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星と羽虫  作者: 病気
第一章・異能の女たち
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11. 森の妖精



 ひどく狭く暗く臭い場所で私は目覚めた。小さな隙間から漏れている明かりを頼りに立ち上がる。どうやら明かりの漏れている場所は扉らしい。それを押して外に出て、現在地を確認する。廊下だ。


 どうやら私は宿舎の階段を上った先の廊下の突き当たりにある物置の中で雑巾や便所モップを枕に眠っていたようだ。意識を失った私は誰かによって宿舎まで運ばれたものの、全身の汚れと悪臭のあまりにひどさ故に寝室から蹴り出されてしまったのだろう。

 もしくは最初から嫌がらせ目的でここに押し込められた可能性もある。私を担ぎこんだ人物が誰なのかを考えると、むしろそちらの可能性のほうが有力と言えるかもしれない。


 ひどく頭が痛いが、どうやら正気のようだ。吐き気もするが、なんとか二本の足で歩ける程度には回復している。初めての飲酒の翌朝に二日酔いまで経験する羽目になってしまった。


 廊下に立ち尽くし、昨晩のことを思い出す。一部抜け落ちた記憶はやはりそのままだったが、この泥と汚物と血液だらけの衣服や、青く腫れ上がった手足の原因ははっきり覚えている。

 最悪だ。何故、私の頭はいっそのこと全てを忘れてくれなかったのだろうか。あの場に居た彼らにとって、私という人間に対する認識は一体どのような醜悪なものとなってしまったのだろう。特にあの女たちだ。酒をたかりに来た傭兵がただ飯を食らって大酒を飲んだ挙句大暴れして帰ったのだ。悪質なごろつき以外の何者でもない。


 結果としてこうなってしまった以上、彼女らと私の双方の心の平穏が保たれるであろう最善の手段は、もう二度と私があの場所へ出向かず、顔を見せないことだ。それに他無いに違いない。

 私がほとんど無意識的に胸の奥の何かを押し出すように大きくため息を吐くと、それと同時に、開け放した物置の戸の隙間から立ててあったモップがこちらに向かって倒れて乾いた音を立てた。それでようやく我に返った。


 太陽の位置を確認するために廊下の窓から顔を出すと、井戸のある小さな広場に小隊の他の連中が集まっているのが見えた。ノラッド隊長を扇形に囲んで皆で何やら難しい顔をしている様子から察するに、これからの作戦についての何かしらの大事な話をしているように思えた。太陽の位置は…真上だ。案の定なのだが、私はかなりひどい寝坊をしたらしい。


 今からひょっこり顔を出すべきか。ひどく気まずい。一体どんな顔で登場すべきだと言うのだ?それはやはりこんな顔だ。散々殴られてそこらじゅう青く腫れ上がった惨めな酔っ払いの顔だ。ああ、気付かなかった振りをして便所臭い物置の中へ帰ってまた寝ようか。


 そうしよう。


 窓から身を引き、踵を返して物置に向かおうとしたところ、背後に立っていた人物にぶつかりかけた。私はのけぞり、窓枠に後頭部をぶつけた。


「…おはよう」


 何を言っても気まずいはずだが、もし何も言わなければ言わないだけ秒単位で気まずさが加速していくことも予想できたので、私は咄嗟にそれだけ言い、それ以上は何も言えなかった。


 セリトは黙ったまま腕を組み、口をへの字に曲げてこちらを睨んでいる。彼の顔面はほとんど全体が青黒く腫れ上がっており、無数にある切り傷や擦り傷には化膿止めの軟膏が塗られていた。一瞬、鏡を見る手間が省けたなと思ったが、殴られた回数や顔面から地面に激突した回数を考えるにきっと私の顔は彼の倍は変形していることだろう。それに彼は既に全身の泥や血は洗い流していたし、トレードマークの金髪も整え終え、ツンツンに逆立てられていた。私はあれから水を浴びるどころか下着を変えてすらいない。彼の姿を見たところで私の姿の無様さ加減を想像するための参考としてはさほどあてにならない。


 腫れた顔からは表情が読み取りづらいが、背を向けて立ち去ったり、目があった途端に顔面を殴りつけてきたりなどしない時点で、私と会話をする気がそれなりにあるらしいことは察知できた。彼は私を試していたのだろうか。ともあれどうにかすれば、女たちは無理でも、彼ぐらいなら言い訳をさせてもらえるだけの関係修復が出来るかもしれない。


