青・藍
ふと、リビングの外から視線を感じて振り返る。
窓の向こうの地面に見なれた小さな影があり、新雨は窓と網戸を開けて招き入れる。
「いらっしゃい」
声をかけるとスンとした表情で近づき、静かに地面から跳び上がって、開けた窓から家の床に音も無く下り立った。
新雨はその前に膝を突いて床にのんびり座る。
相手も目の前で寝転がり、パタパタとしなやかに尻尾で床を打つ。
小さな頃からのお客さんなので、その仕草だけで何を要求しているか、その大きな瞳で見つめられなくても分かってしまう。
無言で伸ばした新雨の手は、毛並みに沿ってその体を撫でる。
繰り返し撫でるとパタンと頭も横たえたので、要求はいつも通りで正解だったらしいと判明した。
この子はたまに顔を出す、隣の家の飼い猫だった。
新雨たちが小学生の頃からの付き合いで、大人しく滅多に鳴かず、猫にしてはもう高齢になる子。
もう慣れたもので、どこを撫でても怒らない。
しかし、代わりに満足しないと中々帰らないし、余りにも構わないといつの間にか帰ってしまう。
ちなみにニャーニャー語りかけても応えてはくれない。
本当に大人しく、耳をピコピコ動かして、煩わしそうにするだけ。
「ただいまー、にーちゃん……何して」
出かけていた環音が帰宅し、新雨の背中に近寄った。
「あ、ミッキか。久しぶりー」
新雨の身体から覗いた妹は、弾んだ声で自分も猫の枕元に座り込む。
するとミッキは薄く瞼を開き、相手を認識すると尻尾も一振りし、再び目を閉じた。
しかし、環音が雑に顎を指先で撫でると、怒ったり拒否はしないが嫌そうな顔を浮かべる。
その様子に新雨は手を止めてしまい、猫の前足がその手首に乗せられた。
「ごめんごめん」
新雨が謝り撫でると、だらんと前足が再び床に投げ出される。
新雨は手を止める事なく、一緒になって座る環音に問いかけた。
「ねぇ、これペア物なんだろ。何でくれたんだ?」
左手を軽く上げ、大切に着けているブレスレットを示す。
そして妹の左手首には、形も色も違うブレスレットがはまっていた。
しかし、細かく見ると同じパーツや意匠が見受けられ、確かに緑原和美に指摘された通りで間違いなかった。
「ちょっと形違うけど、それとペアなんでしょ」
自分よりも細い手首を見つめ、環音の返事を待った。
彼女は一旦口を閉じたけれど、少し赤くしながら観念した様に答える。
「あぁ、それは……欲しいデザインだったけどペア物で勿体ないし、いつもお世話になってるから、にーちゃんにあげようかなって」
新雨と同様、ミッキを撫でる手を止めない彼女。
「渡すときにも言ったけど、にーちゃんに似合いそうだったのは本当だから。たまたま欲しかったのがペアだっただけ」
もしかしたら環音には、そういう相手が居て渡せなくて、それが自分に回って来たのではないか? と新雨は他にも理由を考えてしまっていた。
「そういう事ならもらっとくよ。ありがと」
もらったブレスレットがはまる左手で、薄ピンク色の頭を撫でた。
しかし、両手で違う物を同時に撫でるのは難しく、また止まっていると肉球で催促された。
「ごめんごめん」
焦って撫でると、視界の端の環音に笑われた。
数日後。
新雨は尻尾を見かけたので、窓を開けて呼んでみた。
「ミッキ」
窓枠に手を突き、首を伸ばして顔を外に出す。
けれど気分屋の猫は、チラリと振り返ると足早に見えなくなる。
すると表から足音がし、ミッキよりも久しぶりの人物が建物の陰から顔を出した。
「久しぶり、にぃちゃん」
久しぶりによくある、ぎこちない笑みが大人しい彼の顔に浮かぶ。
頭に被ったキャップは、庇部分を高く上げているため顔がよく見えた。
「藍くんも久しぶり、冬休み以来だね。宿題間に合った? 一緒に徹夜したやつ」
「何とかね。でも、邪魔めされたけど。しかも、その後忘れてた冬休みの宿題あって。結局、提出日ギリギリだったんだけどね」
遊び過ぎて間に合わないと、祖母の家に来てまで一人宿題に追われていた。
彼は隣の家の孫で、名前は青戸藍。
男子にしては長めの髪に、来年高校なのに小柄で大人しい性格をしている。
「……」
「どうしたの?」
会話に間が空き、何か話したそうに見える彼に問う。
家の陰から全身を出したきり、そこそこ距離のある位置から会話していた。
「ん、にぃちゃん、今ミッキいた?」
「居たよ。今日は寄ってってくれなかったけど」
「そっか……」
明らかに本心とか別の話をした時の反応。
ミッキの飼い主が青戸藍の祖母で、つまり藤谷家のお隣さんになる。
顔を逸らして迷って見えたので、とりあえず夏の屋外に立たせておく訳にもいかない。
「入りなよ。ジュースは全部環音が飲んじゃったから、麦茶とかしか出せないけど」
そう言って玄関に回り、彼をリビングに上げる。
腰から下がるウォレットチェーンが、静かな室内にジャラジャラ響く。
歳も近くミッキも遊びに来る関係で、祖母の家に来る青戸藍とはよく遊んでいた。
グラスに麦茶を注ぎ、ソファに座らせた青戸藍に渡す。
「ゲームでもする?」
受け取った顔は曇ったまま、何も喋らないので遊びに誘ってみた。
「いい」
呟いて首を振り、ちびっと麦茶を飲む。
立ったまま様子を見ていた新雨は、もう一度声をかける。
「話しにくい事なら、僕の部屋行く? 誰かに聞かれたくないのかもしれないし」
そう誘うと頭を小さく縦に振った。
リビングではいつ環音が帰って来るかも分からないし、水滴で濡れる麦茶を持ったまま部屋に行く。
「どうぞ」
部屋に入ると机の椅子を勧める。
生憎新雨の部屋には妹しか訪れないので、クッションや座布団の類は無い。
ギシリと軋みを上げる椅子。
新雨は自分のベッドに腰掛ける。
すぐに話してくれるとは思っていないので、グラスの麦茶が空くまで待つ事にした。
新雨の部屋は最低限の物しか置かれず、雑誌や漫画、ゲームや音楽などは全部スマホで済ましているので、誰かが来ても数分で飽きるだろう部屋だった。
まるでモデルルームか、ゲーム主人公の部屋くらい個性が無い。
自分を知られるのも、自分のことを話すのも好きじゃないので、他人に見せる事ないスマホさえ覗かれなければ大丈夫だった。
白い天井にカバーのかかった白色の電気、衣類は全部押し入れで、本棚には参考書や辞書が隙間を埋める様に置かれている。
勉強の机は引き出しも本棚も無いフラットな物で、ペン立て卓上カレンダー、アナログ時計。スタンドライト。端にはクレーンゲームで大量に取れたからと、環音に押し付けられた手のひらサイズの人形が座っている。
後は鏡が伏せられて、その上にブラシを置いてあるくらい。
これくらいシンプルな方が、見た感じスッキリしていて好きだ。
環音の部屋はどこに焦点を当てたら良いのか分からなくて苦手だ。
ちょこんと座る彼が小柄なので、何だか小学生みたく思えてしまう。
確かインドア系の部活に入っていると聞いた覚えがある。
けれど授業で焼けたのか真っ黒ではないが、夏を感じるくらいは日焼けしていた。
