第1話 畝と引退宣言
荷車が最後の坂をぎしぎし鳴らしながら登り切り、鼻先に春の匂いが満ちた。湿った土の甘み、枯草の粉、遠い花粉。山影が長く伸び、谷の底を撫でていく。
「――着いた。今日から、俺の畑だ」
ここはハルノの里。地図にもろくに載らない小さな谷あいで、段々の石垣はところどころ崩れ、かつて畑だった面は雑草に覆われ、野兎が走り、雉が鳴く。崩れた石をひとつどけ、指で土をつまんで揉む。表面は乾いているが、ひと節下はしっとりと温かい。冬眠から目を覚ましたばかりの呼吸が、指腹にふうわり触れた。
「英雄さま、ほんとうにここに住むの?」
草むらを分けて黒い鼻が現れた。村の半分が「うちの犬だ」と主張する、自由民のクロだ。俺は笑って顎をしゃくる。
「英雄はもう引退。今日からは農夫見習いのアッシュで頼む」
「わん」
返事が良い。クロは尻尾を一度だけ振り、すぐ草を嗅ぎに戻った。犬は畑の空気を読む。畝を踏まない犬は賢い。踏む犬もまあ、かわいい。
荷の一番上に縛っていた鍬をほどく。柄は腕に合わせて詰め、鉄は古い仲間の鍛冶屋に頼んで鍛え直してもらった。戦場で槍を握っていた掌が、今、畑道具を握り直して心地よさを覚える――自分の中で何かが静かに位置を変えたのを感じる。
最初の一振りは、儀式みたいなものだ。刃を浅く入れ、雑草の根を裂いて、土を返す。
「ただいま」
心のどこかで、土にそう言っていた。鍬の重みが肩に素直に落ち、背筋に温かい疲労が通る。耳の奥で、遠い喧噪の記憶がはじけて消えた。
畝の位置、風の通り、水の溜まり。頭の中に見えない線を引きながら、段を一枚ずつ見て回る。石垣の口は三箇所崩れている。土が痩せないうちに塞ぎたい。水源は上手の湧き。夏場に細るだろうから、受けを広げたい。
「アッシュさーん!」
駆け上がってくる足音。麦藁帽子を押さえた村長の孫、ツムギだ。頬は日焼け、目は泉みたいに明るい。
「南の斜面から魔物が、群れで――!」
言葉に合わせるように、山向こうから地鳴り。鳥がいっせいに舞い上がり、谷の空気がぴんと張った。
南斜面を見ると、黒い波が押し寄せてくる。牙の太い猪型、角の張った山山羊、棘尾の蜥蜴、混成の群れ。数は――数えない。数える意味がない規模だ。
俺は畝の予定線に目を落とす。線は、谷風を割って入るようにゆるく曲げるつもりだった。あの群れの足、あの勢い。この角度で来れば、間違いなく踏む。
「……そこ、畝が通るんだがなあ」
戦支度? いらない。武器? いらない。必要なのは、ここを畑として守ること。
俺は鍬を肩に担ぎ、群れの先頭と耕地の境に、すっと立った。
「すまない。そこ、畑になるから」
もちろん返事はない。返ってきたのは風の圧。先頭の猪魔が咆え、突進の線が俺の胸元に引かれた。
俺は鍬をくるりと返し、刃先を土へ――やさしく滑らせる。耕す時と同じ。怒らせない、痛めない、ただ、流れを整える手。
地中に波紋が走り、表土がふくふくと膨らんだ。勢いに乗っていた魔物の脚は、その柔らかさにふいを突かれて沈む。重心が前に崩れ、先頭が転び、次列がつまずき、三列目が将棋倒し。
転がる巨体は、俺が頭の中に引いた畝の曲線に沿って、土の“流れ”に押され、するすると左右に分かれていく。畝の予定線だけは、きれいに避けて。
「……よし、畝は無事」
俺は鍬の背で表面を軽く整え、沈んだ部分に藁屑を散らして保護する。足掻いていた魔物たちは、柔土の温度に筋肉がほぐれ、泥風呂に浸かったみたいにほどけていき、やがてすうすう寝息を立て始めた。鼻先に土の座布団。誰が見ても平和だ。
遠巻きの村人のどよめきが、谷風にちぎれて届く。
「い、今の……土が……」
「魔物が布団みたいに……」
「アッシュさん、やっぱり本物の――」
「農夫です」
俺はきっぱり言った。肩で息をしていたツムギが、ほっと笑ってしゃがみ込み、クロが尻尾で土をはたいた。
そこへ、杖をついた村長が息を切らせて駆けてくる。
「命の恩人じゃ……いや、畑の恩人か……どっちでも恩人じゃ!」
「たまたま土が良かっただけです。畝が守れればそれで」
片づけながら、倒れた獣の棘や角の向きを直す。無理に触れば折れて怪我になる。安全第一、畑第二。寝ている間に縄を掛け、谷の反対側の荒れ地へそっと引き出してやる。目が覚めたら、ここは“居心地が悪い”――そう土に覚えさせておくと、次は寄りつきにくくなる。
夕方、村は臨時の宴になった。段の一角に火を起こし、俺は簡易の畝にジャガ芋を植え、余った芽は切り口を乾かして次の雨に備えておく。鍋には干し肉と山菜と麦。湯気が立ち、子どもが寄ってきて、クロが誇らしげに先頭に並ぶ。
「アッシュさん、王都にいた時、どんな――」
「引退した」とだけ答えて、鍋の塩加減を見る。戦の話は、火のはぜる音の向こうに置いておきたい。俺にとって重要なのは、明日の朝どこから日が差し、どの面から露が乾くかだ。
宴の最中、古い旅鐘が谷に二度、三度、寂しく鳴った。山の向こうの大都市から伝わる報せの合図。誰かが耳打ちする。
――南山脈の魔物大移動、謎の地相変動により全軍無力化。国境防衛線、脅威去る。原因不明。
どこか遠い世界の話だ。俺は湯気の向こうに手を伸ばし、柔らかな芋をひとつ掬ってツムギの椀に落とした。
「明日は石垣の口を塞ごう。水も見たい」
「うん! 私も運ぶ!」
「重い石は大人に任せなさい」
「うぬぬ」
夜、星を見上げる。露の匂い、焚き火の残り香。鍬の柄を布で拭き、土を落とし、刃に薄く油を差す。
「おやすみ、畝」
口に出してみて、自分で笑った。畝に挨拶するのは、この谷で多分俺だけだ。それでも、言いたい。土は聞いてくれる。
遠く、王都の塔の鐘が遅れて一つ鳴り、風が向きを変える。世界は大きい。けれど俺の世界は、今日引いた一本の畝の幅だけで、十分満ちていた。
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