32. 遭難
何度か木にぶつかりながら、張った根やぬかるんだ土に足を取られながら、自分の靴すら見えない闇の中をただ歩き続けた。どれほどの距離を進んだのかは分からない。入り組んだ樹海の奥深くで方向感覚をなくして同じところをぐるぐる回っていた可能性もある。しかし、しばらく歩くとほんの僅かに残っていた濃紫の西陽も消え失せ、月の光では通り抜けられない厚い木々の葉の天井に覆われたこのノンド樹海は完全な闇へと落ちた。
何も見えなくなった。
それから先は自分が歩いていたのか寝ていたのかすらもよく覚えていない。覚えているいない以前に、精神的な極限状態にあって自分が何をしていたのか理解すらしていなかったのかもしれない。しかし昇り始めた陽の光が頭上の無数の葉と枝の輪郭を切り取るように薄っすらと輝いているのを見つけた時には、私は立ち上がった姿勢で居たように思えるので、まともに考えればありえないとは思うが、ひょっとしたら完全な盲目のままで夜通し逃げ回り続けたのかもしれない。
どちらにせよとにかく私が疲労困憊していたのは間違いなかった。光に曝されていくらか安心したのだろうか、その場にうつ伏せに倒れ込むと、今度こそはっきりと意識的に眠りについた。そんなことが出来るのかどうかは分からないが、むしろ意識的に気絶したと言った方が正確かもしれない。
空腹と喉の渇きに耐えかねて目覚めたのは再び陽が反対側に傾き始めていた頃だった。夢を見ていたのかどうかもよく思い出せないが、眠った直後には目覚めていたように思える。しかし太陽は嘘をつかない。昨日最初の襲撃に遭ってから実に丸一日が経過したことになる。即ち、その時から食事はおろか水の一滴も口にしていないし、用足しすらしていない。
当たり前だが私は完全に遭難していた。食料や水すら持たずにだ。
都合よく川や泉は見つからない。昨日の雨が残っている水溜りはいくつか散見されたが、清潔な水が得られるとは思えない。背に腹は変えられず、その内のひとつの前に跪いて水を手で掬ってみたが、混ざり合う泥の中には多数の小さなボウフラがぷかぷか浮いていた。私はそれに口を近づけて数秒考えたが、嘔吐感に襲われその行為を中止して手の中の水を地面にぶちまけた。そしてすぐに別の水溜りの前に走り寄って地に両手を突くと、今度は何も見ずに水面に接吻し、喉を鳴らした。眩暈がする。
「もう駄目っぽいな」
柄にも無く独り言を口に出してみようとしたが、潤したばかりのはずの喉はまるで乾ききった砂がこすれる様な弱々しい摩擦音じみたものを搾り出すだけで、それはほとんど言葉になっていなかった。
私は一縷の望みのためにまた立ち上がり歩き出すか、それともなるようになれと足を投げ出し空を隔てる緑の葉を見上げるか迷ったが、すぐに前者を選んだ。昼の間中眠ったばかりだし、それにどうせ今からまた寝たら永遠に眠り続けることは必至なのだ。その前に可能な限り眠る以外のことをしておいたほうが、少しは楽しい。
敵や獣に警戒する気すら起きず、私はほとんどずっと俯いて物思いにふけりながら、木々や草に覆われた樹海の悪路をどこへともなくただ突き進んだ。
結局のところ、私たちを襲った連中は一体何者だったのだろうか。サトヤと名乗ったメメトー人の女が口走った言葉を信じるのであれば、第一陣の虫人間どもの軍勢は、最初に私が考えたように私たちを倒すために待ち伏せしていたというわけではなく、サトヤら自身が実験として討伐するために配置しておいたところに偶然やってきた私たちが巻き込まれただけ、と理解できる。実験?一体何のために。ここ帝国と不穏な関係にある国の人間がこんなところで一体何故そんな物騒なことをしているのだ。
そしてそもそもあのメメトー人はなんだ。メメトー人全員があんな化け物じみた身体能力を持っているなんて話は聞いたことが無い。むしろ身体能力はその小柄な体格相応に、少なくとも筋力と瞬発力においては帝国人を大きく下回っているはずだ。サトヤはちらりと『テキセーシャ』という言葉を口にしていたが、それが関係しているのだろうか。
そういえば、前日に出会った同じような超身体能力を持つ存在であるメセもまた、同様に『適正者』という単語を使っていたように思う。彼女らが同じ種類の存在であり、そしてその力にまつわる何かのためにこの樹海にやって来ていることは間違いないと考えていいだろう。それが一体なんであるかは見当も付かないし、私がここで野垂れ死ぬのであれば考えても仕方の無いことだが…。
