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第32話 肩すべり前夜②――晒し地図の黒と赤

朝、屋根の縁からとととと水が走り、橋の板がぱんと一度だけ笑った。

 畝の肩は、昨日より半指ぶんやわらかい。守り神は土の下で「香り」と寝言、俺は薪に柑の皮を一枚、蜂蜜は耳かき一杯だけ落とす。眠らずに落ち着く配合だ。

 広場の晒し台に集まって、まず“黒”。

 ヨルドが筆を持ち、《昨日の変更》の欄に三本の黒線を引く。

「黒は恥じゃない。今朝も見える場所に置く」

「はい」子どもらが声をそろえた。

 次は“赤”。セレスが細筆で晒し地図の縁に小さな赤丸をいくつも描く。

「緊急集合の合図。赤が三つ並んだら、鍋のまわりに輪になって」

 ツムギが“鍬ぶえ”を掲げる。

「音は『ふぉ・ふえ・ふぉ』!」

 クロがわふと一度、尻尾で雪をぺちぺち。合図係は犬でも務まる。

 畝班は角の丸め直し、橋班は喉の湯気二重巻き、鍋班は火の高さの再確認、香り班は酸いの度合いの調整。

 俺は班を回り、鍬の背で地をとん。

「振るな、置け。震えたままでいい」

「はい!」ユーリの三音目、雪が甘く鳴る。半拍遅れは、今日も谷の厚みになった。

 午前の終わり、見張り台から旗が一度。薄い風向だけ。

「今日は大きな押しは来ない。……代わりに、小さな“めくり”が来る」

 セレスの言葉どおり、晒し地図の端がぺりとわずかに浮いた。紙の裏に粉。昨日より細かい。

 ヨルドが指で摘んで舐め、「粉喰い粉だな。湿りに弱い」

「鍋」

 俺は鍋の蓋を半指ずらして湯気を通し、紙の裏へ温い息を当てる。粉はたちまち粘り、指でぺりと剥げた。

《図を触る手は鍬で印》の札の前に、一座から遅れて来た荷運び男が立ち尽くし、やがて頭を下げる。

「悪さに使うつもりは……いや、使いかけでした。すまねえ」

「鍋を持て。温め直せば、悪さは食べ物になる」

 鍋班が粉をこね、薄い焼き餅にした。子どもたちがはふはふ言いながらほおばる。

「おいしい!」

 ツムギの頬がふくらみ、クロは鼻先だけ近づけてから礼儀正しく一歩下がった。犬も契約を守る。

 昼。旅芸人の一座は、今度は前もって巻物の芯を全部外して鍋に近づいた。

「今日は“谷の歌”を習いたい」

「鍋の向こうでなら」

 セレスが微笑む。鍋は共同、音も共同。喉の前では演らせないが、鍋の蒸気を通ればたいてい丸くなる。

 午後は晒し地図の更新。黒で間違い、赤で追加、そして灰で「候補」。

 ヨルドが灰色の細筆で畝の肩に点を打つ。

「ここ、歌の輪を増やす候補」

「灰は“まだ”の印。『まだ』があると人は焦らない」

 セレスが横に観測語を小さく書き添える。

 ツムギは鍬ぶえの穴をもう一つ増やし、ユーリはその音に合わせて“半拍遅れ”の置き方を練習する。

「遅れると、みんなが追いかけてきます」

「追いかける拍じゃない。寄り添う拍だ」

 ユーリが目を丸くし、ゆっくり頷いた。

 見張りが交代するころ、黒羽が低くひと巡り。

 今日は屋根も裂かない。

 代わりに、俺は黒羽の影に向けて鍬ぶえで三音だけ吹いた。

 ふぉ・ふえ・ふぉ

 返事はないが、翼が一度だけ震える。凍えるな、とだけ心の中で言う。

 夕方、旅芸人が収穫の踊りを短く披露。

 踊りの輪は鍋を中心に広がり、拍は自然に揃った。

 セレスが観測針に小さな丸を付け、「今夕の“いつも通り”に登録」と記す。

 ヨルドは晒し地図の端に、《本日黒塗り二/赤追加四/灰候補三》と書き足し、紙の角をとんと鍬判で留めた。

 その時、丘から細い合図。

 白い腹が一つ、稜線に短くふくらみ、すぐ引っ込んだ。

「“肩すべり”の素振りだな」

「焦りません」セレスが笛で三音、山の民の太鼓がとん、橋がぱん。

 喉は厚い。湯気は二重巻き。香りは酸い多め、蜂蜜控えめ。眠らずに落ち着く。

 押しはほどけ、白い腹は風下へ消えた。

 夜。

 晒し台の前で、今日の反省会。

「粉は鍋で食べた」

「図の端は鍬判で止まった」

「赤の合図は分かりやすかった」

「灰の『まだ』が安心になった」

 子どもも大人も一言ずつ言い、最後にツムギが胸を張る。

「笛、きょうは外れなかった!」

 クロがわふと褒め、守り神が土の下で「香り」と一言。俺は柑の皮をもう一枚くべた。ご褒美だ。

 灯を落とす前、畝の端を撫でる。雪の下がうんと二度頷いた。

「明日は三日目。黒も赤も灰も、ためらわず晒す」

 橋がぱんと笑い、谷が静かに笑い返す。

 肩すべりまで、あと三日。

 焦らない。置く。待つ。笑う。

 のんびり、けれど揺るぎなく。

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