表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/38

第16話 白い夜、畝が笑う

森の奥で、長い遠吠えが裂けた。

雪明かりがわずかに揺れ、谷の呼吸がひとつ溜めを作る。

「来る」

俺は鍬を肩に、畝の前縁へ出た。

縫い目は二十四。温室の余熱は縫い目の裏で薄く伸び、橋の踊り場は麦殻で噛みつく準備ができている。

セレスが旗の根元に手を添え、クロが雪を一歩蹴る。ツムギは窓辺で拳を握り、婆さまは竈の火を整え、若者たちは橋板の返しに注意を向ける。

“今は盗まなかった四人”は、無言で雪を払っていた。商人のヨルドは見張り台に立ち、風の角度を読む。

黒い影が、畝の境でいったん散開した。

賢い。縫い目を見抜こうとしている。

俺は鍬の背で地をとんと叩く。雪の裏の温い層が呼吸を合わせ、縫い目が“ここだ”とやわらかく光る――目には見えないが、足裏の皮膚が拾う光だ。

先頭の一頭が、外へ大きく跳んだ。

縫い目の外側、畝の肩の“角”ぎりぎり。

俺は鍬の刃を空で撫で上げ、風の段差を一枚だけ重ねる。

影は段差に乗って空振りし、足元がからっぽになって、雪へ腰を落とした。

鼻先へ“土枕”をぽすんと落とす。匂いの合図は速い。獣の目がふ、と揺らぎ、眠気が勝つ。

二頭目は躱した。三頭目は縫い目を真正面から踏む。

雪がふわりと笑い、脚から力が抜け、牙が見えなくなる。

その背に四頭目が滑って、すうと眠る。

倒れ方が静かだ。雪は音を飲む。

雪の上に積まれた眠気の層が、ここでは味方だ。

「今」

セレスの矢が二本、致命を避けた浅い筋肉へ。

起きても走れない角度。

クロは輪の外を走り、窓の四角い灯が一つ、二つ、確認のために倒れてまた戻る。

ツムギは窓越しに子どもたちへ指で“丸”を描いた。静かに続行の合図。

森のほうで、異質な音が混じった。

遠吠えではない。角笛でもない。

雪を擦る長い音――風の背骨を誰かが撫でている。

獣の群れは、臆病なようでいて、合図に素直だ。誰かが“押して”いる。

「吹かせているわね」

セレスが眉を寄せる。

「誰が?」

「風の“読み書き”ができる相手。……あなたの同業者か、敵か」

同業者、という言い方にツムギが目を丸くする。

「畝撫でライバル? やだ、燃える!」

「燃やすのは焚き木だけにしてくれ」

縫い目の内側に、わざと空白を残してある。

眠気は連鎖する。間に“目覚まし”を置かないと、雪も畝も長く眠りすぎる。

俺はその空白を走って横切り、鍬の背で軽くとんとんと叩いた。

温い層がとぎれ、とぎれで、呼吸を刻む。

獣がその上を踏めば、一息ごとに眠気が切れ、足取りは“転べないけど速くもない”。

戦闘ではなく、撤退へと導く“畝誘導”。

先頭が迷う。

迷うのはいい兆候だ。迷うと、生き物は群れの中の“賢いほう”に方向を預ける。

その瞬間、森の奥の音が少し高くなった。

合図を強めたのだ。

愚かではない。……やはり誰かがいる。

「アッシュ、左」

セレスの声が落ちてくるより速く、左の縁で一頭が跳ねた。

縫い目を嫌い、大回りで畝の端を掠めるコース。

俺は鍬の刃先で雪の“角”を撫で落とし、畝の肩に“優しい坂”を一枚足す。

影は坂の優しさにつられて、ほんの一歩、深いほうへ。

待ち構えていた“土枕”が鼻先へ落ち、ぽふと良い音を立てて眠った。

「いい子」

守り神が土の下から呟く。

香草の匂いが少し濃くなった。供物を増やしたのだ。

眠気は香りでやわらかくなる。土は、匂いで温度を思い出す。

五、六、七。

雪の上に黒がゆっくりと積もっていき、やがて獣の流れが細り始めた。

角笛じみた音が、一度だけ高く、それから遠のく。

押していた誰かが、手を離した。

「引いた?」

「押しても崩れないと見て、今夜は引いた。下見だ」

