14. 得意げに喋るゼーム
オーリスの家の戸を叩くと、猛烈な勢いで即座に扉が開かれた。この国ではノックは三度するのがしきたりだが、三度目のノックが空振りするほどの早さだった。私たちの姿を窓から見ていたのか、それとも例の超能力の成せる業なのか、ともあれ戸が叩かれる前から来訪者の存在に気が付いていたようだ。私は覗き窓ごしの応対か、またはまったくの無反応だろうと予想して、それに対するやり取りしか想定していなかったので言葉を失ってしまった。
しかし仮に私が口を開こうとしたところで、結局それは遮られただろう。家の奥に居る誰かにも聞こえるようにわざと張り上げているらしい彼女の大きな声によって。
「ヌビクリヒュくん!来てくれたんだね!なんかもう二度と来ないような気がしてたんだけど、予想が外れて本当によかった!」
結局成り行きでここに立っているが、実際最初は二度と来ないつもりでいたのだ。やはり彼女の人を見る目には狂いが無いと言える。
私はオーリスの透き通る大きな瞳とそのすぐ下の小さな鼻の間で視線を小刻みに往復させながら切り出した。
「はい…。昨日のことを…謝りに来たんです。僕もセリトも、まったく、全然、なんにも覚えていないのですが…今朝起きて、僕らのこの格好を見るに…ひょっとしたらとんでもない大騒ぎをしてしまったのではないかと思いまして」
「いやいや、謝るなんてそんな……えっ!?何も覚えてないの!」
「はい。何も」
「昨日のこと何も覚えてないの!?」
彼女は大声でしつこくそれを繰り返したが、私を責めているわけでもからかっているわけでもないようだ。どうやら奥に居る誰か、即ちアイリスにも聞こえるようにしているらしい。
「はい」
「アイリス!ヌビクリヒュくん家の中に上げるよ!」
オーリスが室内へ振り向き、ついにアイリスの名を呼んだ。そして姿は見えないが、奥のほうから震えるような陰気な声が返ってきた。
「い、いやだ。絶対駄目。いいから帰ってもらって」
「でもさ、昨日のことなんにも覚えてないんだって!」
「………」
その間しばらくの沈黙があったとは言え、思ったよりもずっとあっさりと、アイリスが玄関までその姿を現した。『覚えていない』は魔法の合言葉なのかもしれない。こればかりはセリトに感謝しなくてはならない。
彼女の顔面は蒼白だった。昨日の時点から既に不健康そうな青白い肌をしていたが、それでも今は明らかに二日酔いとわかる顔色だ。髪は起きてからまったく櫛を通していないらしく寝癖でぼさぼさになっており、前髪でほとんどまるっきり隠されてしまっている両の目もやはり昨日よりさらに濁りに濁っており、そこに本当に目があるのかすら疑えるほどに暗い影の中に沈みきっていた。着衣も明らかに寝巻きとわかる、清潔そうだが皺くちゃな無地の簡素なもののままだった。彼女は私の姿を見ると無言のまま少しだけ顔を上げた。
しかし隣に立たれるとつい見比べてしまうのだが、私が覚えている限り昨晩最も多くの酒を飲んだオーリスの顔は健康そのものだ。髪や肌は昨日の夕方に洞窟の前で会った時とまったく変わらぬ様子で輝いており、昨晩の出来事が本当に夢か幻だったのではないかと錯覚しそうなほど眩しかった。
「それにしても、大丈夫?すごい顔だね…」
すごいのはオーリスのほうだと私は思うのだが、彼女が言ったそれは意味が真逆に違うだろう。
「…見た目ほど悪くありません。…そっちはいかがですか。大事はありませんか」
「うん、ありがとう。二人とも怪我は無いよ。…で、さ!いや、そもそもなんだけど…」
オーリスは手もみをしながら目を逸らし、口ごもった。
「なんです?」
「実は…なんとも偶然!…私も、この子も、昨晩のことは本当に何も覚えてないんだよね…!ははは…。いや奇遇だねぇ。しかし四人とも覚えていないとなると、昨晩一体何が起こったのか、永遠に謎のままってことだね!まったく、不思議!」
「へぇ、そうですね。はは…」