遊ぶにしてもソシャゲか、部屋の本棚にあるボードゲームと数字と色のカードゲームしかない。
「あのさ、にぃちゃん。ボーイッシュて言われるの嫌って前、言ってたよな」
「そうだね。言った」
「……」
質問に対してのイエスを言ったきり、また彼は黙った。
新雨と同じで悪意のない言葉に悩んでいるのかと、目を伏せた彼を見つめる。
すると膝の上の手が固く握られ、背筋を伸ばして上げられた硬い表情。
眉が寄って縋る様な瞳を向けられる。
「にぃちゃん、実はおれメイクしてみたいんだ」
待った割にというか、予想していた事よりも、意外と普通の相談に拍子抜けする。
「まぁ、美容男子とかいるし、良いんじゃないか?」
大体は中学生になるか手前で男子はオシャレとか、ニキビの問題もあってか見た目を気にし出す。
その延長線上としてメイクくらいは、昨今の美意識と男性のメイク事情からして、身近に一人くらい居てもと思っていた新雨。
だから、笑ったり拒絶したり、安易に相手を否定する様な考えは元から存在しない。
それが昔から知っている友達なら尚更。
「僕はメイクまではしたこと無いけど、化粧水、乳液くらいまでなら相談乗れるよ。環音が眉左右均等に上手く引けなかった頃は、描いてあげてたし」
中学生男子くらいになれば、眉毛を整えるくらい考えるだろう。
「いやそうじゃなくて、おれはメイクして女の子の格好してみたいんだ」
「?」
これまでの言動でそんな雰囲気ゼロだったので、新雨は彼のカミングアウトに目だけで先を促す。
「おれ中学生なのにチビで自信なくて、コンプレックスで。去年とか先輩の女子からかわいいってからかわれて、三年なのに一年の後輩からだって先輩って思ってもらってない感じで。それは小柄だからかなって。ただでさえ名前が女の子らしいのに……」
「まぁ、名前は仕方ないにしても、身長は中学生なんだしさ。まだこれからじゃないかな?」
定番の気安めを口にするが、それで彼が納得するはずもなく、自分の考えを口にする。
「そうかもしれないけど、前に自分よりも小さな男子が女装しててさ。もし、女の格好の方が似合ってるなら、それも良いかもって。ちょっと思って……だから試しに女の子になってみたいんだ。協力してくれないかな」
その頼みに頷く。
「まぁ、良いよ。興味ないって言ったら嘘だし」
さっきも口にしたが、メイクに慣れる前の環音の眉やメイクもした経験がある。
「ホントに? にぃちゃんなら笑わないで聞いてくれるとは思ってたけど、こんなにあっさりーー」
自分からお願いしといて、あっさりオッケーをもらい逆に戸惑う青戸藍。
「言ったでしょ、興味あるって。言ったら僕も、余りボーイッシュって言われるようなら、言われない様にどっちかに全振りするのも手だからさ」
新雨は片眉を顰め、相手に苦笑いをして見せる。
「そう言うわけで、路線変更の可能性は捨てきれないし。悪い言い方だけど、藍を参考にさせてもらおうかなって。だから、本気で手伝うよ」
「……ホント、友達を観察対象にするなんて、にぃちゃんも悪い人だな」
言葉とは裏腹に、安心したかの様に表情が緩む青戸藍。
中途半端に付き合われて、気になる事や不完全燃焼で終わってしまう不安を吹き飛ばすには、十分な言葉だった。
「冬休みに遊びに誘って、宿題を更にピンチにさせた僕だからね」
ベッドの上であぐらをかき、新雨は彼にはにかんでみせる。
相手が子供の頃からの付き合いなので、自然と学校やバイト先よりも口が軽くなる。
「その節はよくも誘ってくれたな。一時間二時間が命取りだったんだからな」
結果、会った時にも言っていたけれど、間に合わなかった。
笑顔で向かい合って、改めて青戸藍は本題に入る。
「ちなみにコレが見たヤツ」
軽く身を乗り出し、腕を伸ばしてスマホを示してくる。
画面に映る大きな女子に真っ先に目が行くが、たぶんその隣の子が小さいから巨人に見えるのだろうと気づく。
そして画像に映る小さい影、そっぽを向いて不満そうな表情の可愛らしい女の子に視線を移す。
二人しか映っていないし、片方は明らかに胸や身長からして、彼のいっていたのは小さい子が該当の男子で間違いなかった。
これまで会話してきた文脈から、彼が知った女装の子は、スマホに映る子で間違いない。
「了解した。善は急げでやってこうか」
「ありがとう。でも、まず必要な物を買いに行かないと」
感謝を口にした青戸藍は、残りの麦茶を煽って気合を入れた。
椅子から立ち上がり、早速行動に移そうとする彼を、新雨は手のひらを向けて制した。
「それは大丈夫かも。環音が肌に合わないとかで投げ出したままのもあるし、必要なメイク道具も何とかなると思うよ」
肌に触れる物なら後で買い足しに出かければ良い。
パフとかは前に試しで買った物があるはずだし、二重にするやつも後で新しい物を買ってあげれば問題ないはず。
「良いの?」
遠慮の窺える青戸藍。
将来触れるかもしれない事なので、新雨もモチベーションが違うし気合も入る。
「もちろん。小さい子のメイクごっこと思いなよ。本気で手伝うけど、ごっこ遊びと思った方が気が楽でしょ?」
「うん……一理ある」
遠慮が抜けない相手だけれど、たぶん始めてしまえば覚悟も固まるだろう。
だから、新雨は相手の戸惑いにあえて目をつむり、話を勧める。
「あと確認。顔面のメイクだけでなくて、服とかもスマホで見せてくれた子と同じように女の子の服に着替えるんだよね?」
僅かに首を横に倒し、向かい合う彼に聞く。
「そこまでは考えてなかったけど」
やるなら徹底的に試したい気持ちもあり、言って青戸藍は自分の姿を見下ろす。
前面ドクロの半袖シャツにズボンにウォレットチェーン、靴を履けば見えないが、くるぶしソックスにもドクロがあり見つめ返してくる。
小柄なので雑誌の悪ぶったコーデをする小学生に見えなくもない、痛さの混じる中学生男子ぽい服装。
新雨も通過した道なので、野暮な突っ込みはせずに先に話を進める。
「まあ、服は後で考えよう。先にメイクしてから選んでも良いし、考えるだけなら進めながらでも出来るしね。あと、脚の毛はどうしてる?」
「えっ、脚? 一応処理してある。夏の体育はハーフパンツで、膝から下脚を出すから」
問われた彼は、チラリとズボンに隠れた脚を見下ろす。
「眉はハサミやカミソリで剃って整えちゃうけど良? もちろん、めちゃくちゃ細くしないし、男の子に戻った時におかしくない程度に出来たらって考えてるけど」
女兄弟も居ないので全く分からない彼は、とりあえず新雨の言葉に頷いた。
「ありがとう。それで」
「早速、顔面作るのに一旦顔洗おうか。どうせなら手は抜きたくないからさ」
ベッドから降りた新雨は、青戸藍の手首を掴み洗面所へ移動する。
洗面台下の収納スペースに頭を突っ込み、新雨は使い捨てのカミソリを探す。
「確か旅行用に買った使い捨てがあったと思うんだけど……あった!」
立ち上がり、フェイスタオルを渡した彼の手に、T字のカミソリを追加する。
