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第19話 二つの手、ひとつの返歌

吹雪の白が森の端で立ち上がり、風の骨が低く唸った。

昨夜の押し手と違い、今度はもう一つの指が混ざっている。

片方は低く太い押し。もう片方は高く鋭い突き。

二つの音が橋の喉と畝の肩を挟み撃ちにしようとしていた。

理屈としては優等生のやり口だ。

だが理屈は、腹の温もりには勝てない。

「二つ来る。低いのが喉、高いのが肩だ」

俺がそう言うと、セレスは頷き、観測用の板に短い線を二本引いた。

「対位で返す。橋は返歌を半音下げ、畝は縫い目の呼吸を刻みに切り替える。押し手の拍に乗らないテンポで」

「半音って、おいしい?」

ツムギが首をかしげ、俺は苦笑して温室に合図した。

「湯を強く沸かす。蒸気を一つ、橋の上へ」

湯気の道は匂い垣だけではない。湿りは空気を重くする。

昨夜、歌を覚えた橋が低い節を鳴らしやすいよう、喉元に“湯気のマフラー”を巻いてやるのだ。

守り神が土の中から鼻だけ出し、目で「香りも混ぜる?」と訊く。

蜂蜜と柑の皮を少し。甘い香りは腹をほぐし、酸味は角を内側へ折り返す。

吹雪の腹から黒い影が滑り出た。

高い音は畝の肩を狙い、低い音は橋の踊り場を押す。

ヨルドが旗の根元を押さえ、観測局の若い役人が紙をしまい、山の民は太鼓を深く打った。

俺は鍬の背で地をとんと叩く。縫い目が“ここだ”と優しく光った。

眠らせる拍ではない。走らせず、転ばせず、合図だけをずらす拍だ。

押す手は、合図が合わないと力を失う。

「橋、返して」

俺の短い声に応え、橋板がぱんと笑う。喉の奥で低い“おお”が響いた。

昨夜より太い。湯気のマフラーが効いている。

木目がよく歌うのだ。

押し手の低音は橋の返歌に乗せられ、力を置く場所を失った。

一方で高音はまだ鋭い。畝の角へ針の群れのように突き刺さる。

ツムギが「端っこ係!」と叫び、雪の稜線に小さな印を結ぶ。

十歩ごとに印。角に印がつくと、角は角であることをやめる。

角が丸くなれば、針は自分で折れる。

それでも数頭が外を回り込もうとした。

俺は鍬の刃で空を撫で、風の段差を薄く重ねる。

見えない段差に獣の足がつまずき、鼻先に“土枕”を置かれて眠った。

セレスの矢が浅い筋に入り、起きても走れぬ角度で止まる。

クロは輪の外を走り、子どもたちの窓の灯を見て回り、尻尾を振った。

「押し手、右上」

セレスの声。斜面に白い影が一つ。

風筒を二本、片手で持ち替える速さ――素人ではない。

押し手は二人ではなく、一人で二系統を操る手練れだった。

俺は鍬を地に立て、手ぶらで斜面に上がる。

吹雪の白に包まれ、押し手の外套が見えた。

「こんばんは。喉は冷やすな」

俺の言葉に、押し手の指が一拍遅れて止まった。

「白紋会は、押すのが好きか」

「……押さねば世界は遅れる」

声は低く硬い。昨夜とは違う者だ。

「遅れる畝に、先回りを教える」

「畝は遅れていない。腹の速度で動く」

「腹は飢える。飢えを知らぬ畝に資格はない」

「飢えを見つめてきたのは畝だ。橋だ。湯気だ」

雪に吸われ、言葉は軽くなる。

かわりに、湯気が重く橋へ乗った。

橋が二度頷き、喉を響かせた。

押し手の低音は返歌に絡め取られ、高音は角を失って空に散った。

その時、さらにもう一つ、細い音が混じった。

昨夜のためらうような指の震えだ。

二人の押し手――だが、片方は迷いを抱えていた。

噛み合わぬ歯車は、自分たちを削る。

「戻れ」

俺の言葉に、細い方の音が弱く鳴き、低音が荒れた。

風筒の膜がくぐもり、押し手の足が半歩退く。

谷の下では冬至市が続いていた。

婆さまは若者に「歌え」と背を叩き、子ども組は台詞を忘れて「畝、ごめんなさい!」と土に謝る。

観測局の役人はパンをかじりながら「歌、効く」とメモして消し、また書いた。

ヨルドは帳面に数字を刻み、ツムギは舞台幕を押さえて笑っていた。

笑いがある限り、押し手は滑る。

「帰れ」俺は告げる。

「押す場所を探すなら、畝の外でやれ。橋の喉を実験に使うな」

押し手はしばし沈黙し、やがて低い筒を雪に落とした。

昨夜の細い音が近づき、「……ごめん」と短く言う。

礼儀はそこからだ。

俺は頷き、畝へ“帰り道”の足場を置いた。眠らせない。ただ帰れるように。

吹雪は二人の影を包み、白の裏へ連れ去った。

残された獣は森へ戻り、七つの眠る影は山の民に運ばれていく。

観測局の役人は胸に手を当て「ありがとうございます」と頭を下げた。

「科学は腹に勝てない。腹は歌に弱い」俺が笑うと、彼も笑った。

夜が明け、焼印の水位計は「平気」を指す。

市は蜂蜜と火の匂いで閉じ、橋は喉でぱんと笑った。

ツムギは端っこ係の紐を解き、守り神は土の下で「供物、よし」と寝返りを打つ。

俺は畝の肩を撫でた。雪の下の土は温く、息は長い。

「おはよう、畝。今日も畝でいよう」

谷のどこかで、子どもの笑い声が返った。

笑いは、畝の一番の武器だ。

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