 私は黙って私の目を見るセリトへ、再び口を開いた。


「ああ…ええと、君はそんなに丸顔だったか…。肌の色もなんだか青黒い」


 気の利いたことを言おうとしても即座に思いつくものではない。むしろ意識し過ぎて混乱し、ほとんど挑発まがいの言葉が口をついて出てしまった。そして、言い終えるや否やのうちに、自分自身の発言の滑稽さと稚拙さのあまり、思わず噴出してしまった。


「昨晩のこと、どこまで覚えている」


 彼は私の会心の失言は無視して、眉一つ動すことなく、若干かすれて聞こえる低い声でそう言った。


「部分的に記憶が欠けてるけど、残念ながらこの有様の理由だけはよく覚えてるよ」


 セリトは腫れた瞼で開きの悪くなっている目をさらに細めると、左頬のひときわ大きく腫れた痣を忌々しそうに指で撫でた。


「…大人の社会で上手くやっていくための処世術を教えてやる。こういう時はまったく何も覚えてないと言うんだ。あの姉妹にまた会う時は必ずそうしろ」


 昨晩私の首根っこを捕まえて引き摺りながら、記憶が無いと言う私をさんざん非難したことを覚えていないのだろうか。


「テリの聖典の教えによると人を欺くことは罪になるらしいけど」


「けっ!貴様のような蛮人が聖典を読んだことがあったとは驚きだ」


 彼は背を向け、やはり私よりはいくらかましなものの明らかにふらついた足取りで階段のほうへと歩いて行った。外の広場へ行くつもりらしい。私は彼の向かう方向とは逆の、廊下の突き当たりの陽の差さない私の巣へと帰りたかったのだが、その背中は付いて来いと命令していた。私がそれに従わなければ彼はまた怒り狂って首根っこを捕まえに来るだろう。


 私は観念した。それに、私一人で隊の皆の前に姿を現すよりはずっといい。彼が代わりに色々説明してくれるだろうからだ。


 セリトは私が後から付いてくるのが当然だと言わんばかりに、階段を降りながら振り向きもせずに話し出した。


「聖テリはこうも言った。天が人に与えた至上の宝は慈愛の言葉であり、悪魔が人に与えた最悪の凶器は破壊の言葉である、と。要するに、聞けば誰もが嫌なことを思い出してしまう破壊の真実を語るより、誰もが不幸にならずに済む慈愛の嘘を語るほうがより徳の高い行いだと言うことだ。貴様のケダモノの脳みそでも理解できたか?」


「長いな…嘘も方便ってことだろ」


 言っていることは理解できるし、おおむね同意もするのだが、いちいち大仰な神の言葉を借りて話されると、むしろ逆に胡散臭い屁理屈のように聞こえてくる。大体、破壊の言葉とやらはこいつの得意技だろう。


「君は昨晩のこと、どこまで覚えてるんだ」


「忘れた。全て忘れたな!全て!」


「そうかい。つまり、僕よりひどく酔ってたってことだな」


 そう言って、五、六段ほど残っていた階段を無言で降り終えるとすぐ、振り向きもせずに踵で足を踏みつけられた。


「二日酔いらしいな。なにせ貴様は適度に酒が入っているほうが気の利いた冗談が言えるようだからな。面白いからいずれまた飲ませてやる。だが、その時は両手両足を縛っておいたほうが良さそうだ」


 後ろを歩いている私にはその表情を見ることはできないが、奇妙なことに、彼の言葉はなんとなく明るく響いたように思われた。少なくとも、昨晩の一件で私を咎める意思は感じられなかった。


 曖昧にだが少しだけ思い出した。こいつはあの馬鹿騒ぎの間ずっと、随分楽しそうに笑っていた。もしかしたら彼は私とは違い、昨晩の一件を記憶と記録から抹消したいほどに忌まわしいものとは考えていないのかもしれない。そう感じた。そればかりかむしろ、私をからかう良い口実がまた一つ増えて喜んでいるぐらいのようにすら思えた。


