心をください
ベッドから出ようとする佑太先輩を抱き締める。
「離せよ」
「……」
「……はぁ」
ため息に慌てて手を離すと、先輩はベッドから出てしまう。温もりが残る手を見つめて考える。先輩が壊れるまで抱き締めたら、どこにも行かせずに済むんだろうか……。そして小さく頭を振る。なにを考えているんだ。
「須藤が抱いてくれって言うから抱いてるんだからな」
「……」
そのとおりだからなにも言えない。沈黙が部屋に広がり、俺は言葉を探す。先輩が再びため息。
「……しょうがねえな」
あの日もそう言っていた。
目立たない俺なんかにも優しく接してくれる佑太先輩が好きだった。格好よくて、みんなが先輩を目で追っていた。
夏、賑やかしで色々な人が誘われた飲み会。
慣れないお酒と、佑太先輩がいるということに浮かれて飲み過ぎた俺を、帰りが同じ方向だからと幸運にも先輩が送ってくれた。酔って大胆になっていたとしか思えない。素面だったら絶対できなかった。
「須藤、部屋ここでいいのか?」
ふらつく俺を心配して、アパートの部屋まで送ってくれた先輩を室内に引きずり込んだ。
「……抱いてください」
「は?」
「好きなんです……お願いです」
そのとき俺はどんな顔をしていたかわからない。ただ先輩が困っていたのは、はっきりわかった。当然だ。よく知らない男の後輩に迫られて困らないはずがない。
酔っ払いなんてそのまま置いて帰ってしまえばいいのに、縋りつく俺を先輩は悲しいくらい優しく抱いてくれた。
「セフレにしてもらえませんか?」
行為の後、後悔のやってくる前にそう言うと、先輩は苦々しい顔で首を横に振った。
「そういうのは作らない」
それでも、と食い下がる。
先輩が好きだから、なんでもいいから繋がっていたい。ここで引き下がったら、二度と会話もできなくなる気がした。だって先輩は俺を好きじゃない。
「お願いです……」
先輩の手を掴み、頷いてくれるまで離さないつもりでいた。たぶんその気持ちが透けて見えたんだろう。先輩がため息を吐く。
「……しょうがねえな」
渋々といった様子だけど先輩は頷いてくれて、俺は天にも昇る気持ちだった。
「そのかわり、誰にも言うなよ」
「はい!」
誰にも言わない。先輩と俺だけの秘密。
「須藤、眠いのか?」
ぼんやりとあの日を思い出していた俺の顔を覗き込む、茶色の瞳。こんな俺なんて気遣わなくていいのに。
先輩は優しい。
苦しくなるくらい、優しい。
決まった日があるわけではなく、俺が求めれば佑太先輩はバイトが終わった後でも来てくれる。先輩の優しさがときどき辛い。それでも繋がっていたい。どんな形でも、先輩の心が欲しい。
できたら、“好き”が欲しい――。
今日もまた先輩を待つ。インターホンの音に心がざわつく。
「よお」
「……こんばんは」
ベッドの軋む音は聞き慣れた。恥ずかしい声が押し出されていくのは、まだ慣れない。
幸せなのに、抱かれるたびに心が空っぽになっていく。どんどん空虚になっていく。先輩に触れても触れても届かなくて、近づけない心が冷たくて。あの日の自分を後悔する気持ちと、それでもやっぱりこうなれてよかったという思いがあって、自分が全然わからない。
「不毛な恋をしてるって顔だな」
友人の指摘にぎくりとする。学食に誘われて、向かい合ったかと思ったらいきなりの言葉になにも返せない。
「相手は?」
「……」
本当は相談したい。でもできない。先輩とのことは誰にも言わないという約束だから。
「そんな顔するような恋はやめとけ」
不思議とその言葉がすっと心に入った。佑太先輩を解放しよう、そう思えた。
ありがとう、と友人に言いたかったけれど、言ったら不審に思われるだろうから言わずにいた。
「須藤」
突然、険しい表情をした佑太先輩が俺達に近づいてきた。なにかを怒っているような様子で先輩は俺の手を掴む。え、と口に出す間もなく食堂から連れ出されてしまう。ぐいぐい手を引かれるままについて行く。様子のおかしい先輩。なにを怒っているんだろう。
「佑太先輩?」
「っ……!」
恐る恐る声をかけると先輩はびくっとして足を止め、振り返る。俺を見て、そして掴んだ手を見る。
「――悪い」
「いえ……」
表情を歪めている先輩は、今まで見たことがない顔をしている。気になるけれど、俺が踏み込んでいい場所じゃないように感じられた。すぅっと息を吸う。
「先輩、あの」
「ん?」
「……今夜も」
なるべくゆっくりした口調で言葉にする。先輩は俺をじっと見て、ひとつ頷く。
これで最後にしよう。
先輩との繋がりがなくなるのは怖いけれど、虚しさに耐えられないし、佑太先輩から手を離さないといけないと思う。
夜、バイトが終わった後に先輩が来てくれたけれど様子がおかしい。俺に触れようとしない。ベッドに誘っても断られる。
「少し喋ろう」
「……はい」
本当にどうしたんだろう。疲れているのかと聞いても、疲れはそんなにない、と返ってくる。