「ははは………」
沈黙が流れた。なんだか早速気まずい雰囲気にも思えるが、それにしても思ってたよりはずっと簡単に関係修復が出来そうだとひとまず安心した。
「はぁ…ところでさ…」
軽くため息をついてから、オーリスが言った。
「ヌビクリヒュくんと一緒に来た人、どうしてそこの樽の後ろに隠れてるの?悪い人じゃないのはわかるけど、一体どちら様?うーん…どっかで覚えのある感じだけど、私の知ってる人かなあ…でもセリトさんじゃなさそうだし…あっ、まさか…いや、でもそんなはずは…」
玄関脇に置かれている樽の後ろには確かに男が一人隠れている。そして、――とても意外なことに――それは悪い人ではないそうだ。
「ええ、実は…」
私が事情を説明しようと口を開いたところ、またしても言葉が遮られた。オーリスが突然黄色い叫び声を発して飛び上がったからである。
「ひゃあ!うひゃあ!」
気でも触れたのかと思ったが、彼女の視線が向けられていたのは私の背後のすぐ傍の辺りだと気付いた。振り向くといつの間にか私の背後にはゼームが立っていた。この美少年の小慣れた微笑を見て私はすぐに理解した。彼はここらではやはり有名人なのだ。こんな辺鄙な山奥にこれほどの垢抜けた美男子が住んでいて、それがたまにしか山から下りてこないとなれば、その神秘性は村の女たちから崇拝の対象とされていても不思議ではないだろう。
「ゼーム様!!…じゃなかった。ゼームくん、やっぱりゼームくんだった!キャー!!ええっ、やはっ、ど、ど、どうしてここに!?ちょっとアイリス!ゼー…アイリス!一体どこ行ったの!」
樽の後ろに隠れて、最初に私だけで応対をさせたのは彼の提案だ。当然、オーリスの力とやらを試すためだ。驚きの登場でキャーキャー言われて喜ぶためではないと思う。
「こんにちは。私の身勝手な悪戯心で貴女を試すようなことをしてしまいました。まずはそれをお詫びいたします」
ゼームは微笑みを崩さず、両の掌を一度だけ軽く叩いて鳴らした。
「しかし、話に聞いたとおりだ。見事なものですね!ヌビクさんからあなた方の噂を聞き、お話ししたいと思い同行させていただきました。お互い顔も名前も見知っているようですし、自己紹介は無用でしょうか。ともあれ、こうしてお会いすることが出来てとても光栄です」
「見事?見事かな!?やだもう!ささ、なんだかよくわからないけど上がって。どうか上がってください!すぐお茶とか…ああ!お茶淹れるね!アイリス!どこ行ったの!」
彼女はすっかり有頂天になって私の存在など忘れてしまったようだった。私とゼームは靴の泥だけを軽く落とすと、オーリスに続いて室内へと入った。
私は昨日と同じ席に、促される前にさっさと腰を下ろした。昨日腰を下ろさずに椅子の脇に突っ立っていて気まずい思いをしたので、意識的に急いで座ったのだ。ゼームはと言えば、昨日セリトが座った席の前に立ち、オーリスの方へと振り向いたが、彼女は台所でこちらに背を向けて立っていたため、その視線は交わらなかった。彼は一瞬私の方へ目をやって動きを止めたものの、黙ったまますぐに腰を下ろした。どうやら座る前にオーリスに一言声をかけようと思ったらしいが、黙ってさっさと座ったマナー知らずの私に嫌味に捉えられるかもしれないと考慮し、仕方なくマナーを破ることを選んだのだろう。
そうだ。自分から声をかければよかったのだ。世慣れしていない私はそんな単純なことにも思い至らなかった。これはこれで結局昨日と同じくらい気まずいな…。
既に茶は沸かしてあったらしく、オーリスはすぐに陶器のコップを四つトレイに乗せて運んできた。湯気が出ていないのでおそらく冷やした茶だろう。茶を冷やして飲むのは熱帯であるノギントリ教国の文化であり、ここ帝国ではその習慣は本来無いはずなのだが、私の住んでいたテリモロ島も含め、このあたりの温暖な地域ではむしろ客に熱いままの茶を出すことのほうが少ないようだ。