「昨晩…僕をここまで運んでくれたのも君かい。結構な距離があったと思うが」


「全て忘れたと言っただろう」


 後になって考えると、私がこの金髪男に対する評価を大きく見直したのは、きっとこの会話がきっかけだったように思う。


 しかし、このすぐ後の出来事によって、私の中に芽生えかけたほとんど無自覚の彼に対する仲間意識は、私の魂の深い部分に宿った焦燥や恐怖、そして嫉妬の感情の種すらをも芽生えさせる直接の理由となってしまった。




 玄関の戸を開けると、ノラッド小隊の全員が一斉にこちらを振り向いた。先にも一度書いたが、私は大勢の人間から明確な意思を持って同時に視線を浴びることが非常に苦手だ。きっと二日酔いでなかったとしても眩暈を覚えることだろう。やはりセリトと共に来たのは正解だった。


 私たちの姿を見るや、ノラッド小隊はざわつき、各々が驚きや嘲りの表情を浮かべていたが、昨晩か今朝のうちにセリトと会っていたであろう事情を知っている一握りの者が私たちの全身の傷について説明すると、波紋のように嘲り顔が隊員たちに広がっていった。最初に驚き顔を見せていた隊員全員が嘲り顔に染まり切ると同時にどっと笑いが起きた。

 事情を知らない者には、一見すると私たちが昨晩に賊どもから襲撃を受けたようにしか見えなかったのだろう。それが驚き顔の原因だ。特に私はそれだけひどい姿をしていたのだ。


「村中の酒が山賊どもに巻き上げられちまったって聞いてたのにさ。一体どこで見つけたのやら。そう、こんなにまでなれるほどの酒をね!なあ、俺は彼らを尊敬するよ。顔中にくっついた泥の塊はまるで邪悪な敵を倒して付いた返り血のように光り輝いて見えてこないかね!いや、実際邪悪な人間の血も混じってるかもしれんが」


「まったくだ!いやあ、正直、軟弱な根暗といけすかないボンボンだと思ってたがよ、意外や意外、随分気合の入った新入りたちじゃねえか。見くびっとったわ。こりゃノラッド小隊も、延いてはテンベナ義兵団も安泰だ」


 そう言ったのは比較的古参らしい色黒の隊員と、顔の下半分を荒々しい白髭で覆った巨躯の初老の隊員だ。名前は覚えていない。彼らに限らず、私は副隊長未満の者の名前はほとんど覚えていないし、なんとなく覚えているいくつかの名も顔と一致しない。どうせ彼らのほうでも私のことなど、やかましく鳴いて存在を主張している道端の小虫よりはるかに気に留める必要性の薄い存在だっただろう。今この瞬間はそうではないかもしれないが、きっと数日経ってほとぼりが冷めればまた私のことなどすぐに忘れる。


 彼らが馬鹿笑いしながら私の肩や頭を叩いていると、横からおもむろにチンピラ副隊長リデオが顔を覗かせた。


「ああ安泰だとも。他の奴らに一滴も飲ませまいと外で飲めるだけ飲んで一本も持ち帰っちゃこねえんだからな!まったく豪気な奴らだぜ」


 言い回しに若干引っかかりを覚えたので、一瞬考えてみたらすぐに思い出した。昨日はそもそも彼の命令で酒を取りに行ったのだった。この瞬間までそれを完全に忘れていたのだが、とりあえずこの場では咎められる様子は無い。しかしこれからは、ノラッドやロウィス、またはセリトが居ない場所でリデオと会うのは避けたほうがいいかもしれない。


 セリトはノラッドを囲む扇状の輪の端に加わると、背筋を伸ばし、静かだがよく通る声で言った。


「ご覧の有様故、遅れました。何の話をしておいでか。私が自らの無様な姿によって軍議を中断させてしまうことは本位ではありません」


 青く腫らした顔で堂々と胸を張る姿が滑稽だったのか、隊員たちの何人かは含み笑いを漏らしていたが、セリトはまったくそれに動じる様子は無い。本当に大器なのか、単にへそを曲げて嘲笑を見て見ぬふりしているだけなのか私には判別できなかったが、その姿を目の当たりにし、おまえの勝ちだと言わんばかりに口笛を吹く者も居た。


