赤
皆にはあるかな?
あの時ああしておけば……その時そんな事言わなければ……この時こっちを選ばなければ……
そんな事を考えられるのは選択肢があった人だけ。
ーーは過去に戻れたとしても、同じ事をすると思う。
たった一つの方法しかないから、迷う必要性が無かった。
ーーが取るべき行動は、ただ一つ……
この思いを捨てなくちゃ幸せになれないのは自分が一番分かってる。
残念な事に解決する可能性は、今の科学力では到底無理な夢物語でしかない。
何十回、何百回と繰り返し頭の中で想定しても、この気持ちにハッピーエンドは訪れなかった。
それもあってか胸の中には、自分の心には、悲恋の物語しか響かない。
どんな映画もドラマもマンガですら、キュンキュンする恋愛も、感動的な恋愛も、校長先生のお話と同じくらい響かない。
なので手に入らない愛なら、報われない想いなら、せめて誰の物にもならないで欲しい……
盗み見る好きな人の寂しい横顔が、誰かを思う片想いだったとしても愛おしくて。
先週、妹や母親も利用する美容室で髪を切ったので、頭は軽くて気分が良い。
癖っ毛でも特段毛量も多い訳ではないので、ヘアスタイルには特に拘りがないけれど、仕上がりにボーイッシュと言われるのだけは嫌だった。
なので、毎回行くかぐずぐずしていると妹に言われ、それから美容室へ足を運ぶ決心が固まる。
『やっぱりボーイッシュな方がお似合いですね。もうちょっと小まめに来店していただければ、色々と試して欲しいアレンジもあるんですけどね』
『あはは、気が向いたら……考えときます』
毎回言われるので訂正も諦め、愛想笑いで聞き流す。
ボーイッシュと言われるのが嫌なのだけれど、今更他に行くのも億劫で同じ所に通い続けている。
ボーイッシュとさえ言われなければ、いくら話しかけられても適当に流すのにと思ってしまう。
そう藤谷新雨は思っている。
一度帰宅してからのコンビニ帰り、コンビニの袋を下げながら歩く。
適当に袖を通したオーバーサイズのシャツにカーゴパンツ、足元は出しっ放しにしていた思いの外底の厚かったハイカットスニーカー。
もう少しするとこの時間帯でも、昼間と同じだけの熱さになるかと思えば、もう軽く回り道するのも悪くないかもしれなかった。
まだ普通に車通りもあり、ヘルメットを被った中学生が自転車で車道を走り去る。
「チャリで買いに出れば良かった」
中学は徒歩で今の高校は電車通学だけれど、駅から徒歩圏内なので自転車は休みの日とかでしか利用しないため、選択肢からすっかり抜けていた。
「あっ、にーちゃん!」
自宅近くの公園の脇を通ると、ブランコの方から妹の声がした。
見やると友達と居る姿があり、歩き続けながら手を振る。
髪が薄ピンクの藤谷環音は、遠目でも分かりやすい。
妹も帰り道に女子らしく井戸端会議してるのかと、感慨深い気持ちになった。
自分にはそうする原理は理解できるが、妹ほど社交的では無いので、お喋りしたい心理は今一分からない。
「にーちゃん!」
再び大きな声で呼ばれ、止まらずに手を振り返す。
木立が一本二本と視界を一時的に遮る。
「にーちゃん!!」
「……」
まだ呼ぶのであえて無視をする。
いくら好きな妹の環音でも、しつこいのは少しうるさく感じてしまう。
帰ったらアレを一つは冷蔵庫、もう一つは食べてと頭の中でシミュレートする。
するとブブブッ、とポケットの中のスマホが震えた。
何となく察しは付くけれど、取り出して画面に視線を落とす。
案の定、表示されているのは妹の環音という名前。
「んっ」
嫌な予感しかしないが、ブランコの方に首を回し、通話をタップする。
『何で無視するわけ! 何で呼んでるのに来てくれないの!』
面倒くさい妹と思いつつ、スマホを耳に当てているのとは逆の手を、落ち着けと縦にパタパタと振った。
「……はいはい。今行きますよ」
まだ何か言っているが通話を切り、仕方なく来た道を戻って、ポールの間を抜けて公園に踏み入れる。
環音と同様の制服姿の女の子の視線を気にしつつ、両脇の鎖を握る妹の前に立った。
「何?」
「ん、コンビニの帰りでしょ?」
新雨の手から下げるコンビニ袋に視線を送り、妹は口元に笑みを浮かべて言う。
「アイス欲しいな。おやつに一つちょうだい。ストックに二つ買ったんでしょ」
甘える声と仕草で、両手のひらを上にして見つめてくる。
「……え、嫌だよ」
「いーじゃん。一日一つのストックって言っても、持って帰ったら二つともすぐ食べちゃうんだから。どうせ明日も買いに行くんだから」
「ダイエットは? 太ってきたんじゃないの?」
「いーの。にーちゃんだって、わたしくらいの方が『ほっそりしてるより、ハグした時に抱き心地良いんじゃない』って言ってくれたでしょ?」
その言葉にポロシャツから覗く二の腕や胸の膨らみ、膝をチラリと見せるスカートの上からでも分かる太股へ、一瞬目が止まってしまう。
「……分かったよ。でも、今度環音が買いに行く時は買って返して」
どうも妹に弱く、世間一般的な妹との接し方を心がけてはいる。
しつこく妹にせがまれて折れるのは一般的なはず?
カロリー高そうな物を目の前にする度、ダイエットの言葉を持ち出すが、環音は確かに太っている訳ではない。
けれど女子が憧れるような体型ではなくて、もう口癖程度に思っている。
「はーいって言っても、にーちゃんは妹に優しいから、返さなくても許してもらえるんだよね」
「そう言われると請求したくなるな。これまでの分も」
頑なに妹の要求を吞まないのも逆に一般的ではあるのだろうけれど、小さい頃は母親に告げ口されていた事もあり、口が軽いくらい素直な環音の頼みは聞いてしまう。
個人的には抱き締めた時に折れそうに細いより、腕の中で柔らかさと体温を感じられて安心出来る方が好みではある。
誰かを抱き締める機会なんて、ふざけた時以外、恋人の居ない新雨には無いのだけれど。
そんな訳で袋からアイスに板チョコが挟まれているモナカアイスを差し出す。
彼女の言葉にあった様に新雨はモナカアイスが好きなので、一度に翌日分も買うのだけれど一日一つで我慢出来る確率が低い。
冷蔵庫にあるとつい食べてしまうので、食べたくなると買いに行く様にしていた。
そうすると買いに出かける面倒くささから、食べる量も減ると見ていたけれど、結果は面倒くささから一度に二つ買うということをしてしまっている。
「ありがと。にーちゃん、大好き愛してる」
ブランコから立ち上がり、アイスを受け取ると抱き付いて来た。
「愛してるが安すぎる……ほら、暑苦しいから離れろ」
ジンワリと背中に汗が浮き、頬を押し付けてくる環音に苦情を入れる。
妹の友達の視線もあり耳が熱くなった。
「きょうちゃんが見てるぞ。環音も恥ずかしいだろ?」
「あれ? 知ってたっけ?」
「環音が友達の話をする時に出てくるから、聞いていた印象的にそうかなって?」
首を傾げた妹から、ブランコの女の子に視線を移す。
家での妹はよく学校での出来事を話していた。
すると友達は恥ずかしそうに眉をハの字にした。
「……正解、正解したご褒美にぎゅーっ!」
「だから人前だから離れろ!」
新雨が引き剥がした環音は、さっそくパッケージを破き、モナカアイスを二つに割る。
パリッ、パキッ、パリッと軽やかな音を立てた。
「ありがとう。いただき……ます」
こちらをチラ見しながら、友達は気まずげな口調で言った。
「どーぞ!」
「アイスを買って来たのは僕だぞ。何で環音が得意気なんだよ」
「だってにーちゃんからもらったのはわたしでしょ? だからわたしの物なんだから、それをあげて得意気でも何らおかしくないでしょ?」
「僕がツッコんだ時点で、おかしいこと言ってるって気付いて欲しかった」
眉をひそめて頭が痛いかの様に、こめかみを押さえる。
「ごめんね。こんな妹で」
食べにくいでしょーーと苦笑いを向ける。
「いっいえっ! 慣れてますから! アイスいただきます……!」
ごめんねーーという謝罪の意味を込めて、もう一度彼女に苦笑いを浮かべた。
パリ、ポリッ、と友達は頬張って見せ、なぜか熱視線を向けられた。
気にしていないというアピールだろう。
「じゃあ、二人とも。お喋りも良いけど、暗くなる前には家に帰りなよ」
余り留まっていても、妹の友達に悪いと退散する。
「分かってるって。もう、きょうちゃんにも言うなんて、恥ずかしいじゃん」
そう文句を垂らしながらも、しっかりモナカアイスを頬張る環音。
「きょうちゃんに色目使わないで。モナカアイスなんかで釣られる安い女の子じゃないんだからね!」
「色目使う訳ないし、人のアイスを要求したのは環音だ」
踵を返して背を向けると、脳裏にある画が不意に浮かんだ。
「そうだ。環音、ブランコ。ふざけて友達の背中を押しすぎて、怪我させるんじゃないぞ」
「は? 何それ、小学生じゃないんだから限度は分かってるよ。そんなことするはずないじゃん」
「絶対だぞ」
そう念を押して公園を出るが、不安になり一度振り返る。
遠くに二人の影がブランコにポツンとあり、無駄な寄り道をしてしまったので、モナカアイスを袋から取り出す。
とても持ち帰るまで保たないので、溶けきる前に食べてしまう事にした。
「何か……嫌な夢見た気がする……」
学校の課題を睡魔ギリギリまで片づけていたので、悪夢も相まって余り寝れた気がしない。
「ふぁあ……」
欠伸をすると更にダルさを感じ、二度寝してしまいたい衝動が湧く。
「うぅ……」
うつ伏せに枕へ顔を埋める。
