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死神公爵のモノクロな世界は、身代わり令嬢の「おいしい」で色彩に染まる  作者: 宮野夏樹


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第1話 氷の城と、最後のご馳走


 シュバルツバルト公爵領の世界は、白に支配されていた。空からは絶え間なく灰色の雪が降り注ぎ、大地は永久凍土のような静寂に包まれている。その凍てついた王国へ、一台の馬車がきしみながら入っていった。


 車体はあちこちの塗装が剥げ、車輪は雪に足を取られるたびに悲鳴を上げている。それはまるで、主を失いかけているラインハルト男爵家の家運の断末魔そのものだった。馬車の中に座るエルナ・フォン・ラインハルトは、感覚の薄れた指先で、首元に触れた。


 そこにあるはずの、亡き母の形見であったサファイアのペンダントは、もうない。三日前、義母のベアトリクスによって「身代わりに嫁ぐのだから、これくらいのお礼は置いていきなさい」と、爪が皮膚に食い込み、鎖と一緒に血が跳ねた。痛みより先に、諦めが来た。


「……身代わり」


 エルナは、白く濁った窓の外を見つめ、小さく呟いた。十九歳の彼女が纏っているのは、一世代前の流行を模した、擦り切れた灰色のドレスだ。それはかつて彼女の実母が愛用していたものだが、後妻とその連れ子によってズタズタに切り刻まれ、エルナが夜な夜な涙を堪えながら接ぎ合わせた「服の形をした布の遺体」であった。


 ラインハルト男爵家。そこはエルナにとって、温かな家庭などではなかった。実母は、資産家令嬢であったその富を、父ヨアヒムによって使い果たされた。結婚前から愛人関係にあったベアトリクスと、その娘───実は父との不倫の末に生まれた異母姉であるクラリッサ。実母が「不審な急死」を遂げた直後、彼女たちは正妻の座に居座り、エルナからすべてを奪った。


 名ばかりの令嬢。給仕以下───いや、物の方がまだ丁重に扱われていた。食事は残飯。寝床は隙間風の入る屋根裏。そして、父からは「お前は呪われた女の血を引いている。生きているだけで罪だ」と罵られ続けてきた。


『死神公爵への嫁入りは、お前にとって過ぎた贅沢だ。精々、食い殺されるまで大人しくしていろ』


 父の最後の言葉を思い出し、エルナは自嘲気味に目を伏せた。絶望は、なかった。ただ、場所が変わるだけだ。これまでの地獄が、少し冷たい地獄に変わるだけ。そう自分に言い聞かせた。




 城門が重厚な音を立てて開く。馬車が止まり、扉が開かれる。冷気が一気に流れ込み、エルナの細い体を震わせた。


 そこで彼女を待っていたのは、想像していた「醜い怪物」ではなかった。玄関に立っていた男は、漆黒の髪を一糸乱れず後ろへ流し、黒の正装に身を包んでいた。


 傷ひとつない白磁の貌。だが、その銀色の瞳を見た瞬間、エルナは息を呑んだ。そこに宿っているのは、氷壁の奥底にあるような「絶対的な無」だった。見つめられた瞬間、肺が呼吸を忘れた。生き物として見られていない───そう本能が理解したからだ。


「……ラインハルト男爵令嬢か」


 ギルベルト・フォン・シュバルツバルト。その声は、驚くほどに乾いていた。


「は、はい。エルナと申します。……身代わりに、参りました」


 エルナのその言葉に、ギルベルトの眉がわずかに動いた。彼は、彼女の擦り切れたドレスの袖口から覗く、あかぎれだらけの手を、そして、あまりに痩せ細った首筋を、冷徹に一瞥する。


「君には何も期待しない。死なぬ程度に生きろ。城の秩序を乱さぬ限り、存在を許す」


 それだけを告げると、彼はエルナの返事も待たずに踵を返した。祝福も歓迎もない。だが、エルナは少しだけ安心した。少なくとも、ここでは「お前は呪われている」と怒鳴る声も、平手打ちも飛んでこないのだから。