「はい、お酒。なんちゃって!ふふふ、お茶だよ!そこにあるビスケットも食べてね。焼き芋とかふかし芋とかもあるけど食べる?…いや…いいか!で、何かな?さっき何か言ってたよね。何でも聞くよ!」
彼女はほとんどゼームの方だけを見てそう言ったが、申し訳程度に私の方へも一瞬だけちらりと視線を向けた。
ゼームが部屋の奥の扉の方へ目をやった。
「ええ…ところで、アイリスさんは…?」
「あの子は一体何やってるのかな!恥ずかしがり屋さんだからなあ。へっへっへ…。アイリス!あんたも来なよ!お茶淹れたよ!…多分今、髪梳いてるんじゃないかなあ。さすがに寝起きのまんまの姿をお客さんに見せるわけにもいかないからね」
私の目の前にはぼさぼさの髪のまま現れたにもかかわらず、ゼームの存在に気付いた途端に髪を梳かしに行ったということは、そういうことなのだろう。それ自体はまったく特別なことではないし、わかりきってもいたことなのでどうとも思わないのだが、悪気は無いのだろうがオーリスがそれを私にも聞こえるように口に出したことが妙に気になってしまい、私はまた少しだけ陰気な気分に落ちた。
すぐにオーリスと目が合った。
「…あれ…?私ちょっと、ひょっとしてなんかちょっぴりアレだった?なんか一人で盛り上がっちゃって…。ふうーっ。まあ、とりあえずあの子が来るまでのんびりお茶でも飲みながらお話しましょ。ね、ヌビクリヒュくん、ゼームくん」
彼女は急に我に返ったように落ち着き払ってそう言うと、少しだけびくついたような視線を私へ向けたような気がした。わざわざ改めて茶を勧めて、その際にゼームよりも私の名前を先に呼んだのは、私の気分が落ち込んだのを察して、それをさりげなくフォローしようとしたのかもしれない。恒例の私の自意識過剰の考え過ぎと言えばそれまでだが、今私たちが確かめようとしている彼女の力とやらが本物だった場合、私の心情の変化を敏感に察知したとしても不思議ではない。
どちらにせよ彼女のさりげないその態度で、つい一瞬前に暗い気分にされてしまったことなどどうでもよくなる程度に救われたのは確かだった。
「そう言えば今日はセリトさんは一緒じゃないんだね。彼、まだ怒ってる…?」
「何も覚えてないそうですよ」
「ああっ、そうか!そうだったね!」
私たちが一瞬だけ黙ると、ゼームが口を開いた。
「彼にもご一緒していただきたかったのですが、それをお願いしようと思った矢先に、何かを思い出したような様子で大急ぎでお帰りになられました。大事なご用事でもあったのでしょうか。ご存知ですか?ヌビクさん」
本当にそう思っているのか、わかった上でとぼけているのか、どうあれゼームはその微笑みを崩すことなく、言葉の続きを私へと渡したので、今度は私が口を開かざるを得なかった。
「…彼もああ見えて恥ずかしがり屋なんだよ…」
私はオーリスへ向き直った。
「いずれ改めて来ると思います。なんだかんだ言っても…セリトは謝罪することを誰かに丸投げするような男ではないでしょうから…」
そこまで言ってもう一度ゼームの方へ目をやると、その微笑が何やら意味深なものを含んでいることに気付いた。
「ええ、ヌビクさんがおっしゃるとおりだと思いますよ。彼はきっととても誠実な方ですからね。…先ほど私が…彼をそう評価した際にはヌビクさんは否定なさいましたが…やはりよくわかってらっしゃるじゃありませんか」
こいつ、またはめやがったのか。
「いや、いや、そうじゃないよ。あいつはキザな奴だからね。こういうことにはきっと拘るはずなんだ。いや、今回付いてこなかったのは…実際たまたま他に用事を思い出したんだろう。知らないけどね…多分そうさ…」
「急にどうされたんです?しかし、今のでようやく少しだけ判ったような気がします。ヌビクさんの人となりがね!貴方は少しだけ奇妙で、とても難解な方ですが、その実なかなか人間味が豊かな御人だ。最初からなんとなくそんな気がしていましたが!」
