第2話 水と風と、静かなひと工夫
翌朝。湧き水の音が、昨日より一段細くなっている。雪代が落ち着いてきたのだ。夏に向けて、水をどう扱うかは畑の命。
「水路を、つけよう」
段の縁に立ち、谷の骨格を目でなぞる。南の尾根からの風、北の崖の反射、午前の光の角度。水は怠け者で、楽なほうへ、楽なほうへ流れる。怠け者の気持ちになって道を描けば、だいたいうまくいく。
鍬の先で土に浅く線を刻み、石の向きを確かめ、砂利の粒を選んで溝の底に噛ませる。湧きを導くと、きらりと薄い面が走って、土がやさしく飲み始めた。水が笑う小さな音。耳の奥で緊張がほどける。
「アッシュさん!」
ツムギが両手いっぱいに木杭を抱えて駆けてくる。
「昨日の件で、王都から調査の人が来るって。『結界現象の検分』だって」
「来たら、畑を見ていってもらおう。水路の助言がもらえるかもしれない」
「……そういうもん?」
「畑仲間はいつでも歓迎だ」
「王都の人、畑仲間……?」ツムギは不思議そうに首をかしげ、でも笑った。「うん、そうだね!」
杭を打ち、水の逃げ場を確保し、溝の端に泥で小さな堰を作って流量を試す。水は気分屋で、ほめると機嫌がいい。
そのとき、谷の入口から低い唸りが押し寄せ、森の葉裏がいっせいに白く反転した。
空気の色が変わる。乾いた草粉に、油の焦げたみたいな匂いが混じる。
地平に黒い雲――バロック蝗。畑一枚を数十息で丸裸にする厄介者が、風に乗って、面の高さでこちらへ滑ってくる。
「来るなぁ……畝、食うなぁ……」
つい口から漏れる。戦いじゃない。畝を守る。ただそれだけ。
畑の四辺を歩き、指で空気の縁をなぞる。南東からの風が谷の形で加速し、畑の上で渦を生みかけている。ここで渦芯が落ちれば、虫雲は吸い込まれて降りる。
鍬の刃で空を撫でる。刃先は風を切らない。風をなだめるように、角を丸めてやる。
空気がひとつ、低く鳴った。畑の上に透明な丘が立ち上がったみたいに、風がゆるやかに盛り上がる。蝗の黒雲がその斜面に触れた瞬間、ふわりと浮き上がり、畝の上空をすべるように通過していく。
群れは反対側の荒れ地にふわりと降り、雑草の海へ散った。そこは食べても構わない場所だ。土にそう覚えさせてある。
「……助かった」
肩の力が抜ける。と、背に影。
「王都治安局・外郭調査室、セレス。昨日の“結界現象”と、今見せてくれた“気流制御”について聞き取りに来たのだけど――」
背の高い女性。黒の旅装、眼鏡の奥の瞳は冬の水みたいに冷静で、腰には細剣。
彼女は畑の四辺を一周し、風見の杭を覗き、溝に膝をつき、土をひとつまみ舐めた。
「……温度勾配、湿度、土の締まり、風の層流。畑単位で最適化。王都の祭礼結界でも難しい制御よ」
「風よけのつもりで撫でただけですけど」
「質問を変えるわ。あなた、誰?」
「農夫見習い、アッシュ」
「“元”は?」
「引退した」
セレスは「なるほど」と短く言い、眼鏡を押し上げる。納得顔ではないが、押し問答をする顔でもない。
クロがわふっとひと声。昨日泥布団で眠らせた魔物の一部が、谷の遠くでのそのそ起き上がっている。セレスが反射で剣に手を伸ばす。
俺は鍬を肩に、走った。
「危険――!」
「畝、踏むかもしれないので」
土を指でひとつまみ、ころんと丸め、軽く投げる。空中で土塊はふくらみ、やさしい座布団になって魔物の鼻面にぽすん。巨体はそのまま土枕に顔をうずめ、すやすや寝息。
セレスは半ば抜いた剣を鞘に戻し、ため息をひとつ。
「あなたが守っているのは世界じゃなくて――畝、なのね」
「畝です」
