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第33話 肩すべり前夜③――旗の文法と、静音灰

朝、屋根の縁からとととと水が走り、橋がぱんと笑った。

 畝の肩は、昨日よりもうひと息やわらかい。守り神は土の下で「香り」と寝言、俺は薪に柑の皮を一枚、蜂蜜は耳かき一杯。眠らずに落ち着く配合だ。

「今日は旗の練習をやる!」

 ツムギが黒板を掲げると、ヨルドが晒し地図の脇でうなずいた。

「“旗の文法”を決める。旗一本では曖昧だ。二本で主語と述語を分ける」

 セレスが説明を添える。「右が“場所”、左が“動き”。右が橋、左が上なら“橋で上昇”。赤い房は“急ぎ”、白い房は“観測のみ”」

 子どもたちはうんうん頷き、ユーリは必死にメモを取る。

「師匠、鍬ぶえの合図は?」

「旗“上・上・白”なら三音『ふぉ・ふえ・ふぉ』。覚えろ」

「はい!」

 午前、畝班は角の丸め直し、橋班は湯気の二重巻き、鍋班は火の高さを刻みで調整、香り班は酸いの度合いを三段階に。

 俺は班を回って鍬の背で地をとん。

「振るな、置け。震えたままでいい」

「はい!」

 ユーリの三音目、雪が甘く鳴り、半拍遅れが今日も谷の厚みを作る。クロは遅れ気味の列へ鼻でつん。犬も指揮者だ。

 旅芸人の一座は今日も鍋の外周で練習。巻物の芯は全部抜いてある。

 笛は昨日より丸く、拍を焦らない。鍋の真ん中で湯気がこぽりと息をし、橋の木目がぱんとよく鳴る。

 昼の前、見張り台が旗を二本上へ、白い房を揺らした。

「観測のみ、橋で上昇」

 セレスが丘へ走り、俺は晒し地図の端に灰色の小丸を足す。“まだ”の印だ。焦らないための灰。

 そこへ、若い役人が小箱を抱えてきた。

「局から。薄い粉――“静音灰”。音を鈍らせるが、湿りに弱い。押し手が鍋の釜鳴りを消すのに使うらしい」

「灰は鍋で食べる」

 俺は笑って、鍋班に小箱を渡した。

 セレスが分量を量り、鍋の縁に指先で薄く塗る。湯気が触れ、灰はすぐに粥のようにとろけた。

「味は?」

 ツムギが恐る恐るすすって――目を丸くする。

「しょっぱい……けど、嫌いじゃない!」

「なら、塩の代わりに“ほんの指先”。灰は“香りの蓋”にならない。鍋のほうが強い」

 昼、鍋のまわりに輪。

 ヨルドが晒し地図の《変更》欄に黒で一行。

《静音灰→鍋で粥化(塩扱い)/分量は耳かき一杯》

 黒は恥じゃない。見える場所に置く。

 午後は“旗の文法”の通し。

 右が橋・左が上、白い房――観測。

 右が畝・左が右、赤い房――急ぎ、風が横すべり。

 旗の意味が積み木みたいに積み上がり、ツムギの鍬ぶえが三音でつながる。ふぉ・ふえ・ふぉ。

 セレスは観測針に丸、橋はぱん、太鼓はとん。

 ユーリは半拍遅れを守り、クロは拍の端に尻尾でぺちぺち。

 旅芸人は“谷の歌”をひとつ覚え、鍋の外周で短い踊りを置いていった。

 その時、晒し台の角がぺりと浮いた。

 俺はすぐに鍋の蓋を半指ずらして湯気を通す。紙の裏に温い息――粉は粘り、簡単にべりと剥がれた。

「粉喰い粉の改良か。静音灰を混ぜたな」

 ヨルドが睨む。

 荷の影から、昨日の荷運び男が出てきて深く頭を下げた。

「すまねえ……“試せ”って言われた。けど、鍋んとこで悪さはできねえ」

「鍋を持て。温め直せば、悪さは食べ物だ」

 鍋は共同。規則は守りやすく、破りにくい。

 日が傾く。丘から白い房の旗が二本、上へ、上へ。

「上昇二――試し押し」

 稜線に小さな白い腹がふくらむ。

「喉は厚い。旗“橋・上・白”、笛三音」

 ふぉ・ふえ・ふぉ

 太鼓とん、鍬とん、橋ぱん。湯気は二重、香りは酸い多め。

 押しは短く、雪の粉が舞う前にほどけた。旗は下ろされ、白い腹は風下へ消える。

 暮れなずむ広場で、リズヴァルトが観測帳を閉じる。

「三日目、基準は良好。静音灰の“粥化”も記録。旗の文法、局語に写せる」

「晒してから使え」

「約束する」

 ヨルドが満足げに鍬判で晒し地図の端をとんと留めた。

 旅芸人の一座は、鍋の端で“収穫の踊り・短め版”を置いてから去る。

 軽石粉も静音灰も洗い流した。残ったのは、温かい鍋と、黒い線と、三音の合図だけだ。

 夜の手前。

 ツムギが鍬ぶえを磨きながら言う。

「ねえ、旗って言葉みたいだね」

「言葉だ。だから文法がいる」

「じゃあ、わたし今日、ちょっと賢くなった!」

 クロがわふと褒め、守り神が土の下で「香り」と一言。俺は柑の皮をもう一枚くべた。ご褒美だ。

 灯を落とす前、畝の端を撫でる。雪の下がうんと二度頷く。

「明日は四日目。旗の文法はこのまま、鍋は真ん中、香りは酸い多め。黒も赤も灰も、ためらわず晒す」

 橋がぱんと笑い、谷が静かに笑い返した。

 肩すべりまで、あと二日。

 焦らない。置く。待つ。笑う。

 のんびり、けれど揺るぎなく。

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