ゼームはついに悪戯ぽく歯を見せて笑った。どうやらこの男は、これまでそんなそぶりはまったく見せなかったのだが、先ほどの馬上での会話での私の返答に納得していなかったらしい。それでわざと私自身にそれを撤回させる旨の発言を誘導するよう謀ったのだろう。
「わけのわからんことを…!」
私はそれ以上言葉を返すことができず、そっぽを向くしかなかった。
「なんだかよくわからないけど、ヌビクリヒュくん、昨日初めてこの村に来たんだよねえ。なんかいきなりゼームくんと仲良しぽい感じじゃない!」
オーリスは本気で感心するような様子で目をきらきら輝かせて私を見た。それによってほんの一瞬だけちょっと良い気分になってしまったが、よく考えればたかがこれだけのことでいちいち特別視されると言うことは、私をゼームより他愛の無い存在だと認識しているからに違いない。実際ゼームと比較して私が他愛の無い存在だと言うのはどう考えても事実だし、それを何かといちいち意識していてはこの先どんどん暗い気分になっていってつらいだけだろうと言うのもわかっているのだが、私の心は随分と不器用に出来ているので、どうにもやはり考えないわけにはいかない。
「オーリスさん、嬉しいことをおっしゃいますね。ええ、ヌビクさんとはつい先ほど初めてお会いしたばかりですよ!しかしなんだか私は彼とは良い友達になれそうな気がします」
「…………」
その後、私が黙っていたので、ゼームとオーリスがお互いの身の上話を始めた。聞いた通り、彼らはお互い顔と名前は知っていても実際に言葉を交わすのはこれが初めてだったらしい。ゼームは、オーリスがそれほど遠くない過去にどこか遠くの地方からやってきた醸造士の娘だと言うことは他所からの伝聞で知っていたようだが、その具体的な素性までは知らなかったらしく、興味深げに相槌を打ちながら話を聞いていた。
ゼームもまた自らについて簡単に説明したが、その内容は、彼が我々のために山賊討伐の手助けをしているということ以外には、彼もまた数年前に他所の地方からノンドへと移住してきた余所者であるということだけで、一体どこからやってきたのか、どうして樹海で暮らしているのか、それらについては結局何もわからなかった。
私は横で俯き、テーブルの木目を見つめて他ごとを考えるふりをしながら聞き耳を立てていたのだが、どうにも彼は意図的に自らの素性を明かすのを避けているように感じられた。しかし腹の立つことに、彼は相手から話を引き出すのが上手く、自らのことを深く語らずとも会話は緩やかな流れに乗って整然と進行していった。
また妙な気分だった。昨日の酒が残っているせいだとは思えないが、酒酔いにとてもよく似た感覚だ。これはまずい。
ゼームとオーリスの楽しそうな話し声をじっと聴いていると、例の黒い何かが胃袋の中で転がり回っている感じがした。いたたまれなくなって顔を上げると、オーリスの笑顔が目に入った。胃袋で暴れていたそれが急激に持ち上がってきたのはその瞬間だった。私はそれを嘔吐感だと思い、驚きで咄嗟に口を押さえようとしたのだが、その動作よりも早く、その黒い何かは喉を駆け抜け、口の中を素通りし、脳天まで一気に登りつめてしまった。まったく別の感情だったらしい。何であれそれは歓迎すべきでないものだったのは確かだが、反面、陰気な興奮を伴う奇妙な恍惚に満ちたものでもあった。
会話に口を挟むタイミングはとっくに完全に逸しているのだが、この妙な興奮のせいでどうにも黙っているのが苦痛になってきた。今の会話の流れなど無視して横から無粋な突っ込みを入れることで無理矢理にでもゼームの素性を暴いてやろうと考え出した時だった。
「あ、やーっと出て来たよ」
オーリスの言葉ではっとして振り向くと、奥の扉が音も無く僅かに開いていた。中から誰かが顔を覗かせている。