 案内された部屋は、北棟の最上階。暖炉の火は細いが、清潔な寝具があった。エルナは、冷え切ったベッドに横たわった。実家の硬い床とは違う感触に、彼女の意識は深い泥の中へと沈んでいった。




 夜半。胃の腑を焼くような空腹で目が覚めた。丸二日、水以外に何も口にしていなかったのだ。


 エルナは、おそるおそる部屋を出た。廊下を歩いていると、鉄仮面のような執事長ハンスが現れた。


「……奥様。厨房の使用を、誰も止めはいたしません。お好きなように」


 その言葉に、エルナは深く頭を下げた。厨房には、贅沢な食材の陰に、見放された「余り物」があった。───宝物だ、と胸の奥が震えた。硬くなり、皮を剥かれかけた人参。萎びたじゃがいも。出汁を取った後の鶏ガラ。実家の寄生虫たちなら迷わず捨て、エルナにさえ与えなかった代物だ。


「……ごめんね。まだ、おいしくなれるのに」


 エルナの指先が動く。虐げられ、限られた食材で「自分を生かすための食事」を作り続けてきた彼女の手つきは、料理ではなく術式だった。鶏ガラを丁寧に煮出し、野菜の甘みを引き出す。味付けは塩をひとつまみ。


 やがて、厨房の冷たい空気の中に、魂を溶かすような優しい香りが漂い始めた。


「……いただきます」


 一口、黄金のスープを啜る。人参の土の香り。鶏の慈悲深い旨味。


「……おいしい。生きてる……私、まだ、生きてていいんだ」


 涙が、味を変えた。塩ではない。赦しの味だった。誰にも届かない独り言。エルナの瞳から、一筋の涙が溢れた。


「……毒見か?」


 背後から響いた低い声。振り返ると、そこにはシャツの襟を寛がせたギルベルトが立っていた。銀の瞳が、暗闇の中で鋭く光っている。


「か、閣下!  申し訳ございません。余り物で、つい……」

「ならば問題ない」


 ギルベルトは、エルナの手から強引に椀を奪い、口に流し込んだ。

 彼は、絶望していた。公爵家に代々伝わる「感情を魔力に変える」呪い。その代償で、十年前から彼の世界はモノクロームだった。味も、音も、香りでさえも。だが。


「…………ッ!!?」


 舌に触れた瞬間、爆発が起きた。

 熱。

 甘み。

 そして───。


 ───あったかい。

 ───生きててよかった。

 ───ごちそうさまでした。


 自分の内側からは決して湧き出ることのない、圧倒的に純粋で、かつ「不遇に耐えてきたからこそ生まれる鋭い多幸感」の奔流。それが、彼女の料理を通じて、彼の魂に直接流れ込んできた。目を見開く。世界が裂けた。


 鍋の中のスープが、まばゆい黄金色に輝いている。

 目の前の娘。

 その琥珀色の瞳。

 そして、恐怖で上気した頬に差す、鮮烈な「赤」。


「色だ……」


 ギルベルトの喉が、引き攣った音を立てる。十年ぶりの色彩。それは暴力的で、あまりにも美しかった。


「……もう一度」


 彼はエルナの手首を、逃がさぬよう強く掴んだ。


「今のを、もう一度食べろ。一口残らずだ。……命令だ」

「え、あ……はい」


 エルナが、戸惑いながらもスープを一口運ぶ。


「おいしい……です」


 その瞬間、世界はさらに鮮明な極彩色へと染まった。ギルベルトは確信した。これは、彼女の「幸福」を糧にして、自分の世界を再構築する契約なのだ。


「……君は」


 銀の瞳に、かつてない執着の光が宿る。


「君は、私の世界を侵した。責任を取れ、エルナ。明日からも、その次もだ。君の幸福は、これからすべて、私が独占する」


 エルナは、ただ圧倒されていた。死神だと思っていた男の瞳に、自分という無価値な存在が、これ以上ないほど鮮烈に映り込んでいる。


「……はい、閣下」


 窓の外、雪は白く降り積もる。だが、氷の城の中で、一人の少女を「幸福という名の生贄」として捧げる、狂おしい色彩の物語が幕を開けた。

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