余りの心地良さに何もかも、投げ出していい気がしてしまう。
しかし、ガーデンを透かす陽光と洗濯機が回る音、それに加えてバタバタと駆けていく足音に残念な息が漏れる。
落ち着いて二度寝も出来ない。
おかげで惰眠を貪り、慌てて仕度したり、遅刻した試しが無いのが唯一の利点だった。
とりあえずベッド脇のブラシを鷲づかみ、髪を乱暴に梳かす。
寝る前に乾かした頭を梳かしても髪が短いので、寝癖がつくとクセ直しのスプレーが欠かせなくなる。
「ダメだ……完全に根元から跳ねてる」
寝覚めから憂鬱な気分でブラシをかけ、朝食を摂ってから本格的に格闘しようとベッドを降りる。
高校生になっても何も変わらない日常……ぼっちではないけれど、友達と言えるほど仲の良いクラスメイトは居ない。
特殊能力はあっても特技は無いので、中学と同様に帰宅部を続け、課題と予習とテストに追われる一般的な高校生活を送っている。
そんな藤谷新雨が机に出しっ放しにした鏡に映る。
たまに羨ましいと言われる容貌も、毎日眺めていると思えば好きじゃ無い。
母親のホットサンド熱が再燃した朝食を摂った後は、洗面台の前で歯を磨いて顔を水で洗い化粧水を付ける。
そして後回しにしていた寝癖との死闘を始めた。
寝グセ直しのスプレーを根元からビチャビチャになる手前まで吹きかけ、ブラシでゴリゴリ直して行く。
この程度の手間で遅刻はしないが、面倒である事には変わりなく、テンションは下がるばかり。
すると鏡越しに薄ピンクの頭が覗き、小言と共にお尻を掴まれた。
「にーちゃんばかり占領してないで、わたしにもちょっと使わして」
「ひゃわぁっ……環音! 前から言ってるけど、お尻を触るな!」
「良いじゃん、減るもんじゃないし。もしかして胸と一緒で、お尻も揉まれると大きくなるとか心配してるタイプ?」
妹に触られるのはどうかと思うし、普通に驚くからだ。
「そんな心配はしてないし、自分のを触ってろ」
「自分なんて触っても何にも感じないじゃん。好きなにーちゃんのお尻触ってるから良いの。妹がにーちゃんのお尻を撫でて何が悪いの?」
口論を交わしながら、身体を横にずらして環音に譲る。
喋りながらもブラシを通していたので、残りは部屋で整えても大丈夫なくらいには治まっていた。
「悪くなくても僕のお尻を撫でて良いという理屈も通らないぞ」
朝食を摂り、環音とバカ話をしたおかげで、夢見の悪さなんてさっぱり忘れる。
なので寝癖を倒して仕度を済まし、環音と一緒に自宅を出る瞬間ーー見る様に脳裏に浮かぶ。
通学の際に利用している駅のホーム、電車を待つ視界の端に影が飛び出し、女の子の間の抜けた驚く声、耳をつんざく汽笛とブレーキ音、鈍く物がぶつかる音と幾人もの悲鳴ーー
一気に汗が全身に浮き、走った直後かの様に心臓がバクバク脈動する。
新雨と同じ高校の制服の女子、赤い体液、死ーー
「ーーにーちゃん、どしたの? もう家出るよね? 忘れ物?」
「……いや、いってきます!」
妹の訝しむ顔を無理やり誤魔化し、家の中に向けて声を上げる。
「ますっ!」
環音も両親に聞こえるように叫び、新雨に続いて家を出た。
ほぼ登校は最寄り駅まで、妹と一緒に肩を並べて歩く。
途中、環音の友達と行き会う事もあるけれど基本は二人だ。
「……」
考え込む脇をトラックが走り抜け、新雨は起きた風をもろに受けた。
けれど寝癖を直した髪を乱されても、それどころではなかった。
いつも利用している駅ならば、あの脳裏を過った予知の女子に会えるかもしれず、今日起こる事ではないと分かっていても焦ってしまう。
あれは明らかに押されてホームから落ちた女子だった。
「ーーでさ、花火が見たいなって」
そう口にした言葉は新雨には届かず、昔からたまに脳裏に浮かぶ予知に考えを割く。
不意に脳裏を過る画を予知と呼んでいるけれど、これまでも人の怪我などの画が浮かぶ。
予知は男子も見えるが、記憶している限り大体が女子だった。
『朝早く学校に行って、良い一輪車で遊ぶんだ!』
そう過去に環音のクラスメイトと小学校に登校している時に、予知が脳裏に浮かび止めた事があった。
『待って!』
この時は直前の予知だったので、教室にランドセルを置いてすぐ、一輪車の置かれた体育館へ全力疾走した覚えがある。
その時はラックにかかる一輪車に 手を伸ばすギリギリで呼び止める事が出来た。
慌てて駆け寄り、指をかけるサドルの裏を覗き込むと、そこには画びょうが粘土でくっ付けられていた。
適度に伸ばされた粘土を貫通して針が飛び出し、サドル裏の凹凸に馴染む様に図工用の油粘土が使われ、顔を寄せると粘土臭さが鼻についた。
「でね。リニューアルしたアトラクションの最後に上がる花火がリアルだって話題でーー」
脳裏に浮かんで見られる予知は、危険度によって予知と事象までの間隔が離れて遠く、危険度が高いほど事前に早く分かる。
命が関わっているほど早めに予知がある。
その分場所や状況を把握しないと、知っていても対応がギリギリになってしまう。
「ーーに遊びに行こう。最近リニューアルや新しいアトラクションも増えたし、ずっと行きたかったから。どう?」
しかし、例外も無くはないので気が抜けない。
考えながら、環音のお喋りに相槌を打つ。
「……うん」
お祭りの帰り、手を繋いでいなかった妹が車に轢かれる予知を当日に見た過去もあった。
だから環音の手をしっかり握っていたら、予知は起こらずに事故に遭わずに済んだ。
「やった! 約束」
今回もホームから突き落とされる女子に、気をつける様に伝えれば回避出来るはずだ。
中々命に関わる予知なんてないから、若干焦りと緊張はあるけれど、これまでの怪我程度の物ならば忠告で事足りている。
「日にちはいつが良いかなぁ」
喜ぶ環音を隣に、新雨は引き続き思考する。
特殊能力と言うのかは疑問だけれど、先日の環音にモナカアイスをあげた時も、その友達がブランコの前で痛そうにする姿が脳裏に浮かんだ。
一度は公園を後にしたけれど、コンビニついでにお使いを頼まれていたのを思い出し、慌てて来た道を戻って往復した。
その時に友達と別れた環音と一緒になり、友達が怪我をし無かった事を確認している。注意した事で回避されたのだと思う。
「にーちゃん、いってらっしゃい」
「いってきます。環音もいってらっしゃい」
通勤通学姿の人たちがちらほらする駅の前で環音と別れる。
「うん!」
言葉を返すと相手は可愛らしく頷き、カバンを背負う背中を見せながら手を振った。
何か喋り続けていた妹は、謎に元気で適当に返事をしている間に、迂闊な事を言ってしまったかと一抹の不安を覚える。
けれども、それより先に足早にホームを目指した。
「まったく……予言を見ちゃったから、せっかくの登校が台無しだ」
ひとり言で愚痴りながら、ざわざわする胸に急かされる。
無視できずに予知を気にかけてしまうせいで、自然と眉間にシワが生まれる。
通勤通学の流れに乗りながら、若干早足に改札を抜けた。
周りの制服姿の女子をキョロキョロと見渡しながら、予知で脳裏に見た女子を探す。
同じ時間の電車であって欲しい。
予知で見ると言うことは、同じ時間のはずで、新雨はいつも決まった時間の電車で登校している。
ホームから突き落とされるのは今日じゃないから、最悪学校で探すのも手だけれど、死が分かっている以上一秒も無駄にしたくない。
それに、こんな気持ちを抱えたままで日常生活を送れる気がしないし、そわそわしたまま居ることに耐えられるはずがない。
せめて一言忠告しておきたいし、大丈夫と分かるまで協力に付き合うのも考えた。
知っている以上無視できそうにない……
跨線橋を渡り、女子の姿をホームの端から端まで確認する。
目は二つしか無いので、見落とす事を覚悟で探すも、風を伴って電車が入線する。
一度車両に乗った後は、出口に一番近いドアの前に陣取った。
考えとしては、ドアが開いた瞬間ダッシュで改札まで行き、改札で探そうという魂胆だ。
田舎でも通勤通学の車両で動き回る訳にもいかず、流れる景色を見ていてもそわそわしてしまう。
朝の電車は変な静けさの中に、こそこそと下校時とは違った話し声が聞こえ、カリカリと大学生なのか私服校の生徒か、膝の上でノートを開いている。
知り合いではない人の予知を知るのは、初めてじゃないけれど、やはり落ち着かない。
「予知って、いつからだっけ……」
やるせなさが口から零れ、高校の最寄り駅まで、焦る気持ちを隠して窓の外を眺める。
いつから……予知を見る様になったのか。
一番古い記憶は小学生の頃の物になる。
最初は脳裏に浮かんだものを不思議に思いつつも、何もせずに現実になったやつをデジャヴかと思った。
なぜ? と、どうして、と、予知が見えるきっかけは分からない。
相談出来ずに両親や妹にすら話せない秘密。
とにかく知らせるか、回避のために動かなければと、新雨は予知の度に焦らされる。
命に関わる物は一週間~10日以内に、ケガは程度により数分~3日間程度だ。
これまでの感覚でしかないので、いつ法則と違ったタイムリミットなのかもしれず、気を揉む原因でもある。
疲れた時は眠気すら誘う電車の揺れとレールの繋ぎ目の振動に、今はより焦らされる。
高架道路の下を潜る一瞬、前髪の下の不安色をした瞳と目が合った。
「……」
警笛が鳴り、もう半分の距離を揺られなければならないと、小さく息を吐く。
さっき車窓に映った肩は強ばっており、疲れてしまうと探せないと自身に言い聞かせ、無理矢理に呼吸を整える。
人に言えない理由……