すぐに扉は人が通れるだけの広さまで開けられた。現れたのは当然アイリスだ。私は彼女の両目が前髪に隠れることなく露出しているのを初めて見た。顎まで届く彼女の長い前髪は左右六対四の割合できちんと分け目が付けられており、先ほどのひどい寝癖は既にきちんと梳かされ、やわらかそうな栗色の髪をまっすぐ肩の上に降ろしていた。
彼女はやはりやや俯き加減で、口元の表情も堅いままではあったが、その目はオーリスほどではないものの、不自然ではない程度にやや大きく見開かれているように見えた。こんな顔は昨日は一度も見ることはなかった。
「こんにちは」
ゼームは朗らかに声をかけた。位置的に丁度私とアイリスの間にゼームが居る構図だったので、私は自分の顔を、アイリスからゼームの陰になって見えない角度へとわざと移動させた。
「ゼ、ゼ、ゼームさん。は、はじめまして。アイリスと言います」
私は彼女から挨拶をされた記憶がなかったのだが、彼女がゼームにだけ挨拶をし、私を無視したのは、私の顔が見えなかったからではないだろうし、かと言って悪意があってわざとそうしたわけでもないだろう。単に私のことがどうでもいいというだけだ。
目眩がする。やはりまずい。
「ええ、もちろん知っていますよ、アイリスさん。お会いできて光栄です」
アイリスは手と同じほうの足を同時に出しながら歩き、オーリスの隣の昨日と同じ席へと移動した。ゼームは例の百歳の老婆も卒倒させる微笑を顔面に湛えたままその姿を目で追った。
「よ、よろしく」
対して、席に着いたアイリスはまったく笑っていない。ゼームに良く思われたいと思っていないはずはないのだが、ひょっとしたら、笑った方が目の前の相手に好感を与えられるということを知らないのではないだろうか。もしくは笑い方自体を知らないのかもしれない。私は少なくとも自分の顔の筋肉をどう動かせば笑っているように見えるのかということぐらいは知っている。
「ほら、アイリス。ヌビクリヒュくんにも挨拶しなよ。さっき顔見ただけで何も言ってないでしょ」
余計なこと言わなくてもいいのに。
「こんにちは」
アイリスは短くそう言って、今にも舌打ちしそうな顔で私を一瞥した。
一瞬のことだったので、その感情がなんだったのかは把握していない。びっくりしたのかもしれない。今更驚くべきことなど何も起こってはいないのだが、それ以外に表現が見つからない。とにかく私は気味が悪いほど唐突に口を開いていた。
「なあ…!そろそろ本題に移らないかい」
危うく勢いに任せて立ち上がりかけたが踏みとどまった。
そして何故だか、またしても唐突に、ゼームへの強烈な憎悪を自覚したがすぐに我に返った。
私はアイリスの方へ視線を向ける気になれなかったが、彼女は私を睨んでいたかもしれない。アイリスにしてみればようやく自分が会話に参加できる準備が整ったと言うところで、邪魔者が自分と関係の無さそうな話の先を急かしたのだ。彼女にとっては不愉快なことだったろうし、他の二人もそれを察知できないほど無神経ではない。私の一言が空気を凍らせたのは間違い無いだろう。
「あっ、そうだったね。何か用事があったから来たんだよね」
オーリスはまたしてもはっとしたような顔を見せてそう言った。
本題に移らないか、などと言ってしまったが、そもそも私がここに来た本題と言うのは私自身が謝罪することだったはずだ。これではまるで私がゼームの用事のついでに付いて来ただけのように受け取れてしまうではないか。最悪の失言にもう一つ最悪のおまけが付いてしまった。
視界の端でゼームが私に目配せしたような気がした。
「そうでした。オーリスさんのお話が興味深いものでつい夢中になってしまいました。私は実はこの後、別の小隊の皆さんとの打ち合わせの予定が入っているので、あまり長居させていただくわけにはいかないのです。気を利かせてもらってすみません、ヌビクさん」
「…………」