 私はまるでセリトの召使のように、彼の斜め後ろの至近距離にくっついて輪に加わった。


 止まないざわつきの中、ノラッドが言う。


「セリトよ、君は正規の隊員ではないが…俺たちは命を懸けた仕事のためにここに来ているんだ。俺が何を言わんとしているかは、わかってくれるな」


 その声の調子自体はとても穏やかだったが、ノラッドのその視線はいつもよりもやや鋭く見え、言葉は鋼のような重量を持ってゆっくりと強く耳の奥を押したように感じた。…強く諌めようとしている…何故そのような、語調とは裏腹の印象を受けたのか、はっきりとした理由はわからないが、空気でなんとなくそう感じ取ることができた。周りに視線をやると、他の隊員たちもそれを理解しているらしい様子を見せていた。ノラッドが部下を注意する際のいつものやり方なのかもしれない。それは心の不安定な者なら目が合った瞬間すくみ上がるかもしれないような威圧感があったが、セリトはやはりまったく物怖じせず、仰々しくも瞳を伏せ、右の拳を左胸に添えて即答した。


「勿論わかりますとも。どうかそれ以上は言ってくださいますな。このような姿を白昼に晒し、恥辱に甘んじることを選ばざるを得なかった私の苦悩に免じてどうかお許し願いたい。今後迂闊な行動を慎むことは、この右手に誓いましょう」


 剣を握る右手に誓いを立てるのは帝国軍人の流儀だと読んだことがある。酒を飲んで暴れた件に関する謝罪ごときでいちいちキザな奴だ。

 …私にはまったく白けた茶番にしか見えなかったのだが、不思議なことにこの応答でセリトは皆の理解を得てしまった。右手を胸に当てたまま、目を上げ、顎をやや逸らしノラッドをまっすぐ見据えるその姿に向けて喝采を送る隊員まで現れ始めた。再び響いた口笛の音も先ほどより賑やかになっていた。


 根の性格が傭兵向きでないはずの私にはいまいち理解できないのだが、野に生きる傭兵という肩書きの者たちは格式を重んじる騎士や、騎士のような振る舞いに潜在的に憧れでも持っているものなのかもしれない。見ると、もはや彼に向けて嘲笑を送っている者は、リデオやその取り巻きたちも含め、私の視界には誰一人いなくなっていた。その場に居た中で私の視界に入らない者、つまり私自身だけが、彼の態度に漠然とした不快感を覚えていた。


 彼は私には決して真似できない手段を用いて、こんなにも簡単に皆に受け入れられてしまった。私はそれに苛立っていたのかもしれない。または、彼がこのささやかな窮地から一足先に脱してしまったことで、まるで置き去りされたかのような不安を覚え、それが彼に対する逆恨みと言う形で私の心に火を点したのかもしれない。

 ともかく、この暖かい喝采の渦の中で、全身が急速に冷え込むように感じたのは確かに覚えている。入隊したばかりの頃や、レニタフが死んだ後、常に私の傍らに付き添っていた疎外感という存在を苦痛と認識したことはこれまで一度も無かったはずだった。


 この時点ではこの現象の意味が理解できなかったのだが、きっと私は本心では自分もセリトのように彼らに受け入れられたかったのかもしれない。しかしそれは不可能なことだ。自分は決して集団に溶け込めるはずがない。なんの根拠も無いにも関わらず、それは予感と言った曖昧なものではなく、私の中でほとんど確信に近い感覚としてそこにあった。


 真に孤独であれば疎外感など無視してしまえる。しかし先に書いた、私がセリトに対して無意識に感じ始めていた仲間意識が、私自身を孤独から救うかもしれない微かな希望となってしまったのだろう。希望を持つことは、それを手に出来なかった結果を想像させてしまうことに繋がる。そしてその想像は焦燥や恐怖を生み出してしまう。光り差す希望の元に曝されることは、希望の一切無い暗黒の世界に引き篭もることと比べてどれだけ苦痛に満ちたものだろうか。


 しかしそんなことを考えたのはもっとずっと後のことだ。私はこの時、この正体不明の嘔吐感は炎天下の熱気と二日酔いによるものだと自分の中で答えを出した。


 ノラッドは、向かいの家の屋根をじっと見つめながら口を半開きにさせていた私のほうへ向き直ると、私に対しても例の威圧的な視線を持っていくらか注意をしたが、私が上の空であることに気付いたのか、私がはっきりとした返答や謝罪をしなかったにもかかわらず、ほどほどでそれを打ち切ってしまった。この時の半ば呆れた様子のノラッドの態度も私の中の疎外感を助長した。怒鳴られたほうがまだましだったかもしれない。しかしそれに気付いたのもまたずっと後だ。私は自分の中に芽生えた感情を理解できるほど、また理解しようと試みられるほど冷静ではなかった。