「洗顔はシェービングの近くの使って。余り目立たないけど、一応ヒゲの処理はしてね。顔が終わったら、そこの化粧水と乳液して、僕の部屋に戻って来て」
急がなくて良いからーーと、次々に指示を出す声に、青戸藍は少々怪しいがコクコクと頷き返す。
「戻ってくるまでに、僕はメイク道具を揃えるから」
「分かった。お願い」
相手の返事を聞くと新雨は肌に合わなかったり、買ってはみたもののテスターの時受けた印象とは違ったり、新しい物を買って要らなくなったコスメ道具の入った箱を漁る。
誰かにあげるわけではないけれど、勿体なくて捨てられず、一定期間必要無ければ捨てる物を入れておく箱。
そして二重にするやつが無いので脳内リストに入れ、使い古したビューラーなども一緒に回収。
環音が夏休み中に一度は部屋の掃除を言い渡されていたので、不要品が多く、このまま一ヶ月経っても使用しなければ処分するだろう。
「一応ヘアピンとかも、あった方が良いか」
ヘアゴムはあるけれど、青戸藍は結ぶ必要はない長さしかないし、カチューシャでもあればと。
女子の美容周りの物は値が高い傾向にあるが、足りないのは脳内リスト的には数百円で収まりそうなので、コンビニまでひとっ走り往復した。
途中、留守の環音の部屋をノックして、机に置きっぱなしの道具を借りて戻る。
「どこ行ってたの?」
「ん、ちょっと足りない物があったからコンビニまでひとっ走りね」
リビングで麦茶を煽って来たので、汗は止まっているけど完全には引いてない新雨。
ヘアバンドを彼に渡して、額を出させるために前髪を上げさせる。
二重などにしたこと無いので、新雨は感で先に青戸藍の瞼を二重にする。
瞼を専用のピックみたいので押し上げるまで、時間があるので妹の時に参考にした雑誌と、ハロウィンの時に買ったコスプレ雑誌のメイクページを開く。
参考を見ながら作業するなら、紙の雑誌の方が便利で、合わせてスマホでも軽くメイクについて検索をかけておく。
女装が彼に採用された時には、自分でやってもらわなければならないので、二重にするくらいは青戸藍にやらせた。
やはり女子が普通にメイクするのと違って、男子が女装する時のメイクは別物らしかった。
一部共通だったり、似通っている部分はあるものの、全体的に手前に思えてしまう。
軽く上げるだけでも、ヒゲの剃り跡や輪郭、鼻筋は必ずメイクは必要そうで、目などは女子と余り変わらない様に見えた。
ヒゲにはオレンジを重ねて、輪郭は暗め、鼻筋も通る様に陰影気味に。
しかも彼は日に焼けているので、一応そこも考慮して色を選ばなければならなかった。
上下の瞼にもアイラインを引き、眉も形をメイク用のハサミとカミソリで整えて、気持ち描き足す。
睫毛はビューラーをかけて、マスカラでボリュームを加えた。
付け睫毛はギャル小学生みたいな感じで、やり過ぎな気がしたので却下したのと、一度失敗してやり直している。
顔を洗ってもらったので、もう一度二重から始めなくてはならなくなった。
忘れそうになっていた唇に、少し取った明るいルージュを薄く塗り完成。
「出来た……」
詰めていた息を吐き出し、新雨は肩から力を抜いた。
人の顔面を弄ったので、凄く集中していたから、一気に疲れを感じる新雨。
青戸藍には手鏡でずっと見てもらっていたので、今は完成した自分の顔と向き合ってもらっている。
「…………」
たぶん、後から見るとつたないのだろうけれど、達成感というフィルターがかかっているので、うまく出来た自信がある。
新雨は冷蔵庫まで行って再び麦茶を注ぎ、彼の分にはストローを刺して戻る。
これでメイクを崩されたら、膝から崩れ落ちること必須なので。
麦茶を両手に部屋へ行くと、まだ手鏡を持ち左右に振って顔を確認する姿があった。
「はい、飲み物。ずっと動かない様にしてて疲れたでしょ?」
チラリと時刻を確認して、優に二時間は経っていた。
女性の準備は時間がかかるので、人のメイクをするのにこの時間で終えたのは、逆に早い方なのだろう。
「気になるとこある?」
疲れてはいるけれど、青戸藍が気になるのなら修正もする。
妥協は後悔の元だから。
「違う、違う自分がちょっと嬉しくて。にぃちゃん、ありがとう」
前髪を上げていたヘアバンドを外した彼が、鏡を覗き込みながら前髪を気にする。
髪もブラシをして横へ流したり、ヘアピンなどで少し印象を弄った。
「どうも。一度やり過ぎてコスプレ感増し増しになった時は絶望したけど、何とかなるもんだね。二度と同じに出来る気がしないけど」
一応の一応で一連をスマホで動画撮影しているので、今後それを見ながら自分で練習してもらうしかない。
ベッドの上で麦茶を飲み干し、メイクを終えた青戸藍に問いかける。
「どうする? 服も着替えてみようか?」
「お願い、出来る?」
不安そうに新雨を見つめ返す彼。
「もちろん、とことんいこうか」
麦茶で一息吐いた新雨は、ベッドから降り、自分の衣装ケースに向かう。
「やっぱり体型を隠すなら、ワンピースかなって思うんだけど」
腰を絞らなければ、女性の腰の丸みとか出さなくてもカバー出来るので、シルエットは女子に近づくはず。
「ここは身体の線が出なければ、誤魔化せるかなと」
例えお古であっても、環音のワンピースを貸すのは抵抗がある。
環音が良いと言えば問題ないけれど、ワンピースを持っているのは藤谷家では環音だけだ。
「だから、大きいシャツとショートパンツで行こうかなって。藍の体型なら、大きいシャツなら股下まであるだろうし、そんな服にショートパンツなら女子がしてそうなコーデになるかなって」
元からオーバーサイズを買いがちなので、すぐに数枚のシャツを引っ張り出す。
問題はショートパンツを滅多に穿かないので、ちゃんと想定した丈の物があるかだけれど……
膝上の丈は嫌いなので、脚を出すのはあっても学校のハーフパンツくらいしかないかもしれない。
そもそも男子の丈の短いパンツ姿は、新雨的にはダサくて見ていられない。
青戸藍が今からするのは、女の子の格好ではあるけれど。
「これ、入ればいけるか」
新雨が引っ張り出したのは、苦い記憶があるコスプレ衣装のミニスカ。
中学の頃の文化祭の時に色々あり、量販店で買ったコスプレ衣装だ。
使い終わったら即封印したので、存在を今まで忘れていた。
一度しか使用してないので、状態には問題ない。
「これ、試しに着てみて」
組み合わせ的には流行ではないし、たまにしか見かけないコーデではある。
まぁ居なくは無い女子という感じで、ギリ無しではない程度の気安めな感じだ。
それと新雨はこれが終えたら、コスプレ衣装を処分しようと心に強く誓う。
「うん」
服を受け取ると、目の前で着替え始める青戸藍。
「メイクした顔には気をつけて」
全力で協力すると言ったが、服はどうしても新雨の物から工夫するしかない。
着替え終えた彼の髪をブラシで梳かし、昔買った漫画雑誌の付録だったイヤリングを耳に着ける。