つい今しがた憎んだばかりの色男にまた助け舟を出されてしまった。打ち合わせの予定とやらが実際にあるものなのかどうかは、わからない。どうあれ、唯一つの紛れもない真実は、何もかもが私の負けだということである。私は恥ずかしさのあまり呼吸すら止めて石のように完全に硬直した。助け舟など要らないからこのまま深海へ沈めて欲しい気分だった。
「わぁ、ごめんね。知らなかったもんで、長居してもらう気満々だったよ!ゆっくりしていってもらうのはまた今度だね」
オーリスは明らかに私を意識しながらも目線をゼームに向け、そわそわとした様子でそう言った。
「それじゃあ要件を聞くよ。一体何かな」
ガタガタ震えながらようやく右手を動かしてコップの茶に口を付けようとしている私の方をちらりと見やってから、ゼームは話を切り出した。
「オーリスさんの事に関しては、あくまでも私が、好奇心に負けてヌビクさんとセリトさんから無理に聞き出してしまったことなのですが…」
私を意識したその仕草は一体どういう意図なのかと思えば、どうやらまたしても私に気を遣っているらしい。私が初めて会った相手に対して女性の身の上をぺらぺら話すような男と思われないための予防線ということらしく、それ以上の意味はおそらく無いだろう。しかし本当に注意深い男だ。
「先ほど村の広場で彼らから、貴女の持つ特別な力についてのとても興味深い話をお聞きしました」
そこまで言うともう彼はまっすぐオーリスの目を見つめ、それから目を逸らすことはなかった。
「私がここへお伺いしようと思い立ったのは、つい先程のその時点が初めてだったのです。しかし私はこのような機会をもうずっと前から待ち望んでいた気がします。お話ししたように、私はテンベナ義兵団の皆さんの案内役として、彼らと共に森へ入ることになっています。…しかし私一人ではその役目は完璧とは言えない…。率直に申し上げます。私は今日、貴女の協力を乞うためにやってきたのです」
私は茶を噴出しかけた。
オーリスの背筋が伸びた。
「えっ?」
淡々と、しかし情熱を込めて喋るゼームを、オーリスはきょとんと眼を丸くして見つめ返している。若干、口も丸く開けている。
私も彼女と似たような顔をしていたかもしれない。ゼームは道中、オーリスの力に関して興味深いと口にしただけであり、危険な樹海への行軍に同行を乞うつもりがあるなどとは一言も口にしなかった。そもそも、超能力の存在を信じている様子を見せたことすら、ここへ来たいがための口実なのかもしれないと思えたほどだったのだ。
「僕は聞いてないぞ」
私はまたしてもほとんど咄嗟に、しかし独り言のようにぼそりとそう呟いた。それは別にオーリスに対する心配や正義感からではない。女性を戦いに巻き込む目論みの共犯者だと思われることでこれ以上自分の株を下げられてはたまらないという身勝手な考えと、ゼームに対する単純な反感からだ。
「いえ、もちろん強制するつもりも、またそんな権利も私には一切ありません。これはあくまでお願い…いや、提案と言うべきでしょうか…。私も女性を戦いに巻き込むことは本位ではないのです。お断りくださったほうが私はむしろ安心するかもしれません。しかし…」
そこまで言うと、彼は親指と人差し指で自らの細い顎を撫でながら、真紅色の瞳に物憂げな影を湛えて俯き、何かを考えるようにすこしだけ沈黙した。
また何か下らない茶番が始まっているようだ。この胸糞の悪い横っ面を張り飛ばしてやりたい。
ゼームが顔を上げた。