と、差し迫った自らの死の運命についてようやく思い出した丁度その瞬間だった。
「おい」
不意に頭上から人の声らしきものが聞こえた。少女の声だった。こんな樹海の奥で頭上から声をかけてくる少女など、心当たりは多くない。歩きながら思考に没頭していた私はその不吉な呼び声に戦慄し、次の瞬間には、敵の襲撃に対して一体どうやったら最も苦しまずに死ねるだろうかとの考えを巡らせていた。
しかし私が声の聞こえた方向に視線をやることを躊躇している間にもう、それは杞憂だったと知らされた。すぐに姿を現したそれは、少なくとも現時点では敵ではない存在だったのだ。味方かどうかもまだよくわからないのだが。
「ああ…、丁度、君に訊きたいことがあったんだ」
舞い降りたそれはその小さな全身をすっぽり覆うぼろぼろの赤茶けたマントを翻し、私の眼前に真っ直ぐ立った。ほとんど同じ光景を最近にも一度見たばかりだ。
メセだった。
「おまえか。獲物と間違えかけた。今、夕飯を探している」
どうやら私を見つけたのはまったくの偶然らしい。こんな深い森の奥でまったくの偶然で顔見知りとばったり会うなど、確率的には奇跡に近いことなのだが、どうやらメセはそんなことはいちいち気に留めないようだ。表情一つ変えない。一昨日初めて会った時にずっとそうだったように、その大きな瞳は伏目がちなまま、視線は私の腹辺りに落としている。
私は心の中で奇跡に感謝しながら、苦笑いと共に言った。
「へえ、こんなところで夕飯を現地調達ってことは、君も遭難してるのかい。そうだとしたら、ぬか喜びだったかな」
「遭難?」
「僕は遭難してるんだ」
「俺は遭難してない。今、夕飯を探していた」
「そうかい」
「そうだ」
彼女はそのまま駆け足で立ち去ろうとしたため、私は大急ぎで引き止めた。
「待って。水を少し分けてくれないか…」
彼女はすぐに立ち止まって振り向き、やはり視線を合わせずに私の腹辺りを見て答えた。
「そのつもりだ」
つまり、野営かどこかに置いて来た水筒を取りに戻ろうとしたと言うことだろう。彼女の善意が一体どの程度のもので、またどのような形のものであるのか私にはなかなか見極めが付かないが、少なくとも遭難という言葉の意味は理解していて、そして私を見殺しにするつもりも無いらしい。
「キャンプは近いのかい。よければ僕も連れてってくれないか。水を一杯もらっても、その後一人で無事に帰れる気がしないんだ」
メセは少しの間考えるように静止し、そして一瞬私の顔を見た後、再び俯いて言った。
「…それが早そうだ。来い」
一体何が早いのか、その言葉の意味はメセの後ろに付いて少し歩くとすぐ理解できた。彼女のキャンプはそこから比較的遠い位置にあったようだが、一刻も早く水を飲むことが目的であればそこまで行く必要は無かった。キャンプに向かうための目印のための場所で十分な水が手に入ったのだ。
せせらぎの音が聞こえる。
「川だ」
こんな近くにあったのか。水溜りの泥水を飲んだのは失敗だった。
水の音が私の首を縄で括って勢いよく引っ張っているかのようだった。私はよろめきながらも持てる限りの脚の力を振り絞って駆けていた。首の縄は川底へと真っ直ぐ繋がっており、私は投げ槍のように顔面から水面へ突き刺さった。氷のように冷たいその魅惑的な救世主は私の喉と腹を一気に満たした。こんなに美味いものがこの世にあったなんて知らなかった。
しばらくして我に返り後ろを振り向くと、メセは直立不動で川原に佇み、全身びしょ濡れになった私の姿をじっと見ていた。
目が合うと彼女は言った。
「もういいか」
「ありがとう。昨日の今日でまた命を救われたよ…いや、あれはもう一昨日か」
「野営までは川を遡ってしばらくだ。案内する」
彼女は踵を返して歩き出したので、私は川から上がり、水を大量に含んだ靴をたぷたぷ鳴らしながらその後ろに続いた。
「いや、もうだいぶマシになったよ。戻る前に夕飯を探すなら手伝うけど。それか、もし足手まといになるなら、キャンプまで一人で行って待ってるよ。川沿いに見えるところにあるなら行けそうだ」
そう言うと、メセは振り向かずに答えた。
「一人で歩くな。夕飯に出くわしたらおまえが食われる」
「夕飯…?クマか何かのことかい」
「人の倍くらいある太った犬だ」
「クマだね」
「昼間だけで二度も会った」
一人きりで丸一日の間歩き回ったり無防備にそこらで寝たりしていた私がそれと遭遇しなかったのは、不幸中の幸いと言えるようだった。
そう考えていると私はあることに気付き、その疑問を口にした。
