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第18話 冬至市と白い紋の手紙

朝いちばんの川霧は薄く、橋板の焼印は“平気”を指した。

歌を覚えた橋は、息をするみたいにぱんと小さく一度だけ笑い、踊り場の麦殻がそれに応えるようにさらさら鳴った。夜の押し手は引いた。けれど、引いた相手が忘れるわけじゃない。風は覚える。人も覚える。

「今日は“冬至市”よ」

セレスが観測器の針を寝かせ、黒板代わりの板に予定を書き出す。

「午前は準備、昼に開市、夕方には子ども組の劇、夜は歌の奉納。……あと、王都の役人が来る」

「役人?」

「昨夜の件、報告が早かった。ヨルドが“王都文案”の書き方を知ってるおかげ」

ツムギが両手を上げる。

「市! 劇! やったー!」

クロはあくびをして、尻尾で土をぺちぺち。守り神は香りだけ飲みながら、土の中でうとうとする。「市は土も好き。匂いが増える」

市は、橋の踊り場と広場をつないで細長く延びる。

屋台の位置は“風の筋”に沿って決め、火を扱う店は川側へ寄せ、粉ものは温室の壁を背にしてけむりから守る。匂いは混ぜない。匂いが喧嘩すると、人が喧嘩する。

セレスは縄で薄い枠線を張り、子どもでも分かる絵札を吊るした。

――ここは火の道。

――ここは歌の席。

――ここは寝かせる場所(赤子・犬・酔いどれ)。

「最後の絵札、味があるな」

「実用一点張りよ」

酔いどれの絵の横で、クロが誇らしげに座っている。保護者の自覚があるらしい。

ヨルドは橋の真ん中に小さな机を出し、帳面を広げた。

「橋銭の出入り、晒す。数字にする。目で見える“安心”が、取引の命」

「商人の言葉は、土に似てるな」

「土に似せたのさ」

山の民は太鼓と乾燥肉、山葡萄の束を持ってきた。

夜に歌を奉納する約束だ。代わりに蜂蜜酒を少し。酒は祭りの油。多すぎると火が上がる。

ツムギは子ども組を集め、「畝の学校・中等科“契約の基礎”」の即席授業を始めた。

「指切りじゃなくて“字切り”するんだよ。紙に書く。大人が忘れても紙は忘れないから」

婆さまが「耳が痛いわ」と笑い、若者たちは頷いて自分の名の書き方を復習した。

午前の終わり、橋の向こうに三つの騎影。

王都の紋付外套、だが肩の雪払いが下手だ。街から来た手。

真ん中の男が名乗る。

「王都観測局・冬季巡察。北の押し手の噂を確かめに来た」

「ようこそ」

セレスが一歩前に出る。

「科学の言葉で話せる相手ね」

俺は鍬を肩に持ちつつ、笑って会釈した。

「畝の言葉でも、話は通じる」

役人は若く、鼻持ちならないほど真面目そうだった。

「昨夜、風導士と思しき者が押した形跡。あなた方の報告は簡潔だが、非科学的表現が多い。“畝が笑う”“橋が歌う”。証拠が必要だ」

「証拠は畝にある」

「畝は証言できない」

「畝は空気の角を丸める。丸くなった角は、旗が覚えている」

セレスが横から数字の束を差し出した。

「風向・湿度・温度・雪圧・旗の揺れ。昨夜と今朝の比較。押し手の音は“ここ”」

紙は静かに役人を説得した。若い男は目を素直に動かす。

「確かに“何か”はあった。だが“何か”で行政は動かない」

そこへ、ヨルドが布に包んだ金属片を置いた。

四角の中に白い線で風を四つ描いた、小さな紋章。

「拾得物。事情が事情だ、鑑識の目で見てくれ」

役人の顔色が変わる。

「……白紋会はくもんかい。研究会のはずだが、現場での倫理違反の噂が絶えない」

「噂が事実になっても、紙は“噂”と書く」

俺が言うと、男は言葉を詰まらせ、やがてうなずいた。

「冬至市の間、我々も見張る。あなたは?」

「市を開く。畝は市場を好む。匂いが増えるから」

「非科学的だ」

「腹は科学より正直だ」

セレスが肩をすくめ、役人は口の端をわずかに上げた。

「……市の安全に協力する」

昼。

冬至市が開く。

屋台のあいだを、温かい匂いが流れる。芋のスープ、薄焼きのパン、燻製の断片、山葡萄の蜜、干し魚の炙り。

子ども組の劇は「畝の肩を怒らせない魔法の指」。ツムギが脚本を書き、クロが“怒った畝役”で転がって笑いを取る。

笑い声は、土の薬だ。

笑いが増えれば、夜の怖さは減る。