それは動いたから回避出来たのか、ただの杞憂で、何もしなくても起こらなかったのか、検証する術が無いからだ。
予知なんて当たらないと本物の予知だって分かってもらえないし、予知を知ってしまったからには放置なんて出来ず、回避してしまうのでその予知が当たっていたか誰が分かると言うのだろう。
目を瞑り、ひんやりとした手すりに腕を絡める。
車両のモーター音に集中し、降りた後のシミュレーションをする。
……降りる駅名がアナウンスされ、ゆっくり瞼を開く。
キィィキィィと甲高いブレーキ音が鼓膜を震わせ、大きく呼吸して手すりから手を離す。
ドアが左右に開き、新鮮な空気の中に飛び出した。
ホーム側でドアを避けている数人から、変な視線を感じたけれど、下車する人の誰よりも早く改札へ急いだ。
人々のざわめきの合間に、今降りた電車とは別の路線のアナウンスが聞こえる。
ここで別方面からの学生も降りるので、探すならホーム出口にしておけば良かったと気付く。
「しまった……」
作戦に再考する心の余裕が無かったので、とりあえず後悔は振り払って、人探しに意識を回す。
通勤通学なので、大体の人が粛々と出口へ向かう。
列を作り、流れる動きで何十人という人達が改札を抜けて行く。
改札手前は歩調が弛むので、顔は確認し易くなるけれど、量と人波の間を見落とさない様に気を張らなければならなかった。
男性、女性、他校の女子、男子、女子だけど違う……
小学生の女の子グループ、スーツ姿のおじいさん、男性、女子が三人連続、バッグを下げたおばさん、男子、他校の生徒……目が回りそうになる。
もう学校でも探せると諦めてしまいたくなるが、片田舎の駅なので、もう一息頑張れば終わると我慢した。
改札の脇に立ち数分、ホームからやって来る人影もパラパラになりつつあったところ、背筋の伸びる女子が改札の列に並んだ。
細身のストレートロング、見えた横顔の顎のラインがきれいで、凜とした姿に予知での女子の姿と被る。
間違いないーーと直感が告げた。
さっそく声をかけようと足を踏み出すも、彼女の後に人が列んでしまう。
「うんっ……」
仕方なく見失わない様にだけして、他の列に並んで改札を通る。
向かう場所は同じなので、学生服の流れに紛れ、焦らず声をかけるタイミングを図った。
目の前で信号が赤に変わり、足を止めた背中に声をかけようと、周りが止まる中、人の間を抜けてゆっくり歩を進める。
「あのっ……!」
「おはよう、赤さん」
横方向から声がし、尾行していた女子が反応した。
「先輩。おはようございます」
青信号の方からやって来る人影に、小さく会釈を返す。
「……」
新雨は声をかけるタイミングを逃して足を止める。
人の肩越しに見つめ、再び焦燥感に襲われだす。
それでも口を開こうとするけれど言葉に悩み、青信号へ変わり歩き始めた背中を見失わない様に、人間一人分ほど離れて尾行を続ける。
前からはぽつぽつと会話が聞こえるが、断片的な上に声をかけるタイミングに思考を割いているため、会話は頭に入ってこない。
じっと見失わない様に見つめ続ける。
結局、昇降口までチャンスは無く、下駄箱前でやっと声をかけられた。
「あのっ、話したい事あるんだけど。少し時間もらえないかな?」
隣のクラスの下駄箱で履き替えた女子に声をかけた。
新雨は気持ちが逸り過ぎて、食い気味になったため、変な目で見返されてしまう。
「……」
顎のラインもきれいだったが、やはり正面から見ても整った顔立ちをしていた。
眉間に軽くしわが寄り、ふいっと背を向けて歩き出す。
「あっ! ごめん! 僕、二組の藤谷新雨。ちょっと伝えたい事があるんだ」
追いすがって喋りかけるけれど、妙にキレイな歩き方が堂に入っている彼女は足を止めず、教室に向けて粛々と進む。
背中まで伸びるストレートロングが歩調と共に揺れ、新雨はその後ろ姿に言葉を投げ続ける。
「注意というか、忠告というか、警告というか……余り人に聞かれない方が良い内容で。その……」
「嘘告とか? もしくは、ワタシを脅そうとか? どっちも身に覚えないわ」
発せられたのは落ち着いた口調だけれど、お喋りが行き交う廊下でもよく通る声だった。
彼女の警戒は声や表情から知れるし、何人かの生徒はチラ見して通り過ぎて行く。
「命に、命に関わる事かもしれないんだ!」
声は抑えたまま、真っ直ぐ相手の目を見て口にすると、彼女の表情が僅かに動いた。
「やっぱり脅し? 止めてくれない。貴方の様な人に関わっている暇はないの」
そうハッキリと口にした女子は背を向け、一本の線の上を踏むように歩き始めた。
「待って! 命に、命に関わる事かもしれないんだ」
追いすがって彼女にだけ聞こえる様に訴える。
「命って、やっぱり脅し?」
半歩後を見やった女子の眼差しは冷ややかで、新雨の気持ちをより逸らせた。
角を折れた廊下には、教室の前でお喋りに講じている生徒が目立つ。
お喋りな廊下なら声を抑えれば他人には聞こえず、意図しない間違った噂などの可能性は低いと見て、相手の肩越しに決心する。
「10日間くらい、駅のホームには気をつけて。出来ればホームの端、点字ブロックの手前で電車を待たずに、真ん中で列車が入って来るまで待って欲しい」
「止めて」
真面目な口調でお願いするけれど、やはり彼女には不快に思われてしまい止められる。
それでも、予知で知ってしまった以上、せめて忠告だけは聞いて欲しかった。
「もし恨みとか、ストーカー的な不安があればーー」
「変なこと言うのね。ストーカーなら貴方、でしょ?」
彼女が新雨の言葉を遮り、足を止めて肩越しに鋭い眼差しを送る。
後を歩いていた新雨も足を止め、相手の瞳を困惑した表情で見返した。
「ん……?」
女子はため息交じりに腕を組む。
「気付いてないの? しつこく話しかけて来るし、電車降りてからずっと付けてたでしょ」
「それは10日間くらいホームの点字ブロックの近くには立って欲しくーー」
「睨むみたいに後ついて来て、気付かれないと思ってたの?」
「それは……」
付け狙うみたいになってしまったのは、予知の焦りからだとしても申し訳なかった。
「……ごめん」
素直に謝罪を口にするも、相手は目を細めて言葉を紡ぐ。
「しかも、電車に乗る前からキョロキョロ探してたでしょ? 人によっては引く容姿なんだから、不審な様子でいたら皆見るわよ」
「ごめん……」
「分かったなら、もう話しかけないで。ワタシは貴方に興味無いから。まだ命がって言って付きまとうなら、先生とか警察にだって言いつけるから」
そう冷ややかな目配せと忠告を言い残し、彼女は自身の教室に入ってしまう。
背中で揺れるストレートロングの後ろ姿を見送る。
「赤さん、おはよう」
「おはよう」
中から挨拶を交わす彼女の声。
新雨の言葉を話半分で警戒を怠り、予知通りになるのは望まないけれど、伝えられただけでも納得しようと踵を返す。
本気では受け取ってもらえなかったけれども、新雨が話しかけた事により、少なくとも彼女の警戒心は高められた。
それだけで良しとしようとため息を零す。
二組の教室に入ると、入り口手前にいた女子から挨拶され、新雨は返す。
「おはよう」
まだ登校していないか、他に出かけているのか、まだ埋まっていない机の間を抜ける。
一度背負っていたリュックを机に降ろす。
その際、斜め前のクラスメイトと目が合ってしまい挨拶を交わす。
「おはよう」
普段余りクラスメイトと会話する機会が無いので、こうして挨拶を交わすのも珍しい。
なぜかじっと見つめてきた瞳に気まずく感じると、すぐにその理由が判明する。
「おはよう。ねぇ、隣のクラスの赤利香さんと話してたけど知り合い?」
今日話した女子は妹の他に予知の彼女しかいないので、あのストレートロングの女子がそうだと結びつく。
「違うよ。ちょっと伝えたい事があっただけ、名前も知らなかったし」
友達と呼べる人も居ないので、目の前のクラスメイトのおかげで、予知の彼女の名前を知った。
赤利香……最悪予知通りの未来になってしまうなら、出来れば名前なんて知りたくなかった。
「そうなの? あの物静かな印象だけど演劇部で有名だよ。情熱はあるのに、全然上達しない美人だって」
「そうなんだ。でも、もう話しかけないから別に関係ないかな」
「そうなのかい?」
聞き返されたので、新雨は返事だけしておく。
「まぁね」
拒絶されたし、これ以上相手の情報が入って来ると、予知が的中してしまったら辛くなる。
けれどクラスメイトは彼女が上手くならない原因に、自分に似た性格の登場人物しか演じないからだと批評した。
「絶対笑ったりしたら可愛いのにな」
確かに先輩と喋っている時に見せた微笑はキレイだったので、きっと笑顔が可愛いというクラスメイトの予想も外れてないのかもしれない。
もっとも新雨の前では訝しむ表情や睨む顔しか向けられていないけれど……
確かに思い返してみると声に張りがあるとうのだろうか? 話し声は聞き取り易かった気がするし、どことなく仕草が演技臭かったかもしれない。
一応接触して伝えた事もあり、予知を知った時よりは焦りは小さくなった。
頭の片隅には予知を心配する気持ちは残っているものの、学校生活には支障をきたすほどではなくなったはず……だったのだけど。
「あ、ありがと……」「いたた……」「うぇえ……っ!?」
さすがに予知のあった当日は気が散ってしまって、授業中にペンや消しゴムを落としてはクラスメイトに拾ってもらい、教室のドアを潜る時には幅を見誤り肩をぶつけては大きな音を立てて皆の注目を引き、お弁当の後歯磨きをすれば喉の奥まで突っ込んでしまい嘔吐く始末。
