表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/38

第14話 雪の精霊

朝、空の色が音を吸い込む色に変わった。

山の影が動かず、鳥の声が薄くなり、焚き火の灰が軽く舞ってすぐに沈む。

最初の雪が落ちる前の合図だ。

ふわり。

白い羽が一枚、畝の肩に触れて消え、二枚目が残り、三枚目で薄い布団になった。

雪は敵ではない。寝かしつける手だ。

ただし、頼りすぎると風邪をひく。

温室の屋根にうっすら白が乗り、俺は呼気の逃げ道を一本増やして、薄い氷が張らないようにしておく。

「雪、きた!」

ツムギが外へ飛び出し、クロが鼻で白を掬ってくしゃみをした。

守り神は土間から顔だけ出して、冷たい空気を一口だけ吸い「うむ」と頷く。

「土は眠る。眠る土は、いい。夢を見る」

昼過ぎ、温室の前でツムギが叫んだ。

「雪が動いてる!」

掌サイズの白い塊が、畝の上をころころ転がっている。

雪の精霊。冬になると出てくるいたずら者で、人の食糧を隠したり、鶏を驚かせたり、わら靴に忍び込んで足をびしょびしょにするのが趣味だ。

クロがわふと吠えると、精霊たちは“きゃっ”と散って、温室の隙間から中へ潜った。

冷気が芽の上を撫で、若い葉先がきゅっと縮む。

俺は鍬の背で床板を軽く叩き、土の下の温い息を呼ぶ。

温室の空気がひとつ裏返り、露点の線が外へ押し出され、霜になるはずだった一瞬が、ただの白い吐息に変わる。

精霊は「ひゃ」と短く鳴いて飛び出し、畝の端でこちらを振り返った。

叱るときは、怒鳴らない。

俺はしゃがんで目線を合わせ、指で雪の上に小さな丘を描く。

丘の上に風の“滑り”を薄く敷き、転がると気持ちよく登り返せるよう角を丸める。

「ここで遊べ。畝の寝床は冷やすな」

精霊はためらってから、ころんと丘に乗った。

滑って笑い、登って笑い、やがて仲間を呼び、丘は白い豆のような笑い声でいっぱいになる。

ツムギが雪だるまを作り、鼻に小さな人参、目に炭、口に曲がった小枝をさす。

クロがそれを鼻で押して転がすと、雪だるまは精霊の丘へ到達し、精霊たちと一緒にころころ転がり合いを始めた。

セレスは温室の入口で温度計と湿度計を並べ、紙に数値を並べる。

「あなたの一撃で温度が二度上がって、露点がずれた。精霊は冷たいところを拾うから、狙いを外されたのね」

「芽が凍ると、明日の仕事が増える」

「動機の潔さは尊敬できる」

午後、別の問題が来た。

雪の精霊が“良かれと思って”、干し魚の棚の上に雪の枕をつくったのだ。

魚はしっとり、香りは半分死んだ。

ツムギの肩が落ち、クロがしょんぼり座る。守り神は小声で「香り、返ってくる?」と訊いてくる。

返す。

鍬の刃で空を撫でて“匂い垣”を張る。

甘い香りは温室の天井へ上げ、一度眠らせ、川筋へゆっくり降ろす。

冷たい匂いは畝の外へ、雪の丘へ。

匂いの道が分かれると、魚は“自分の匂い”を思い出す。

ツムギが切れ端を口に入れて目を見開いた。

「戻った!」

「匂いは道で生きる。道を間違えると、味が迷子になる」

夕方、雪は厚みを増し、畝の布団はちょうどよい重さになった。

守り神が土間で丸まり、「土、満腹」と呟く。

満腹の土は機嫌がよく、機嫌のよい土は、夜の冷えをよくやり過ごす。

そこへ、山の民の少年が橋を渡って走ってきた。

「白いもの、いっぱい、森の奥から……」

彼は息を切らし、言葉を探した。「雪じゃない。黒くて、でも白い。速い」

セレスが顔を上げる。

「黒き魔獣の斥候か、雪に紛れる新手か」

「畝を踏ませない」

俺は短く答え、温室の窓に指で四角い灯の合図を書いた。

ツムギが頷き、子どもたちに伝令に走る。

婆さまは干し草をまとめ、若者は橋板の返しに詰まった雪を落とす。

誰も、騒がない。

祭りの夜に役があったように、冬の夜にも役がある。

夜半、雪がいちど軽くなり、風がひと呼吸だけ東へ揺れた。

遠吠えのような、しかし遠吠えではない低い音が、森の奥で一度だけ鳴った。

先触れは、まだ来ない。

来るのは、風が変わる夜だ。

「合図は整った。温室の屋根、もう一本、雪落としの道をつくる」

セレスが紙の端を指で叩く。

「土枕、今日は百まで」と守り神。

「働かせすぎない」

「香りの供物を増やせば、二百いける」

「要求が具体だな」

クロが扉の前で丸くなり、鼻先だけ外に向けて眠る。

犬の眠りは、見張りだ。

俺は畝の肩を撫でて、雪の裏に薄い温い層をもう一枚敷いた。

「おやすみ、畝。明日、忙しい」

王都の報告は一行で片づく。

――辺境谷にて小規模雪精発生、被害なし。

紙は笑い声も、戻った魚の香りも、肩を寄せて寝る犬の鼻の温度も、運ばない。

でも畝は覚える。

今日、雪と遊んだ音を。

明日の霜を軽くするために、そういう音がいちばん効く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