3 婚約のあと
婚約の知らせを聞いたとき、エリンは嬉しかった。
驚きはしたけれど、祝福の言葉はすぐに出た。クラリスが少しだけ頬を染めて、いちばん先に伝えたかったの、と言ったとき、胸の奥にやわらかく灯るものがあったのも本当だった。
相手が兄だと知ったときでさえ、最初に浮かんだのは安堵に近かった。
まったく知らない家へ嫁いで遠くへ行ってしまうのではない。相手は兄で、場所はこの家で、クラリスは変わらず近くにいる。そう思えば、寂しさより先に、よかった、という気持ちが立った。
父も母も、この縁を喜んでいた。
食卓の上で婚約が正式に語られた夜、父は落ち着いた声で「よい縁だ」と言い、母も穏やかにうなずいた。兄は少し照れたように笑い、クラリスは緊張と安心の入り混じった顔で、その言葉を受けていた。
その光景は、どこから見ても自然だった。
「エリンにとってもよかったわね」
母にそう言われたとき、エリンは素直にうなずいた。
実際、そのときはそう思っていた。気心の知れた相手がこの家に来る。それなら何も失わずに済むのかもしれないと、どこかで勝手に思っていた。
最初のうちは、本当にそうだった。
クラリスは以前と変わらずエリンの部屋へ来て、招待客の顔ぶれについて笑い合った。兄のことを少しだけからかえば、クラリスは困ったように笑いながら、それでも隠しきれない幸福をそのまま顔に出した。
だから婚約しても何も変わらないのだと、そのころは思っていた。
けれど、変わり始めるのは、もっと細かなところからだった。
変わり始めたのは、まず時間だった。
クラリスが来なくなったわけではない。ただ、以前のようにふらりと来るのではなく、母と話したあとや、兄と出かける前の、短い合間に顔を見せるようになった。会えば同じように笑うのに、ああ急がなくては、と立ち上がることが増えた。
「このあと、お義母さまとお話があるの」
まだその呼び方にも慣れていないような口ぶりで、クラリスはそう言って立ち上がる。
エリンはうなずきながら、その背中を見送った。別におかしなことではないと思う。婚約したのだから、母と話すことが増えるのは自然だ。
ただ、その自然さが少しずつ重なっていくと、気づかないうちに間が空く。
婚約が現実になるほどに、クラリスの視線の向く先は増えていった。
兄がいて、母がいて、家がある。エリンはそれを責めようとは思わなかった。
ある日、贈り物の目録を見せてもらおうとクラリスの部屋を訪ねると、本人は不在だった。
侍女はすぐに扉を開けてくれたが、机の上には見覚えのない紙束が整えられ、横には母の手で書かれた覚え書きが添えられていた。どこへ先に礼を送るか、どの家へいつ訪問するか、誰の挨拶を兄が受け、誰をクラリスが迎えるか。見ればわかる内容だったし、難しいことではなかった。けれど、その紙の端々に、もう自分が入る余地のない事柄が並んでいる気がした。
エリンは目録の上へ指を置いたまま、しばらく動かなかった。
そこへクラリスが戻ってきたのは、少しあとだった。
兄と一緒だったらしく、頬にまだ外の風の色が残っている。
「ごめんなさい、待たせた?」
「いいえ。少し見せてもらっていただけ」
クラリスはほっとしたように笑い、それから机の上の紙を見て、「ああ」と小さく声をこぼした。
「こういうもの、急に増えてしまって」
「大変ね」
「ええ。でも、お義母さまがいろいろ教えてくださるから助かっているの」
そう言うクラリスの顔は、疲れているというより、少し緊張しながら前を向いている人のものだった。
エリンも「そうでしょうね」とうなずくしかなかった。
以前なら、そこで紙を脇へ寄せて、別の話を始めていた気がする。
そういう何でもない話のほうが、二人のあいだでは大事だった。
今は、目録の端がそのまま二人のあいだに残っていた。
「でも」とクラリスはそこで顔を上げた。
「エリンがいてくれるから安心するわ」
その言葉に、エリンは少しだけ息を止めた。
クラリスはたぶん、本心で言っている。
気を遣って言ったのではない。ただ、そう思ったからそのまま口にしただけだ。そういうところは昔から変わらない。
けれど安心すると言いながら、クラリスの手はもう別のものを抱えている。
こちらを見て笑っていても、その視線の先には兄がいて、母がいて、この家がある。エリンがいてもよいし、近くにいるのも自然なのに、いなくても物事はきちんと進んでいく。そのことが、言葉になるより先に胸へ残る。
「これからも一緒よ」
クラリスはまたそう言った。
エリンはまたうなずいた。
うなずきながら、その言葉が以前より少し空に浮いて聞こえることだけは、もう知っていた。
嫌だったわけではない。
婚約そのものが嫌だったのでもない。兄もクラリスも責められないし、母が間違っているとも思わない。
ただ、どこにでも理由はあるのに、自分の気持ちだけ置き場がない。そういう瞬間が少しずつ増えていった。
祝福しているのは本当だった。
でも、それと同じだけ、自分の立つ場所だけが薄くなっていくのが嫌だった。
その気持ちは、誰にも見えないまま、胸の奥に残った。