「このことはノラッド隊長以外の隊員の方にはお話していないのですが…私は奴らの住まう砦そのものよりも、そこへ至るまでの樹海こそが真に危険な天然の要塞だと考えています。迷路のような暗く深い樹海で待ち伏せする敵どもに対し、私たちは盲目も同然です。私は奴らの巡回路を回避した進攻ルートを提案し、私自身が部隊の目となることで可能な限り被害を減らそうと考えていますが、正直に申しまして、任務完了まで全員を無事に守りきれる確信はありません。いいえ…むしろ…先行して道を切り開く役割を担うノラッド小隊がいくらかの犠牲を払うことになるのは免れない…そう感じていると言わざるを得ません…。犠牲者となる可能性を持つのはヌビクさんや私自身も例外ではありません。…どうにかして危険を減らせないだろうか、皆の命を救うために私に出来ることはないだろうか…そう悩んでいた時に聞いたのが貴女の話です、オーリスさん。これは奇妙な偶然だ。天の導きと言えるかもしれない。貴女のその類稀な力があれば、樹海ですら開けた広野となんら変わりは無い。私たちは一切の犠牲を払うことなく、ノンドに平和をもたらすことができるかもしれないのです」
この男はやはり卑怯だ。善意のある人間ならば、人の命を餌に釣られてもなおきっぱりと断ることなどできるはずがない。何が提案だ。これが強制でなくてなんだと言うのだ。
ゼームは両手を組み合わせたまま、テーブルに肘を突いてその身を僅かに乗り出した。その深紅の瞳の奥で得体の知れない何かが渦巻いている。
「どうか私と共に来てください。オーリスさん。貴女の力が必要なんです」
『貴女が必要なんです』…これが決め台詞だったのだろう。声色が違っていた。
私はゼームに見つめられるオーリスの目をちらりと見てみたが、すぐに視線を逸らさざるを得なかった。
なんと哀れな女性だろうか。この場にいた者の中で最も哀れっぽいのはどう考えても私だがそれはとりあえず置いておいて、怪しげな美少年の口車に乗せられて危険な山賊狩りへと引き摺り出されそうになっているオーリスの哀れさもまた、私の首を直角に俯かせるに十分なものだった。もう見てはいられない。彼女の頬は真っ赤に紅潮していた。私も釣られて赤くなっていたかもしれない。
「ゼームくん…!」
熱に浮かされたようなオーリスの声がゼームを呼んだ。しかしその言葉の続きは椅子の足が木の床を蹴る鈍い音でかき消された。
「だ、駄目」
それもまた椅子の音で半ばかき消されていたが、小さく弱々しい震えるような声がかろうじて聞こえた。顔を上げると、アイリスが立ち上がっていた。声だけでなく、肩も震えて見えた。
「そんなのは駄目!あのおっかない連中のところなんて行っちゃ駄目だよ!絶対に殺されるよ!」
アイリスの両目は今度は明らかに不自然に見える程度にまで大きく見開かれていた。それは先ほどのような自分の顔を僅かでも可愛らしく見せようなどと言う乙女らしい意図などはまったく見られない。その瞳の中には驚愕と恐怖の色しか見つからなかった。
オーリスは震えながら自分を見下ろす妹をしばらく見つめた後、首を振った。
「アイリス、心配してくれてありがとう。でもゼームくんだって村のために無償で危険な山賊退治に同行するんだよ。それに…実はこれはずっと前から考えてた事でもあるんだ。私にできること、私にしかできないことがあるんじゃないかって。命懸けで頑張るゼームくんですらそれで悩んでるのに、私は何もせずただ隠れて待っているだけ…それで本当にいいのかな。どちらにせよ山賊たちがのさばり続ければ、遅かれ早かれこの村は終わりなんだ。連中が大挙してやってきた先月のこと、覚えてるでしょう?」
「ま、まさか、行く気なの?!」
オーリスを見つめて目を見開いたままのアイリスの首が、錆び付いた歯車のようにぎしぎしとゆっくり動き、ゼームのほうへ向いた。彼女と目が合ったゼームは指を組み合わせた両の手を一瞬自らの口元へ持っていこうとして、すぐにテーブルの上に戻すといった、あまり意味の無さそうな動作を見せた。動揺したのだろうか。ともあれアイリスが口を挟むことは予想していなかったように見えた。いい気味だ。
