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第15話 雪中の訪問者

夜の谷は、しんと静まり返っていた。

吐いた息は白く膨らみ、すぐに夜の闇へ溶けていく。雪明かりに照らされた畝の列は、まるで眠っている生き物の背中のようだった。

そのとき、クロが低く二度吠えた。

ただの通りすがりや野ウサギに向ける声ではない。緊張を帯びた、獣を追い払うときの声だった。

扉を開けると、吹雪の中にひとりの旅人が立っていた。

肩まで雪をかぶり、歩幅は小さく、足取りも頼りない。腕に抱える包みを、何よりも大切に守ろうとしているのがわかる。

「こっちに来い!」

俺は急いで腕を掴み、温室の中へ引き入れた。

外気が流れ込む前に扉を閉め、薪を足してストーブを燃やす。

ツムギが鍋を火にかけ、セレスは救急袋を用意した。

「指先が真っ青。すぐにお湯につけるな、布で温めて戻すんだ」

「はい!」

ツムギが厚手の布で旅人の手を包み、セレスは蜂蜜湯を差し出す。

男は震える唇で湯をすする。甘味が体に染み込むと、みるみる目に光が戻った。

「……助かった。命の恩人だ」

「大げさだな。畑の休み時間に、たまたま出会っただけだ」

冗談めかして返すと、男は少し笑った。

懐から取り出したのは、油紙に包まれた粗い地図だ。黒い線で雪嵐の矢印が描かれ、いくつもの村が赤で塗りつぶされている。

「王都からの情報です。『黒き魔獣』の群れが、雪嵐に紛れて北上中だとか……補給路が断たれ、商隊が消え始めている」

「……速度は?」

「風に乗って移動するため、予想以上に早い。吹雪の夜なら、半分の時間で進むとか」

セレスが地図を覗き込み、俺は谷の地形に重ね合わせる。

確かに、風の通り道を狙われれば、この谷に到達するのも時間の問題だ。

「先触れは、明日か明後日だな」

クロが鼻を鳴らし、ツムギが俺の袖を掴む。

「黒き魔獣って……怖いの?」

「ああ、狼より大きく賢い。畝の縫い目を踏み荒らすのが厄介だ」

守り神が土間から顔を出した。

「畝を荒らすやつは、土枕で眠らせる。手伝う」

「頼もしいが、凍らせすぎるなよ」

「香りの供物を足せば、温くできる」

セレスは地図に印をつけながら提案する。

「風上に旗を立てて合図を作りましょう。橋には障害を置き、温室の屋根は雪落としの道を増やす」

「いいな。畝には温い層を作って眠気を誘う。殺す必要はない、眠らせれば十分だ」

ツムギが元気よく手を挙げる。

「わたし、縫い目の端っこ係する!」

「端っこ係?」

「端っこを綺麗にすれば、真ん中も綺麗になるから!」

「……それでいい。畝語では正解だ」

商人は湯気越しにこちらを見つめた。

「やはり……あなたは英雄アッシュ様ですね。橋を築き、巨人を退けたと噂される……」

「俺はただの農夫だ」

「農夫が魔獣の群れに備え、谷を守る準備をするんですか?」

「畝がそう望むからな」

言葉を返したその時、外で雪の密度が変わった。

セレスが窓の霜を拭って夜を覗く。

「風は東。今夜は来ない」

「なら準備を贅沢にできるな」

――準備こそが、恐怖を超える力だ。

その夜、俺たちは朝までかけて旗と合図を決め、橋に麦殻を敷き、温室の屋根を補強した。

子どもたちは灯火で遊びながら練習する。三角は待機、四角は畝に近づくな、丸は静かに続行。遊びに見えて、これも立派な訓練だ。

やがて夜半。クロが再び鼻を鳴らした。

「……人の匂いだ」

温室を出ると、橋の影に四つの影。若い。だがその手には刃があった。

「近づくな!」

「腹が減っているんだろう。働けば食わせてやる」

俺は鍬を雪に立てかけ、香りを操った。

温かいパンの匂いだけを残すと、男たちの肩が震え、刃先が下がった。

「……ごめん」

「謝るのは食べてからにしろ。夜明けまで薪を割り、朝は橋の雪を払え。その代わり、スープとパンを分ける」

彼らは涙ぐみながら頷いた。

人は、まだ“人”であろうとする限り、働いて食う道を選べるのだ。

明け方。

薪を割り終えた彼らの背後で、ヨルドが見張りに立った。

商人の目には誇りが戻っている。

「王都では数字ばかりで、こういう“いい”は測れない」

「数字にできない“いい”が、村を冬越しさせるんだ」

陽が差し始める。

谷の畝は静かに呼吸を繰り返していた。

だがその奥、森の向こうから長い遠吠えが響く。

――来る。

鍬を肩に担ぎ、俺は畝の前に立った。

雪はちょうどいい厚みだ。

縫い目はすでに二十四。

温室の熱は十分。

「呼吸を合わせるぞ」

セレスが横に並び、クロが前に出る。

ツムギは窓辺で拳を握りしめた。

夜の静寂が深く沈む。

森の奥から黒い影が溢れ出す――。

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