第20話 冬至市のあとで
冬至の夜が明けた。
吹雪は嘘のように静まり、谷の屋根には分厚い雪が積もっている。朝日が反射して目が痛いほどだった。吐く息は白く、耳の奥まで冷え切っているのに、不思議と胸の中は静かだった。
俺は鍬を担ぎながら畝を見回した。昨夜の騒ぎが嘘のように、畝は何事もなかったかのように眠っている。雪に覆われた土は、しんしんと呼吸しているように温かさを返してきた。角を狙った獣たちの姿もない。まるで最初から存在しなかったかのようだ。
「ふぁぁ……おはよー……」
ツムギが雪の上にぺたんと座り込み、眠そうに目をこすった。髪には霜がつき、まるで白髪みたいに見える。
「おはよう。夜更かししたからな。市の片付け、手伝ってやれよ」
「はぁい……でも眠い……」
彼女は大きなあくびをして、再び雪の上に転がった。背中に積もる雪を気にするでもなく、手をひらひらと振っている。
セレスは既に起きていた。矢を一本一本点検しながら、冬至市で仕入れた新しい矢羽根を取り付けている。
「昨夜は……随分と騒がしかったですね」
「ああ。でも畝はよく耐えた」
「……あの押し手たち。退いたと思いますか?」
「退いたんじゃなく、帰ったんだろう。ああいう者たちは自分で納得しない限り諦めない。ただ……少なくとも谷を壊す理由は減ったはずだ」
セレスは少し唇を引き結び、矢羽根を整えながら視線を落とした。
「けれど、押し手が言った“世界が遅れる”という言葉……気になります」
「俺にはわからん。世界がどう遅れようと、畑には関係ない」
「……そうでしょうか」
クロが雪の上を駆け回り、尻尾で雪煙をあげた。犬は元気だ。元気すぎる。だがその奔放さに救われる。
冬至市の片付けは、村人総出で行われた。
広場に残った露店の骨組みを片付け、燃え残った薪を集め、雪に埋もれた足跡をならして道を整える。夜中に吹雪と獣に襲われたとは思えないほど、皆の顔は明るかった。
「英雄さま!」
誰かが声をかけてきた。振り返ると、昨日舞台でセリフを忘れて「畝、ごめんなさい!」と叫んだ子どもたちだ。
「昨日は助けてくれてありがとう!」
「英雄さまが笑ってくれたから、怖くなかったよ!」
俺は頭を掻いた。
「英雄じゃない。ただの百姓だ」
「ううん! 英雄だよ!」
「ちがう!」
「でもすごかった!」
子どもたちはわいわい笑いながら雪玉を投げ合い、クロも混じって転がっていった。俺の言葉なんか、誰も信じちゃいない。
セレスが横でくすっと笑った。
「慕われていますね、英雄さま」
「やめろ。その呼び方は落ち着かん」
「では“畑の英雄”で」
「もっとやめろ」
昼前。
観測局の役人が歩いてきた。若い男で、眼鏡は曇っていたが目の奥は妙に熱っぽい。
「昨夜の一件、局に報告します。畝の反応、橋の返歌、そして“押し手”の存在……すべて記録に残します」
「勝手にしろ」
「ただ――」
彼は少し言いよどみ、声を落とした。
「あなたが動いたことも、記録されるでしょう」
「……俺が?」
「はい。あの返歌は畝や橋だけではない。あなたの鍬の“拍”が合わさって初めて成り立ったものです」
俺は肩をすくめた。
「畝と橋が勝手に歌ったんだ。俺は何もしてない」
「……そういうことにしておきましょう」
役人は意味深に笑って去っていった。背中に刺さるような視線が残り、落ち着かない。
昼過ぎ。
セレスが干し肉を切ってスープに放り込んでくれた。湯気が立ち上る匂いに、腹が鳴る。
「これで少しは落ち着きますね」
「畑も雪に埋まったし、春までは暇だろう」
「……本当に、そうでしょうか」
セレスの眉がわずかに寄る。
「昨夜の押し手の言葉、気になります。“押さねば世界は遅れる”……。彼らは何を急いでいるのか」
「世界のことなんざ知らん。俺は畑を耕すだけだ」
そう言ったが、心のどこかで引っかかっていた。もし“世界”の遅れが畑に及んだら……そのとき俺は何を選ぶのだろう。
夕暮れ。
俺は畝の端に立ち、鍬を雪に突き立てた。
「今日も無事だな」
雪の下から、かすかな温もりが返ってくる。昨夜の騒ぎを知っているはずなのに、畝はただ眠り、春を待っていた。
「英雄さま!」
再び子どもの声がした。振り返ると、昼に会った子どもたちが雪だるまを作っていた。
「見て見て! これ畝の神さま!」
どことなくいびつな雪の塊に、木の枝で目と口が描かれている。
俺は笑って頷いた。
「いい出来だ」
「でしょ!」
笑い声が夕暮れの谷に響き、雪空に吸い込まれていく。
夜。
家に戻り、囲炉裏に火を入れる。
ツムギは毛布にくるまって丸まり、セレスは弓の手入れをし、クロは俺の足元で眠っている。外はまだ吹雪の余韻で風が唸っていたが、家の中は穏やかだった。
俺は火を見つめながら、ふと考える。
“押さねば世界は遅れる”――あの言葉が胸に残っている。
世界が遅れるとはどういう意味なのか。押し手は何をしようとしているのか。
英雄でもない俺には関係ないはずだ。けれど、もしそれが畑や谷を巻き込むのなら……。
「……いや」
頭を振った。俺が守るのは世界じゃない。畑だ。ツムギだ。セレスだ。クロだ。
俺は鍬をそっと壁に立てかけた。
「明日も畑が耕せますように」
小さく呟くと、火の音がパチリと返事をした。
それだけで十分だった。