「あれ…そういえば、何のために森に入ったのかは知らないけど、一人で来たわけじゃないだろう。キャンプで待ってる人たちは平気なのかい」
「平気だ」
「ニャキさんとハステさんは一緒じゃないのかい」
「一緒だ。二人とも待ってる」
「キャンプがクマに襲われたら剣で勝てるとは限らないよ。君が付いていなくて平気かい」
「平気だ」
彼女は淡々と言い切るが、シンプル過ぎる返答は質問の意図が理解されていないようで逆に不安を煽る。彼女が野生のクマの強さを過小評価しているか、あるいは残されている二人の女たちの自衛能力を過大評価している可能性がある。私は彼女の確信が信頼に足るものなのかどうか、それを確かめずにはいられなくなった。
「メセ」
先を急ごうとする彼女を引き止めるように、改まってその名を呼ぶと、彼女はようやく立ち止まって振り向いた。
メセは黙ってその大きな瞳で私を見つめた。緩やかな風がすっと吹き、焦げ茶色のぼさぼさだが柔らかそうな彼女の前髪を少し揺らした。
私は例の如く、見つめられたことで言葉を失ってしまった。しばらくして、彼女は囁くような声で短い言葉を発した。
「何」
明確な意思を持って呼びかけの言葉を投げたのは私の方なのだが、肝心の内容を何も言わない内からすっかり気後れして口ごもってしまった。
「…いや、平気ならいいんだ…。だ、だけど…その根拠はあるのかなって」
耐え切れなくなった私がついに顔を背けると、メセは再び前髪とマントを翻し、前へ向き直って歩き始めた。
そして背中を向けたまま言う。
「道案内役の奴が一緒に居る。それが太った犬より強い。昼間もそれに任せた」
「道案内?」
それが何者なのかを訊ねたつもりだったのだが、彼女は一拍置いてから見当違いの返答をした。
「そうだ。マスターの命令だからな」
メセなら「そうだ」の一言で終わらせそうなところを「マスターの命令だ」と訊いてもいない情報を彼女が自ら付け加えたことはいくらか不可解だった。それ故、口調そのものはいつも通りの淡々とした抑揚の無いものだったにもかかわらず、その台詞には何かしらの特別な感情がこもっているように感じられた。何かに怒っているのだろうか。その案内役とやらが気に入らないのかもしれない。
それを具体的に質問していいものかどうか悩んでいると、彼女は唐突に右手を水平に上げた。
突如として、場の空気が張り詰めた。
彼女は言った。
「なんか居る」
嫌な台詞だ。
メセと出会ったことでいくらか安心しかけていた私の心はすぐに昨日の悪夢へと引き戻された。
「何が居るんだ」
「知らん。二体居る。茂みの中からこっちを見ている」
そう言う彼女は相変わらず膝や背筋をぴんと伸ばした直立の体勢のままであり、その未知の存在に対して身構える様子も無いが、戦う意思が無いわけではないということは右手に握られた短剣の存在で理解できた。どうやら彼女は例の摩訶不思議な超能力以外に、武器を使った白兵戦闘も行うらしい。
私はその姿を見て、ついでにどうでもいいことも一つ思い出した。
「ごめん。僕の槍は昨日どこかに落としてきたみたいだ。手伝えないかもしれない。今、丸腰だ」
「要らん」
期待通りの返事が返ってきたので、メセの真似をするわけではないが、私はただ真っ直ぐ突っ立ってぼーっとしているしかなかった。
「姿を見せろ」
メセがだしぬけに足元の小石を蹴っ飛ばした。それが私たちの正面の茂みの中に入って音を立てると同時に、それに呼応するかのように隠れていた何かが飛び出してきた。
それは双子のメメトー人でなければ、虫人間でも、ましてやクマですらない。もっとずっと危険性の低いものだった。懐かしい。私がまだ島で暮らしていた頃、毎日さんざん目にしていた生物だ。
「なんだこいつ」
姿を見ても、メセにはその正体はわからなかったようだ。無理も無い。限定的な地域にのみ住む希少な生き物なのだ。
「これは野生のイワウサギだよ」
故郷の島を出る前、私はイワウサギを飼育する牧童だった。家畜化されたものと野生のものでは性格にだいぶ差異があるが、まったく同じ種族である以上根本は同じだ。
出現した二頭のイワウサギはその丸く出っ張った前歯を剥き出しにして、木にのこぎりを当てたかような奇妙な音を喉の奥から響かせていた。
「珍しいかい。大丈夫。ただ警戒してるだけで攻撃はしてこないよ。彼らは雑食だけど生き物は小さな虫以外食べない」
