第14話 雪の精霊
朝、空の色が音を吸い込む色に変わった。
山の影が動かず、鳥の声が薄くなり、焚き火の灰が軽く舞ってすぐに沈む。
最初の雪が落ちる前の合図だ。
ふわり。
白い羽が一枚、畝の肩に触れて消え、二枚目が残り、三枚目で薄い布団になった。
雪は敵ではない。寝かしつける手だ。
ただし、頼りすぎると風邪をひく。
温室の屋根にうっすら白が乗り、俺は呼気の逃げ道を一本増やして、薄い氷が張らないようにしておく。
「雪、きた!」
ツムギが外へ飛び出し、クロが鼻で白を掬ってくしゃみをした。
守り神は土間から顔だけ出して、冷たい空気を一口だけ吸い「うむ」と頷く。
「土は眠る。眠る土は、いい。夢を見る」
昼過ぎ、温室の前でツムギが叫んだ。
「雪が動いてる!」
掌サイズの白い塊が、畝の上をころころ転がっている。
雪の精霊。冬になると出てくるいたずら者で、人の食糧を隠したり、鶏を驚かせたり、わら靴に忍び込んで足をびしょびしょにするのが趣味だ。
クロがわふと吠えると、精霊たちは“きゃっ”と散って、温室の隙間から中へ潜った。
冷気が芽の上を撫で、若い葉先がきゅっと縮む。
俺は鍬の背で床板を軽く叩き、土の下の温い息を呼ぶ。
温室の空気がひとつ裏返り、露点の線が外へ押し出され、霜になるはずだった一瞬が、ただの白い吐息に変わる。
精霊は「ひゃ」と短く鳴いて飛び出し、畝の端でこちらを振り返った。
叱るときは、怒鳴らない。
俺はしゃがんで目線を合わせ、指で雪の上に小さな丘を描く。
丘の上に風の“滑り”を薄く敷き、転がると気持ちよく登り返せるよう角を丸める。
「ここで遊べ。畝の寝床は冷やすな」
精霊はためらってから、ころんと丘に乗った。
滑って笑い、登って笑い、やがて仲間を呼び、丘は白い豆のような笑い声でいっぱいになる。
ツムギが雪だるまを作り、鼻に小さな人参、目に炭、口に曲がった小枝をさす。
クロがそれを鼻で押して転がすと、雪だるまは精霊の丘へ到達し、精霊たちと一緒にころころ転がり合いを始めた。
セレスは温室の入口で温度計と湿度計を並べ、紙に数値を並べる。
「あなたの一撃で温度が二度上がって、露点がずれた。精霊は冷たいところを拾うから、狙いを外されたのね」
「芽が凍ると、明日の仕事が増える」
「動機の潔さは尊敬できる」
午後、別の問題が来た。
雪の精霊が“良かれと思って”、干し魚の棚の上に雪の枕をつくったのだ。
魚はしっとり、香りは半分死んだ。
ツムギの肩が落ち、クロがしょんぼり座る。守り神は小声で「香り、返ってくる?」と訊いてくる。
返す。
鍬の刃で空を撫でて“匂い垣”を張る。
甘い香りは温室の天井へ上げ、一度眠らせ、川筋へゆっくり降ろす。
冷たい匂いは畝の外へ、雪の丘へ。
匂いの道が分かれると、魚は“自分の匂い”を思い出す。
ツムギが切れ端を口に入れて目を見開いた。
「戻った!」
「匂いは道で生きる。道を間違えると、味が迷子になる」
夕方、雪は厚みを増し、畝の布団はちょうどよい重さになった。
守り神が土間で丸まり、「土、満腹」と呟く。
満腹の土は機嫌がよく、機嫌のよい土は、夜の冷えをよくやり過ごす。
そこへ、山の民の少年が橋を渡って走ってきた。
「白いもの、いっぱい、森の奥から……」
彼は息を切らし、言葉を探した。「雪じゃない。黒くて、でも白い。速い」
セレスが顔を上げる。
「黒き魔獣の斥候か、雪に紛れる新手か」
「畝を踏ませない」
俺は短く答え、温室の窓に指で四角い灯の合図を書いた。
ツムギが頷き、子どもたちに伝令に走る。
婆さまは干し草をまとめ、若者は橋板の返しに詰まった雪を落とす。
誰も、騒がない。
祭りの夜に役があったように、冬の夜にも役がある。
夜半、雪がいちど軽くなり、風がひと呼吸だけ東へ揺れた。
遠吠えのような、しかし遠吠えではない低い音が、森の奥で一度だけ鳴った。
先触れは、まだ来ない。
来るのは、風が変わる夜だ。
「合図は整った。温室の屋根、もう一本、雪落としの道をつくる」
セレスが紙の端を指で叩く。
「土枕、今日は百まで」と守り神。
「働かせすぎない」
「香りの供物を増やせば、二百いける」
「要求が具体だな」
クロが扉の前で丸くなり、鼻先だけ外に向けて眠る。
犬の眠りは、見張りだ。
俺は畝の肩を撫でて、雪の裏に薄い温い層をもう一枚敷いた。
「おやすみ、畝。明日、忙しい」
王都の報告は一行で片づく。
――辺境谷にて小規模雪精発生、被害なし。
紙は笑い声も、戻った魚の香りも、肩を寄せて寝る犬の鼻の温度も、運ばない。
でも畝は覚える。
今日、雪と遊んだ音を。
明日の霜を軽くするために、そういう音がいちばん効く。




