たちの崇高な使命を放棄して、居るかどうかも分からない生存者のために樹海を闇雲に歩き回りに行きましょうか、ハステさん。私は早々に飢えて死ぬのであまりお役に立てないかもしれませんが」
さすがのハステでも理解できるレベルの皮肉だったらしく、彼女が黙ってしまったので、ニャキはお得意の毒舌を続けて吐き出し続けた。
「辺境の傭兵団などにあまり多くを期待すべきではないのかもしれませんが、ヌビクさんの小隊はあのランロー家のノラッド殿が率いていらっしゃるのでしょう?あの方はせっかく帝都でも指折りの素晴らしい戦術家の血筋にお生まれですのに、今ではすっかりこのくだらない土地に染まりきって落ちるところまで落ちぶれてしまったようですね。いえ、そもそも最初から落ちぶれていたからこそ都を捨てようなどという愚かな思い付きを実行するに至ったのでしょうか。それで、その田舎傭兵の小隊長殿も壊滅した貴方の班にいらっしゃったんですか?居ても居なくてもどちらでもいいですけれど」
ノラッドに対する悪口を聞いて、ハステが何やら言おうとする素振りを一瞬見せたが、結局何も言わずにすぐ引っ込んだ。おそらくはニャキが自らの上官だからという理由で躊躇ったわけではない。先日の石牢での一件について、まだいくらか心の整理が出来ていない部分があるのだろう。
私はハステのそんな姿を見ることが苦痛だったので、ニャキの減らず口を封じるために、顔を背けながらも急いで次の言葉を口にした。
「とにかく、話した通りです。僕は道もわからないので一人では村まで戻れません。このまま皆さんの目的地まで同行出来ませんか?」
ノラッドの名誉のためというわけではないが、私たちの敗北についての弁解はしようと思えば出来ただろう。私たちの班を襲った連中は当然ただの山賊風情などではなく、明らかに常軌を逸した化け物集団だったのだ。しかし私はこの時、その詳細を説明をすることを躊躇った。未だ敵か味方かもわからない上に何やら特別な企みを持ってここノンドにやって来ているであろうこのニャキに対して、私たちの遭遇した未知の力を持った敵の情報を開示することを検討する必要性があったのも事実だが、それよりも私はきっとニャキへの単純な反感でへそを曲げて情報を渋ったのだった。
ある意味私の思惑通り、ニャキにとっては言い訳もせずに性急に話の先を急いだ私のこの反応が意外であり、また不愉快だったらしく、どこか上機嫌にすら見える饒舌さで悪態を吐いていたこれまでの表情から一変し、口を尖らせた。
「虫のいい話ですね。偽名を使って旅をしている私たちが一行に部外者を加えるとでも思いましたか?その程度のことくらいは貴方でも理解頂けると思いましたが、買いかぶりすぎでしたか」
私のすぐ隣へと立ち位置を移動した人物が居たのでそちらに目をやると、ホルズが尖った犬歯を剥き出しにしてニャキを睨みつけていた。しかし今にも怒鳴り声を上げそうな憤怒の表情を見せているにもかかわらず、意外にも彼は言葉を発したりはしなかった。それでも私を見殺しにすることについて不満がある様子なのは理解できる。牢での一件を綺麗さっぱり忘れたわけではないらしい。
しかし矛盾している。こちらの部外者のほうがどう見たって私よりよっぽど危険な存在であるのは明らかだ。一体何故彼がこの一行に加わることを許されているのか。
当然疑問に思うべきことだったが、その謎はすぐに解けた。彼を強く推薦した人物が居たのだ。
「保護すべきです。確かに行方の分からない人々を救うことは難しいかもしれません。しかし彼はここに居る」
左右から私を挟む形でホルズと対称に立ったハステが、まるで私をニャキから庇うように片手を水平に上げた。
ニャキはそんなハステのほうには目もくれず、忌々しそうにホルズを睨み返しながら言う。
「はい、そう言うと思いましたよ」
「彼に関しては私が全責任を負います。彼が信頼できる人物であることは、私が知っています」
私はそう言うハステの横顔を見て、申し訳無さで危うく膝を突きそうになった。
「…まぁ、こちらの赤毛の方の同行についても同様ですが、貴女がそう言うなら間違いは無いんでしょうね…。根拠なんてきっと求めるべきではないんでしょう。こんな非論理的な言い方は本来したくないのですが、貴女だけは例外的に、無条件に正しい人ですから」
ニャキは投げやりにそう言って、組んでいた足の上下を組み替えると、顔を背けて視線を遠くにやった。