「了解。なら私は、あなたの畝が安全に耕されるよう“外野の雑音”を減らす係を名乗る。観測器も設置する。あなたが耕すほど、この谷が落ち着く。直感じゃなく、もうデータがそう言ってる」
彼女は革の筒から銀色の杭を出し、畑の四隅に刺していく。透明な糸が互いに結ばれ、目に見えない四角がくっきりした気がした。
「干渉は最小限にする。観測値は共有する。見返りは――」
「水路の助言を少し」
「いい取引ね」
セレスは口元だけで笑った。笑うと意外に年が若く見える。
昼前、風が落ち着いたので、石垣の口を塞ぐ。ツムギが小石を、俺が中くらいの石を、村の若者が大石を運び、隙間に粘土と藁を詰める。セレスは要所要所で水糸を張り、角度を見て指示を飛ばす。
「そこで五分の一、締めて。違う、石の面が逆。そう、その向き」
「偉そう」とツムギがこっそり言うと、セレスは肩をすくめて「役割」とだけ答えた。
役割は大事だ。戦場でも畑でも。誰が何を持ち、どこに立ち、何を守るか。間違うと全体が崩れる。
午後、日が傾き、風見の杭が一度鳴った。
「水を、貸して」と土が言う。いや、言葉ではない。指の腹で読む気配だ。
俺は溝の端を掘り下げ、泥の栓をほんの少し緩めた。水は喜び、細い舌を伸ばして畝の間を撫で、葉裏の埃を払っていく。
セレスがノートをめくり、数字を並べる。
「谷風の速度、昨日より一割低下。湿度は均一化。地温、畝の肩で一度高い。……“畝の肩”って何」
「畝の肩は畝の肩だよ」
「定義の共有を後でお願いします」
そこへ、遠い鐘の音。山越しの号鐘は王都からの報せ。セレスが耳を澄ます。
「“大規模蝗害、谷風の異常流線により被害回避。発生源不明。継続観測を要す”」
俺は肩を竦めた。
「風が働いてくれただけです」
「あなたが撫でたからでしょ」
「風は撫でられると機嫌がいい」
「人も同じね」
セレスがふいに言ったので、ツムギが「だね」と笑い、クロが尻尾で地面をぺちんと叩いた。
夕暮れ、共同竈で鍋をかける。芋、豆、乾肉、玉葱。セレスがカバンから黒パンを取り出し、ちぎって鍋へ落とす。
「とろみが出る。王都の兵站鍋、野営の基本」
「うまそう」
湯気が頬を撫でる。初めて会ったばかりの人間とも、同じ鍋をつつけば距離は縮む。
「そういえば」セレスが匙を止める。「王都で、“英雄アッシュ失踪”の報せが回った。文官たちが地図に赤丸を増やしている。あなたは追われたい?」
「追われたくないから畑に来た」
「じゃあ“転職”に書き換えておく。所在:ハルノの里、職:農夫見習い。備考:要保護(畝の安定が世界の安定に寄与する可能性)」
「備考が大げさ」
「真実はしばしば大げさに見えるの」
彼女は笑って、匙をもう一杯。
夜、風が冷え、星が近い。観測器の細い糸が月明かりにかすか光る。
俺は鍬を拭き、刃に油を差し、柄に小さな傷を見つけて指でならす。ツムギはあくびを三回、クロは丸くなる場所を二度変え、セレスはノートの端に小さな図――畝の肩の断面図――を描いていた。
「明日は祠の雨乞いがあるんだって」とツムギ。
「行っておいで。俺は畝の機嫌を見ている」
「畝に機嫌があるの、やっぱり変だよ」
「ある。土は生きてる」
「……うん。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
「わん」
三つの声が重なり、谷風に溶けた。
世界のどこかでは、塔の上で偉い誰かが図を描き、線を結び、数字を並べ、危機と対策を口にしているだろう。
ここでは、明日の朝露がどの葉から乾くかが、第一の議題だ。俺は火を落とし、暗闇の中で畝の輪郭を思い描きながら、静かに目を閉じた。