近くで見るとおもちゃ感があるが、遠目には分からないし、放置されていた物なので問題ない。
「うん、中々に可愛く出来たと思うな」
新雨は部屋の中に立つ、女装した青戸藍に感想を伝えた。
「表情少なめだけど、声をかけてみると話しやすくて、クラスに一人は居そうな感じかな」
嬉しいけれど恥ずかしくて、ちょっと女装をしていることに不安を感じている彼に、新雨はそう言葉をかけた。
「股がスースーするけど」
コスプレ用のミニスカの丈は、オーバーサイズのシャツの裾と同じくらいなので、シャツから脚が生えている様にも見える。
くるぶし丈の靴下な事もあり、おかげで生足が強調出来た。
「スカートは手っ取り早く、手軽に女の子感が出せるから仕方ないよ。かわいいから我慢して」
「ホントに?」
すると反応を覗うみたいに、青戸藍は自信なさげな目を新雨に向ける。
「じゃあ、彼女にしてくれる?」
上目づかいで自信が無い感じが、大人しい女子が勇気を出したみたいな雰囲気を出す。
ここで彼を女の子と意識してみせれば、下手な漫画みたいなシチュエーションなのだろうけれど、新雨はスンとした表情で手を肩の高さに上げた。
「嫌。僕の好きなタイプじゃないから無理」
「……」
協力してくれた新雨は余りにも即答で、無言で向き合うには面白すぎて、思わず青戸藍の唇からは笑い声が漏れる。
「くふふっ、あはは、そっか」
女装に不安そうなら『本当に女の子だったらオッケーしてた』くらい言っても良いようなもの。
「うーん、やっぱり頬笑むくらいが限界かな。藍が普段通り笑っちゃうと違和感あるかも」
「そっか。じゃあ、すまし顔でいる練習が必要なのか」
早速、女装した時の課題が出来た。
「せっかくだし、写真撮ってみる?」
「うん。客観的に見なきゃだよね」
新雨の提案に頷いてみせる青戸藍。
メイク中の撮影をした様に、彼のスマホで女装姿を写してみる。
全身やバストアップ、手鏡を顔の脇に持っての顔のアップ。
適当に撮って二人で画面を覗き、感想を漏らす。
「ポーズ取らない?」
「恥ずかしいな……」
メイクの出来栄えは散々鏡で見たので、写真映りの方が気になった。
「ちょっと庭に出てみようか?」
彼を誘ってリビングに向かうと、窓の外に見なれた小さな姿があった。
新雨はいつも通りの動きで窓を開け、来訪猫に呼びかける。
「いらっしゃい、ミッキ」
するとゆったりとした歩みでやって来て、地面と室内の床の差を音も無く跳び上がった。
やはり床に着地するのも無音で、その体を抱え上げる。
「藍、ソファに座って。はい、ミッキ」
言った通りに腰を下ろした彼の膝に、ミッキを下ろす。
「動物と女の子の組み合わせはよく見るでしょ」
「み、ミッキ。おれだぞ」
耳をツンと立てて丸く見開いた瞳に見つめられた彼は、警戒してる様に見える猫に話しかけた。
硬い表情の彼が大きな瞳に映る。
数秒間、見つめ合う状態が続き、ミッキが膝の上で体を丸める。
そのまま青戸藍は膝に温かい重みを感じながら、猫の体を優しい手つきで撫で始めた。
「ミッキは、女の子の格好しても分かるんだね」
猫を膝の上に乗せたその姿を、新雨は何枚か撮影した。
横からや斜め上から、正面や少し俯いた彼の姿などシャッターボタンを押す。
しばらくするとミッキは体を起こし、大きな瞳で『外』と新雨に訴え、開けた窓から出て行ってしまう。
「ありがと」
肩を並べてソファに座って再び、スマホ画面で撮影した物を確認する。
「悪くないんじゃない?」
「んー、何か恥ずくて直視しづらい……」
「良いんじゃない。どうせメイクと全身チェックの時しか見ないんだし、変じゃなければ周りだって何も言わないよ」
「でも恥ずいって事は、やっぱり女装感が滲み出てるんじゃない? ちゃんと女の子に見えるのかな?」
そう言葉にして肩を落とす。
「我ながらよく出来てると思うけどな。メイク。濃い女子だと、今の藍よりも派手なんだから大丈夫でしょ」
「だけど……」
「じゃあ止めようか? 悩むなら女装は向いて無かったって事だよ」
「……それもな。また『かわいい』って言われるかもしれないし」
「女装諦めるなら、一昔前に男らしいと言われていた言動を意識する事じゃない? 時代錯誤で馴染むまで色々言われるかもだけどさ」
「あんま偉ぶりたくない」
そう答えて前髪で表情を隠す。
「偉ぶるだけが男らしさ、じゃないでしょ。迷った時の決断力とか食べ物を肉々しくするとか、人に迷惑をかけない感じでさ」
色々提案するも、ハッキリしない彼に急すぎる発言をする。
「どうせだから、少し離れたところまで出かけよう。その姿のままでさ」
その言葉に怯える瞳が上がる。
「ここだとおばあちゃんの目もあるし、パーカー貸すから行ってみない? 答えは出しといた方が良いと思うんだ。家の中でお化粧するくらいだと、ハロウィンに仮装するのと変わらないでしょ?」
横から彼に問いかける。
「もしこの先、本当に女装して暮らすなら外、歩かなくちゃいけないからさ。人によっては自分のしたい格好だからって、周りに左右されない人もいるけど、藍はそうじゃないでしょ? だから行けそうなら自信をつけちゃえば良いんだよ」
そして行き先を口にして誘う。
前髪の隙間から覗く瞳と表情が黙考し、ぼそりと唇が動く。
「……お願いできる?」
「乗りかかった船だしね。もし知り合いに見つかっても、真剣勝負の罰ゲームで僕に無理矢理その格好にさせられたって言い訳で行こうか」
「良いの? にぃちゃんのせいにしても?」
恐る恐る問い返す青戸藍。
「年に数回しか会わないと言っても、友達なんだ。それくらいするよ。ここまで考えてるなんて、心強いでしょ」
わざとらしくはにかんでみせる。
「にぃちゃん……ちょっと面白がってるだろ? そういうところが無ければ心強ねって頷けるのに」
引き結ばれていた口元に微笑が浮かび、新雨も返事をするみたく目を細める。
「これを面白がるなって言うのは無理だよ。表に出すな、だったら出来るけど」
「じゃあ、表に出さない方向でお願いします」
彼の改まった感じにおかしみを覚え、新雨は鼻から息を抜きながら頷く。
「了解」
パーカーは暑いからメイクが心配という事もあり、青戸藍の被って来たキャップと日傘で対応という事で一致した。
メイク道具は持っていくが、直しが少ない事に越したことはない。
スプレー缶の日焼け止めをお互い吹きかけ、玄関にあった柄の細い日傘を手に出発する。
外に出た直後、真っ直ぐ降りそそぐ日差しと、足元から上がってくる熱に襲われる。
セミの声と鳥の姿が見えない事から、今日の気温の高さが知れる。
何なら、コンビニに出たときよりも暑いかもしれない。
「……」
「そこまで警戒しなくても、おばあちゃんにだけ警戒すれば良いんだし」
息を詰めて日傘に入る彼に、隣を歩く新雨が落ち着く様に宥める。
「いや、だってお母さん連絡網とか怖いじゃん」
彼は背中を丸め、日傘で人の視線を防ぐ様にする。
「まぁ、怖いな」
近所の主婦によるコミュニティや学校の母親同士の繋がりは侮れない。
