第4話 市場へは一輪車で
朝日が山の稜線を染める頃、畑の端に積んでおいた籠を荷車に積み替える。昨日の雨で瑞々しくなった野菜たちは、根を洗うだけで宝石みたいに光る。
ジャガ芋、人参、葱、青菜。まだ収穫は始まったばかりだが、余剰分は村だけでは消費しきれない。保存もできるが、せっかくなら町に出して塩や油と交換したい。
「アッシュさん、本当に行くの?」
ツムギが麦藁帽子を押さえながら駆けてくる。
「市場なんて、盗賊も出るし、荷車は重いし、大変だよ」
「だから一輪車にしたんだ」
俺が指差すと、そこには木製の大きな一輪車。夜のうちに作っておいた。
丸太を削って組み合わせ、鉄の輪をはめた頑丈な構造だ。
「両側に腕で支えを入れれば、山道でも転ばない。しかも荷を積んでも俺ひとりで押せる」
「へええ……。すごい、なんか商人さんみたい!」
「商人じゃなくて農夫だ」
クロが嬉しそうに一輪車の横を回る。犬も新しい道具が好きらしい。
ちょうどそこへセレスが姿を現した。黒い外套を揺らし、腰には細剣。
「市場に行くと聞いたから同行する。護衛と観測のために」
「護衛はいらないよ。畝を踏まなければ」
「……山賊に畝はないわよ」
「畑を荒らす奴は大抵同じ匂いだ」
「意味がわからない」
呆れ顔のセレスを横目に、俺は一輪車を押して歩き出した。
谷を抜ける山道は狭く、木漏れ日がまだらに落ちている。道端にはシダや苔、ところどころに薬草。
ツムギは肩に小籠を提げて俺の後ろを歩く。中には自家製の干し柿や草餅。市場に出せば案外高く売れるだろう。
「市場ってどんなとこ?」
「人が多い。物も多い。畑だけでは手に入らないものがある」
「例えば?」
「塩、鉄、油……あと本」
「本?」
「畑を耕すにも知恵は必要だ」
「アッシュさん、やっぱり変わってる」
ツムギは笑った。
その時、前方の道を塞ぐように声が響く。
「通行料を払え!」
木の陰から粗末な鎧の男たちが現れる。五人。錆びた剣や棍棒を手に、にやにや笑う。典型的な山賊だ。
「荷物を置いていけ。命は取らん」
「……」
俺は畝のことを考える。もし彼らが村に流れたら、畑を踏み荒らす。許せない。
「どこに通行料を払えばいい?」
「ここだ!」
棍棒が振り上げられる。ツムギが悲鳴を上げかけたその瞬間、俺は一輪車の荷を地面に降ろし、空になった車を両手で持ち上げた。
「……耕す」
ごろり。
一輪車の車輪が地面をえぐり、溝を描く。土が唸り、石が跳ねる。
俺は畝を引くときと同じ要領で、一気に道を整えた。
山賊たちはバランスを崩し、足元の土に沈む。棍棒が空を切り、剣が石に弾かれ、みな転げて溝の中に押し込まれていく。
「な、なんだこれ――」
「地面が……動く……!」
俺は土を軽く撫で、流れを締めた。すると溝は柔らかい布団のようになり、山賊たちはそこに沈み込み、じたばたしているうちに、泥風呂に浸かったみたいに体が脱力し、やがて寝息を立てた。
「……畝を荒らすやつはこうなる」
俺は一輪車を元に戻し、荷を再び積む。
ツムギが目を丸くして拍手した。
「すごい! 一輪車で耕したみたい!」
「実際、耕しただけだ」
セレスは額に手を当てた。
「……世界規模の脅威が、農具で処理されてる」
「処理じゃなくて整地」
クロが溝を飛び越え、しっぽを振る。山賊たちは泥布団の中で幸せそうに眠り続けていた。
昼過ぎ、町の門が見えてきた。瓦屋根が連なり、人の声がざわめき、香辛料と焼き菓子の匂いが風に混ざる。
「わあ……! 人がいっぱい!」
ツムギが目を輝かせる。市場は広場いっぱいに屋台が並び、野菜、果物、布、鉄器、動物まで売られていた。
「まずは野菜だ」
俺は一輪車を押し、露店の隅に場所を借りた。
並べただけで、村で採れたばかりの野菜は人を集めた。雨上がりの瑞々しさ、土の香りが違うらしい。
「お兄さん、これ、どこの畑の?」
「ハルノの里」
「聞いたことないけど……味見しても?」
「どうぞ」
人参をかじった商人が目を丸くした。
「甘い! なんだこれ!」
「俺の畝の機嫌が良かったんだろう」
「意味わからんが、美味い! 全部買う!」
あっという間に籠は空になり、代わりに塩、油、布、本を得た。ツムギの草餅も飛ぶように売れ、本人は照れていた。
「アッシュさん、すごい……! 畑で世界を驚かせるってこういうことなんだね」
「驚かせるつもりはない。ただ、畝を守ったら、結果がこうなるだけだ」
セレスは隣で帳簿をつけながらつぶやいた。
「……経済への影響が、国境を超えるのは時間の問題ね」
俺は答えず、干し魚を一つ買ってクロに投げた。犬が尻尾を振る。その姿が一番平和に見えた。
夕暮れ。帰り道、一輪車を押す俺の背にツムギの声。
「ねえ、また市場に行こうよ! 次は何を持ってく?」
「畑が決めるさ」
「え、畑が?」
「畝の機嫌次第だ」
笑い声が谷にこだまし、クロが吠えた。
その夜、王都ではこう報告が上がる。
――山道の盗賊団、壊滅。市場に新顔の農夫現れ、異常な甘味の野菜を供給。出自不明。要観測。
世界は騒いでいる。けれど俺にとっては、ただの一輪車の一日だった。