命に関わるからか普段の怪我とは比べものにならないくらい気にしてしまっている様だった。
「早めに何か手を打たないと、僕の方がうっかり先に命落としそう」
移動教室の時も階段を踏み外しそうになるし、体育の授業だって元から得意で無いのに顔面でボールを受けるところだった。
しっかりしなければと思っている間に下校前のホームルームが終わる。
早くどうにかして、気がかりな原因を解消しなければいけない危機感を覚えるも、拒否されている状況で何が出来るのか頭を抱えてしまう。
すると、机に伏せている旋毛に声がかかった。
「藤谷さん、大丈夫?」
「? ……ん」
新雨が顔を上げれば、クラスメイトの女子が不安げな顔で覗いて来る。
「体調良くないなら、ゴミ拾いしないで帰る?」
「あー、大丈夫。体調の問題じゃないし、ゴミ拾いくらいなら心配無いよ」
予知ですっかり抜け落ちていたけれど、今日は地域へのボランティア活動の一環でボランティア委員の他、各クラス、可能なら各部活からも可能な限り召集される日だった。
数日前に運悪く当たりくじを引いてしまい、参加が決まっていたのを忘れていた。
「無理しなくても良いよ。ドアにぶつかったり、体育の授業でボール避けて尻もちついたり、階段だって踏み外しそうになって足首ぐにってなかった?」
心配からきているのは理解していても、羅列されると恥ずかしくて顔が一気に熱くなる。
「あああぁ……恥ずかしい」
めちゃくちゃ見られていて、逃げてしまいたくなった。
深呼吸で気持ちを落ち着けてから、机の脇にかけたジャージのトートバッグに手を伸ばす。
ジャージに着替え終えて、ボランティア委員のクラスメイトと昇降口まで行くと、もう大半が集合して軍手とトングにゴミ袋を手にしていた。
「遅れてすみません!」
委員のクラスメイトが、ボランティア委員の先輩のところに駆けて行く。
「大丈夫よ。まだ集合時間じゃないから。皆ちょっと早く集まっちゃってるだけで気にしなくて良いわ」
そして道具一式持ってクラスメイトが新雨の元に戻って来る。
「ありがとう」
軍手やトングを受け取り、新雨はお礼を口にした。
集まった生徒は皆ジャージ姿で、その中に今朝見た顔を見つけてしまう。
「あ……」
気の抜けた声が聞こえた訳ではないけれど、相手も新雨に気付いて僅かに眉をひそめた。
赤利香ーー彼女の容姿では、黒髪のロングヘアもあり嫌でも目に留まる。
まさか拒絶された日に顔を合わすとは思わなかった。
正直、気まずい。
しかも運が悪いことに、同じグループに振り分けられてしまう。
各グループ5人6人で、学校周辺や公園、最寄りの駅前や近場の河川敷沿いの道など、ゴミ拾いのために学校の敷地を出る。
「藤谷さん、体調大丈夫? もし気分悪くなったら、休んで良いからね」
「あぁ、うん。ありがと……」
背後からの視線に気まずさを覚えて、気もそぞろになってしまう。
隣のクラスメイトに気づかれない様に、細くため息を漏らす。
「ねぇ、彼女と何かあった?」
やはり気になるのか、隣を歩くクラスメイトが耳打ちしてきた。
素直に話す訳にもいかず、新雨は苦笑いを浮かべて返す。
「ちょっとね」
「じゃあ、出来るだけ、私が彼女と一緒に居る様にするね」
「助かる。ありがと」
「うんん、ゴミ拾い活動に参加してくれてるんだもん。それくらいはするよ」
気づかいの出来るクラスメイトに感謝する。
「ありがと」
さっそくクラスメイトは歩調を緩めて、赤利香の隣に並ぶ。
「初めまして。ゴミ拾いの活動に参加してくれてありがとうね」
笑顔で話しかけたクラスメイト。
赤利香は僅かに表情を固くし、相手の顔に目を向けた。
「学校の行事だから。演劇部からも一人出そうってことで」
「あー、そうなんだ」
たぶん事実を口にしているだけだけれど、その言い方では無理矢理、納得していない風に取られてしまってもおかしくない。
実際、ボランティア委員以外の生徒は不満が無い訳じゃないだろう。
それでもクラスメイトは、気をつかった言葉を選ぶ。
「でも、それほど長い時間ゴミ拾いする訳じゃないからさ。一緒に頑張ろ」
「そうね」
笑顔で対応するクラスメイトに、彼女は小さく頷き返した。
赤利香は見方を変えれば不器用なくらい正直なのだろう。
今朝の警戒心を隠さない態度や、演劇部で自分に似た役柄しか演じる上で上手くないのも、偽るのが苦手なのかもしれない。
「んっ!」
二人のお喋りの様子を覗っていたら、赤利香と目が合ってしまい睨み返された。
「ちょっと止まって。ここからゴミ拾いを駅まで行って、駅のロータリー、そして向かい側の歩道を戻る形でゴミ拾いをしようと思います」
先頭を進んでいた先輩が足を止め、皆の顔を見て説明を口にした。
「とりあえず駅のロータリーまで終えたら、時間を見て予定のままか、変更するか判断したいのでお願いします。通行人や車道には気をつけて。ゴミ袋が足らなくなったら、委員の者が持ってるので声をかけて下さい」
話が終えるとゴミ拾い活動が開始された。
主に道に落ちているゴミはマスク、タバコのパッケージ、ペットボトル、お菓子の包装、缶、タバコの吸い殻、ティッシュ。
場所によっては車のホイールキャップなんかも、転がっていると聞く。
とりあえず歩道の低木やバス停のベンチに置き去りにされたゴミをトングで摘まみ、ゴミ袋へ入れていく。
人数もいるので、当初の予定で作業も時間も進みそうだった。
トングをカチカチ鳴らし、下ばかり見てゴミを拾っていくのだけど、地味に暑くなり新雨はジャージの腕を捲る。
「あー、駅まで来るならリュックを持ってこられたら良かったのに。終わったらすぐ帰れるじゃん」
ボランティア活動の愚痴を漏らす男子がいたけれど、新雨もほぼ同意見だった。
拾ったゴミを持ち帰る為に学校に戻るのだろうが、面倒くさいと感じてしまうのはどうにもならない。
通行する年配の人からお褒めの言葉をもらいながら、駅のロータリーまでやってきた。
そこでゴミ袋を知らず知らず引きずってしまった様で、破れないか心配になりクラスメイトの元へ向かう。
「ごめん、引きずってたみたいで破けそうなんだ。ゴミ袋、一枚もらえる?」
「はい。やっぱり慣れないと引きずっちゃうよね。手持ちくらいの大きさにしとけば良いんだけど、大は小を兼ねるからってみたいで」
クラスメイトは新しい大きな袋をバサバサ振って、空気を入れて広げる。
新雨は相手の言葉に、口元に笑みを形作りながら、ゴミ袋を一枚受け取った。
そしてゴミの入った袋に新しい空のゴミ袋を重ねる。
これで続けられると思って、何気なく視線を近くの人影に向けた。
すると不意に視界に入った物に反射的に唇が動く。
「あ、『ふぎー』?」
赤利香もゴミ拾い中に暑くなった様で、前を開けたジャージの下に、鋭い目つきのネコがプリントされたシャツを着ていた。
それが覗いていて、予期せず目にしたネコのキャラクターの名前を呟いてしまう。
瞬間ピクッと彼女の肩が揺れる。
「知ってるの……?」
俯きがちの上目づかいで見つめてくる赤利香。
「かわいい、よね」
これまでの彼女の態度もあり、恐る恐る小さく頷き、お互い相手の反応を窺い合う。
彼女の胸に押し上げられているティシャツにプリントされたキャラクター、ふぎーはネコだけが住む島を舞台にしたアニメの登場ネコの一匹だ。
ネコだけが住む島に、ある日流れ着いたネコで、メインでないものの一定の人気がある。
ふぎーはネコ見知りの警戒心の強い子だけれど、芯は優しくて、素直じゃないぶっきらぼうな性格。
いつもしかめっ面をしているが、メインキャラはだいたい元気で明るい性格なので、逆にリアルのネコっぽい部分のあるところが人気なのかもしれない。
「偶然再放送を観て、一番好きなキャラかな。別に皆を嫌ってる訳じゃないけど、遠くから見てるだけで、困った時は何も言わず手伝ってくれるところが良いよね」
「……」
「あと、不意にお礼言われたり好意向けられると、ぷいってそっぽ向いて照れるのとか」
見つめられる事に気まずさを覚えて、ふぎーの好きなところを続けて上げていくと、向き合う目が段々と輝きを増していった。
そして距離のあった彼女は、物理的にも顔を寄せてきて叫んだ。
「そうなの! 分かってるじゃない!」
「う、うん……」
正直、拒否されて距離を置かれていたので、ちょっと詰められて戸惑う。
「左耳だけピコピコ動かす仕草も良い……よね?」
傍で見ていたクラスメイトも驚いていて、ただなり行きを見守っている。
「そうなの! 分かってるじゃん!」
息づかいや見つめられる瞳孔の開き具合から、相当ヤバい状況だと頭の片隅で警報が聞こえた気がした。
「ゴミ……拾い、ゴミ拾いしながらにしない?」
「そうね!」
気持ちが昂ぶっているのか、彼女の返事の声が興奮しすぎて少し裏返っていた。
そこからはネコのキャラクターについて、駅前ロータリーを終えて道を折り返し、ゴミ拾いが終えるまで延々と聞かされる。
喋り倒したおかげで、今朝の態度は見る影もなく、目の前には満足感たっぷりの赤利香の表情。
確かにクラスメイトの言葉通り、良い笑顔だった。別人かと思えるほど。
「んんー、ゴミ拾いあっという間だったなぁ」
ゴミ袋片手に身体を伸ばす彼女。
「だろうね……」
ずっとふぎーの魅力を聞かされた身にとっては長く感じたし、半分以上が頭から零れ落ちている。
