17. 決闘の火蓋
「ヌビクリヒュくん、なにボケっとしてんの!追いかけてよ!止めなきゃ、ねえ!」
言われるままに馬を走らせた私は、小高い丘の頂上で停止して遠くの平原を凝視していたセリトにすぐに追いついた。そこに生えていた長い草と、丁度私たちの真後ろから差していた西日は、丘向こうの相手から姿を隠すには絶好に思えた。セリトもそれに気が付いたかどうかはわからないが、彼が駆けながら丘の頂上を通過してそのまま向こうまで突進して行くなどということをしなかったので、私たちはまだ言葉を交わす機会があった。
「誰も居ないな。帰ろうか」
見る限り、その先には人っ子一人としておらず、雑草が生い茂る平原には点在する小さな林を避けるようにくねった獣道が見られるだけだった。
「あの林だな!あの裏から現れるんだろ。そうに違いないぞ。なあ、おい!」
つい先ほどまで超能力など馬鹿馬鹿しいと冷笑を浮かべていた者だとは思えない。彼は殺意でわけがわからなくなり、オーリスの力を疑っていた自分自身をまったく忘れ去ってしまっているかのように見えた。
「誰も来やしないよ。そうでしょう、オーリスさん」
「あー、そ、そうかも。実は全部冗…」
「ふざけんな!貴様、さっきはオーリスの力を信じるとか言ってただろうが!大体貴様、わかっているのか。貴様ら傭兵どもが一体何故ここに来ているのかを。蛆虫どもを一匹残らず皆殺しにするためだろう。それなのに何故邪魔するのだこの腰抜けが!しかも相手は一人だぞ!鼻のてっぺんから踵の先まで負け犬根性が染み付いて完全に腐りきってやがるな、おい!貴様なんぞ根性の腐った…腐った根性のかすから湧いて出た根性の腐った蛆虫以下の…蛆虫の…ええい!畜生!先帝の時代なら任務不履行の敵前逃亡は斬首刑だったぞ!知らんのか!」
彼は両手で抱えた頭をぶんぶん振り回すと、思い切り勢いを乗せてまるで叩き付けるように私に視線を投げた。それには憎悪に近いほどの激しい負の感情が篭っているように見えた。別に恐くなどはないが、不愉快である。
「相手が一人でも…こっちも一人みたいなものだろう…僕はほとんど戦力外だろうしね。そもそも山賊を退治しに来たのは傭兵団なのであって、僕らだけで個人的にやって来たわけじゃない。やるんなら他の団員たちと協力してこちらに有利な状況で当たらないと駄目だよ。互角の人数で戦おうなんて無駄なリスクを負うだけで愚かなことだろう。都会の学校で習わなかったのかい。何もずっと戦いを回避し続けようってわけじゃない。今がその時じゃないってことさ」
「おい、互角だと!私と山賊ごときが互角だと言ったか!?私の剣が信じられないならまずは貴様の体に教えてやろうか、え!?」
彼の興奮は収まるところを知らず、しまいにはベルトに差した長い騎士剣を抜刀して私の鼻先へ向けてきた。もはや彼を宥める手段など無いように思われたが、私にはなんとかしてそれを試みる以外に無かった。
「君がそこまで言うなら、話すことがあるよ。いや、最初から内緒にするつもりは…そんなに無かったんだけど…。実はついさっき、例の赤毛の盗賊に襲われたんだ」
私がそう切り出すと、セリトは握り締める手に込められた憤怒をもはや持て余してしまったようで、馬上で両足をばたつかせながら剣で空気を薙いで叫んだ。
「え!おい、本当か!何故黙ってたボケナス!」
「ええぇ、本当にどうして黙ってたの!」
セリトとほとんど同時に、オーリスまでが私を非難するような大声を上げた。
