第31話 肩すべり前夜①――笛と旗の一日
朝、屋根の縁からとととと水が走り、橋の板がぱんと一度だけ笑った。
畝の肩は指の腹ほど緩い。守り神は土の下で「香り」と寝言、俺は薪に柑の皮を落とし、蜂蜜をごく控えめに垂らす。眠らずに落ち着く配合だ。
「今日は班ごとに練習! 鍋は真ん中!」
ツムギが黒板を掲げ、ヨルドが晒し地図の前に立つ。
《畝班→午前》《橋班→午前》《鍋班→通し》《香り班→午後》《札班→随時》《見張り班→交代》
字は太く、角には小丸。セレスが観測語を小さく併記した。
「師匠……副長、がんばります!」
ユーリが鍬を抱えて気合いを入れる。肩はまだ強張っているが、目はよく笑うようになった。
まずは“鍬ぶえ”の調律だ。ツムギ作の笛は、穴が微妙にずれている。
ふえぇ……ぴっ……ふぉ
橋がぱんと苦笑い、踊り場の麦殻がしゃらと宥める。
「今日の合図は三音『ふぉ・ふえ・ふぉ』、拍は『一、置く。二、待つ。三、笑う』ね」
「うん!」ツムギは胸を張り、クロは尻尾で雪をぺちぺち。
畝班は畝の肩の“角”を探して丸め、橋班は喉に湯気を二重巻き。鍋班は中央で静かに湧き、香り班は酸いの度合いを試す。
俺は班を回り、必要なら鍬の背で地をとん。
「振るな、置け。……そう、震えたままでいい」
「はい!」ユーリの三音目、雪が甘く鳴った。
見張り台から旗が一度、細い風向。若い役人が駆けてくる。
「通りすがりの旅芸人が一座で入村希望。楽器持ち。……白紋の印は無し」
「鍋の外周まで。喉の前では演らせない」
セレスが矢を背に、入村の手続きを淡々とこなす。ヨルドは晒し札の下に新しい一枚を足した。
《外から来た音は、いったん鍋で温めよ》
鍋は共同、音も共同。いきなり喉に入れるとむせる。
午前の〆、“春迎え合奏”の短い通し。
太鼓がとん、鍬がとん、橋がぱん。
ツムギの笛が三音、子どもたちの足音が笑って揃う。
セレスの観測針は緩やかに弧を描き、俺は鍋の蓋を半指ずらして香りだけ通す。
「いいね」
「はい」ユーリは半拍遅れてとん。遅れはやわらかな厚みになり、畝の肩が自分で丸まる。
昼。鍋の湯気に人の輪が近づく。旅芸人の笛は高すぎ、やや急く。
「もう一口、鍋を」
セレスが碗を差し出す。湯気が喉を湿らせ、笛の音が半音だけ落ちた。これで谷に合う。
その時、晒し地図の角がぺりとわずかに浮いた。
俺は近づいて指で押さえる。紙の裏に薄い粉……? 指先がすべる。
ヨルドも顔を寄せ、「軽石粉だ。貼り替えを滑らかにする小細工。図を“入れ替える”つもりだな」
セレスの視線が旅芸人の荷へ滑る。
「演目の巻物の“芯”を見せて」
一座の長は汗を浮かべるが、ヨルドがすでに晒し札を掲げていた。
《図を触る手は、鍬で印》
俺は鍬の背で晒し地図の端をとんと軽く叩いた。木の台が応え、橋の喉がぱんと笑う。鍬判は谷の印、外の粉はそこで止まる。
巻物の芯から出てきたのは、白い薄膜――“音喰い布”。合奏の拍を吸って乱す厄介な代物だ。
「喉の前では使わない約束だ」
俺が言うと、一座は肩を落とし、軽石粉をすすいで鍋に近づいた。
鍋は共同。温め直せば、外の音も食べられる。
午後、香り班の実験。
柑の皮多め/蜂蜜少なめ/麦殻ほんの少し焦がし――湯気は起きたまま落ち着く。
旅芸人の笛は次第に丸く、村の歌に寄ってくる。ツムギは鼻歌で器用に合いの手、クロは拍の遅い列に尻尾をぺちぺち、ユーリは半拍遅れを守る。
「遅れてて、いいんですか」
「遅れが厚みを作る。春はいつも少し遅れて来る」
日が傾く。見張り台から旗が二度、短い警告。
稜線の向こうで、白い腹が一つだけふくらんだ。
「試し押し……?」セレスが目を細める。
「喉は厚い。慌てない」
鍋の場所を半歩だけ動かし、晒し地図に黒で印を付ける。間違いも変更も、黒く見えるほうが安心だ。
ツムギの笛が三音、山の民の太鼓がとん。橋がぱんと笑い、拍はすぐ“いつも通り”へ戻る。白い腹は長く持たず、風下へ消えた。
暮れなずむ広場で、リズヴァルトが観測帳を閉じた。
「“肩すべり”前の一日目、基準は安定。……それと」
「それと?」
「音喰い布への対処、記録した。布は音を食うが、鍋には弱い。貼り替えは鍬判で止まる」
「紙に書いて晒せ」
「もちろん」
旅芸人の一座は鍋の端で小さな演目を披露し、収穫の踊りだけを置いて去った。
軽石粉は洗い流した。残ったのは、温かい拍と、少しの反省と、鍬判の跡だけだ。
夜。
“春迎え合奏”の通しを短くもう一度。
「一、置く。二、待つ。三、笑う!」
子どもたちの声が星に触れ、畝の下がうんと二度頷く。
セレスは観測器の針に小さな丸、ヨルドは晒し地図の端に『本日黒塗り三箇所・理由記載済』。若い役人は保証の紙を風上に貼り、クロは丸くなって寝息をくう。
灯を落とす前、俺は畝の端を撫でた。
「明日も耕す。二日目だ」
守り神が土の下で「香り」と一言。
橋がぱんと最後に笑い、谷は静かに笑い返した。