 泥まみれの服の内側に汗が溜まっていくのを感じた。眩暈はどんどん強くなり、視界は毒々しい虹色に光りだした。


 陽が雲に翳り、一瞬涼しげな風が吹き抜けた。その時唐突に、まったく別の新たな、猛烈に不快などす黒い何かが、そよ風と共に私の胸に吹き付けたような気がした。私の足元はふらつき、感覚を失った。私は背後へゆっくりと傾き、全身は空を仰いだ。


 限界だ。


「危ない!しっかり!」


 背後から聞き慣れない鋭い声がした。誰かがこちらに駆け寄る足音も聞こえた。

 その美しい中性的な声は別世界へ旅立ちかけていた私の意識を引き摺り戻すに十分な強さを持っていたが、何故だかその声に従うことが非常に屈辱的なことのように思えた。私はそれを無視してそのまま背後へ倒れることにした。


 しかし私の体は地面に激突する前に停止した。力強い腕が、両肩から腰にかけて私の背後をしっかりと抱いている感覚がある。不快な美声の主が私の体と地面の間に滑り込んできたのだろう。


「大丈夫ですか…?可哀想に。こんなぼろぼろの体でずっとこの炎天下に立っていたのですか…。倒れるのも無理はありません」


 そう言った優しい声はやはり何故か私の胸には不快に響いた。何が無理もありませんだバカ。突っ立ってるだけで倒れるような傭兵が当たり前に居て堪るものか。


 その人物は曲げた膝の上に私の背を乗せるような形で座り込み、そのまま私の顔を逆さまに覗きこんだ。その顔を一目見た衝撃によって、曖昧だった私の意識は即座に完全に覚醒した。


「えっ?うはぁっ!」


 私は驚きによって飛び上がり、そのまま目の前の土の上に肩から突っ込んでごろごろと横向きに二回転ほどすると、その勢いのまま体を跳ね起こし、即座に背後を振り向いてその人物を見た。


 見たことの無い…男だ。

 その煌くようにつややかな真っ白い肌の、線の細い整った顔を見た瞬間は女性かとも思ったのだが、首から下の骨格や筋肉の付き具合から見るとどうやら男性であるらしいことはすぐにわかった。正面から改めて見ると、女性的に思えたその顔だちは、全体の形状は細く滑らかながらも僅かに男性的な凹凸が見られたし、目鼻口のそれぞれの位置も、女性の理想的とされている顔と比べてわずかだが縦に広がった配置、すなわち女性としてよりも男性としての理想のものに近いことがすぐに見て取れた。一瞬だけ女性的な印象を受けた原因は、磨かれた黒曜石のように漆黒に光る髪もそうだが、最もたるはその印象的な目元だろう。吸い込まれそうに大きな赤い瞳はまるで、私のような下賎の者などには一生見る機会すら与えられないほどの極めて高価な宝石のようで、とても長い不思議な銀色の睫毛は宝石に添えられたプラチナの鎖のように、燃える瞳との対比を強調して冷たく静かに輝いていた。鼻の形もまた美しく、高く尖っており、かと言って見飽きた隣の金髪男のように嫌味なまでに高過ぎたり攻撃的なまでに尖り過ぎたりすることはなく、極めて上品な程よい加減に抑えられていた。顎もまた同様に、食べ物を数回咀嚼するだけで疲労してしまうのではないかと言う程に上品に尖っていた。

 要するに、輝くほどに美しい、この上ないほどの美男子だ。歳は十代後半と言ったところだろうか。どうやら私はどさくさに絶世の美男子に膝枕をされていたらしい。


「ははは、その動きを見る限り大丈夫そうだ。目にももうはっきりとした意識が見られますね。ですが、念のため水をお飲みになったほうがいい」


 彼は微笑みながら立ち上がると私のほうへ歩み寄り、腰に提げていた水筒を差し出した。私はその目を見たまま軽く会釈をしてそれを受け取り、中のぬるま湯を遠慮無く飲み干した。