噂でしか聞かないが、恋人が出来た事が速攻で親にバレた子もいるとか。
新雨的には恋人が出来たら親に知られたくないので、恐ろしい話ではある。
「せっかく彼女が出来たのに、母親とかに知られるとか恥ずかしいじゃん」
否定は出来ないので、気が済むなら、させるがままに駅まで歩いた。
そして電車に乗り海へ。
「後押さえながら座りなよ。短いんだから、気を付けないと」
「うん」
青戸藍はクラスの女子が、そうやって座ってたかもと朧気に思いながら、お尻を撫でるようにスカートを押さえ、足を揃えてシートに座る。
「ねぇ、見られてない?」
「気のせい、気にしすぎ。もしかして自分が美少女になったと思ってる?」
日傘を座る脚の間に入れ、スマホを片手にした新雨が聞き返す。
画面から視線を外し、縮こまる彼を横目に見やる。
「美少女だなんて……思ってない……けど、見られてる気がして……」
こしょしょと話すので、新雨は顔を上げてさっと目を走らす。
「いつもと変わりないと思うな。誰も見てないよ。美少女ちゃん」
言って彼の頭から、素早くキャップを奪い取る。
「にぃちゃん、返して!」
咄嗟に伸ばした手が頭上で空を掻き、青戸藍は潜めた声で訴えた。
睨まれた新雨は、更にキャップをリュックへと隠してしまう。
「本当、誰も注目してないから。いつまでも顔を隠してちゃ、練習にならないよ」
「そうかもしれないけど!」
余計周囲を意識して、身体を縮こまらす青戸藍。
「肩の力抜いて。誰も注目してないから」
「ボウシ返して」
「被らないなら」
「嫌だ」
今度は前髪で顔を隠そうとする彼を見て、新雨は一瞬黙る。
「……仕方ない」
新雨は立ち上がり、彼の前に立ってつり革を掴む。
「これで良いでしょ? それと気を紛らわすためにお喋りしよう。今の見た目だと黙ってるより、喋ってる方が自然じゃないかな?」
そう新雨はスマホをリュックにしまい問いかけた。
聞かれた彼は眉間を寄せたけれど、それ以上返せとは言わず、口をへの字に曲げる。
「まずは、定番の話題から。藍は学校に好きな子居る?」
「はぁ!」
秒で新雨の顔を見上げる青戸藍。
「声抑えて。恋バナくらい驚く事じゃないでしょ? どんなのがタイプとか、誰が好きとか、クラスの誰は何々部の先輩と付き合ってて、とかさ」
「じゃあ、それで良くない?!」
「自分自身の話の方が、話題を探す手間がなくて答えやすくない?」
「にぃちゃん、逆に答えにくいとは思わないの? 誰が好きとか、繊細な話でもあると思うんだけど」
「そうだな……」
電車の走行音やアナウンスが沈黙を埋める。
「髪切った?」
「半年経ってるんだ、切ってなきゃおかしいでしょ」
新雨の言葉に、呆れ顔を返す彼。
「にぃちゃん。昔から思ってたけど、話題変えるの下手な」
「本当……に?」
「まさかの自覚無し!? でも、環音が指摘するとも思えないし。友達から言われた事ないの?」
親しい相手に疑問の目を向け、青戸藍は新雨の答えを待った。
「無いな」
親しい相手をそう呼んでも良いのか疑問だけれど、今は会話する仲の人たちを思い浮かべて頷いておく。
こうして遊ぶ相手は少なく、だからこそ新雨は青戸藍を友達と言えた。
「甘やかされてるのか、会話としては些細な事なのか」
諦めた様に身体の脇に手を突き、少し前のめりになりながら、新雨にため息を吐く。
「藍は昨日の夕飯何だった?」
「だから話題転換、まだ続けるか」
逆に鉄板ネタ的な面白味を感じてしまい、青戸藍は大きく息を吸って潜めた声で答えた。
「レバニラ!」
苦手な食べ物の名前に、新雨の顔が嫌そうな表情に変わる。
電車を降りて到着したのは、駅から数分歩けば到着する浜辺だった。
女装での外出を戸惑っていた彼に、行き先を伝えた途端、海のない地域の青戸藍は目を煌めかせていた。
やはり海のない地域の人は憧れるのかと、一律ではないだろうが一つ学んだ。
何でもない街並みから、海に出た直後の開けて視界が広がる瞬間が堪らない。
「わぁあっ!」
隣から驚きに似た声が聞こえ、同様に駅からの流れに乗って来た他の人の声もした。
「そんな喜んでたら、夕方になっちゃうぞ」
海風に前髪を吹かれながら、スマホを水平線に向けて連射する彼。
海岸沿いに伸びる歩道から、切れ間にある階段で砂浜に下りる。
足を太陽で干された砂の上に下ろすと、足裏から砂が逃げていく感覚が伝わった。
二歩目を踏み出すと、力が分散して足を取られる様に歩き辛い。
「余り大股で歩かない。強い風とかにも気を付けて」
足元の照り返しに目を細めながら、踏み出す一歩が大きく、ぎこちなく進む彼を注意する。
「力を抜いて、遠くを見ながら歩くと楽だよ。海を見るのは得意でしょ」
「別に海が好きな訳じゃ……珍しいから、つい」
照れた様に恥ずかしがり、青戸藍は否定した。
そんな言い訳にもなっていない言葉を耳に、彼の上に日傘を傾けながら一緒に歩く。
波打ち際までの砂浜には、乾いた砂があり、流木やゴミの帯があり、傾斜が僅かに深くなった湿って黒くなった一帯を経て、波打ち際が左右に伸びていた。
もっとも海水浴場として開かれた一帯であれば、流木やゴミは余り見られない。
雨が降り、荒れた翌日でない限りは。
海を目指して歩く途中、新雨の視界端に海の家が入り足を止める。
「ねぇ、藍。お昼ご飯食べてないし、移動で疲れたから何か食べようか」
相談ではなく決定事項の口調で言われた彼は、日傘から完全に出て踏み出した格好で止まり振り向く。
青戸藍は、エサの前で飼い主に待てをもらった犬の様な表情を浮かべた。
「そんな顔しなくても、海は逃げないよ。それに天気も悪くないんだ」
そう言って新雨はラーメン、焼きそば、かき氷、貸し出しの浮き輪などベニヤに描かれた海の家を見やる。
「お腹空いたでしょ。僕は焼きそばとイカ焼きが食べたいな」
生温かな風に乗って、食べ物の香が鼻をくすぐる。
「……」
海の家と遠くまで広がる海を交互に見つめる彼。
新雨は日傘の下で微笑み返す。
「スイカとかキュウリの販売もしてるんじゃないかな? あとラムネとか」
夏らしいラインアップを上げられ、海にテンションが上がって感じなかった空腹が青戸藍に訴える。
「食べたらすぐに海、だからな」
「オッケー」
差し出された日傘の下に戻り、折れた彼は新雨と共に海の家に足を運ぶ。
海に面した側には、地面よりも高くした上にござが引かれ、ローテーブルが列べられている。
家族連れやグループの姿があり、海の家の奥、陸側にはカウンターが見える。
日傘を閉じて二人で入り、メニュー表に目を通す。
新雨はさっき口にした食べたい物はあったので、難しい顔で悩む横顔に声をかけた。
「決まった?」
「うーん、カレーもあるのか……」
「えっ、カレー? 家で食べられるじゃん」
確かに電波塔の下にあるレストランとか、スキー場などの食堂には必ずメニューにカレーがある。
「でも、食べ放題とかホテルのバイキングで食べたくなるでしょ」
