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第7話 祭りと収穫酒

朝、畑の上に薄い白靄が漂っていた。夜のあいだに温室の熱がゆっくり抜け、谷の空気に溶けていったせいだろう。霜は降りず、葉はしゃんと立っている。

「おはよう、畝」

俺がそう言うと、近くで土の盛り上がりがもぞりと動いた。守り神が丸い顔を出し、ふうと吐息。

「今日は里で祭りだってさ。わたし、甘い匂いがする祭りが好き」

「甘い匂い?」

「ふふん、“収穫酒”っていうやつ」

「酒は畑を乾かす。飲みすぎたら畝が曲がる」

「アッシュは固いなあ」

固いかどうかはさておき、祭りの日は働き方が変わる。午前のうちに最低限の手入れを済ませ、昼前からは人の流れに合わせて動くのが、里の“呼吸”だ。

ツムギが花で飾った縄を抱えて走ってくる。

「アッシュさん、これ、畑の入口に張っていい?」

「いいよ。ただし風の通り道は塞がないで」

「了解!」

縄を張る場所を一緒に選び、杭を打つ。セレスは観測器の糸を張り直し、祭りの間は衝撃で壊されないように木枠で保護した。

「今日は観測値が荒れそうね。人が集まると、空気が変わる」

「畝の機嫌が良ければ、だいたい大丈夫」

「その“だいたい”が研究者を泣かせるのよ」

正午。広場の大鍋に火が入り、麦や野菜、山の幸を煮込んだ“里鍋”の匂いが谷中に広がる。収穫酒は、はちみつを少し煮詰めて麦汁に混ぜ、果皮と香草を布袋に入れて沈めたもの。村の古い蔵から出てきた器具を洗い、セレスが分量を真顔で計測している。

「発酵は気まぐれ。だからこそ管理するの」

「気まぐれに任せるのも発酵」

「管理しない発酵は事故」

「……畝の管理と似ているか」

「やっと共通言語が出たわね」

守り神は大鍋の脇で香草を嗅ぎ、嬉しそうに跳ねる。クロは鼻をひくつかせ、酒樽の周りをうろうろしてはセレスに咎められてしょんぼりしている。

「犬に酒は早い」

「わん……」

夕刻、太鼓と笛。子どもたちが輪になり、年寄りが手を叩き、若者が踊る。祭りの中心に、今年の畑の主――なんて大層な呼び名はないが、半ば自然に俺が立たされた。

「挨拶を」

村長に肘でつつかれ、俺は鍬を掲げる。

「畝が守れて、よかった。来年も、守る」

拍手。驚くほど大きい。俺の言葉が簡単だからか、鍬が高くて見えやすいからか。どちらでもいい。拍手は土をあたためる。

そのとき、谷の向こうで雷が転がった。夏の名残の入道雲が、季節遅れの腹を鳴らしている。

「夕立?」

ツムギが空を見上げる。セレスは風を読む。

「いやな帯電。こっちに流れ込むには条件が揃いすぎてる」

「畝、濡れすぎるのは……困る」

鍋の火を弱め、酒樽の蓋を締め、風の通り道を開く。俺は畑の四辺を速足で歩き、空気の“縁”に触れた。

“縁”は目に見えない。でも、ある。祭りの熱、火の柱、人の呼気、音の波。いろんな“流れ”の境目が重なると、空はすねる。すねた空は、怒って降る。

鍬の刃で空を撫でる。強くはない、でも確かに境目を丸める手つき。風が鳴き、透明な丘が畑の上に立ち上がる。雷雲が丘に触れた瞬間、ふっと勢いを失い、稜線のほうへ流れていく。

「……外した」

セレスが息を吐く。「雷の芯が逸れた。上手い」

「畝が濡れすぎると、明日の仕事が増える」

「動機が相変わらずで安心する」

村人のざわめきが安堵に変わる。太鼓が再開し、踊りが戻る。守り神がちょこんと台に上がり、小さな杯を両手で持った。

「土にも少し、分けてくれ」

「神様が飲むの?」

「香りを、だよ。匂いで十分。……うん、これ、畝が好きな匂いだ」

「畝が酒を?」

「匂いで土が弛む。冬越しの前に、いい合図になる」

夜が深まり、酒が回ってきた頃、セレスが珍しく頬を赤くして俺の隣に腰を下ろした。

「ねえ、アッシュ。あなたが畝を守るたび、遠くの気圧配置まで“整ってる”の、数値で見えるの。怖いくらいに」

「怖いなら、酒をもう一杯」

「研究と酒を混ぜるなって言ったのは誰」

「俺じゃない」

「……あなたか、やっぱり」

笑って、杯を合わせる。クロは膝に顎を乗せてうつらうつら。守り神はうねうね踊って転び、ツムギが抱えて笑い転げている。

世界は広い。だけど今夜は、畑の匂いと人の声で、俺の世界は満ちていた。

翌朝の王都の報告書には短く記される。

――局地的雷雲、谷風の異常流線により消散。祭礼に伴う火気管理は適正。

“適正”。いい言葉だ。畝にとっても。

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