並んで座って他愛のない話をする。先輩とこんな風に時間を過ごすのは初めてかもしれない。なんだかむず痒い。なんとなく、先輩の手に触れたくて手を伸ばす。でも触ることはできなかった。避けられてしまったから。
「佑太先輩……?」
「っ悪い」
なんだか焦っているように見える。なにをそんなに焦っているのかわからないけれど、ちょうどいい。そっと深呼吸をして口を開く。
「もう、やめましょう」
「え?」
泣くなよ、と自分に言い聞かせる。ここで泣いたら台無しだ。ぐっと手を握って手のひらに爪を立てる。
「今までありがとうございました」
精いっぱいの笑顔を作った。
佑太先輩との関係を終えて二か月。もう二か月、まだ二か月。心に風がとおるけれど、思ったよりはなんとかなっている。
遠くに先輩の姿を見つけて、とくん、と心臓が高鳴る。先輩の姿を見るのも辛くなるかと思ったら、そんなことは全然ない。今でも先輩を見るとどきどきするし、触れられたいと思う。
でも、触れられないほうがいいと知ってしまった。一方的な願望で縛って、強引に身体を繋げてもうらことの虚しさに耐えられなかった。好きな人に抱かれているのに満たされないなんてことがあるとは思わなかった。結局、俺は弱かった。
どんな形でも先輩の心が欲しかった。でも、やっぱり“好き”が欲しかった。愛されて抱かれたなら、どんなに甘い幸せがあっただろう。想像するだけで心が震える。
……でも、それは俺には訪れない。
夜、ベッドで丸くなっているとインターホンが鳴る。もうそれを鳴らすのはあの人ではない。先輩はもうここには来ない。
モニターを見る気にもなれず、荷物が届く予定もないので、そのままベッドで丸くなる。続けてもう一回インターホンが鳴り、胸が締めつけられる。
佑太先輩ではない。そのことを知っている。知っているはずなのにまだ引きずっている。ドアを開けたら、そこに先輩が立っているんじゃないか。そんなことを考えてしまう。ぎゅっと目を閉じて身体を更に丸める。
先輩が好き。本当は離したくなかった。でも、あのままじゃだめだった。じゃあ、どうしたらよかったんだ――。
ドアを叩く音にはっとする。本当に誰だろう。
「須藤」
「!」
聞き間違えるはずがない声。俺が求める人。
慌てて起き上がって玄関に向かう。ドアを開けると、本当に佑太先輩がそこに立っている。夢じゃないのかと呆然とその姿を見つめてしまう。
「……入れてくれる?」
「あ、ど、どうぞ……」
自信なさそうな声に、慌てて先輩を部屋に上げる。上げて気がつく。部屋が散らかり放題。
「すみません、散らかってて……!」
「いや、須藤の部屋って普段はこんな感じなの?」
「……そんなことないんですけど」
先輩との繋がりが切れて力が入らなくなり、なにをする気も起きなかった。服は脱ぎっぱなしだし、使ったエコバッグも畳まず放置。ゴミはきちんと出しているから、汚いということはないというのが救いだ。
「……どうしてた?」
ローテーブルの前に置いてあるクッションに座った先輩が、俺にも座れと手招きするので隣に座る。緊張する。
「先輩こそ……」
先輩が黙り込んでしまうので、俺も口を噤む。沈黙の中、ただ隣にいる人の気配を感じる。優しくて温かくて、泣いてしまいそうなくらいやっぱり好きだ。先輩は黙ったままでじっと動かない。
「どうしたんですか?」
先輩の顔を見ると、先輩は切なげに眉を顰めて俺を見て、それから口を開く。
「……須藤がよくわからない。最初からよくわからなかったけど、どんどんわからなくなっていった」
「……はい」
そんな風に思われていたんだ。たいして難しい構造をしていないと思うんだけど。
「押し切られて抱いたこと、すごく後悔したし、普通好きな相手だったら恋人になりたがるものじゃないのか? ……須藤はいきなりセフレにしてくれ、だっただろ。わけわからねえ」
「……すみません」
やっぱり後悔したんだ……。それに、確かに先輩の言うとおりかも。でも、恋人なんて俺には想像もできなかった。先輩の恋人になれる人は、どんな人なんだろう。
「……セフレも、関係を終わらせたら須藤が壊れるんじゃないかと思うと終わらせられなかった」
「そう、だったんですか……」
そんなことを考えてくれていたんだ……なんて優しい人だろう。どきどきする。こんな俺を心配してくれていたことに、心が温かくなる。
でも、本当にどうしたんだろう。先輩がこんなに自分のことを話してくれるのは初めてだ。
「須藤のことはわからなすぎて気になる、ただそれだけだった。好きになる日は来ないだろうと思ってた」
「……はい」
わかっていたことでも、はっきり言われるときつい。胸が抉られたように痛み、目を伏せる。
「それなのに」
苦しそうな声に先輩を見ると、先輩は表情を歪めている。どうしよう……抱き締めたい。そう思ってしまうくらい先輩が辛そうに見えて、伸ばしかけた右手を左手で押さえて止める。
「学食で須藤が俺以外の男と一緒にいて焦った……取られたくないと思った。須藤は俺のものだって腹が立って……」
俺が、先輩のもの……?