私は、石牢での一件から私がハステに対して抱いていた『無条件に正しい人物』という評価を、よりによってこのニャキと共有していたことに大いに驚愕し、そして大いに落胆した。私はこれまでそれを私自身の特別な感覚であると思い込んでいた節があり、そのことに少なからず心地良さすら感じていたほどだったのだ。しかしニャキと同じ見解ということは、それは一般的なものであるか、そうでなければ邪悪な人間にのみ共通するものであると言えてしまう。
「ヌビクさん、あなたはどちらの出身ですか?」
ニャキがまるで思いついたようにだしぬけにこちらに振り向き、そう尋ねてきたので私は特にその意図を考えもせずに即答した。
「テンベナ近海の離島です」
「学校は…せめて小学校は出ましたか?」
「いいえ」
離島に学校などあるはずがない。ニャキは返答が分かった上で訊ねているのだ。
「では僧院かどこかで一般教養を学んだことは?」
「ありません」
僧院どころか僧すら居なかった。信仰が存在していたかも怪しいくらいだ。
「なら大丈夫ですね」
そう言って彼女は立ち上がり、尻に着いた土を両手で軽くはたいた。
「私は日誌の続きを書かなくてはなりません。メセ、夕餉の支度が出来たら呼んでください。どうせ貴女が調理するつもりなんでしょう。あんな大きな鍋やら、テンベナで集めた香辛料やらをわざわざ持って来たくらいですから」
「ああ」
これまでずっと一番後ろで直立不動の姿勢のままこのやり取りを黙って見つめていたメセは、おもむろに歩いて天幕の中へと引っ込むと、中でなにやらごそごそし、多種の粉末の入ったビンをいくらかと、携帯用の調理台らしき木製の板を抱えて出てきた。
それと入れ替わりに天幕の中へと戻ろうとしたニャキの背中に、ハステが声をかけた。
「では、ヌビクを連れて行っても?」
「ですから大丈夫でしょう。許可しますよ」
そう言って引っ込んだ。少し考えて、『大丈夫』というのは『悪さを出来るほどの能力は無い』という意味らしいとようやく理解できた。おそらく彼女のその秘密任務の経過を記した日誌とやらは、教育を受けていない人間には到底解読できないような暗号で書いてあるのだろう。そして教養の無い者でも可能な裏切り行為と言えば盗みや暴力くらいだが、盗みを働いたところで逃げる場所などどこにも無いし、暴力などはなおさら不可能だ。メセがここにいる限りは。
組立てられた調理台の上にイワウサギの死体を乗せているメセの後姿を見ながらそう考えていると、隣にやってきたハステが私の肩を軽くぽんぽんと叩いた。
「ヌビク、大変だったな。だがもう大丈夫だ。食事の支度が出来るまで休んでいるといい」
彼女の言う『大丈夫』はニャキのそれとは意味がまったく異なることは明白だ。
「ありがとうございます」
「礼ならニャリキミヒ殿に言うのだな。行方のわからない仲間たちのことはきっと心配だろうが、おまえがこうして助かったのだから、きっと大丈夫」
班にセリトやリデオといった彼女の顔見知りが含まれていたことについては黙っていた。
ハステはメセの側へと歩み寄り、彼女がイワウサギを捌くのを手伝い始めた。二人とも調理のための獣の解体など出来そうもない印象だったのだが、予想外に手際よく協力して作業を進めていた。
可憐な二人の女たちが手首から下を赤黒く染める姿を見ていると、ホルズが私に近付いて耳打ちをしてきた。
「で、本当は文字くらい読めるんだろ?知ってるぜ」
「え?」
「隙を見つけてあのクソメガネの大事な日記帳全部読んで丸暗記して街で暗誦してやろーぜ。いい加減我慢ならねーんだ。あの胸甲女に盗むなとか殺すなとか言われてっから黙っててやってっけどよ」
盗賊の――ハステに言わせればきっと元・盗賊ということになる――ホルズが、この女たちの一行に案内役として加わっている理由は明らかにハステの進言によるものだろうが、その盲目的としか思えない根拠不明の危険な信頼も、今のところは裏切られる兆しは無いように感じられる。盗むな、殺すなといった言いつけは忠実に守られているようだし、他人の日記を読むな、との言いつけはおそらくされていないだろう。ホルズはホルズなりに、ハステの設定したタブーに触れないように巧みに工夫してその暴力性を排出する抜け道を探している。大した忠誠心である。
「考えておくよ」
「よっしゃ、決まりな」