「言う機会が無かっただけで…。それはともかくとして、僕が見る限りあいつは普通じゃない。色んな意味でね。恐ろしく凶暴で…命知らずで…、あいつは全力で馬を駆る僕らに追い縋りつつ、顔も見えないほどの距離から的確に矢を撃ってきた。あんな芸当はきっと並の使い手じゃ無理だよ。それに、奴らの話を聞く限り、あいつは連中の親玉のボディガードを勤めてたって話だ。セリト、君がたとえ十人力の使い手でも、あいつもきっとそれに匹敵すると思うんだ。僕らだけで戦うのは危険だよ」
「…でたらめをほざいているのだったらこの場で斬り捨てるぞ」
言葉とは裏腹に、私のこの話は彼にとっては興味深かったらしく、その全身から沸き立つ殺気はまったく薄れてはいなかったものの、落ち着きはいくらか取り戻した様子で私の目を凝視していた。
「でまかせにこんなことを言ってるんじゃない。奴の名前はホルズって言うらしいよ」
「その名は…私も奴自身の口から聞いている。貴様が奴と会ってどうして今無事なのか、それは後で聞く。…だが、貴様は勘違いしているようだな!前やりあった時は一対五だった。私が一人殺したから今は四人居るはずだと思ったが…。しかし五人だろうと十人だろうとそれでも負けるはずなどなかったのだ…!けっ!」
喋りながら、彼は再び熱を取り戻してきていた。
「アカデミーでは剣で私を下す者など誰一人としていなかった。教官でさえもな!私は今までずっと、ただ一度たりとも!誰にも!負けたことなどなかったのだ!負けるはずがないのだ。剣闘の基礎も学んでいない雑魚など何人束になろうと私一人で殲滅してやれる。あの時も、あの赤毛さえいなければものの数秒で皆殺しに出来たんだ!奴さえ、奴さえいなければ」
彼の赤い瞳には、私が彼を初めて見た時と同じ、狂気とほとんど区別の付かない恐ろしい復讐心に満ちた憤怒の炎が燃え盛っていた。そしてその瞳の色に反して彼の白い肌からは血の気が引いており、顔面はほぼ蒼白だった。天を突く彼の金髪の隙間からは汗が流れ出てかみそりのように鋭い金色の眉毛の上で止まっていた。
彼の尋常ならざる様子を見て、改めて彼の性格について一つ確信した。今まで負けたことが無く、その記録を誇りとしていた彼にとって、初めて自分を打ち負かした相手が山賊だったなどということは、自分の存在そのものが崩れ落ちるほどの屈辱だったはずだ。
やはり彼を止める術など在りはしないのだ。彼が死なない限りは。
ふと、セリトは私の背後のオーリスのほうへと視線を向けた。すると、一瞬はっとした様子を見せ、すぐに遠方の林のほうへと振り向き、そして怒鳴った。
「おいっ、居やがった!ヤツだ、ヤツだぁ!やっぱりヤツだった!ついに見つけた!真っ赤なロン毛のクソ野郎だ!」
私もすぐにその方向を見ると、どうやら先ほどセリトが指した北側の林の陰から現れたらしいホルズが、既に林からだいぶ離れた広い草原の上を、馬に乗ってのこのこと進んでいた。セリトが熱弁している間に既に姿を現していたようだが、オーリスは彼が通り過ぎるまでセリトがそれに気付かないのを祈りつつ黙っていたらしい。
遠景に見る限りはっきりと人相までは判別できないものの、その大きく振り乱した長髪が西陽に照らされ、より鮮やかな赤に染まっていたため、明らかに彼だとわかった。ホルズは馬上にあぐらをかいて座り、両腕はだらりと脇に下ろしていた。そしてどうやら何か考え事をしているらしく、心ここに在らずと言った感じのうつろな視線は完全に馬のたてがみへと落とされていた。よく落馬しないものだ。
「うわあぁー、ほんとに赤い髪だよ。どうしよう。ねえ、どうしよう」
オーリスは震える声を上げつつ私の肩を揺すった。先ほどまでその手に込められていた強い力はなく、その弱々しさがどうにも哀れに思えた。
「ヌビク、槍を貸せ」
言われるまま、私は身を屈め、馬の荷に縛り付けてあった、レニタフ達を埋めるのに使ったシャベル型の槍に手を伸ばしたのだが、オーリスがそれを制した。
「と、止めてよヌビクリヒュくん!」
