第3話 雨乞いと、畝の機嫌
三日ほど雨が降っていない。
空は高く、雲は薄くちぎれ、日差しは優しいが、畝の表面を指で触ると、少しざらついて乾き気味だ。苗の葉はまだ瑞々しいが、このままでは根が浅いものから先に萎れ始めるだろう。
「夕立、来てくれるといいけどな」
俺は風見の杭を見上げ、回り方を確かめる。谷の風は穏やかで、湿り気を含む兆しはない。仕方なく、苗の根元に藁を敷き、蒸発を防ぐ作業に取りかかる。
その時、村の奥から太鼓の音が響いた。
ドン、ドン、と一定の間隔で山肌に反響する。雨乞いの古い儀式らしい。村人たちが坂道を登り、山の祠へ向かっていくのが見えた。
「アッシュさんも来る?」
ツムギが顔を出す。頬には汗、瞳は期待で輝いている。
「ごめん、畝が機嫌を損ねないうちに、もう一本だけ通したい」
「畝に機嫌なんてあるの?」
「あるさ。土は生きてる。ご機嫌を取らないと、拗ねる」
「……ほんとに変わってる」
笑いながら、彼女は祠へ駆けていった。
俺は鍬を握り直し、深めに入れる。空が乾く日は、土の呼吸を助けてやるのが大事だ。
一条、二条。汗が滴り、掌に柄が吸いつく。刃が地を撫でる音に混じって、ふいに低い響きが返った。
――おお。
声のような、ため息のような。俺は鍬を止め、耳を澄ませる。
――ここに、水の道。昔はあった。
土が告げる。言葉ではなく、指の腹に伝わる気配だ。
膝をつき、指でなぞる。石が崩れて水脈を塞いでいる。古い地震か、斜面崩れか。
「じゃあ、少しだけ、借りるね」
鍬を振り下ろす。石に当てない。石と石の隙間を通す。土の目を開き、息を合わせる。
やがて指先が湿り、ひんやりした水がぽとりと顔を出した。
最初の一滴が二滴になり、線になり、細い糸になって、やがて小さなささやき川が畝の縁を撫で始める。
「よし」
流れが暴れないよう、泥で縁を固める。水は小石を転がしながら、嬉しそうにきらめいていた。
その時、遠くで太鼓が止み、空気の匂いが変わる。山の上に灰色の布が音もなく広がり、ぽつり、と大粒の雨が一滴。
次の瞬間、空がざあっと声を上げた。
雨だ。土が笑う。畝が喜ぶ。新しく開いた水の道は雨を受け、無駄なく広げ、畑全体を濡らす。苗は溺れず、畝の肩で水がやさしく分散されていく。
「アッシュさん! すごい雨――え、川?!」
ツムギが駆け戻ってきて、目を丸くする。
「昔の水が戻ってきた。少し道を通しただけだよ」
「通したって……こんなに? 祠のお祈りも効いたのかな」
「みんなのお祈りは風を呼んだ。いい匂いがしてたからね」
そこへびしょ濡れのセレスが駆け込んでくる。肩で息をし、眼鏡を外して雫を払う。
「あなた、また何かした?」
「水の道を少し整えただけです」
セレスは小川を覗き込み、顔を上げた。
「谷の下流、干上がっていた池が満水。村二つ分の水田が復活。王都の水位も安定……。“少し”の定義を教えて」
「鍬が一本、気持ちよく入るくらい」
「その鍬、単位にするのやめて」
雨は小やみになり、葉に並ぶ水玉が夕陽を砕く。クロが畝の上を駆け回り、泥を跳ね飛ばす。ツムギが笑いながら追いかける。
セレスは観測器を立て、糸を張り、ノートに数字を書き込みながらつぶやいた。
「あなたの畝が、世界の安定に繋がっている気がしてならない……」
「畝は畝だよ。俺にとっては」
「……そういうとこが怖い」
俺は笑い、焚き火に鍋をかけた。濡れた服を温めながら、三人と一匹で熱いスープをすする。
ツムギがこっそり尋ねる。
「アッシュさん、英雄だったって、本当?」
「引退した。今は農夫だ」
「ふふ……なら私も、畝の弟子になろうかな」
「畝に弟子はいらない」
「えー!」
笑い声が雨後の空に響く。
その夜、王都では報告が上がった。
――干魃危機、突如の夕立と地下水脈の復活で回避。観測不能の力が関与か。
だがここでは、ただ一つ。
「おやすみ、畝」
俺はそう呟いて眠りに落ちた。