アイリスの言うとおり、これが命懸けの仕事なのは間違いない。ゼームの詐欺師まがいの口車と催眠術まがいの美男子力を持ってしても、オーリスが彼のこの要求をここまで即座に受け入れようとするのは私の予想を上回っていた。だが、彼女がこの件に関して常々そう言った考えを持っていたのであれば、それも不思議は無くなる。ゼームの誘いはこの上ない決断の引き金となるだろう。ゼームは彼女の気持ちを見抜いていたのか、彼女の心の内をいくらか代弁までして見せたのだ。
オーリスの力とやらが実際に彼女が言ったとおりの本物であることが大前提なのだが、そうだとすれば、彼女が作戦に参加し、その役割を十分に果たすことが出来れば死傷者を大幅に減らせるのは間違いないだろう。そしてこれは他人事ではない。私自身の生死もかかっているのだ。ゼームの言葉を聞いた時点では私は彼に対する反感からオーリスを参加させることに反対の意思を抱えていたのだが、冷静に考えるならこれは確かに私たちにとって大きな利となることだろう。
しかしいくつかの問題もある。
まず、私たち以外の隊員たちが彼女の超能力などをそうそう信用するかどうかだ。私ですらまだ半信半疑なのだ。隊長を始め皆が彼女の言葉に従わないのなら、連れて行ったところで居ないのと変わりはない。なんの意味も無く女性一人を危険に晒すだけだ。
第二に、彼女が傭兵団の行軍に付いて行けるかどうかだ。しかし彼女は私と比べたらよっぽど体力がありそうなので、これに関しては自分の心配をするほうが先かもしれない…。
そして第三の問題だが、ゼームの言葉が真実であるかどうかだ。この男が少なくとも我々傭兵団を欺いているのは確かにこの目で見たことだし、そればかりかそれに敵対する山賊団の連中のことも欺いていた。山賊どもも示し合わせて騙される演技していたとすれば別だが、そんな回りくどいことをするくらいならあの場で私一人を殺しておけば済んだのだからそれも有り得ない話だ。山賊と面識があることで傭兵団への信頼が崩れるためそれを隠している、と彼は説明したが、私はどうにもそれを鵜呑みにして彼を信用する気にはなれない。彼がオーリスを騙してその得体の知れない力を手に入れ、なにやら良からぬ企みを実行しないとも限らない。ゼームが傭兵団も山賊団も両方出し抜こうとする動機はある。要塞には財宝が埋蔵されているのだ。それすらもゼームの考えたデタラメである可能性も考えられるが、仮にそうだとすればそんな嘘をつく理由は不可解だし、何か私の想像の及ばないもっと別な企みがあるとも取れる。
「オーリスさんを加えた作戦は私が責任を持って計画します。その力が聞いた通りのものであるならば、危険が及ぶことはまずありません。それどころか山賊たちは貴女の姿を見つけることすらないでしょう。しかし万が一、攻撃を受けてしまうことがあったとしたら、その時は私が傍で必ずお守りします。命に代えても!」
またしても美形のみが使うことを許されているような台詞で力押しにかかってきた。隣で聞いていればその言葉は中身がまったくすかすかの空っぽなのは明らかで不愉快極まりないだけなのだが、実際に言われた当人がそれに気付くほど冷静で居られるのかどうかはわからない。私は思わずゼームを嘲笑してやりたくなったので、それを堪えるためにテーブル脇の床を見つめた。
「ゼ、ゼームくん、私…あっ!」
オーリスの裏返った声は途中で驚きの叫び声に変わった。
私は床を見つめていたので状況を視認していなかったのだが、それからほんの一瞬だけ奇妙な沈黙を置いて、今度はすぐ横で水がぶちまけられたような音がした。私の顔にいくらか飛沫がかかった。
顔を上げざるを得なかった。一体何が起こったのか。冷たい。
「ああっ、ちょっと!」
「一体、どうなさったんです」
オーリスとゼームが同時に叫んだ。
水の飛んできたほうを見ると、水の滴るいい男がうろたえた様子で仰け反っていた。ゼームはその美しい黒髪と白い顔に冷たい茶を浴びてびしょ濡れになっていた。
「おいっ!!ちょっと顔がいいからって図に乗ってんじゃないわよ!殺すぞ!!」
聞き覚えのある怒号が私の脳を揺らした。