行きとは違い帰りはゴミ袋片手に、肩を並べて隣を歩いていた。
何度か前を歩くクラスメイトに目配せするが、入るタイミングと先輩から喋りかけられていて、新雨を助けられる状況に無かった。
ちなみにジャージの下にティーシャツを着ていたのは、ゴミ拾い活動の後に部活へ行くためだとか。
「せ……赤さんは、これから部活なんだよね?」
「そう」
「疲れてない?」
「疲れてるけど、ふぎーの話が出来て今とっても気分が良いの」
だから、問題ないと言いたいらしい。
どうにかして自然な流れで、予知について話せないかと考える。
10日間ほど本気にして警戒してくれるだけで良い。たったそれだけなのに、予知なんて証明が出来ないことだから難しい。
運良く信じてもらえる様な予知は出来ないし、そもそも予知は勝手に向こうから来るだけで、新雨にはコントロールとかは出来なかった。
それに命に関わる予知。
短くても現実になるまで二日三日時間はあるだろう。
あくまで予知なのでハッキリした日時は分からないから、本当は経験則なんかで判断しない方が良いのだけれど、他の判断基準も無いので仕方ない。
考え込み眉間にシワを寄せいると、隣を歩く彼女が新雨の横顔を見つめて口を開く。
「この後、時間あるなら演劇部見ていかない?」
「は?」
思ってもみなかった方向からの誘いに、新雨は素で目を丸くした。
「おはようございます」
「お邪魔します……?」
学校に戻り、ゴミ袋を集積場の物置小屋まで運び、ゴミ拾い活動は終了。
その足で赤利香に先導されるまま、演劇部の部室に案内された。
室内には十人に充たない生徒と金属製の棚、立てかける様に壁に小道具、数組の机と椅子が教室の後方へ追いやられている。
パッと見、男子部員が二人に後は女子。
そしてその誰もが部員の赤利香を経由し、後に続いた新雨に視線が向けられた。
見知った顔は無く、新雨の二組には演劇部のクラスメイトは居ないらしいと判明する。
「先輩、こちらワタシと同学年の二組の藤谷さん。見学させたいんですが、良いですか?」
「あ、あぁ、構わないですよ」
そう赤利香の言葉に了承を返したのは、今朝見た上級生の顔だった。
赤利香を見失わない様に尾行していた時に見た顔。
部員は何をしていたのか、床に輪になって座っていた。
すると一人の女子が挙手する。
「はい! 入部希望ですか!」
風の強い日に室内から外に出た時の様な、正面から言葉が迫って来る感じの声がして、思わず肩を竦めた。
「えー、赤さんに見てかないか誘われただけで……ごめんなさい」
新雨は思わず声の圧に反射的に謝ってしまう。
それに言葉にして気づくが、見ていかないかという誘いは、やっぱり勧誘されているに他ならない。
質問に恐る恐る答えた際、チラリと彼女を窺い見ると、してやったりと顔に書いてあった。
けれど、新雨的には予知の話を再び持ちかけるチャンスと思い話に乗ったので、やはり期待させない返事は正解だろう。
「でも、見学に来てくれたんだし。私たちで心変わりさせちゃいましょ!」
先輩らしい女子が手を打ち合わせ、車座になる顔を見ながらそういった。
「はい! じゃあ先輩、エチュードしましょうよ!」
また他の女子が手を勢いよく上げ、身を乗り出して提案した。
「そうね! 日頃の発声練習や筋トレじゃ、見ていてつまらないものね!」
祈る様に胸の前で指を絡めて頷く先輩、それがどういう類の仕草か新雨は疑問に感じてしまう。
そこに男子生徒の声が静止に割って入った。
「ちょっと待った! 何もエチュードだけが部活動じゃない。小道具作りを体験してもらってもーー」
この男子の主張は同じく割って入られた女子に遮られる。
「それはアンタが道具作りを手伝ってもらいたいだけでしょ! はい! ダメー!」
そう一気に女子は切り捨て、男子に指を突き付けた。
「だったら、手伝えよな!」
「はぁ! 手伝ってるじゃない。かわいい小物とか!」
男子の反論に肩眉をつり上げ、言われた女子は声を上げた。
「それ以外全部振るだろ! かわいくないとモチベーション上がんないとかなんとか、適当な事言って!」
「良いじゃん! 演技出来ないけど、物作りは得意だからって入部したのはアンタなんだから!」
言い合う男子と女子が顔を付き合わす他に、部員同士で話し合う姿もあり、二人を止めない雰囲気から日常なのが知れる。
一人一人の声が大きいからか、部室内が声で溢れていた。
新雨は呆然としていなければ、耳を塞ぎたくなる騒がしさにさらされた。
存分にガヤガヤしたけれど、時間も少ないので表現力や姿勢についての話し合いに落ち着く。
部室の端で眺めていると、赤利香がそっと隣にやって来た。
「うちは少数精鋭なんだ。だから演目は少ない人数でやれる台本に決めることが当たり前」
だから、入部希望であれば獲得したいと気合が入ってしまうらしい。
「多ければ良いって訳でもないんだよ。役の取り合いは少なくてもあるけど、出られないってのは多い高校では普通だし、そうなると機材とか裏方になるらしいから。脇役でメイン漏れた生徒で入れ替わり立ち替わりって噂は聞くけど……うちの地区では無いかな。けど、同じ演劇好きが増えるのは、ワタシ的には単純に嬉しいからさ」
その言葉に相槌を打って、部室の端で見学を続けた。
やっぱりそれぞれ演技には思うところがあるのか、単純に好きや嫌いから手の動きや視線の動かし方まで、拘りをぶつけている。
隣に来たのにずっと皆の方を見つめる彼女は、静かにハッキリとした声で告げた。
「貴方なら男役女役どちらをやっても、女子から人気になりそうなのよね。だから誘ったの。無理強いはしないけど、いつでも入部歓迎だから」
気が変わったらーーと、ネコのキャラクターシャツの彼女は言う。
勧誘の言葉に一つ頷き、しばらくの間放課後に見学させて欲しいとお願いした。
「また明日ねー! 待ってるから!」
「余りプレッシャー与えない。藤谷さん、良かったらまた」
別れに大きく手を振る女子部員に、寡黙な男子部長が嗜める。
裏方の男子を除けば部長は唯一の男子で、台詞以外のお喋りは苦手な先輩だという。
下校は同じ方向なのが分かっていた赤利香と、一緒に下校出来る事になった新雨。
彼女はもうジャージのまま駅に向かって歩き、数分後に入線する列車をホームで待った。
何かと新雨に喋りかけてくる赤利香。それに相槌を打って、話を聞いていた。
「あのさ、やっぱりホントなの?」
「ん?」
新雨は突然訊かれて、思わず何の事かと目で問い返してしまう。
「ずっとキョロキョロしてるから……朝言ってたやつ」
そこまで言われて、予知の話かと思い至る。
完全に拒否していたので、彼女の口からその話題が出ると思っていなかった。
「うん。たぶん来週いっぱいの間だと思う」
「当たるの? その予知」
「うん。昔、人が怪我をする予知を見た事があって。まだ何なのか分からない頃は、予知に対して何もしなかったんだ。そしたら目の前で怪我をしたから、何もしなければ赤さんも予知通り……」
整った顔立ちでクールな表現が多い人の笑顔を見てしまったので、そういう一面を知って距離が縮まった分、直接の表現が口にし辛くなる。
到底、普通の人間が列車の前に押し出されて生きてるとは思えない。
「たぶん、朝の通学の時間なんだけど……」
今の時間では外の明るさやホームに立つ人などの状況から、予知の光景は朝の登校時だと推察出来る。
帰りの今はパラパラとしか学生服は無く、少ない人数でも社会人の帰宅する姿の方が多いからだ。
まだ本格的な夏ではないので、ホームに吹き抜ける風はひんやりとして感じられた。
「もう一度聞くけど、ストーカーとか居ないんだよね? 思い当たる点とか身に覚えとか」
「残念だけど無いわ」
真剣な瞳で見つめ返され、線路の方に目線を向ける。
判明していれば特定するなり手はあるし、ドラマや漫画なんかではストーカーの確率も低くない。
「そっか。どうにかしなくちゃな」
「来週いっぱいなんでしょ? それまで気をつければ大丈夫じゃない? 最悪時間ずらすとかすれば言い訳だし」
彼女はそう言ってホームの庇から空を見上げる。
「ずらした時間を特定されるのが怖ければ、毎日時間を変えたら良いんだし」
確かに彼女をホームから突き飛ばす人物の手がかりは無いけれど、その状況を作らない為の対策なら打てる。
それに赤利香が口にしたトーンは軽めで、本人以上に気にしている新雨を気づかって、明るく振る舞ってくれている様にも見えた。
「ごめん、誰に押されたか分かれば悩む事ないんだけど。少し離れた位置から見ている感じだから、人の列で見えないんだよ」
「そう。誰かが躓いたりして、ワタシが押し出された事故って訳じゃ無いのよね?」
「きっと違うと思う。列に並んで待つのに躓くなんて考えられないし」
あの身体の跳び出し方は違うと直感が言っている。
事故で押されたとしても、黄色い線や点字ブロックを優に越えて全身列車の前に出てしまうとは考え辛い。
その手前で手と膝を突くなり、上半身だけの接触になるはずだ。
それだって弾かれて無傷じゃ済まない。
いくら考えても、あくまでも予想の範囲を出ないけれど。
「全く想像出来ないけど自殺、でもないのよね?」
「うん……」
驚きに見開かれた瞳と目が合った……ような気がしたから。
あと予知なので確かなことを言えないけれど、何度も彼女のことを気にする焦燥感みたいな物が胸にあった気がする。
「だから、しばらく一緒に登下校させてもらえないかな? もちろん、赤さんが迷惑じゃなければ」