彼女は馬から飛び降りると、槍に掛けた私の右手を押さえつけた。
「ねぇ、本当にやめて。私にもわかるよ。あいつは本当に危ない。まったく普通じゃないんだよ」
私も動きを止めて、彼女の言葉を継いだ。
「こう言ってるけど、全くその通りだよ。なあ、やめないかい。任務不履行は君のほうだろう。ついさっき隊長に叱られたばかりじゃないか。勝手な行動は慎むと、君は一体なんに対して誓ったんだった?」
無駄だと判っていたが、一応私が彼をたしなめると、ついに彼は本当に口から泡を吹き始めた。
「黙れ、黙れ黙れ!任務なんて…任務なんてなぁ…ああ、オレはそもそも傭兵じゃねえんだ!任務なんぞ…うむむ、そうだ、オレが…私がてめえら…貴様らの親分と交わした契約は奴らを倒すことだ…そもそも何も間違っちゃいないだろうが!詭弁も大概にしろ!あのクソ野郎を二度も『逃がす』くらいなら死んだ方がマシだ。あああっ、死ぬのはヤツのほうだっつの!さあ、槍を寄越せ!渡さないなら素手でも殴り殺しに行くまでだ!」
そう言いつつもセリトは無理矢理私から槍をひったくろうとしたため、間に割って入ろうとしたオーリスの肩に槍の柄が当たった。彼女は痛いと声を上げたが、セリトは一瞥しただけで、すぐに前方へと向き直った。
そしてその目に敵の姿を見据えると、彼は何か妙なものが乗り移ったかのように、急に悟りきったような落ち着いた様子を見せ、言葉を発した。
「…仮に…万に一つ、不運な事故が起きたとしても、私は死んだりはしない。既に一度死んでいるからな。先の屈辱によって私という存在は一度殺されたのだ。私は、奴を倒すことで名誉を取り戻し蘇生する。ここで奴を見逃すようなら私の存在にはこれ以上意味など無い。例えヤツが千人の手下を引き連れていたとしても、ここで退く選択肢など無いのだ」
急にかっこつけて何言ってんだこいつ…まったく意味がわからない…。殺されれば死ぬに決まってるだろう…。唐突に表情が変わったところを見ると、おそらく復讐を遂行する時が来た時にかっこつけて唱えるために予め考えてあった決め台詞を言わなければならないことを思い出して無理矢理ねじ込んできたらしい。本当になんなんだこいつ。
彼は右手に握り締めていた剣を一旦鞘に戻すと、何故か左手で槍を構え、空いた右手で手綱を打った。
「わかっていると思うが助太刀は無用だ。そこで見ていろ。いい勉強になるぞ」
彼は振り返ることなくそう言い捨て、ホルズへ向けて一直線に馬を走らせた。オーリスはもはや止めようとはせず、茫然とその後ろ姿を見送っていた。
ホルズは側面からのセリトの強襲に気付いたらしく、即座にあぶみの上に立ち上がると、右手に湾刀を構えた。
「ど、どうしよう…私のせいだ…私のせいでこんなことに」
「何もかもあいつ自身のせいですよ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
怒鳴られてしまった。
「…助太刀するなと言われたからではありませんが…どちらにせよ槍を持っていかれたので僕は丸腰です…。セリトが勝利するのを祈るしかないでしょう。一騎討ちなのは幸いかもしれません。あの盗賊の戦いのセンスは確かに脅威ですが…、セリトの話がもし嘘でないなら、彼もまた相当な使い手のはずです。それに、奴は見たところあの曲がった刀と弓矢しか持っていませんし、馬上では槍を持ったセリトが断然…あれ、何してるんだ…」
馬を駆る勢いのまま槍で突撃を仕掛けるのかと思いきや、セリトはホルズの近くまで到達すると、そこで停止し、なにやら大声を上げ始めた。ホルズもなにやら喋っているようだが、距離が遠すぎるのと、虫や風の声がうるさいのもあり、まったく聞き取れない。