「分からないでもないけど、今のシチュエーション的にカレーはアウトじゃない? 最低限夏の海のイメージがある物にしたら?」
一度発言を受け入れてからの否定に、青戸藍は名残惜しそうにフランクフルトとジンジャーエールに決める。
注文口に列ぶと、カウンターの先に厨房らしき空間が窺えた。
席は自由で注文した物は受け取り口からで、食べ終えたゴミや食器を自分で戻すのも、フードコートを思わせる。
注文を終えて注文口近くで待っていると、突然新雨は呟いた。
「僕は好きだな」
「えっ?」
唐突な好きに青戸藍は声を漏らし、新雨の顔を見つめると言葉が続いた。
「オシャレな海の家も見かけるけど、こういう昔懐かしい感じの方が。おばあちゃんの家感ていうのかな? 落ち着くし、何かボロい感じが夏のホラーっぽくて」
「そうだね。レトロブームなんてのあったし、分からないでもないかな。ホラーっぽいのは分からないけど」
彼も言って海の家の内装を見渡す。
「雨降ったり、雷が鳴るとそれっぽくなりそうでわくわくしない? 海も灰色に濁ってさ」
「止めてよ。ホントにそうなったら、海で遊べないじゃんか」
二人して注文したトレーを手に、日差しギリギリの長いテーブルの端に場所を取る。
「上に上がるときも気を付けて」
先に靴を脱いで一段高くなったごさの上に立つ新雨。
しかし、後に続く青戸藍は眉間にシワを寄せる。
「いや、無理でしょ。この短さじゃ足を上げるだけでアウトなんだけど」
スカートを押さえ、どうしても膝まである高低差に難色を示す。
太股を水平まで上げないと難しい高さにあり、新雨が彼の手からトレーを奪う。
「これで大丈夫。トレーを持ったままなら、膝立ちのままスライドするとか、一旦ござにトレー置いて座って方向変えるとかあるけど」
男子なら普通に大股で足を乗せて上げるだけで済む、しかしスカートなので一段高くなったござの上に慎重に乗る。
「ズボンにすれば良かった」
ため息交じりに青戸藍は後悔を漏らす。
向かい合わせにトレーを置き、海に背を向けて新雨は腰を下ろした。
「でも、パンツスタイルよりスカートの方が女子っぽさは出てるでしょ。それに万が一スカートの中が見えても、ボクサーパンツだからスパッツと勘違いしてくれるんじゃない」
そう言って新雨はトレーに用意された使い捨てのお手拭きを、袋から出して彼より先に手を拭く。
新雨の向かいに正座で座る青戸藍。
「足、痺れそう」
あぐらをかけないので、渋々両膝を揃えて座るのだけれど、更に短くなったスカートから覗く脚が心配になる。
「足、崩したら? 多少なら僕の影で見えないだろうから」
「いや、女の子座りはキツいからいい」
左右どちらかに崩すのも、慣れないせいで出来ない。
「身体固い?」
「柔らかくはないかな」
質問に青戸藍は答えて、スマホで新雨越しに海を撮る。
「食べよう。海、さっきかなり連射してたと思うんだけど?」
「海の家からも撮っときたいんだよ。写真なんて何枚撮っても、にぃちゃんには関係ない。それに後でベストショットを選ぶのに多い方が良いでしょ?」
見ようと思えば、海なんて飽きるほど眺められる新雨には分からない話だった。
まだかかりそうだったので、先に食べている事にした。
「いただきます」
手を合わせて、ウーロン茶を一口。
焼きそばに買ったイカ焼きを半分乗せ、残った分を紙皿ごと彼のトレーに乗せる。
「おすそ分け。イカ焼き、冷めると硬くなって食べる気なくすから」
それにフランクフルトだけでは足らないだろうと押し付ける。
「ありがと、にぃちゃん」
やっとスマホをテーブルに置き、青戸藍もフランクフルトに口をつけた。
彼が歯を立てると、弾けた皮の裂け目から肉汁が滲んで唇を汚す。
とりあえず食べ終えたら口は塗り直しかと、新雨は青のりがかかり過ぎ感のある焼きそばをすする。
舌の上にソースの味が広がり、鼻に青のりの香が抜けた。
「にぃちゃん、バイト始めたんだよね?」
「んん、喫茶店」
焼きそばをすすり頷く。
「どう? 大変? おれも高校生になったらバイトしたいんだけど」
彼が少し身を乗り出し、興味を示す。
「僕には合っていたかな。簡単に良いとも楽とも言えないけど、大変なだけとか嫌なだけって事もないから、慣れと職種の相性かな」
「にぃちゃん……まだ一つ目のバイトだよね? 喫茶店しか経験してないのに、その有識者は語るみたいな物言いは詐欺じゃない?」
青戸藍に指摘されて恥ずかしさを覚え、誤魔化す様に軽く咳払いをする。
「んんっ、詐欺じゃありません」
次の一口を箸で掬い、話を無理矢理終わらす。
やっぱり青のり強すぎと思いながら食べていると、紅ショウガがやって来てちょっとホッとする。
ウーロン茶を挟んで、ゲソを口に放り込む。
冷めて美味しくないのは胴よりも、ミミやアシだと新雨は思っている。
香ばしい醤油の後にくるイカの旨み、夏祭りの屋台でも食べられるが、新雨にとってイカ焼きは海のイメージ。
ガヤガヤとした海の家で、小さな子供のはしゃぐ声やアルコールが入って陽気に喋る大人など、夏の1ページな感じがして満たされる。
「……」
「にぃちゃん、黄昏れても口からゲソ生やしながらだと台無しだぞ」
「……黄昏てなんてない」
指摘されて慌てて呑み込み、ウーロン茶で口の中をリセットする。
「ホント? 何か物足りなそうな顔してたけど」
半目で信じられないと、青戸藍の疑いの眼差しが向く。
「やっぱり、にぃちゃんも恋人欲しいタイプ?」
「どうした? いきなり」
「いや、にぃちゃんとそんな話した事なかったなって」
「まぁ、そうだね」
彼に同意して焼きそばをすする。
たまにしか会わないし、遊んでしまえば恋愛話なんてする暇ない。
「ドラマとかみたいに両想いだと良いんだけど。僕は片想いだと辛いなーって、作り物でも観てると辛くなるんだよね」
「えっ!? ガチ……にぃちゃんに好きな人いるの? 聞きたいんだけど」
イカ焼きを口元で止め、青戸藍は目を丸くする。
まじまじと見つめられ、ウーロン茶を飲み答える。
「ノーコメント。片想いが辛いっていう事を言いたかっただけ。両想いの作品を観ちゃうと、どうしてもね」
「そうかもしれないけどさ。片想いだと応援したくならない? それにちょっとずつ惹かれていくシーンとか良くない? それで両想いなった瞬間とか最高でしょ」
何で彼と恋愛話なんてしているのか、疑問が過ったけれど、別に気にする事ではないと切り捨てる。
「それは言えてる。両想いなのにすれ違うと、片想いよりダメージ大きいし」
新雨は味変がしたくて、焼きそばとイカ焼きを一緒に食べる。
そろそろ身の柔らかさもここまでの様な気がして、寂しくなる。
「もしかして、藍は好きな子とかいるの? 恋バナなんてしちゃって」
恋愛ドラマの話が恋バナかは疑問だが、先に好きな人がどうたらと口にしたのは彼だ。
「居たらこんな格好の相談、すると思う?」
「同性が恋愛対象ならね」
「おれはノーマルだって。女装したいって話は、自分が生きやすくなるなら女装するのも手だってだけで、恋愛対象はフツーに女の子だよ」
