表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/38

第17話 橋が歌を覚える夜

夜がほどけると、谷はいつもより甘く息をした。

眠りに落とした黒い影たちは森の縁で温度を取り戻し、匂いの細道に導かれて散っていったらしい。畝は笑っている。土の笑いは音がしない代わりに、空気の角を一つずつ丸くする。

「今日の仕事、増えたね」

ツムギが片手を挙げた。

「橋に歌。畝に縫い目の点検。温室は結露の道、一本追加。あと、朝ごはん!」

「最後だけ大声だな」

「いちばん大事だから!」

セレスは黒板代わりの板に予定を書き、観測器の針を寝かせた。

「午前は橋の“喉”を整える。山の民に歌の節を教わって、板が共鳴しやすい位置に薄い穴を開ける。踊り場は麦殻を入れ替え、返しの角度を一度だけ寝かせる」

「数字で歌う気か」

「歌は構造でもあるの。構造は数字で機嫌をとれる」

山の民が四人、橋へ来た。

昨日の二人に長が加わり、もう一人は太鼓を担いでいる。彼らの言葉は少ないが、動きがきれいだ。足音が橋板に無駄な力を置かない。

「橋、きく。人、うたう。風、まるい」

長はそれだけ言うと、踊り場の中心に座り、胸の底を開けるみたいに低く長く声を出した。谷の骨が響き、板の目がわずかに震え、川が“うん”と頷く。

俺は橋板の端を撫でて、共鳴が逃げないように薄い溝を一本、流れと直角に刻んだ。木は、人と同じで、喜ぶと喉が開く。喉が開いた橋は、押されても歌でいなす。

ツムギは太鼓の前で目を輝かせ、クロは踊り場の端に伏せて耳を立てる。

「すごい……お腹の中があったかくなる」

「腹が鳴る歌は強い」

セレスがメモを取りながら相づちを打つ。「音程は低い方が板の節に合いやすい。三度下げる……いや、二度か。アッシュ、試して」

俺は低く短い節をまねた。歌は得意じゃないが、畝の前では“いつも通り”が強い。声が橋板と仲良くなる場所が一つ見つかった。そこは踊り場の中央から少し外れた、風の筋が肩に触れるところ。

昼までに、橋は二つの節を覚えた。

一つは「入り」の節、もう一つは「返し」の節。

入りは人を迎える声、返しは押されても撫で返す声。

山の民の長は「よい」と一言、太鼓の男は橋板を軽く叩き、ツムギは手を打って笑う。

「橋が歌った! 橋、今、笑った!」

「笑ったな」

板がひとつ、乾いた“ぱん”を鳴らした。

午後は畝の縫い目の点検に回った。

雪の裏の温い層は薄すぎても厚すぎてもだめだ。厚いと眠りが深くなりすぎ、畝が朝まで重たくなる。薄いと眠りが浅く、足取りの“迷い”にならない。

ツムギは端っこ係として、縫い目の端に小さな印を結んでいく。

「ここ、笑ってない」

「よく読めた。息が浅い。温室の余熱、少し借りる」

鍬の背でとんと叩くと、雪の布団が“わかった”という顔をした。セレスは数字で笑い、守り神は匂いで笑う。ヨルドは橋の踊り場に戻って、歌の節を紙に写した。商人は記録魔だ。数字にならない“いい”を、彼なりのやり方で残そうとしている。

