第2話 黄金のポトフと、琥珀の檻
翌朝、城の空気は明らかに変質していた。昨日まで肺を刺していた死の気配が、消えている。石造りの廊下を歩く召使いたちの足取りは落ち着かない。誰もが理由を知りたくて、しかし口に出せずにいる。その視線は、主の居室と厨房の間を、恐る恐る、しかし期待に満ちて行き来していた。
それもそのはずだ。十年間、食事を「砂を噛むような義務」としてのみ処理してきた死神公爵が、昨夜、厨房で「余り物」のスープを二杯も完食したという。その奇跡を起こしたのは、ラインハルト男爵家から「身代わり」として送り込まれた、あの痩せっぽちの令嬢だった。
「……閣下が、笑われたらしい」
「馬鹿を言え、あの鉄面皮の閣下が。だが、完食されたのは事実だ」
使用人たちのささやきをよそに、エルナは新しい「朝」を迎えていた。
枕元に置かれていたのは、実家での十九年間で一度も見たことがないほど上質な、カシミアの室内着だった。昨日まで着ていた、母の形見を接ぎ合わせた灰色のドレスは、ハンスによって「あまりに忍びない」とどこかへ片付けられていた(後日、新品同様の姿になった形見のドレスが戻ってきたのだが)ときは、少しだけ胸が痛んだ。それでも、その優しさに胸が熱くなった。
「これ、本当に私が着ていいのかしら……」
エルナは、恐る恐るその柔らかな布地に袖を通した。肌を刺すような寒さも、実家で毎日浴びせられた「汚らわしい」「寄生虫」という罵声もない。ただ、遠くで雪が降る音と、暖炉が爆ぜる音だけが聞こえる。その静寂さえ、今の彼女にとっては過分な贅沢に思えた。
一方、ギルベルト・フォン・シュバルツバルトは執務室で、己の視界を再確認していた。その存在だけで室温が下がる。人ではなく、概念が立っているようだった。窓から見える景色は、相変わらず彩度を欠いた白と黒の世界だ。デスクに置かれた最高級の万年筆も、インク壺も、彼にとってはただの「明度の差」でしかない。だが、昨夜の残像は、脳の裏側に強烈な熱を伴って居座っている。黄金色のスープ。そして、彼女の頬を染めたあの「赤」。
「……合理的だ。実に、正しい」
ギルベルトは、書類を置く手がわずかに震えているのを自覚した。シュバルツバルト家の呪い───魔力を生み出す対価として奪われる五感。だが、エルナが「幸福」を感じる瞬間に立ち会えば、彼女の溢れた感情が「色彩」となって彼の脳を直撃する。それは、彼が十年間渇望し、そして諦めた「世界」そのものだった。
「彼女を最高の状態で飼育し、良質な『幸福』を抽出すること。それは公爵家領主としての、防衛能力維持のための義務である」
彼は自分自身に、そう冷徹な論理を突きつけた。そう名付けなければ、あの琥珀色の瞳を今すぐ手元に置き、その唇を味わいたいという猛烈な独占欲に、理性が飲み込まれてしまいそうだったからだ。
その「合理的な義務」は、即座に実力行使へと移された。
「閣下ッ!! 私は、カイル・フォン・カレウスは、断固としてこの予算案に反対いたします!」
執務室に、会計顧問カイルの絶叫が響き渡った。彼は眼鏡を激しく揺らし、一通のリストをギルベルトの机に叩きつける。
「東の塔を丸ごと改装!? 宝石商に、王都一の絹織物商を呼びつける!? しかも、エルナ様の朝食のために、南方の特級農園を一つ丸ごと買い取るなど、正気の沙汰ではありません!」
「……カイル。彼女の昨夜のスープの原価はいくらだった」
「は? ええと、鶏ガラと萎びた人参ですから、ほぼゼロに等しいですが……」
「その『ほぼゼロ』の料理が、私に色彩を見せた。その価値を、君は計算できるのか?」
ギルベルトの銀の瞳が、絶対零度の鋭さでカイルを射抜く。
「彼女の微笑み一回は、我が領の十年分の税収に匹敵する。……いや、百年分でも安い。彼女が『空腹』や『不安』を感じる一瞬は、我が領にとって致命的な国益の損失だ」
「理屈が……っ! 理屈が飛躍しすぎています閣下!」
カイルは天を仰いだ。数学と理論を信奉する彼の脳内で、もはや計算式は成立しなかった。「合理」という名の鎧を纏った、公爵による過去最大規模の「私物化」が始まろうとしている。
昼時、東の塔のダイニング。エルナは、目の前に並べられた豪奢な料理の数々に圧倒されていた。実家では、父ヨアヒムと義姉クラリッサが肉を頬張る傍らで、床に落ちたパンの耳を拾うことさえ許されなかったというのに。
「……閣下、これは何かの間違いではありませんか? 私のような、身代わりの女に、このような……」
「黙って食べろ。これは命令だ」
ギルベルトは、エルナを椅子に座らせるのではなく、自らの膝の上に座らせた。屈強な腕が、彼女の細すぎる腰を囲い込む。エルナは緊張で硬直したが、ギルベルトの手から差し出された、黄金色のポトフの香りに抗うことはできなかった。
「おいしい……。こんなに、優しい味がするなんて……」
エルナが一口含んだ、その瞬間。ギルベルトの視界が、黄金に爆ぜた。ポトフの湯気が柔らかな白に輝き、エルナの頬には朝焼けのような薄紅が差す。
「……もっとだ。もっと詳細に、何を感じたか報告しろ」
「え……? 甘いです。人参が、土の中で大切に守られてきたような……。じゃがいもが、ほくほくして、お母さんの手のひらみたいに温かくて……」
言葉が、色になる。彼女が実家で受けた虐待の記憶を上書きするように、新たな「幸福」を刻み込んでいく。
その幸福が純粋であればあるほど、ギルベルトの視界は鮮明になり、彼の呪いは一時的な安らぎを得る。だが、その安らぎは「依存」という猛毒を伴っていた。
「……いいか、エルナ」
ギルベルトは、彼女の琥珀色の瞳を、銀の瞳で真っ直ぐに捕らえた。
「君の感覚は、私のものだ。君が味わう甘みも、温かさも、喜びも、すべて私が買い取った。誰にも、一滴の喜びも分かち合うことは許さない」
「買い取った……?」
エルナは首を傾げた。「身代わり」として売られた自分。でも、その自分を「買い取った」と言うこの男の瞳は、実家の家族が見せた「ゴミを見るような目」ではなく、まるで、世界で唯一の宝物を見つめるような、狂おしい熱を帯びていた。
「……はい、閣下。私が幸せでいることが、閣下のお役に立つのなら……私、一生懸命、幸せになります」
そのあまりに無垢な、そして残酷な「幸福への誓い」。その瞬間、視界に見たこともないほど柔らかな「桃色」が溢れた。
ギルベルトは目を細め、彼女の首筋に深く顔を埋めた。依存、渇き、独占。それはもはや「合理的」な防衛手段などはない。彼は、彼女という名の色彩の檻を、自分の魂の周囲に築き始めていた。
窓の外、雪は降り続く。だが、氷の城の内側では、色彩の徴収という名の、甘美な略奪が加速していく。