若い役人が屋台の端で立ち止まり、燻製の薄切りを一枚つまんだ。

「……うまい」

「科学の証拠になったか?」

「腹の証拠だ」

「腹の証拠は強い」

市の半ば、橋の喉がぱんと笑い、山の民の太鼓が呼応する。

風が一枚、軽くなった。押し手は近くにいない。

白紋会の紋章は布に包まれたまま、机の端で光のない光を放っている。

午後、取引が落ち着いたころ。

白い紙が一通、風に乗って踊り場へ落ちた。

封蝋。白い紋。

表には「谷の“撫で手”へ」。

ツムギが目を丸くする。

「撫で手!」

「私信ね」セレスが眉を寄せる。「私信にしては、礼儀を履き違えてる」

俺は封蝋を割り、中を読んだ。

――あなたの“方法”は興味深い。実験に協力を。

――押すことの優位は証明済み。撫でる技術は、補助として採用可能。

――本隊の通過後、谷の“畝”の一部を研究区画として譲渡願いたい。

――風骨の秩序のために。

最後に小さく、手書きの一文があった。

――昨夜はすまなかった。

俺は紙を静かに折った。

「どうする?」

セレスが問う。

「返事を出す。“畝は譲渡しない”。それから“押す実験は畝の外でやれ”。……最後に“昨日の礼儀、次は手紙から”」

「優しいな」

「畝は優しい。畝語で返す」

ヨルドが指で机をとんと叩く。

「書きぶりは商用体で。怒気を載せず、条件だけ固く」

「了解」

セレスが筆を取り、俺が言葉を置き、ヨルドが文を整える。

――畝は公共。譲渡できない。

――押す行為は畝の外で。

――谷の歌と橋の喉に干渉しない。

――研究成果は晒す。隠すなら、橋は渡さない。

最後に俺の一文。

――土は、押すより撫でると喜ぶ。

封をする前、ツムギが顔を出した。

「一行、足していい?」

「どれ」

――この谷はおいしい。

「……どんな理屈?」

「理屈じゃないもん。真実」

セレスは笑い、ヨルドは肩をすくめ、俺はうなずいた。

「真実は強い」

夕方、子ども組の劇が終わり、山の民の歌が始まる。

橋は喉をひらき、川は二度頷き、風は肩をすくめた。

役人は真面目に歌を聞き、紙に“歌、効果?”と書いて自分で線を引いて消した。

「歌は、効く」

そう言って薄焼きパンをもう一枚買う。

科学は腹に弱い。

夜の手前。

白紋会からの返書は、来なかった。

代わりに、山の向こうの空にうすい白が立つ。

吹雪の端。

「来る」

俺は鍬を肩に、畝の前へ出た。

「市はどうする?」

ヨルドが問う。

「続ける。灯は消さない。笑いを消すと、風は強くなる」

「科学的根拠は?」役人が形ばかりに訊く。

「腹の根拠」

「了解した」

ツムギは小さな舞台を片づけ、子どもたちを家へ送る。

婆さまは「若いのは歌え」と背中を押し、若者は橋板の返しに雪が詰まらないよう細い棒で掃く。

守り神は土の下で「供物、増やせ」と言い、俺は香草を一束ちぎって土へ返す。

風の骨が鳴った。

昨夜よりも低い。

押し手が誰であれ、学ぶのは早い。

低い音は木目に乗る。

橋は“返し”の節を少しだけ下げ、喉の奥を厚くする。

太鼓は早くならない。深くなる。

白い壁が、森の端で立ち上がった。

吹雪が群れの影を隠し、影が吹雪の腹に潜る。

見えない戦いは、畝の呼吸で読む。

雪は笑えるか。

土は眠れるか。

橋は歌えるか。

俺は鍬の背で地をとんと叩く。

縫い目が“ここだ”とやさしく光る。

ヨルドは旗の根元を押さえ、役人は紙をしまい、セレスは息を合わせ、山の民は太鼓をひとつ深く。

ツムギは舞台の幕を畳みながら、窓に“丸”の灯をともした。

静かに続行。

吹雪が押し寄せる。

橋が歌う。

畝が笑う。

白い紋の返事はない。

だが、谷の返事はある。

――来るなら来い。

――押すなら撫で返す。

――畝は、畝でいる。

雪の壁の向こうから、まだ見ぬ影の気配が一つ、背骨を撫でた。

“昨夜の押し手”ではない。

もう一つ、手がある。

白紋会は、一人じゃない。

「手を分けてきた」

セレスが短く言う。

「分かりやすい」

俺はうなずき、鍬を握り直した。

歌が深くなる。

夜が、来る。

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