イワウサギ――茶色い短い毛に覆われた全身は全体的に丸みを帯びたシルエットで、四足を折り曲げて寝そべると岩に見えることがその名の由来である。彼らは厳密には中型犬並みの体格を持つ巨大なネズミの一種であるが、食用家畜にネズミの名前は相応しくないという理由で、ウサギの名を戴いている。
私とは十年以上も付き合った仲だ。
「そっち行ったぞ」
腰に両手を当てて余裕の態度を見せていた私の予想に反して、イワウサギの一匹はこちらへ駆けて来た。
「大丈夫、大丈夫。僕は詳しいんだ。心配ない。すぐに止まるよ」
猛然と走り寄るイワウサギはメセの脇を通過して、真っ直ぐ私に向かっていた。私が大丈夫と言ったせいなのか、警戒を解いた様子のメセは首から下はまったく動かさず、その動きをただ目で追っていた。
「あれ、なんか…えっ…うお!?」
イワウサギはそのまま減速することなく私の足目掛けてぶち当たった。
私は吹っ飛ばされ、近くの木に思い切り背を打ちつけた。暗くてイノシシと間違えたのかもしれないと少し思ったが、よく見ると、突進してきたほうの個体は、もう一頭と比べるといくらか体が大きい。彼らは母親とその子供だったのかもしれない。普段温厚な生物だろうと、子連れの母親が例外なのは当然である。
「本当に大丈夫なんだな」
「そう見えるのなら僕が思ってるより大丈夫なのかな」
暗に大丈夫ではないと言いたかったのだが、メセが遠まわしな表現を理解できることを期待したのは当然のごとく間違いだった。首から上だけ捻って目で追うには私は遠くまで吹っ飛ばされすぎたので、彼女は仕方無しとばかりにようやく全身でこちらに振り向いたのだが、体勢はやはり直立不動のまま、私を助けようとする様子は無い。
反対側で母親イワウサギも同じように私の方へと振り向き、再度突進してきたので今度は私はぶつかる寸前で何とか回避した。
「ごめん。僕が間違ってた。なんとかしてくれ」
「これ食えるのか。食えるなら殺すが」
「イワウサギは街では高級食材だよ」
私が言葉を言い切った時には既にメセは私の眼下でイワウサギと対峙していた。そして逆手に握られた彼女の短剣が閃く。
「ギャー!」
振り下ろされた刃は確かにイワウサギの脳天を捉えたのだが、その一撃はおそらく『生身のまま』繰り出されたものだったのだろう。それには獣の突進力を一瞬で相殺できるほどの衝撃は無く、身をかわしたメセの代わりに、その真後ろに居た私が巻き込まれて踏み潰された。
「避けないとは思わなかった」
メセは相変わらずの無表情でそう呟いたが、頭を割られて死んでいるイワウサギの下敷きになっている私を見下ろすその視線はどことなく呆れているように見えた。私が自身の不甲斐無さを恥じるあまりそう感じただけかもしれないが。
「…君に頼り過ぎた僕が悪い…。君が例の超能力で跳ね返してくれるものとばっかり思ってた」
メセはこちらへ近付き、私の上のイワウサギの死体をひっくり返した。そのまま、私が起き上がるために手でも貸してくれるかと少し期待したが、彼女は直立不動の体勢のままじっと見下ろしているだけだった。
「必要の無い力は使わないことにしてる。力に頼りすぎると駄目になる」
彼女はそう言った。私は自力で起き上がった。
「そんなものなのかもしれないね。僕には力が無いからよくわからないけど」
「それに、狩りはこの方が楽しい」
そして彼女はすたすたと数歩歩いて、遠くに目をやった。
彼女はただ表に出さないだけで、実際は感情が豊かな人物なのかもしれない。そう思った。
「もう一匹は逃げたな」
メセが視線をやっていた先は、先ほどまで小さなイワウサギが居たはずの茂みだった。
ともあれ、私たちはイワウサギを一匹仕留めた。クマよりもずっと良い獲物だ。わざわざこの場で解体せずとも、この大きさなら二人掛かりならそのまま運んで戻れる。
私は答える。
「二匹も獲ったって一晩で食べられる量じゃないし、保存食を作る道具も時間も無いだろう」
メセはゆっくり振り向いてこちらへ戻ってくると、小さく頷いた。
「そうだ。二匹も要らない」
「うん。しかしどうやら親子だったらしいね。だから母親の方が思いがけず襲ってきたんだ」
メセは表情一つ変えなかったが、返答までほんの一瞬だけ奇妙な間を置いた。その『間』に私は彼女の感情を感じた気がした。
「母と子だったのか」
そして、彼女はまたあの茂みへと目をやった。
「どうかしたのかい」
「どうもしない」
その後、彼女は無言で母親イワウサギの死体を担ぎ上げようとしたため、私も手伝った。
私たちはその獣を二人がかりで抱えて、川沿いの砂利を歩いた。すぐに、いくらか開けた場所で煙が上がっているのが見えた。