「分かった。護衛役お願いするわ」
「ありがとう。信じてくれて」
「まぁ一応、信じるわ。嘘つける様な性格じゃないのは、今日話していて分かったし。守ってくれるんでしょ? それに予知のお陰で他の人には絶対体験出来ない事も、こうして事態も味わえている訳だしね」
部活で演じる側だからか、予知を恐れでなく糧にしようとする彼女の姿勢が、羨ましく映った。
電車がやって来て乗り込むと、車内には他の高校の制服や社会人の姿が、隣り合わない様に一つ空けくらいの間隔で座っていた。
新雨は仕方なくシートには座らず、一緒に彼女と立ったまま電車に揺られる。
「ずっと暗い話ばっかりだったから変えようか? 貴方肌ケア何か特別な事してる?」
「何も……」
思いもしてなかった方向からの話題以前に、顔に彼女の顔が近づけられて言葉に詰まる。
「朝とお風呂上がりに化粧水と乳液、外出後は顔を洗うくらいで。後は日焼け止め。よく忘れるけど」
「メイクとかは? 今はしてないけど、化粧水や乳液は今の男子でもするし、高校生にもなれば経験あるかなって思うんだけど」
「いや、無い。眉を整えるくらいで」
「へー、でも日常生活なら貴方は必要ないか」
一旦身体を引く赤利香。
頬に彼女の視線を感じるものの、離れてくれたお陰でようやく普通に息を吐けた。
「もし、演劇部に入部したらメイクする機会もあるからさ。けど女子が多いから、不安にならなくても良いし」
「ゾンビメイク?」
「ふふっ、何それ、貴方でも冗談を言うのね」
隣の赤利香は目を細めて小さく頬笑む。
ゾンビメイクは冗談ではないのだけど、訂正するほどじゃないかと苦笑いで返す。
最寄り駅に帰って来たら、改札を出て赤利香と別れる。
「ワタシこっちだから」
「うん。じゃあ、また明日」
外が薄暗くなり、明かりが当たったところだけ黒いストレートロングが浮かび上がる。
「また明日」
「気をつけてね」
彼女が肩の高さで手を振るので、その歩き出した背中に振り返す。
予知が登校の場面なので、夜道に気をつけてくれさえすれば帰りは何の心配も無いはずだ。
命がかかっているせいで、必要以上に不安と神経質になっていた。
まだ知り合ってから一日、時間にしたら数時間しか彼女のことを知らないのに親しみを覚えるのは、命がかかっているからなのかもしれない。
過去に環音がお祭りの帰りに車に轢かれてしまう予知を見てから、新雨は予知を重要視する様になった。
新雨が家の近くまで戻って来たところで、スマホに何事もなく帰宅出来たメッセージが赤利香から入った。
念のために連絡用で、連絡先を交換していた。
「良かった≪僕ももうつく≫っと」
一人呟き、メッセージを送り返す。
灯りの点く玄関を潜ると、パタパタとピンク色の頭がやって来る。
「今日遅かったね」
「ただいま。部活、見学してたからね」
靴を脱ぎながら妹の環音に答える。
「部活、入るの? この時期に?」
「いや、見学してるだけ」
洗面所で手と顔を洗ってリビングに顔を出す。
「ただいま」
「お帰りなさい」
キッチンで晩御飯を作る母親が言葉を返してくれた。
グラスを手に取り、冷蔵庫の麦茶を注いでテーブルに着く。
椅子の背もたれにリュックをかけ、帰宅してから感じる疲労感に、無造作に腰を下ろす。
「はー、疲れた」
日付は回らない予想だけれど、また宿題で早く眠れないと思うと早起きした方が良いのかと迷ってしまう。
けれど早く寝た分早く起きる事は出来ないので、実際に新雨が実行した事はこれまでない。
すると隣の椅子に座った環音が、新雨を覗き込んで首を傾げた。
「部活見学してたって言ったけど帰り遅くなる?」
現在同じく帰宅部の妹に問われ、寂しそうな表情を見せるものだから、いつも通りのトーンで興味ない風に答える。
「まぁ、しばらくは。心配そうな顔しなくても入部はしないよ」
安心させる様にいつもの態度は崩さず話す。
「男役女役どちらをやっても女子から人気でそうって、誘われただけだから強制じゃないし」
そう口にすると妹は頷き、首を傾げる。
「そう。にーちゃんを誘ったの、女の子?」
「ん、隣のクラスの女子。どうかした?」
水滴の浮くグラスを握り、質問に質問で返した。
「何でも無い。入部しないってことは、もう遅くならない?」
「どうだろ。最悪来週いっぱい、見学して帰ってくるかも」
そう一度は答えた質問に、言葉を繰り返して一旦麦茶を飲む。
「何で? 入部しないんでしょ? もしかして、誘った女の子のことが気になるの?」
「まぁ、そう、かな」
たまに学校の出来事や人と仲良くなった話をすると、取られると思っているのか環音は寂しげな顔をする。
そのくせ妹は聞いてもいないのに学校での出来事を喋った。
それだけ学校生活が充実してるのは良いことだった。
「別に心配しなくても少しの間だけ、帰りが少し遅くなるだけだよ」
そう妹に笑いかけて、グラスの麦茶を飲み干した。
翌日、環音といつも通り駅まで一緒に登校。
予知から現実に起こるまで間があると言っても、人間の直感にも等しい物なので余り当てにして救えなかったら心配で、連絡を取るとすでにホームにいると返ってきた。
足早に改札を抜けて跨線橋を渡り、ホームに足を付けたところで、ホームの真ん中辺りに彼女の姿を見つける。
「おはよう。赤さん」
「おはよう」
階段を下りて小走りに駆け寄った。
「真ん中に居てくれてホッとした」
「まあね」
昨日と変わらぬ彼女の様子に、新雨は胸を撫で下ろす。
ホームにはそれなりの通勤通学客の姿はあるものの、溢れかえり押し出されて線路に落ちてしまう心配は無い。
あくまで田舎の混み具合でしかなかった。
別のホームに電車がやって来るアナウンスが流れ、静かになったタイミングで、彼女が線路の方に顔を向けて口にした。
「確認しておきたいのだけど、貴方の予知は変えられる物よね?」
真面目なトーンの確認に、同じく真面目な表情で新雨は言葉なく小さく頷く。
「そう。ワタシがこれからするのは、予知というかタイムリープ物の話ね。未来に起こる悲劇を知っている主人公は、未来を回避ないし変えようとするのだけど、その悲劇は回避出来ずに異なるタイミング、異なる形で起こってしまうの。だから、貴方の予知はこういう事も起こりえるのかなって」
昨日寝る前にベッドの中で思ったのだと、話してくれる。
そう不安を明かしてくれた彼女の眼差しを受け止め、予知を知った分不安にさせてしまっている赤利香に真摯に答えた。
「うん。それは大丈夫。これまでも予知で見た場所とか、直前で注意して怪我とかしないで済んでるから。その後もそんなこと起こらなかったと思う」
頭上からアナウンスが聞こえ、反対のホームを列車が目に追えない速度で通過し、生まれた風圧が彼女の黒髪を散らす。
「ダメね……」
赤利香が手櫛で乱れた髪を梳きながら言う。
「朝から暗い話をしちゃ。せっかくの良い朝をダメにしちゃう」
彼女の黒髪は指を通しただけでキレイにまとまり、ストレートロングが朝の陽射しを受けて輝く。
「昨日話しかけてくれた時もそうだけど、今の貴方、とっても酷いーー情けない顔をしているわ」
「あ……ごめん」
困った様に頬笑まれ、咄嗟に新雨は謝った。
「ふふっ、やっぱり素直ね」
また何故か分からないまま笑われ、間もなく自分たちが乗る電車がホームに滑り込んだ。
「行きましょ」
大きくないがハッキリとした声で左足を軽く捻り、足元に引かれた直線を踏むみたいに歩き出す。
まるで死の宣告を恐れないかの様な後ろ姿に、カッコよくもキレイだと新雨は感じる。
登校すると赤利香とは廊下で別れ、それぞれの教室に向かった。
「今日も部活、見学に来るのよね?」
教室に半分足を踏み入れた彼女に訊かれ、新雨は足を止めて答える。
「そのつもり」
昨日よりも授業に集中出来た新雨は、お昼を一緒に食べながら作戦会議でもしようと、隣のクラスの入口に立った。
普段そんな行動は起こさないし、これまでも余りした記憶が無い。
だから、僅かな緊張と共に他所のクラスに顔を覗かす。
「何か御用ですか?」
教室の入口に近い女子が、お弁当を用意した席から見上げて来る。
「えー、赤さん居るかなって。良ければ一緒に食べたくてさ」
軽く自分のお弁当を持ち上げ、相手に用件を伝えた。
どうして同じ学年なのに、他のクラスを訪ねるのは緊張するのか教えて欲しい気持ちになる。
「おーい! 赤さん、お客さん来てるよ」
お喋りでざわめく室内に、女子の大きな声が響き渡った。
すると机をくっ付けた島から、見覚えのある頭が一つ飛び出す。
「!」
妙に驚いた表情を浮かべた後、睨むような顔でやって来る赤利香。
「何のっ、用……?」
第一声は勢い余るほどで、すぐに声を落として見つめてくる。
若干顔が赤い気がして、自分のミスに気づかされた。
「お昼を食べながら相談出来ればなって思ったんだけど……いきなり来てごめん。考え無しだった。友達と食べるよね」
彼女の肩越しに机をくっ付けた女子を見やる。
「スマホで聞くべきだったよ。次からは気をつける、ごめんね」
余り長居してもクラスメイトに注目されて迷惑だろうから、新雨は早口に謝り踵を返した。
落ち着いたキャラで通っているだろう相手の性格からして、放課後は顔を出さずに謝罪のメッセージだけ入れ、一日空けた方が良いのだろうかと迷う。
命がかかっているせいで、普段しない行動を取ってしまいがちな事に胸の内で反省する。
するといきなり制服の裾が引かれ、立ち止まって後を振り向いた。
「赤さん……?」