セレスの声は冷静だが、指先にわずかな震えが残っている。

冬の戦いの良いところは、血の匂いを避けられること。

悪いところは、寒さが後から震えに変わること。

俺は肩の力を抜き、鍬を立てかけた。

クロが短く吠え、ツムギが窓から飛び出してくる。

「勝った?」

「勝ってはいない。守った」

「守ったのが勝ちだよ!」

ツムギが笑って言い、俺はうなずく。

“勝ち負け”より、“畝が機嫌よく朝を迎えられるか”。

この谷の定義では、それが最優先だ。

眠った獣を、森の手前まで引いていく。

縄は使わない。雪の上に干し草の帯を置き、そこへそっと乗せ、みんなでゆっくり押す。

畝の内側に獣の重さが残らないよう、動線は縫い目の外を選ぶ。

“今は盗まなかった四人”が率先して押し、ヨルドが道の角の雪を払う。

山の民が二人、無言で肩を貸してくれた。

朝になったら森の奥で解き、匂いで“帰れ”を教える。

――敵ではない。ただ、腹を空かせている。

それを、群れを押す“誰か”が利用している。

「あなた、自分の技を“戦い”に使わないのね」

作業の合間、セレスがぽつりと言った。

「使ってるだろう」

「ちがう。あなたの“戦い方”は、畝の機嫌を最優先にして、相手を眠らせ、朝に返す。被害を少なく、恨みを薄く。……とても、厄介な方法」

「厄介?」

「敵にとって。あなたを“悪役”にできない」

ツムギが指を立てる。

「じゃあ、アッシュさんは“腹黒い優しさ”?」

「腹黒くはない」

「腹は黒くないけど、土は黒い」

「畝語だな」

運び終え、雪をならして戻る途中、橋の中ほどでヨルドが立ち止まった。

「角笛のような音……王都の記録でひとつ似たものがある。荒野で“風導士”が軍を動かした時の報告だ」

「風導士?」

セレスが顔を上げる。

「風の筋を“押す者”。あなたの“撫で”と違って、力任せに押し流す。補給を断ち、逃げ道を削る」

押す。

押す者は、押し切れないと、すぐに別の筋を探す。

畝は押し流されないが、橋や人は押される。

“風導士”が本当にいるのなら、次は畝ではなく、橋を狙ってくるだろう。

橋の踊り場が、谷の喉だ。

「橋の“喉”に、歌を置く」

俺は呟いた。

ツムギが首を傾げる。

「歌?」

「山の民の歌は風を丸くする。橋板と踊り場が歌を覚えれば、押されても“撫でられる側”に回れる」

山の民の二人が目を見交わし、短く頷いた。

「夜、ながい歌、うたう。橋、覚える」

「頼む」

温室へ戻る。

ツムギが大鍋に火を入れ直し、香草の束をちぎって投げ込む。

守り神は香りだけ飲んで満足そうに転がり、クロは扉の前で横になって鼻先だけ外へ向ける。

セレスは観測器の針を寝かせ、黒板にさらさらと書いた。

――初接触:被害なし(眠り×七、退去×数)。

――押し手の存在:あり(風骨音)。

――次の狙い:橋の喉(踊り場)。

――対策:歌/雪垣/匂い垣/灯火合図の再確認。

ツムギが指さす。

「“歌”って大事なんだね」

「うん。歌は畝の言葉に近い。言葉で言いづらい“角”を、歌は丸める」

「畝語、音楽だったの!?」

笑い声が温室に満ちた。

眠った獣の体温が雪を少しだけ温め、雪はその温度を畝へ返す。

戦わずに、戦った夜。

勝たずに、守った夜。

朝が近づくほどに、怖さは小さくなる。

夜が薄れ、東の空がわずかに白む。

俺は畝の肩を撫でた。

雪の下の土は温く、息は長い。

「おはよう、畝。……今夜、もう一度だ」

王都への報告は、また乾いているだろう。

――辺境谷、黒き獣群の接触。被害なし。押し手の影。

紙は温度を運ばない。

だが、畝は覚える。

この夜の“笑い方”を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