夕刻、風がひと呼吸、北から東へ揺れた。

橋の喉がひとつ鳴る。

山の民が黙って立ち上がり、太鼓がとんと低く告げ、歌が始まる。

「入り」の節。

次いで俺が「返し」の節を短く置く。

板の目がほどけ、川面の霜が音もなく崩れ、風の角が丸くなって、押し手の指先が空振りを始める。

――それでも、来る。

森の奥で細長い音が一度、二度。

昨夜よりも高く、焦りが混ざる。

押している“誰か”が、群れの舵を急かしている。

黒い影が、昨日よりも広がって現れた。

縫い目の外、さらに外。

橋と畝の間の“喉”を狙う動き。

予想通りだ。

押す者は、押し切れないと、喉を狙う。

「橋、お願い」

ツムギが両手を合わせる。

長がうなずき、太鼓が早くならない程度に深くなる。

橋は歌った。

低く、太く、踊り場ごと、喉を震わせて。

川が“うん”と頷き、風が“まあな”と肩をすくめ、雪が「聞いてるよ」と布団を持ち上げた。

押し手の音が、わずかに崩れる。

高すぎるのだ。

高い音は薄く、橋の木目を滑っていく。

薄い刃は堅い皮に立たない。

「もうひと押し」

セレスが小声で言い、俺は鍬の刃で空を撫でて、匂い垣を二重に編んだ。

甘い匂いは川へ、冷たい匂いは畝の外へ。

香りは目に見えない柵になる。

獣は鼻で世界を読む。読む本のページをこちらでめくれば、筋書きが変わる。

三頭、四頭、眠りに落ちる。

五頭、六頭、喉の手前で足をすくわれ、雪の上に膝を抱える姿勢で止まる。

殺す必要はない。

止めて、帰らせればいい。

そのときだった。

斜面の上、影が一つ揺れた。

人の背丈。

風の筋がそこだけ不自然に寄っている。

押し手。

風導士。

セレスが矢を番えるのを、俺は手で制した。

まだ遠い。

矢が届く距離でも、届かせた矢が谷の“空気の話”を変えてしまう。

畝の前で、刃の議論を先にしたくない。

「私が行く」

言って、俺は雪の斜面へ踏み込んだ。

鍬の刃を地に立て、手ぶらのまま。

風の筋の、襟元を正すつもりで。

押し手は痩せた人物だった。

厚手の外套の裾がひらひらと踊り、手には細長い“風筒”。

筒の口に薄い膜。膜の震えで風骨をつっついてやるのだろう。

目は隠れている。だが、ためらいがある。

“押す”力は強いが、“見続ける”力は弱い。

「こんばんは」

俺は笑って声をかけた。

押し手の肩がびくりと跳ね、風が一枚、裏返る。

そこを撫でる。

怒らない。脅さない。

襟の折り目を直すだけだ。

風は人の体の延長で、礼儀を知っている。

「ここで押すと、橋がしゃっくりする」

押し手は返事をしない。

風筒の膜が震え、音が高くなり、斜面の雪がざらりと鳴った。

俺は鍬を持たず、手のひらで空の角をたたんだ。

“高いところから強く押す”のは、冬の風の礼儀ではない。

“低いところから撫でて誘う”のが、畝の礼儀だ。

膜が破れた。

押し手の手が止まり、風筒が雪の上にからんと落ちる。

外套の袖口から、細い手首。

若い。

逃げる準備の足。

けれど一歩目が踏み出せない。

雪の布団に、優しい縫い目が一本、走ったからだ。

眠らせはしない。ただ、足音を遅くする縫い目。

「……あなたは誰」

セレスの声が背中から届く。

矢は番えていない。

彼女は矢を“降ろす”訓練を積んでいる。

畝の前では、そのほうが強いから。

押し手は口をきつく結び、首を振った。

答えの代わりに、雪の上に小さな金属片を置く。

紋章。

四角の中に白い線で風を四つ。

知らない印。

ただ、街の匂いがする。

王都の紙と油の匂い。

風の学校の墨の匂い。

「これ、持って帰れないの?」

ツムギがそっと訊いた。

押し手は首を横に振った。

“置いていく”。その意思だけが、こちらへ向いた最初の言葉だった。

「帰れ」

俺は言った。

「畝の上では、押しても笑わない。帰って、考えろ」

押し手は一歩下がり、二歩下がり、雪の向こうへ溶けた。

追わない。

追えば、押す力が呼び戻される。

雪の夜の議論は、長引かせないほうがいい。

拾い上げた金属片をセレスが布に包む。

「王都の工房印じゃない。新しい。……“白紋会”。聞いたことがある」

「白い紋の会?」

ツムギが首を傾げる。

「風骨の研究会。理論は優れているけど、倫理の議論が遅い。現場を知らない。……私、昔一度、講義で喧嘩した」

「仲いいんだな」

「最悪の仲よ」

橋へ戻ると、山の民の歌が“返し”の節を静かに続けていた。

眠った獣は七。

あとは雪の布団の端に腰を落として、鼻で空気を嗅ぎ、帰る方向を探している。

橋は喉を鳴らし、踊り場は麦殻をやさしく踏み鳴らし、川は“わかった”と二度うなずいた。

「橋、覚えた」

長が言った。

「歌、いま、橋のもの」

「ありがとう」

ツムギが星みたいな目でうなずき、クロが鼻を鳴らし、守り神が土の下で「香り、増やせ」と要求する。

供物を増やす。香りは、土の勇気だ。

夜明け前、王都へ送る報告をヨルドがまとめ、セレスが短く追記した。

――押し手、確認。

――風筒、破れ。

――白紋会の可能性。

俺は最後の行に小さく書き加える。

――橋、歌を覚える。

報告は乾く。

けれど、橋は乾かない。

歌を飲んだ木は、冬の間、喉を温かく持ち続ける。

押されても、撫で返せる喉を。

夜が薄れ、空の端が白む。

畝の肩を撫でると、土は眠りから起き上がる直前の、いちばんやさしい顔をした。

「おはよう、畝。今日も、畝でいよう」

橋の板がぱんと一度笑い、谷は静かに笑い返した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