するとおもむろに、セリトは左手に握り締めた槍をホルズへと放り投げた。それは明らかに攻撃のための投擲ではなかった。槍はゆっくりと弧を描いて飛び、ホルズの手にすっぽりと納まった。
「なにしてんの!?」
「あいつバカだ」
彼はどうやら大声で名乗りを上げて堂々と決闘を申し込んだ後、得物で不利な立場にあったホルズに対してその槍を与え、自らは腰に差した騎士剣を抜いて戦うつもりらしい。これでセリトが無事に勝利する確率は大幅に下がっただろう。
「ああぁ、ねえ、なんとか助けないと、助けないと、セリトさんが殺されるよ!」
オーリスはほとんど泣き出さんばかりで、馬上で呆然とする私の右足にすがり付いた。
「助けると言っても…今言いましたが僕は…」
「さっきあいつに襲われたって言ってたじゃん。どうやって助かったの?」
「その時は、ゼ…」
「ぜ?」
私がこの時何故ゼームの名を出すことを躊躇ったのかは、自分でもわからない。ただ私の脳裏には、彼が山賊と繋がりを持っていることを誰にも言わないでくれと懇願したその姿が映し出されていた。彼に対して大きな不信を抱いていることを自覚している私が、何故このような緊急の状況で彼との約束を優先したかは、まったくもって謎だった。
「いえ…ゼームの助言で、村人のふりをして切り抜けたんです。でも、既に戦闘になっているんです。同じ手は使えませんよ。大体、顔が割れている僕が出て行ってセリトを庇ったりしたらさらに話がややこしく…」
私が言い切らないうちに、私の返答はもはやどうでもよくなったかのように彼女はそれを遮った。
「ああっ!ちょっと待って!」
彼女は急に馬の腹あたりの位置に視線を落としながら、目を見開き、片手を口に当ててじっと黙り込んだ。私は最初彼女がストレスで吐き気でも催したのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。なんと声を掛けるべきか迷ったが、私が言葉を発する前に彼女は顔を上げた。
「別の誰かが、こっちへ来る。三人…馬に乗ってる。丁度この場所を通過するよ。感じからして…戦いに慣れた人たち…村の人じゃないし、多分だけど…武装してる」
「騎乗して武装した男が三人…ホルズの手下どもだ」
私は最悪の状況を想像したが、オーリスはかぶりを振った。
「ううん、男性じゃない。三人のうちの多分二人か…もしくは三人とも女性だ。少なくともヌビクリヒュくんが会った奴らじゃなさそうだよ!それともその盗賊の手下はみんな女の子だった?」
「見た感じ多分みんな男だったと思います。しかし本当ですか。こんなところに武装した…女性が?」
彼女のその特異な超能力についてはもはや疑う余地は無い。この状況でつまらない嘘をつくとも思えないし、ここにその女たちがやって来ることは確かなのだろう。テンベナ義兵団に女性戦闘員は居ないため、明らかに我々の身内ではないということが気にかかるものの、山賊でもないであろうということもほぼ間違いないと見てよさそうだった。
だが、先ほどの様子からするとオーリスは随分と遠くまで探知できるようだったし、たった今存在に気が付いたということは、女たちはまだ遥か彼方をのんびり歩いていると考えられる。
「どのくらいの位置です?あまり遠ければ間に合わ…んんっ、あいつらとうとうやり始めたぞ」
ついにセリトとホルズの一騎討ちが始まった。ホルズは両手を使って頭上で大きく槍を振り回して見せると、それを右脇に抱えるように力強く構えた。どうやら槍を用いた戦闘の経験も少なからずあるらしい。むしろ百戦錬磨の豪傑の気迫すら漂っている。対するセリトも右手に銀色の騎士剣を構え、ホルズの首筋へ向けてその剣先を突き出している。遠距離から改めて見てみると、彼の剣は特注なのか、一般的な細身剣よりもだいぶ長大で、素人目に見ての判断だが、馬上での戦闘にも適しているように思われた。