甘美な響きにぞわりと鳥肌が立つ。甘みが血液を巡り、細胞のひとつひとつまでしみわたる。ぞくぞくと快感が全身を走り抜けていった。
「そんな感情間違ってるってわかってるのに、腹が立ってしょうがなくておまえを連れ出した。俺以外と一緒にいさせたくなかった」
「そんな……」
「誰が見ていようが場所もなにも関係なく、すぐにおまえを抱いて俺のものにしたくて、自分を抑えるの大変だったよ」
あまりに苦しそうに微笑むから、俺はどうしたらいいかわからなくなる。そんな言葉、知らない。こんな甘さ、知らない。おずおずと先輩の手に手を重ねてみると、それは拒絶されなかった。
「……じゃあ、どうしてあの夜、触れてくれなかったんですか」
あの、最後にしようと決めた夜、先輩は俺に触れてくれなかった。なにかに焦った様子で俺が伸ばした手を避けた。先輩は首を横に振る。
「須藤に触れることが怖くなった。おかしいんだけど、どうにもならないくらいすごく怖かった」
怖かった……。あのときの先輩の感情がすとんと理解できた。
「須藤に捨てられて、なんでだよって思った。おまえ俺が好きなんじゃないのかよって思いながら、……それ言って否定されるのが怖くて、なにも言えなかった」
「捨てるなんて……俺は、先輩を解放したかっただけです。虚しい関係から――俺から」
先輩が目を伏せる。その姿が芸術品のように美しくて息を呑んだ。ゆっくりと視線を俺に向け、寂しそうに頬笑む。心臓がぎゅっとなる笑顔。
「どうしたら伝わる?」
その言葉の意味がわからず、首を傾げる。伝わるって、なにが?
「この二か月、空っぽだった」
「……?」
「気が狂いそうなくらい、須藤が恋しかったよ」
かあっと頬が熱くなり、心臓が高鳴る。視線を合わせていられなくて顔を背けるけれど、どこに視線を向けていいかわからない。震える指先をごまかすように自分の手を握る。混乱と期待がごちゃ混ぜになって暴れている。
「そ、それじゃまるで愛の告白ですよ……」
そんなことがあるはずないのに……。
先輩が俺の手を両手で包む。先輩の手も震えている。
「まるでじゃなくて、そうなんだよ」
先輩は微笑んでそう言い切った。混乱と期待が歓喜に呑み込まれる。ぶわっと広がった感情が身体からしみ出していくように、部屋中に広がっていくように感じる。
「須藤の心が欲しい」
そんな……まさか……。信じられない気持ちで、包まれた手を見る。確かに先輩の手。先輩の顔を見る。俺に微笑みかけているのは、間違いなく佑太先輩。自分の頬をつねってみる。
「なにやってんの?」
「ゆ、夢じゃないかと」
「夢にするなよ」
本当に……? そんなことある?
でもこれ以上疑いたくない。先輩の気持ちを疑いたくない。確かにまっすぐ伝えてくれた想いは、俺に向けられている。
「……全部、あげます」
「須藤……」
「だから、佑太先輩の心を俺にください」
ゆっくり抱き締められて、壊れ物にするようなキスを先輩がくれた。そんな風に恐る恐る触れなくても俺は壊れないのに。
「須藤、一から始めよう。全部やり直そう」
「……はい」
先輩と一から。あんなに虚しかったのが嘘のように、満たされる。
抱擁をとき、先輩が俺の顔を覗き込む。その瞳に確かな温もりがある。
「好きだ。須藤にそばにいて欲しい」
「はい……俺も、佑太先輩が好きです」
涙で視界がゆらゆらしてくるけれど、泣きたくない。だって佑太先輩の顔が見えなくなってしまう。
先輩が髪を撫でてくれる幸福感に、堪えた涙が零れてしまった。
END




