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第12話 谷に橋を架ける

川は、谷を二つに割る巨大な畝のようだった。

春は柔らかく、夏は足取り軽く、秋は機嫌が良い。だが冬の手前だけは、急に不機嫌になる。水位を上げ、石を抱え、落ち葉の塊を盾にして、こちらへ牙を剥く。これでは来年の輪作を広げられない。向こう岸の陽当たりのいい面が、ずっと手招きしているのに。

「橋を架ける」

俺がそう言うと、ツムギは麦藁帽子を両手で押さえ、星みたいな目をした。

「橋! 向こう側! 未知! 冒険!」

「畝を守るための通路だ」

「夢がない!」

セレスは巻尺と油紙を持って川べりへ降り、流速を測る浮子を落とした。

数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、だいたい人と風だ。だからまず数字で地面の気分を固める。それがセレスのやり方。

俺は上流と下流を歩き、川の“癖”を読む。

水は怠け者。楽なほうへ、昔からの筋へ、落ち葉の匂いが濃いほうへ、ついでに石の影を見つけると寄り道をする。

川底の石を二つ三つ撫でて向きを変えると、流れは自然に岸の岩へ頬ずりをはじめた。ここで、少しだけ“押す”。土のすべりを整え、流れの背に手のひらを添える。大声も力任せもいらない。鍬の刃を土に浅く滑らせるだけで、巨石は、重さを保ったまま、俺の都合に合わせてごろりと転がった。

「土木隊が数週間かける仕事を、数刻で……」

セレスが眼鏡を押し上げる。

「畝を守るのに、時間は惜しい」

対岸にも同じように“肩”をつくり、太い丸太を渡し、縄を捻り、板を敷く。

橋は難しくない。水に逆らわず、力の向きを味方にし、増水時には“撫でられる側”に回る設計にすればいい。

板の表面には細い返しを刻み、靴底が噛むように。霜の朝も、雨の夕方も、年寄りの膝と子どもの靴が、無茶をしなくても渡れるように。

「最初に行く」

俺は鍬を肩に、板の継ぎ目を確かめながら渡った。反発は素直、揺れは小さい。

次にツムギ。半分で立ち止まり、下を覗いて「わー!」と声を上げ、クロは慎重に爪を立てず歩き、板の匂いを嗅いでから尻尾を振った。合格だ。

橋の手前には“踊り場”を作る。

荷車がすれ違え、椅子代わりに座れて、子どもが転んでも転がり落ちない、余白。道は余白で安全になる。

上流側には流木除けの柵を入れ、板の端に焼印で目盛りをつけた。水位が一目で読める。紙が読めない人でも、川は読める。

夕暮れ、領の見回りがやって来た。

橋は公の道へつながるから、揉める前に帳面を出す。

工事の日付、材料の出どころ、流れを寄せた箇所の図、流木除けの点検手順、橋銭の案。セレスの字はきちんと細い。

若い兵は眉間に皺を寄せ、老兵は足裏で板の具合を確かめてから頷いた。

「橋銭は?」

「橋の維持と河岸の整備にしか使わない。帳面は広場に晒す。いつでも見ていい」

「晒す帳面は嘘がつけん」と老兵は笑い、若い兵は「領にも晒して」と印を押した。

ちなみにツムギは“晒す”を“干す”だと思っていて、広場に帳面を洗濯物のように吊る計画を立てた。やめなさい。

夜。

村人が橋を見に来る。

橋板の上に小さな灯が等間隔に並び、向こう岸からも灯が来て、真ん中で二つが肩を寄せた。

婆さまは板の上で立ち止まり、川の音に耳を澄ませて呟く。

「わし、川の上でこんな楽に息ができたこと、なかった」

道具は神ではない。けれど、ときどき、道具が人の呼吸を変える。

橋はただの板と縄と丸太だが、今夜のそれは、少し神事に似ていた。

翌朝から、村の音が変わる。

荷車の軋みは軽く、笑い声は半音上がり、犬の吠え声に丸みが出た。

市場へ出る商人が増え、山の民が様子を見に来て、旅人が足を止める。

橋が架かると、世界のほうから近づいてくる。良いものも、悪いものも。

「橋の名前、決めようよ!」

ツムギが言う。

「名前?」

「うん。“畝の橋”とか、“麦星橋”とか、“ツムギが最初に渡った橋”とか」

「最後のは長い」

セレスが咳払いをして、台に紙を広げる。

「手入れ当番、通行の優先、増水時の閉鎖手順。名より先に規則」

「現実!」

こういうとき、村は早い。

誰がいつ掃くのか、柵を誰が見回るのか、踊り場での物売りは許すが火気は禁止、橋の途中での立ち話は二人まで、酔っ払いは必ず誰かが腕を取る、といった細かい決めごとが、午前のうちに決まった。

紙が読めない人にもわかるよう、木札に簡単な絵を描き、橋のたもとに吊るす。

クロが“酔っ払いの絵”の横で尻尾を振り、守り神は「香りの供物の決まりは?」と真顔で訊いてくる。食べ物じゃない、香りだ。

午後、橋の上で最初のトラブルが起きた。

山の若者が駆け足で渡ろうとして、踊り場で荷車と鉢合わせになったのだ。

荷車の男は怒鳴りかけ、若者は言い返しかけ、空気が尖る前に、俺は板の表面を指で撫でた。

板の返しは人の足を“止める”よう刻んである。角度を数度だけ変えると、走る足が自然に歩幅を縮めた。

若者は自分で自分に驚いた顔をして、荷車に頭を下げた。

「……板が、怒ってた気がした」「板は怒らない。畝は怒る」

夕方、王都へ走る連絡鐘がひとつ、遅れて二つ、鳴った。

――辺境谷に強固な橋梁発生、工期不明、危険なし。

乾いた報告に、乾いた事実が並ぶ。

紙は名前を求めるが、畝は名前を気にしない。

明日の畝は、今日より風通しがいい。それがすべてだ。

夜、寝る前に、橋板の端と畝の肩を順に撫でる。

木は人に似て頑張りすぎる癖がある。頑張りすぎる前に「よくやった」を言っておくと、長持ちする。

「おやすみ、橋。おやすみ、畝。明日、向こう側を耕す」

向こう岸の、濃い土色が、月明かりでさらに甘く見えた。

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