1 音のしない喪失
鐘の音が、高い天井にやわらかく響いていた。
白い花で飾られた礼拝堂には春の光が淡く満ちていて、磨かれた床の上に人影が静かに揺れている。衣擦れの音、低く交わされる祝辞、控えめな笑い声。今日が幸福な日であることを、誰も疑っていなかった。
エリンも、疑ってはいなかった。
エリンにとっての幸福ではなかった。
祝いの席にふさわしい顔をしていることは難しくない。求められる身のこなしは身についているし、今さら取り乱すつもりもなかった。
祭壇の前に立つ二人へ視線を向ける。
兄の隣に、クラリスはひどくよく似合っていた。並んでしまえば、それがいちばん自然な形に見える。似合いの二人、という言葉を、今日までに何度聞いただろう。誰が見てもそうなのだと思う。だからこそ、その中で自分だけがうまく息をつけないことが、かえって言葉になりにくい。
近くの席では、母が満足そうに背筋を伸ばしていた。
式が始まる前、近くの婦人たちが母とクラリスを見比べて、まあ本当の母娘のようですこと、と微笑み合っていたのを思い出す。母は穏やかに笑い、クラリスも少し照れたようにまつげを伏せていた。
その場の誰ひとり、間違ったことは言っていなかった。
クラリスがふとこちらを振り向く。
ヴェールの下の笑みはやわらかく、支度のあいだにも何度か向けられたものと同じだった。思わず微笑み返しかけて、エリンは手袋越しに指先を握る。
――これからも一緒よ。
その言葉を、クラリスは何度も言った。
言われるたびに、エリンも曖昧にうなずいてきた。そうであってほしい気持ちがなかったわけではない。ただ、準備が進むたびに、その一緒という言葉が、前とは少し違う場所を指し始めていることだけはわかっていた。
司祭の声が静かに礼拝堂へ満ちる。
祝福の言葉が読み上げられ、参列した人々は顔を上げる。誰のまなざしにも祝福のやわらかさがあった。エリンはそれを遠く感じながら、自分だけが輪の外にいるのだとは思わなかった。そんな大げさなことではない。ただ、ここへ来るまでの数か月のあいだに、自分の立つ場所だけが少しずつなくなっていったことを、今日はどうしてもごまかしきれなかった。
式が終わると、人々は祝辞を交わしながら庭へ流れていった。
白い花に縁取られた階段を降りる花嫁をひと目見ようと、皆の視線が自然に前へ集まる。クラリスはそのただ中にいた。侍女に礼を言い、兄へ目を向けて微笑み、声をかけてきた夫人にもきちんと応じる。見ている者を不安にさせない立ち居振る舞いだった。
昔からそういうところがあった。
誰の前でも感じよく、華やかで、けれど軽く見えない。エリンはそれをずっと近くで見てきた。
ただ、近くで見てきたからこそ、今日のクラリスが昔と同じではないこともわかる。
笑い方が違うわけではない。
声のやわらかさが変わったわけでもない。
けれど、その視線が向く先には、今はもう兄がいて、母がいて、ヘイスティングス家がある。以前なら自分へ向いていた小さな迷いや確認が、今日は別のところで受け止められている。ただそれだけのことが、思ったより遠い。
祝いの言葉を交わしながら、エリンは何度か視界の端でクラリスを追った。
いちどだけ、クラリスの目がこちらへ向く。昔なら、視線だけで「これで大丈夫よね」と問いかけてきたような場面でも、今日はもうそうではなかった。大丈夫かどうかを確かめる相手は、別のところにいるのだとわかってしまう。
今日の式は美しかったし、滞りなく進み、クラリスは幸福そうに見えた。
それは本心だった。嘘ではない。嘘ではないのに、その本心のすぐ隣に、別の気持ちが同じだけ残っている。
祝福している。
でも、それとは別に、自分の立つ場所だけがなくなっていくのが嫌だった。
しばらくして、庭の中央で小さな祝辞が始まった。
兄が短く礼を述べ、クラリスが隣で静かに頭を下げる。人々のあいだから拍手が起こり、春の光の中で白い花びらがひとつ、風に押されて石畳へ落ちた。
花びらが落ちるのは、それ自体では何でもない。
大きな音がするわけでもなく、ただ静かに位置を変えるだけだ。
喪失も、たぶん似ている。
壊れるのではなく、位置が変わる。
目に見えて何かを奪われるわけではないのに、気づけばもう、前と同じ場所へは戻れなくなっている。
顔を上げると、クラリスはまた笑っていた。
その笑みは今日の光によく似合っていて、だからこそエリンは、自分がこの日のどこにも傷をつけたくないと思った。
それでも胸の奥には、ごく細い痛みが残る。
誰にも見えないまま、けれど確かにそこにある痛みだった。
幸福な日だった。
誰が見てもそう言うだろうし、きっとその通りなのだと思う。
ただ、その幸福の縁で、エリンはようやく知っていた。
失われるものには、音がしないのだと。