セリトが手綱を握る手を振り上げると、ホルズは再びあぶみの上に立ち上がり、手綱に一切手を付けることなく、セリトとまったく同時に馬を走らせた。どうやら彼は奇妙な馬術によってあぶみの重心と膝の締め付けだけで巧みに馬を操っているらしく、よく見るとその馬にはそもそも手綱が付いていなかった。
両者はすれ違いざまに互いを斬りつけた。武器同士が激しく衝突し、鈍い金属音を上げたが、どうやらいまだそれぞれ無傷のようだ。
しかし彼らはすぐさま二度、三度と刃を交え、ついにはすれ違うことなくその場で何度も火花を散らし始めた。剣が届く間合いから離れない限りは得物の取り回しに小回りが利くセリトが有利にも思えるが、一般的なそれよりやや幅広とは言え、騎士剣の刀身の細さは不安を煽る。シャベル型の槍は私でも持てる程度の軽さなので薙ぎに使う限りさほど威力は無いだろうが、こう何度も刃同士がぶつかるような戦いでは繊細な刀剣の寿命は短いだろう。
「あわわ、やばいな、やばいな。ねえヌビクリヒュくん。さっき言ってたよね」
オーリスは再び口元に手を当てると相変わらず慌てた調子でそう言ったが、先ほどまでの今にも泣き出しそうな様子はもはや無かった。何かを思いついた様子だった。
「はい」
「ヌビクリヒュくんが出てったら、話がややこしくなるんだった?」
彼女は私がそう言ったのは聞いていなかったように見えたのだが、どうやら頭の片隅で拾っていたらしい。
「そうです。僕は村人のはずですし、この傷のために治療師の元へ行ってることになってますから。もしここで僕が出て行ってセリトを庇ったりしたら…」
「いっそ出来る限りややこしくしてこようよ。私たちに出来ることはそれだけだよ!」
彼女は口早にそう言った。その言葉を聞く前からなんとなく察しはついたが、要するに、援軍と思しき女たちが到着するまでの時間稼ぎということらしい。
セリトを庇ったりしたら、嘘をついたことがばれて、逆上したホルズに自分まで殺されるかもしれない。と、言いかけたのだが、途中で言葉を遮られたこともあったが、とにかく私はあることに気が付き、それを飲み込んだ。
「わかりました」
私はそれだけ言って、オーリスの提案を承諾した。
彼女のことだ、ここで私が行かなければ、必ず自らが代わりに行くと言い出したことだろう。
私はつい先ほどオーリスら姉妹の味方になると決めたのだ。彼女を危険に晒すわけにはいかなかった。
「オーリスさんはここに居てください」
「えっ、なんで!私も行くよ。一人で行かせられるわけないじゃん!」
「いや…いざ援軍が来た時に合図を送る役が必要ですよ。それに…まあ、理由なんてどうだっていいですよ!とにかくここに居てください」
念のため明記しておく。
私がここで、客観的に見れば自己犠牲とも取れる行動に出たことは、思いやりや勇敢さと言った、高尚な、賞賛されるべき感情によるものではない。それはただ漠然とした義務感、そして強迫観念的な何かとても仄暗い陰気さを伴った、受動的な、奴隷的感情でしかなかった。具体的に言い換えるならば、私は自らの命の危険よりも、彼女を危険にさらし、万一のことがあった場合、その後に残るであろう不快な気まずさのほうをより恐怖しただけに過ぎなかったのだ。
そして、この時点で既に私はそのどうしようもない自分の本質を自覚していた。
私は誰よりも臆病者だが、皮肉にもその臆病さこそが、これから先もいつも、戦場へ赴く私の恐怖を打ち消すことになるのだった。
「ああっ、待ってよ!」
私は手綱を打ち、さほど急がせもせずに馬を歩かせ、傾斜を下りた。