フランクフルトをかじり、はっきり答える青戸藍。
男らしくないチビだ言われれば、言われない方法を取るのも、生きていく上で必要な人もいるのだろうと、新雨は高校生ながら思った。
もしその格好で彼が恋をしたら、傍目ーーと、考えてしまったからだろうか、緑原和美と出くわす。
食べ終わり、食べたゴミを捨て、トレーを返却。
彼お待ちかねの海に繰り出した直後くらいだった。
砂浜に一人用のレジャーシートをお尻に敷き、日傘を肩と背中で支え、膝を抱える様にしてタブレット端末を乗せる彼女を見かけた。
座る脇にはペットボトルと塩分のタブレット、日焼け止めにハンディファンを立てた、明らかに遊泳目的ではないワンピース姿の知り合い。
テントやパラソルを開く人の中に紛れてはいるけれど、その者が向ける視線の先は男子グループが遊ぶ姿。
それが新雨の目を引き、タブレットをペンで叩く音もあって、何気なく見やると知り合いだった事に軽く引いてしまう。
「……」
彼女も新雨同様、今日はバイトをしている喫茶店が休みなので、居ても不思議じゃない。
「ふふふっ、イメージが湧いて止まらない! 楽しいぃー。やっぱり毎年夏の海は止められねー」
不気味な声だけれど楽しそうだし、放っておこうと視線を外す直後、水分補給のため顔を上げた彼女と目が合った。
「ーーっ!」
新雨はさっと彼と入っていた日傘を傾け、緑原和美との視界を遮る。
まさか夏には変質者が増えると聞くけれど、その中に知り合いが居たと知り、今は他人のフリをする。
「わっ!? 眩しっ!」
海側を歩く隣の青戸藍が、突然の日差しに顔を竦める。
「何してるの、にぃちゃん! 眩しいって!」
彼が海の家を出る前に塗り直したピンクの唇から不満を漏らす。
ぐいっと支柱を掴まれ、日傘を直されてしまう。
立ち上がった彼女が、タブレットを胸にサンダルを引っかける様子がチラリと見えた。
「あっ、バカッ!」
彼から日傘を引っ張り返し、再び傾けて視界を塞ぐ。
「何だよいきなり! バカって。何があったの?」
青戸藍が再び陽の下にさらされ、意味分からない罵声に日傘の位置を再び戻す。
「良いからっ!」
太陽に火傷するほど熱せられた砂地を踏む幻覚がーー見えた気がして日傘の権限を奪い返す。
「眩しいんだから良いわけないっ! どうしたんだよ、にぃちゃん」
彼は言い返して口元を曲げ、力を入れて三度目の庇の調整をする。
新雨の耳に砂を踏む音が聞こえ、慌てて日傘を九十度に倒す。
「ボウシ、ボウシ返すからっ!」
奪い合いで完全に足を止めてしまう新雨。
支柱を掴み合って拮抗し、隠れる様にする相手を見て、青戸藍は身を縮める新雨に問いかけた。
「もしかして知り合いがいた?」
「……バイトの」
「おれの……せい?」
「違っ……! 今は見つかーー」
腰を曲げていたので、彼を見上げる様に訴えた新雨の日傘から、見知った顔が覗き出る。
「藤谷さん?」
「んっ……!」
名前を呼ばれ、身体がピクリと反応を見せる。
「どうしたの? 隠れちゃって」
見つかった事や隠れてしまった気まずさもあり、夏の太陽の下で苦笑いを返す。
「やぁ……緑原さんも海?」
そう切り出して話を聞くと、やはり彼女は遊泳目的ではなく、外で絵を描きに海を訪れたのだと答えた。
インスピレーションも湧くし、インドア派の自分でも夏を感じられるため、一石二鳥なのだと教えてくれる。
あそこまで全開の彼女は初めてで、余り見たくなかった姿が脳裏をよぎった。
「で、藤谷さん。隣のは……?」
「青戸藍。隣の家のお孫さんで、年に何回かこっちにくるから、今日は彼と海に遊びに来た」
まずは緑原和美に彼を紹介し、バイトのと中途半端にしていた説明を青戸藍にする。
「緑原さん。バイト先の同僚、歳は同じだけど別の高校」
簡単に紹介すると、彼女の方が興味を持った様で。
「初めまして、緑原です」
そう笑って手を差し出す。
「えっと、その、青戸です」
若干、女装しての新雨以外の接触と初めましてに緊張を見せる。
何で握手を求め出たのか、見ていた側として疑問があったけれど、すぐにその答えが出た。
手を握り、見た事ないくらい口角が上がる緑原和美。
握手を解くと彼女の顔が新雨に寄せられ、弾んだ声でこそっと囁かれた。
「彼女、男の娘? でしょ?」
そう確認してくる腐った人の輝く瞳が眩しく、新雨は思わず顔を引き渋い表情を浮かべる。
「そうだよ。男の子だ」
「やっぱり!」
「あぁ、何ていうか……これは罰ゲームで僕がさせたんだ。あんまり藍を弄ってあげないでくれないかな?」
テンションが爆上がりな彼女に、当初の予定通り罰ゲームで女装をさせた設定で進める。
「もちろん!」
普段目に出来ない者を目の前にしているからか、緑原和美のテンションは本当に高かった。
それに頷いてくれた通り、舐め回すように彼を見るも、何も言わないでいてくれた。
唯一、新雨に対しては肘で突いて耳打ちする。
「こんな格好させて部屋だけで飽き足らず、人目が沢山ある海に連れてくるなんて鬼畜なんだね! 意外!」
「鬼畜って人聞き悪いぞ。人目はあっても、皆海を楽しむのに夢中で、よそ見してる暇ないでしょ」
今こうして絡まれているのも、新雨が緑原和美と知り合いだったからだ。
でなければ、これまでにも視線を感じていなければおかしい。
こんな緑原和美も見なれたもので、もうバイト先でもこんな感じだった。
もちろん、接客の時の態度はしっかりしているので、先輩同様仕事に支障がないので問題なかった。
そして彼女は指を差して、新雨に教える。
「あっちに友達とナンパに来た先輩が居たから、行かない方が良いよ。ちょっと聞いたら、余りにもナンパに乗ってくる子が居なくて、手当たり次第に声かけてたから」
「ありがと。あっちには行かない様にする。追い付かれない様に帰るよ」
「そうして。でも、今日はラッキーだな。こうして男の娘は見れるし、先輩の野郎共でインスピレーションは湧いたし、楽しそうな彼氏は気づいてないけど、彼女が不機嫌なカップルは見れたし」
最後、嫉妬による感想が含まれていたが新雨は聞き流した。
「熱中症とか緑原さん、色々と気を付けて。またバイトで」
「うん。またね」
最近はシフトが一緒になる事は少ないが、入れ替わりに顔を合わせたりするので、手を振って別れた。
ちなみち最後にまた彼をまじまじと観察して、緑原和美はレジャーシートへ戻って行った。
この時期の砂浜なら、人がいる割に周りに無関心なので、散歩するにはちょうど良いと思った。
その予想は当たり、裸足になり波打ち際を駆ける彼を注目するのは誰も居ない。
脱いだ靴と靴下は新雨が持って、数メートル後をゆっくり歩く。
「どう?」
水しぶきを上げながら、素足で駆け戻って来た彼に問う。
「んん? 海って楽しいね! にぃちゃんの言った通り誰も見てこないし、波が気持ちいい!」
いつもの遊ぶ時に見る、彼の笑顔が浮かぶ。
「それは良かった」
