第30話 晒し地図と、春の鍬ぶえ
翌朝、谷の白はひと筋だけ薄くなっていた。
屋根の縁からとととと水が走り、橋の板はぱんと一度だけ笑う。喉は温かい。畝の肩は、指先ほど緩んだ。
鍋の湯気に柑の皮を一枚。守り神が土の下で「よし」と寝返りを打つ。
ツムギは黒板を抱え、ユーリは鍬を磨き、セレスは観測器の針を点検している。ヨルドは晒し札の束を胸に抱えてにやにやだ。
「さて、図にするか」
俺は羊皮紙を広げた。橋、畝、温室、鍋の位置。それから昨日の“二刻の置き”で通した湯気の道、拍の輪、歌の合いの手。
細い線で矢印を描き、ところどころに丸。丸は“角を丸めた場所”、三角は“風を受け流した場所”。
「字は私が」
セレスが端から注釈を書き込む。観測語と畝語を併記し、言い換えの余地を残す。
「晒すのは?」
「広場。橋の喉が見える位置」
ヨルドが即答した。「喉の前で嘘はつきにくい」
ツムギがぽん、と手を打つ。
「じゃあ“鍬ぶえ”も晒そう!」
「鍬ぶえ?」
「この前、折れた柄。穴をあければ笛になるよ。拍の合図にぴったり!」
言うが早いか、ツムギは小刀で古い柄に穴を開け始めた。ユーリが横で真面目に穴の間隔を測る。
「師匠、音階は……」
「畝に訊け。鳴れば合格だ」
二人は顔を見合わせ、なぜかやる気だけ満点になった。
昼。広場の晒し台に図を貼る。
《畝の置き方・春待ち版》
《湯気の道・香りの配合》
《拍の輪・合奏の順番》
《鍋は共同・保証の貼り場所》
村の面々が集まってきて、うんうん頷いたり、首を傾げたり。わからない顔はその場で質問、わかった顔は隣のわからない顔に指をさす。
ヨルドが声を張る。「図は更新する。間違いを見つけたら、その場で黒く塗れ!」
「黒で?」
「間違いは、見えたほうがいい」
そこへ、クロがわふと一声、温室のほうを見た。
見張りの若い役人が息を切らして駆け込む。
「谷の端で旅人が倒れていました! 地図持ちです。凍えかけ!」
俺とセレスは走った。雪の縁に、毛皮の外套がひとつ。胸は浅く上下して、腕には水濡れの筒。
温室に運び込み、火と蜂蜜湯。守り神が「香り」と一言、俺は柑の皮を二枚、蜂蜜は少なめ。眠らせずに温める。
ほどなく旅人は目を開けた。頬は削げ、だが目は強い。
「……地図を。谷の肩の“すべり”を描いた」
筒から出てきた紙には、等高線の肩に細い斜線が刻まれ、風骨の“掛け具”が描き添えられていた。
「白紋会は五日後、“肩すべり”をやる。二刻押しを、日に何度も重ねるやり方だ」
セレスが顔をしかめる。「喉を乾かさずに疲れさせる、いやらしい方法」
「だから先に、肩を丸めておくんだ」
俺は晒し図に赤い丸をいくつも足した。「歌と拍の輪を増やす。湯気の道も」
「なら班を分けましょう」セレスが指を折る。
「畝班・橋班・鍋班・香り班・札班・見張り班。畝班の副長はユーリ、橋班の合図はツムギ」
「は、はい!」
「やった!」
ヨルドは札班の前に立ち、《班長は怒鳴らない》《間違いは黒で》《ご褒美は鍋》の三枚を足した。
午後の鍬稽古は“鍬ぶえ”で始まった。
ツムギ作の笛は、穴が少しずれていたが、かえって可笑しい音が出る。
ふえぇ……ふぉ……ぴっ
橋がぱんと笑い、踊り場の麦殻がしゃらと返す。
「拍、よし!」
ユーリの鍬が半拍遅れてとん。雪の上に“土枕”が点々と生まれ、畝の肩がゆるむ。
「震えても置け」
「はい!」
遅れは、今日も宝だった。
夕方、旅人は少し色を取り戻し、地図の端に追記をした。
「“肩すべり”は風下へ甘く匂う。油断の匂いだ。谷は酸いを混ぜろ」
「香り班、聞いたな。柑は多め、蜂蜜は控えめ、薪は乾きを」
「らじゃ!」ツムギが鍋班の前で敬礼し、クロが尻尾をぺちぺち。
夜。晒し台の前で、みんなが寄り合う。
セレスが図の端にもう一つ、淡い線を引いた。「“春迎え合奏”の導線。鍋を真ん中に」
「鍋、真ん中?」
「鍋は共同。真ん中に置けば、誰も嘘をつかない」
ヨルドが満足げに頷く。「それから“晒し地図”の更新時間も決める。朝と夕。二度晒せば、二度整う」
そこへ、黒羽が一羽、低く滑ってきた。
撃たない。温室の屋根も裂かない。
代わりに、俺は“鍬ぶえ”を借り、三音だけ吹いた。
ふぉ・ふえ・ふぉ
返事はなかった。けれど、黒羽は少しだけ高度を上げ、雪の向こうへ消えた。
「凍えるな」
誰にともなく言って、笛をツムギへ戻す。
鍋は静かに湧き、香りは柔らかく広がる。
旅人は碗を両手で抱え、言葉少なに礼を言った。
「……肩を丸める、という発想は初めてだ。地図には載らない。だが、地図の上を歩く足には載る」
「なら、歩くほうを信じろ」
「うむ」
寝る前に、俺は畝の端を撫でた。雪の下がうんと二度頷く。
種袋を並べて、春の相談。豆、芋、麦――それから、ツムギがどこからか持ってきた花の種。
「これ、畝の角に蒔きたい」
「角を丸める花か」
「うん。名前は“おやすみ”」
誰がつけたのか知らない、優しい名だ。
灯を落とす直前、橋がぱんともう一度笑った。
谷は返事をする。
五日後、白紋会は“肩すべり”を仕掛けてくるだろう。こちらは五日間、毎日二度、晒し図を塗り替え、歌を増やし、拍を太くする。鍋は真ん中、香りは酸い多め。
いつも通り――の段取りを、少しだけ念入りに。
「明日も畑を耕す」
小さく言うと、守り神が「香り」と寝言を言い、クロがくうと寝息を立てた。




