美徳
朝食を終えたルネは、屋敷の庭へと足を向けた。風が柔らかく頬を撫で、木々の葉がさらりと揺れる。
ルネはふと、前世の記憶が霞のように浮かぶのを感じた。
けれど、それはすぐに風に溶けて消えていった。
庭の奥では母と父がすでに紅茶を楽しんでいた。
イザベルがルネの到着を告げると、母は微笑みながら手を振った。
「おはよう、ルネ。今日は舞踏会ね」
「おはよう、お父様お母様…ええ……そうですね」
ルネが椅子に腰を下ろすと、父が静かにカップを置いた。
「そろそろ“お相手”を探す時期だ。社交界に出るのも、意味があることだぞ」
「……」
ルネは紅茶に口をつけながら、言葉を詰まらせた。
母は優雅に笑みを浮かべながら、ドレスの色や髪飾りの話を始めた。
ルネはその声を聞きながら、心の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。
“お相手”――その言葉が、なぜか遠く感じられた。
部屋に戻ると、イザベルがすでに支度を始めていた。
鏡の前に座ったルネは、髪を整えられながら、窓の外に広がる庭をもう一度見つめた。
さっきまで歩いていた場所が、少しだけ遠くに感じられる。
「社交界ではね、嘘も美徳なのよ」
母の言葉が、ふと胸の奥に響いた。
ルネは鏡の中の自分を見つめる。
湖のような瞳。
でも、その奥にあるものは――誰のもの?
“嘘が美徳”――ね。
ルネはふっと笑った。
前世の記憶が、皮肉のように蘇る。
あの世界では、嘘が蔓延していた。
それを見抜くことが、生きる術だった。
この世界も、変わらない。
けれど――その美しさが、どこか悲しいと思うのは、私だけなのだろうか。
紅茶の香りが薄れていく中、鏡の中の私は、静かに笑っていた。