「……てる……後……さい」
「ん?」
「いきなり来られて怒ってるから。放課後部室に来なさい、絶対に」
眉間にシワを作り、赤い顔で睨まれる。
「……了解」
押し殺した様な声に新雨は頷く以外の選択肢はなかった。
放課後の演劇部の部室で、お昼一緒に食べるため、アポ無しでクラスに迎えに行った事を叱られた。
何でも友達から、どういう関係なのか聞かれたり、付き合っているのか尋問されたり、からかわれたりしたらしい。
新雨的にはいきなり訪ねた事、他のクラスの生徒が顔を覗かすだけで注目を浴びてしまった事で怒られ、恋愛絡みで相手が困るなんて思いもしなかった。
そんな新雨の恋心は片想いに全振りしているから、そんな当たり前にも考えが及ばない。
今日の部活動は基礎体力をつける筋トレと発声練習、それと今日こそ二つに分かれての即興劇ーーというよりインプロとかいうものが行われた。
何となく眺めていた新雨の前で、雑談の様な小芝居が始まってしばらく経つ。
「ーー時に赤くん、藤谷くんと恋仲というのは本当かな?」
先輩の女子がまさに芝居がかった仕草で、手のひらを天井に向けて人差し指で指す。
「はぁ!? それ今関係ないじゃないですか! 部長! これは単なる演技には無関係の質問だと思います! 個人的質問は禁止にして下さい!」
部員の演技を見ていた男子部長に注意して欲しいと抗議する。
「ん」
小さく顎を引き、該当の女子に部長が注意すべく唇を開く直前、その女子先輩が声を上げた。
「異議あり! これは単なるアドリブであり、意図したものではありません。偶然赤くんに心当たりがあるだけで、私は藤谷くんをただの見学者としての認識しかありませんでした。なので、続行をお願いします」
「ん」
台本が無いと喋れない部長は再び頷き、それを見た赤利香が更に抗議の声を発する。
「百歩譲って意図しない事だとしても、例え偶然であっても、そういうデリケートな話題は上げるべきではないと思います! なので即刻中止、話題の変更を要求します!」
「そうだな」
どちらにも頷いてしまう男子部長。
「ダメだ! 部長は台本が無いせいで腹話術人形よりも頷き易くなってる! 仕方ないーー」
女子部員が身体の前で手を握り、何の動きか分からないけれど熱の入った演技を見せる。
言い換えれば、わざとらしい冷めた身振り。
最早、演技の練習になっていなかった。
「藤谷くん、どうなの? 赤ちゃんとは! 登下校一緒みたいだし」
ガッと女子が新雨に振り返り矛先を向け、赤利香の慌てた声が後を追った。
「ちょっとぉっ!」
「ん? 無いですね。彼女に誘われて見学しているだけで、恋愛感情はありません」
「……」
急に周囲がシンと静まり返り、楽器演奏の音が窓から流れ込む。
新雨は質問の女子の期待した瞳を見つめ、言葉を紡ぐ。
「ただ、一緒に居て嫌じゃないですよ。見た目は話しかけ辛いですけど、喋ってみると色々考えていて、意外とかわいいところもありますし。ネコのキャラの話になるとちょっとうるさいですが」
「そ、そんなこと思ってた訳……?」
どんな表情すれば良いのか分からないといった顔をする赤利香。
「ツンデレかー! 現実で見られるとは思ってなかった! 赤ちゃんがツンデレなのはイメージ出来るけど、藤谷くんがそうだったなんて!」
再び騒がしさが戻って来たが、明らかに部室の雰囲気を取り戻そうとして上げた一声に思えた。
だから、ツンデレに新雨が触れるのは違くて。
「ツンデレ、違くないですか?」
「じゃあ、何て言うのさ」
「無自覚系?」
そう部員たちは散々言って話が逸れる。
改めて演技練習は続き、新雨は演技の出来ない男子と一緒に、部室の棚の整理を手伝った。
ほぼ部員が女子のためかお喋りの傾向があり、また質問など振られない様に新雨から整理の手伝いを申し出た。
部室の金属製の棚には、古い機材が少々と台本や小道具が山ほど、奥の方から中途半端な巻数の漫画本が発掘される。
漫画本は色が変わり、数年の経過をホコリと共に感じさせた。
「これでも今年は多い方らしいよ。部員。去年までは幽霊部員入れて廃部寸前のギリギリしか居なかったからね」
段ボールごと荷物を床に降ろす男子。
「それが今年は新入生と勧誘で何とか今の人数って訳」
「そうなんですね」
新雨はゴミ袋を空気を入れる様に振り、口を開けて段ボールの脇に屈む。
「だから片づけるなら今かなって。どうせ俺は演技出来ないし、ずっと使って無かった物はこの先も使わないだろうから」
そう言ってホコリっぽい段ボールを開き、棚に置かれた正体不明な小物も同時にゴミ袋行きにする。
小物に混ざって普通にゴミや、衣装として使ったのだろうボロボロのシャツ、魔法使い風の謎ステッキを発掘しては、笑いながら処分していく。
「ずいぶん仲良くて楽しそうじゃない?」
背中越しに声がかけられ、新雨は軽く身を引きながら振り向いた。
「赤さん。嫉妬?」
「ふざけないで」
彼女の手が耳に伸び、引っ張られてしまう。
「ごめんなさい。痛いから早く放して欲しいな」
謝りお願いするとあっさり解放され、とりあえず一袋分になったゴミ袋の口を縛る。
「やっぱり自分の物でないとさ、簡単に要らない物をスムーズに捨てられて良いな」
すっきりした顔で男子が立ち上がり、腰に手を当てて後に逸らす。
「だねー、私が断捨離してあげた時もすっきりしたよね」
「おい、その節は絶対に許さないからな」
「えー、でも、あれじゃあ付き合っても女の子呼べなかったでしょ」
女子は胸を張り、自分の正当性と達成感にドヤ顔をする。
「勝手に乗り込んで来る女子がいるんだ。探せばあれくらいの部屋でも呼べます」
「見つかるの? そんな散らかった部屋に来てくれる子」
やはり演劇部は声を張る分騒がしく、そんなでまた完全下校の時間を迎える。
戸締まりを部長に任せて数名は先に部室を出た。
「また明日ね。二人とも気を付けて帰るんだよ。バイバイ」
女子の先輩と交差点で別れ、二人並んで駅を目指す。
道を歩く人はまばらで、ゆっくりしたペースで並び合っても邪魔にならない。
「ちょっと聞きたいんだけど、貴方は推理小説とか読む?」
お互い相手に歩調を合わせるため、遅い歩みになっている彼女が、ポツリと呟く様に訊いてきた。
「いや」
正直、推理小説は嫌いではない。
しかし、どうしても犯人を当ててやろうとページを戻ったりするため、読み切るのに時間がかかってしまうので、手が伸びづらいジャンルではある。
「推理小説の中には主人公が動くことによって、事件が引き起こされたとする流れや落ちもあるの」
つまり彼女はあえて動かないことで、予知を回避出来るのではという事を言いたいと悟る。
「それは僕も考えたけど……その結果、昔人に怪我をさせちゃって」
足のつま先を見ながら答えると、赤利香は考える仕草を見せる。
「それが他人でも知ってしまったら無視が出来ないトラウマか」
貴方には関係ないのだから、無視すればいいものを……といった眼差しを向け、一息吐いて形の良い唇を開く。
「けど、ワタシが言いたいのはそっちじゃないの。ストーカーが居ないかと聞いたけど、もしかしたらこうして貴方がワタシと一緒に居ることで、嫉妬したストーカーを生んでいるんじゃないかって話」
そう彼女は妙に芝居がかった仕草で、顔の前に人差し指を立てる。
「……考えたくないけど、言われると簡単に否定は出来ないかな。赤さん、きれいだし」
簡単に否定は出来ないけれど、前提を考えれば無いと言えそうだった。なぜなら。
「けど、赤さんとこうして話すのは予知があったからで、それが無ければ今も知り合って話してないと思う」
声をかけたのは予知があり、彼女を探し出したからだ。
でなければ、隣のクラスの赤利香との接点なんて新雨には考えられない。
今も名前を知らない可能性だって高い。
「それも織り込み済みの予知だとしたら?」
「……」
そんなこと言われたら、今後にも影響してしまいそうで、今回も含めて今後干渉しようか逡巡してしまう。
「ごめんなさい。ちょっと意地悪が過ぎたわ。もし予知が予知の可能性を織り込み済みなら、これまでの回避に上手く行ってない過去が無いといけないものね」
そう言いだしっぺの赤利香は、安心させる様な微笑みを目元に浮かべる。
「あーあ、小説とか創作物のストーカーなら、ほぼ間違いなく犯人はこれまでに出て来た登場人物なのに。けど、現実は自分自身が知らないところでも恨みを買っていたり、勝手に好意を持たれてたりするから難しいわね。候補はほぼ無限大……か」
ちょっと投げやり気味というか、少しおどけたトーンで声にし、彼女は胸の前で腕を組む。
「そうだね。あと知り合いが犯人のパターンは嫌かな」
励ましに苦笑いを返し、赤信号で足を止める。
隣を歩く彼女も止まり、小首を傾げた。
「そう? 嫌いな人が犯人だったら良いんじゃない?」
翌朝、どこからかスズメの鳴き声のする駅のホームで彼女に訪ねる。
「やっぱり守ってくれる男子を探した方が安心だと思うんだ。来週までの期間限定でも」
昨日、彼女に行動の結果により、予知という未来が変わってしまわないかの確認をされてから、完全に否定出来ない分悩んでいた。
予知は命がかかってるから出来るだけ、万全の準備をするべきなのではないかと。
予知を回避するだけでなく、最悪変えられなかった時に対応出来る様に。
「ホームから落とされそうになった時、僕じゃたぶん支えられないし守れない」
新雨は一応筋トレはしてるけど、腹筋を割ったりが目的じゃないから、腕っ節は期待できない。
