第36話 春播き相談――種守り婆と、眠り畝
朝、屋根の縁からとととと水が走り、橋の板がぱんと一度だけ笑った。
畝の肩は、指の腹ぶんやわらかい。守り神は土の下で「香り」と寝言、俺は薪に柑の皮を一枚、蜂蜜は耳かき一杯。眠らずに落ち着く配合だ。
「肩すべり、ぜんぶ終わった?」
ツムギが黒板を抱えて跳ねる。
「終わった。次は春播きの段取りだ」
「やった! 豆と芋と、お花の“おやすみ”!」
ユーリが鍬を磨きながら頷いた。
「副長として、畝割り図の下書き、やってみます」
「晒し地図の端に“緑”を足すわね」セレスが細筆を用意する。
ヨルドは札を束ね、《春播きは晒して決める》《鍋は真ん中》《間違いは黒》の三枚をとんと並べた。
そこへ、荷そりを押す小柄な影。
肩には乾いた莢、腰には古い布の袋。
「おや、英雄さん。……いや、百姓殿だね」
皺の奥の目が笑う。種守りの婆さまだ。谷を渡り歩き、古い種を眠らせ、起こし、また眠らせる。
「種、売りに?」
「売りには来ないよ。預けに来た。ここは“置ける”からね」
そりから出てきたのは小袋。墨で《眠る麦》《半夏豆》《風見人参》とある。
「名前がかっこいい!」ツムギが食いつく。
「名は、待つための鈴だよ」
婆さまは笑い、俺の鍬の柄をこんと叩いた。「その鍬の音、よう眠らせる音だ」
晒し台の前へ。セレスが緑の細筆で《春播き層》と記し、地図の上に薄い半紙を重ねた。
俺は種袋を並べ、香りを確かめる。
眠る麦は甘く乾いて、半夏豆はほのかに青い。風見人参は皮を傷つけると柑の皮みたいに少し酸い。
「豆は谷の子の碗に直行。麦は橋の喉の手前で曲げて植える。人参は角を丸めた印に」
ヨルドが黒で《麦→喉の前を避ける》《豆→鍋の輪を囲む》《花“おやすみ”→角》と書き足し、鍬判でとんと留める。
ツムギは鍬ぶえを掲げ、三音。ふぉ・ふえ・ふぉ
「種の歌、作りたい!」
「作れ。拍は『一、置く。二、待つ。三、笑う』だ」
「うん!」
午前、畝の肩を撫でて回っていると、地の下でごろと重い息。
雪解けに誘われた“畝荒らし”――春土竜だ。
見張り台から白房の旗が一本、右・畝 左・下。
「下から来る」セレスが弓に手をかける。
クロが低くううと唸り、ツムギは鍋の前で笛を握りしめた。
大地がぶくとふくらみ、畝の列をまたぐ黒い背が現れた。
村の子が息を呑む。豆の穴が潰れるのは、心が折れる。
「押すな。……置く」
俺は鍬の背で土の肩をとんと叩いた。
土竜は威嚇して鼻を鳴らす。
「眠れ」
鍬を落とさず、畝の“枕”をさっと作る。小さな“揚げ土”を点々と置き、肩を丸く縫い止めながら、息の拍をとん・とん・ぱんでなだめる。
ツムギの笛が三音を添え、子どもたちの足が笑って揃う。
クロは遅い列へ鼻でつん。
土の下の息が、少しだけ低くなる。
婆さまが袋から白い粉をひとつまみ。「殻砕きの粉だよ。においで眠る」
「鍋を通す」
俺は粉を鍋の湯気にくぐらせ、香りに混ぜ、土の上へさらと振った。
土竜の背がひく、と震え、ふいに力が抜ける。
雪がしゅん、と沈み、地の下に大きな寝息。
「寝た……!」
ツムギが跳ね、ユーリが半拍遅れてとんと“枕”を増やす。遅れが影を作り、眠りは深くなる。
セレスが赤ではなく灰の小丸を晒し図に足した。《眠り畝・候補》
ヨルドは黒で《春土竜→鍋香+枕で沈静/弓は不要》と書き、鍬判でとん。
昼。鍋の輪に種守り婆も座る。
湯気は二重、香りは酸い多め。
「種には、“忘れられる力”がいるよ」婆さまが言う。
「忘れられる?」
「うん。焦りを忘れて、冬を忘れて、いちど自分も忘れて、それから芽を出す。人も同じだね」
ユーリが碗を両手で抱えたまま、ゆっくり頷く。
「押す手は、忘れられない手でした。……でも、忘れるほうが、強いんですね」
「置く手は、忘れて思い出す手だ」俺は鍋の蓋を半指ずらす。「思い出すのはいつも遅れて来るが、だから厚い」
午後、晒し地図に“緑の層”を貼る。
セレスが《緑=春播き》と隅に書き、畝ごとに小さな葉の印。
ヨルドが《晒し更新:朝夕/黒赤灰緑》と札を増やし、若い役人は保証の紙を風上に貼る。
旅芸人は鍋の外周で“種の歌”の節を拾い、ツムギは鍬ぶえの穴を一つ増やした。
「音、増えた」
「増やしすぎるな。足りないくらいが、畝は好きだ」
「はーい!」
夕方、畝の端でちりと小さな音。
「すすりは?」
「おさまってる」ユーリが頬を上気させて答える。「眠り畝、効いてます」
土の下からくうと寝息。クロが寄り添って丸くなり、守り神が「香り」と小さく呟いた。ご褒美に柑の皮をもう一枚。
その時、黒羽が低くひと巡り。
撃たない。屋根も裂かない。
代わりに、俺は鍬ぶえで三音を吹く。ふぉ・ふえ・ふぉ
黒羽は翼を一度だけ震わせ、雪の向こうへ消えた。
婆さまが目を細める。「あの羽、寒い目をしてるね」
「凍えさせない。……鍋は真ん中だ」
暮れなずむ広場で、今日の反省。
「眠り畝、候補に昇格」
「借り音石は風鈴でよし」
「緑の層、明朝にもう一度晒す」
ヨルドが黒三・赤一・灰二・緑四を書き、鍬判でとんと留めた。
ツムギが胸を張る。
「わたしの歌、名前つけた! 『おやすみ豆まきの歌』!」
「長い」
「でも可愛い!」
セレスが珍しく声を立てて笑い、ユーリは半拍遅れて笑った。遅れた笑いは、やっぱり厚い。
灯を落とす前、俺は畝の角を撫でた。雪の下がうんと二度頷く。
「明日は緑の層を畝へ移す。豆、麦、人参、そして“おやすみ”」
橋がぱんと最後に笑い、谷は静かに笑い返した。
のんびり、けれど揺るぎなく。