 彼が完璧なのは顔に限ったことではなかった。その背丈は世の男性の平均より少なからず高いものの、それでも過度に高すぎることはない絶妙な加減だった。身長だけではない、やや華奢ではあるが決して体力的に劣っているようには見えない無駄の無い筋肉や肩幅の加減までもがまったく理想的な美形ぶりで、そして控えめな色合いながらも趣味の良い清潔そうなシャツの襟元には聖衣のような神秘的な刺繍が入れられていた。立ち姿も芸術的だった。まるで英雄の彫像のように片足を少しだけ前に出し、拳を腰のやや下辺りまで上げてポーズを取っている。やはり少々キザったらしいが、セリトのわざとらしいそれと比べるとはるかに自然に見えるし、また似合っている。


「なんだこりゃ、おい、こんなことがあっていいのか。今すぐこれ帝都美術館へ運べよ。いや、この村に帝都美術館を移設したっていい。今日からここが帝都だ」


 突然の謎の美男子の出現は、男だらけの傭兵団にすらかなりの衝撃だったらしい。リデオが大きな三白眼をまん丸に見開いてそんなことを言っていた。先ほど笑いながら私の肩や頭を叩いていた色黒の古参隊員が言葉を継いだ。


「むしろ美術館の彫刻が動き出してここまで逃げてきたんじゃねぇのか。なあ、誰…あっ、まさかとは思うけどさ…ノラッドよ…」


 彼がノラッドに呼びかけると、全員がはっと我に返ったように彼のほうへ向き直った。ノラッドは咳払いをしてから落ち着いて言った。


「うむ、話が中断されてしまっていたが、彼こそが件の少年だ。紹介しよう。樹海の中で我々が迷わないよう目的地まで案内してくれる、きこりのゼームだ」


「きこり?きこりだって!」


 再びざわつき始めていた傭兵達はもはや騒然となった。

 遅れてきた私たちはその話とやらを聞いていないのだが、状況は想像に容易かった。少し考えればすぐにわかったことなのだろうが、確かに樹海の中を案内も無しに移動できるはずがない。村人の中から森に詳しい者を雇い先導させるのが道理だ。おそらく、ノラッド小隊がここへ来る前から既に到着していたベナラハタ小隊の誰かがこの男を見つけてきたのだろう。


「ご紹介に与りました、きこりのゼームです。戦いには参加できませんが、森に関しては村の誰よりも、いや、ここより一週間以内で行ける範囲であれば世界の誰よりも詳しいと自負しています。今朝、私は陽が昇ってから家を出ましたが…ほら、ご覧ください。南南東の位置に密林から突き出した鋭い岩山が見えるでしょう。私はあのジフリ岩の麓の辺りで暮らしています。私は自分の住処までなら…途中で大きな滝や大地の裂け目などもありますが…目を閉じていたって辿り着くことが出来ますよ。皆さん、どうか安心してお任せください」


 その岩山とやらは雲に隠れていてすぐにはよく見えなかったが、目を凝らすと確かにセリトの金髪のように邪悪そうに尖った小さな棘のようなものが木々の中から突き出しているのに気付いた。広大な森のせいで距離感がいまいち掴みきれないが、私の脚なら例え見通しの良い平らな道だったとしても少なくとも一昼夜かかりそうなほど遠くに見えた。


「へえ!そんななりして、そんな若さでたった一人で樹海暮らしですかい。もったいねえですなあ、もったいねえ!私があんたみたいな顔で生まれてりゃ毎日毎日朝から晩までデウィノトジグの城下中央通りの真ん中で黙って突っ立ってたでしょうよ!そんでもってただそれだけでも毎日遊んで暮らせるだけの金を稼げた自信があるねえ!」


 そう言った痩せた中年隊員の顔は日焼けのせいでところどころ皮がめくれており、下唇は刀傷なのか中央の辺りから裂けていた。


「樹海暮らしなぁ…都会の芸術じゃなく、森の妖精だったか」


 リデオが再び口を開くと、皆は妖精と言う比喩が気に入ったらしく、手を叩いて大騒ぎし出した。


「妖精か!そりゃ、まさに!よお、よろしく妖精さん!」


「ははは、面白い方々だ。皆さんとは、考えてたよりもずっと上手くやっていけそうな気がします。短い間ですがどうかよろしくお願いしますね」


 ゼームは百歳の老婆すら一瞬で恋に落ちてそのまま昇天するような屈託のない微笑を湛えたまま、まるで貴族のような洗練された動作で深く一礼した。


 いけ好かない野郎だ。



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