再び波打ち際に沿ってはしゃぐ背中を、新雨は日傘を手にのんびり追う。
日が暮れ出すと陸からの風が吹き、沖に流される危険があるけれど、砂浜なので満足するまで付き合った。
帰りの電車は二人と同様、海からの帰りの人でそこそこ混んでいた。
混雑と言っても座れない程度で、つり革に掴まる人同士には間隔に余裕が見える。
横に並んでつり革に掴まった新雨は、左手で掴まる横顔に問いかけた。
「で、どう? 自分的に。今日海に遊びに出かけてみて、今の格好の方が良いかな?」
鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌な表情を失わせてしまうのは罪悪感があったけれど、付き合った身としては気になった。
タタンタタンと数度揺られ、青戸藍は首を横へ振った。
「いや、頑張って身長伸ばすよ。まだ中学生だしね」
他の人の目や耳のある車内なので、女装とかそういう言葉を使わずに話をする。
「そっか。じゃあ、カルシウム摂って大きくなれよ」
今日女装して外出まで経験して、背を伸ばすと彼は答えを出した。
「おじいちゃんか」
新雨の発破に対して、相手ははにかんで突っ込み返した。
「別に良いだーーろ……」
視線を感じて見下ろすと、見知った不機嫌顔が目に飛び込み、新雨は言葉を失う。
相手の露出した肩や肌は、僅かに赤くなり日焼けした事が窺える。
たぶん、海で会った緑原和美と同じで、新雨の前の席に座る彼女も海で遊んだのだろう。
それもデートで。
「……」
視線を横にずらした先の彼氏と言えば、青戸藍の向かいで寝落ちしていた。発車数分で。
寝落ちした彼氏の相手に無言で睨まれ、新雨は不機嫌顔の彼女に声もかけられず、声を抑えて移動を青戸藍に提案する。
「藍、ちょっと移動しようか?」
「良いけど、どうしたの? にぃちゃん、また顔色悪いけど」
「気のせいだ……ぁっ!」
移動しようとした右のつま先が、何かに押さえられて動けない。
原因を確かめるべく視線を下ろすと、座る彼女のつま先が新雨の足を踏んでいた。
「……」
嫌な予感しかせず、さっと表情を消す新雨。
相手は何も言わないし、今気づいた体を装って声をかけても、今さら感があって閉口してしまう。
「にぃちゃん? 移動するんだよね」
中々動かない新雨を、青戸藍が心配そうに覗き込む。
「いや、ごめん。このままで」
怪訝な顔をされてしまったが、何とか彼に気づかれない様に誤魔化す。
新雨が暢気に眠る彼氏に念を送るも、全く目を覚ます気配は無かった。
「……あと、お喋りは控えようか」
そう青戸藍に促すと彼女のつま先が弛み、二人無言で降りる駅まで揺られた。
電車に気疲れしながら帰宅すると、もう一つ問題が飛び込んで来た。
「ああー、にーちゃんが女の子とデートしてきた! しかも家にまで連れて来た! ズルい。わたしは友達と勉強してきたってのに!」
着替えは新雨の部屋にあるので、青戸藍と一緒に帰宅した。
しかし、先に帰宅していた妹に見つかってしまう。
不満を隠そうとしない環音は、勉強と言っても遊び込みなのは間違いない。
しかし、ここで誤魔化しも込めて追求すれば、引き止められる時間も長くなる。
なので玄関で足止めする相手に、手短に彼の正体をあかす。
「環音、静かに。見ろ、これは藍だ。実はーー」
親に見られない内に彼を部屋まで連れて行きたいので、焦れたく思いながら彼女の顔を見つめた。
「へー、かくかくしかじかか」
「分かったろ。とりあえず、藍を部屋にーー!」
背後に帰ってきた親の気配を感じ、もう我慢出来なくて、彼の手首を掴み脇を抜ける。
無事に青戸藍を部屋まで連れて来られたが、なぜか環音まで部屋の中に居た。
「環音? 着替えるんだけど?」
「藍くん、ごめんなさい。にーちゃんがそんな恥ずかしいメイクで歩かせちゃって!」
新雨の疑問を無視して突然謝り、いきなり環音から謝罪された彼は驚く。
「えっ、あ、環音ちゃん? 別におれは嫌じゃなかったし、おれから頼んだ事だから。むしろ付き合わせたおれが、にぃちゃんに謝らなくちゃいけないくらいで」
気づかってか、彼は新雨は悪くないと口にする。
「でも、こんな酷いメイクでなんて可哀想すぎだよ。どうせなら、もっとかわいくしてあげるべきだもん」
自分に出来る全力を注いだのに、妹の指摘で酷いと言われ問い返す。
「可哀想!? そんなに酷いか?」
「酷いよ! 初メイクした女の子くらいね! むしろにーちゃんが慰謝料としてお金払わなくちゃいけないくらい!」
扉を背に詰め寄られ、冗談で言ってる訳ではない表情に、新雨は肩を落とす。
「そんなに……」
多少は自信があっただけに、環音に言われてしまうと落ち込む。
とりあえず環音ごと一緒に部屋を出て、彼を着替えさせる。
追い出した扉前で、向き合った環音が言う。
「というわけでにーちゃんが浮気した事を許そう」
「浮気じゃない。それより環音、これは誰にも言うなよ。藍のために」
女装を体験して彼が出した答えが成長に賭ける以上、男子が女装したという話は知られないのが一番だ。
考えてみれば文化祭やハロウィンなど、女装を試すチャンスはあり、この二つの方がネタ扱いなので試すなら楽だっただろう。何せイベント系の女装はウケ狙いだから。
しかし、彼は今頼んできたし、試さない以上、悩み続けてしまっていたに違いない。
「それじゃあ黙ってる代わりに、今度はわたしを遊びに連れてってくれるくらいしてもらわないとな。前にした約束のとこ」
ただのお願いだったのだけれど、環音が交換条件を口にしたのなら、呑まない訳にもいかない。
「はいはい。予定空いてるとしたらバイトが休みの日だから、夏休み明けになるかもしれないけど? それと約束って……どこ?」
全然記憶にないので、環音に聞き返した。
「え? 良いの? ホントに?」
疑問には答えず、相手の条件を呑んだのに、何故か環音は聞き返してきた。
「何、冗談だった? ならリンゴゼリーにーー」
「もちろん! 良いに決まってるでしょ。わたしは口が硬くて、待ってられる良い女だからね。夏休み明けだろうと構わないよ!」
「……環音、今度は何の影響受けた?」
妹のキャラブレを心配し、変な影響を受けてないか少し不安になる。
ピンク色の髪で腰に手を当てる姿は、何だかかっこよくて惚れてしまいそうに見える。
その後、失念していた彼の存在を思い出し、メイクを落として洗面台で顔を洗わせた。
「バイバイ、藍。身長、頑張れ」
「おう! にぃちゃん、悩みに付き合ってくれてありがとう」
家に来たときのキャップ、ドクロのシャツにズボンと、着替え終えた彼が玄関先で感謝を口にした。
「お礼は良いって事よ! おかげでかわいい妹の環音とデートの約束が出来たんだ。お安い御用だぜ!」
「……」
「環音、勝手に答えるな」
軽く置くように薄ピンクの頭に手を下ろす。黙ってろと。
「またね」
新雨が胸の前に手を上げると、彼も同じように手を振り替えし、玄関扉を開けて帰って行った。