「いざって時は余り役にたてそうにないし、追い払うために威圧的な態度をするのとか苦手で、僕なんかじゃ頼りないからさ」
「そうかしら? 予知できる貴方が居れば十分だと思うけど」
目を細めて眉を中心に寄せ、自信なさげに苦笑交じりの新雨を睨む。
「そんな訳にはいかないよ。命が危ないんだから。護衛役になりそうな、これはという人居ない? 例えば部長の先輩とか」
とりあえず候補として、彼女の身の回りから頼めそうな一人を挙げた。
「嫌かな。間が持たなそう」
それこそ一考する間もなく、彼女から答えが帰ってきた。
「間なんて持たなくて良いんじゃない? 何かあった時に守ってもらうだけだし」
「貴方たまにすごいこと言うわよね。頼んで守ってもらう訳で、少なからず一緒に居るんだから、ずっと無言とか無視とかダメでしょ。それが知り合いなら尚更、後々気まずくなる様な態度取れないじゃん」
「それも、そうか」
新雨は指摘されて理屈は理解する。
言葉に頷いた相手に、赤利香は自分の考えを伝えた。
「よって、部活の男子に頼るのは無し。知られたら心配されてしまうってのもあるし、部内恋愛みたいに気まずくなるのが嫌だから」
「? 部内恋愛禁止なの?」
「禁止じゃないけど、人間関係ほど気まずい空間もないでしょ? その気まずさは付き合う時も、別れてしまった後も厄介じゃない?」
部活経験が無いので、今一分からないけれど、異を唱える言葉も見つからないので相づちを打っておく。
「そっか」
新雨が理解出来てないのを表情に見て取った彼女は、続ける。
「道具作りでケンカしてた二人覚えてる?」
「うん」
男子の方は断捨離手伝ったので問題ないが、女子の方は顔が思い出せないけれど、言い争っていたのは印象に残っている。
「あの先輩二人はね。このまま引退まで恋人が出来なかったら、付き合おうって約束してるらしいの。もうワタシたちからしたら、付き合っちゃえよなんだけど」
やはりそれは部活内の雰囲気を気づかってということらしい。
好きで相手しか見えなくなっても、ケンカしたりギスギスしても、部活に支障が出るからなのだろう。
「皆はむしろ付き合うのは賛成なんだけど、本人たちは気にして恋人同士になろうとしない。男子の先輩が演技も出来ないのに入部したの、彼女と一緒に居たいからなの。三年間しかないんだから、遠慮なんてしてたら後悔するかもしれないのに、そんなルールで部活してる」
そう言って赤利香は目を細めて笑う。
意外と笑う方なんだと、新雨は彼女を横目で見やった。
するとアナウンスが朝の空に抜け、ホームに列車がやって来る。
「以上の理由から、貴方が適任なの。他に護衛役なんて要らないわ」
お昼休みに入り、今日もお弁当片手に隣のクラスを訪ねる。
「また来たの?」
「まぁね、今日は大丈夫」
昨日の失敗を学び、他の対策も踏まえて考えたいと、お昼に迎えに行く事を電車に揺られながら伝えておいた。
新雨が愛想笑いで入り口の女子に答えると、赤利香の姿を探して教室に目を走らす。
「赤さん、一緒にお弁当どうかな?」
最近の陽射しで、袖から覗く二の腕や肌の出ている部分を日焼けした男子が、お弁当を片手にする彼女に声をかけていた。
誘われた赤利香は僅かに目を見開き、周りのクラスメイトは興味を引かれた様に意外という表情を浮かべている。
教室に沈黙が降り、耐えきれなかった男子の彷徨わせた視線と一瞬合った新雨。
「対抗意識持たれてる?」
新雨に上目づかいで呟いた入り口近くの女子。
「そういうこと?」
こそっと新雨は相手に呟き返す。
そして静寂を破ったのは、やはり大きくないけれどよく通る彼女の声だった。
「ごめんなさい、もう先約があるの」
誘いを断った赤利香は、目配せで入り口の新雨を示し、この前の仕返しなのか教室の視線が集まった。
「あぁ、いや……いきなり悪かった」
気の抜けた謝罪を口にする男子。
罰の悪い表情で、自身の頭に手を置く。
彼女は颯爽と彼の脇を気にした様子もなく抜けた。
そしてクラスメイトの注目なんて無いかの様に落ち着いた足取りで、お弁当をぶら下げた新雨の前までやって来る。
「行きましょう」
流し目で促され、どこへ? と内心思いつつ相手の背中を追った。
「うん」
チラリと振り返ると興味深げな入り口女子の瞳と、誘った男子の嫉妬交じりの視線と目が合った。
「……」
足早に白線の上を歩くような背中に問いかける。
「どこ行くの?」
行き先を聞くと歩みが止まり、片足を引くようにして赤利香が振り返る。
少し勢いが乗っていたので、扇状に広がった毛先が遅れて背中に収まった。
「……貴方が呼びに来たんでしょ?」
とりあえず歩き出しただけだったらしいと新雨は受け取る。
「うん。行こうか」
彼女を連れて中庭経由で校舎を回り込み、建物の非常階段へ。
「今の時間、階段部分には日陰があるし、校舎裏みたいな位置だけど野生の花とか咲いてて好きなんだ」
日の当たる地面は緑で覆われ、小さな花が咲き、そよ風が吹くと心地良い場所だった。
非常階段に肩を並べて座り、互いに膝の上にお弁当を広げる。
二人の間には一人分の距離があり、僅かに感じられる校舎内の人気が、二人きりという空気を和らげる。
「いただきます」
二人が手を合わせ、箸をつけてしばらく。
新雨は口を開く。
「ねぇ、さっきの男子って」
「聞こえてたでしょ? 誘われたの。お昼一緒に食べないか」
前を見つめたまま、彼女は質問に答えた。
「今日は貴方と約束があったからね」
赤利香は箸でおかずを摘まみ、すかさず一口分のご飯を口に運ぶ。
「あぁ、そっちじゃなくて。あの男子、何かスポーツ系の部活入ってる?」
「入ってるわよ。陸上……って貴方、ダメよ!」
彼女は答えて新雨が質問した意図に気づき反対する。
「なぜ? 僕よりも腕っ節は強そうだし、走るときは彼に手を引かれた方が速いと思うけど」
「今朝、言ったでしょ。ワタシは貴方で十分」
不満な表情を浮かべる赤利香に、相手の目を見つめて新雨も譲らず繰り返す。
「命がかかってるんだよ。警戒してし過ぎるって事はないと思うんだけど」
「それでも嫌」
きっぱり彼女は主張し、新雨の瞳を見つめ返す。
「……」
「それより貴方。日曜日『ふぎー』のグッズ一緒に買いに行きましょ」
突然の話題転換に黙ると、赤利香は新雨に説明した。
何でも作品のポップアップショップが、地元のデパートで期間限定でオープンするとの話。
「土曜日は部活あるから日曜日、待ち合わせはいつも通り地元の駅ね」
勝手に話は進められるが、早口に加えてもう護衛候補に関する話題はしたくないという意思が伝わってきて、これ以上討論しても無駄だと今日は断念する。
それと部活がやっと通常営業の様で、見ていて地味な筋トレや発声練習が主に変わっていた。
「お待たせ」
雨音を背に赤利香の声がした。
新雨が振り向くと髪をポニーテールにした彼女が立っていた。
「待ってないよ。僕もさっき着いたとこ」
言って新雨は石突から水が垂れるビニール傘を軽く持ち上げる。
「にしても雨か。電車はじめじめしそうだね」
「まあね。それより冷房入ってて寒くないかの方が心配」
傘を持っている腕を摩る赤利香。
予定は半日、急ぐ用事でもない。
だから、もう一度雲で覆われた空に目を向ける。
「雨止むと良いね。スカートがこれ以上濡れたら残念だし」
肩から下げたショルダーバッグをハンカチで軽く拭く彼女。
くるぶし辺りまであるロングスカートは、軽く水はねが付いている。
「せっかく、赤さんがおしゃれして似合ってるのに」
それに自分のスキニーの裾も僅かに濡れており、移動中に乾かないか新雨は期待する。
「……さ、行くわよ」
視線を落としていると促され、一つに結った彼女のポニーテールを追いかける。
「待って!」
濡れた靴底で地面を蹴って、隣に並ぶ。
そこからは時間帯と窓を打ち付ける雨以外は、いつも通りの電車移動だった。
「ポップアップショップ、来週まででしょ? 雨ならずらせば良かったんじゃない?」
日を改めてもという新雨に、赤利香は小さく首を振る。
「ダメよ。グッズ狙いなら早めに行くべき。特に『ふぎー』は少ない傾向にあるんだから、最終日になんて行ったら無くなってるでしょ」
「なるほど」
彼女の言葉に素直に納得する。
電車に揺られて降りたのは、いつもの駅の隣の駅。こちらの方がデパートに近い。
他の乗客と一緒に降り、流れに乗って雨足の変わらない空の下に傘を広げる。
幸い風がなかったので、足元の水たまりに集中出来た。蒸し暑くはあったけれど。
目的地に到着すると傘を閉じ、建物の出入り口に出された水滴を吸収する生地の間に、濡れた傘を通す。
天気の影響がある分だけ少ない傾向にあるけれど、悪天候だと屋内施設に人が集中するのは仕方がなかった。
ちらほら学校の行事後なのか制服の姿もあり、彼女を先にエスカレーターに乗せて上階へ上がって、最優先でポップアップショップを目指す。
一部エスカレーターに沿って壁が鏡面になっているので、二人とも映る自分の髪を指先で弄る。
歩いたし雨だしで、いつもは気にならないのに短い髪から寝癖が顔を出していないか気になった。
エスカレーターを降りると、普段よりも若干早い足取りの彼女。
相手の歩調に合わせながら、通路から見えるショップに視線を向ける。
どこの店頭からでも、人が入っているのが窺えた。
ポップアップショップに到着すると、真っ先に推しキャラの棚を探して回る。
やはり人気のキャラはグッズが多く、かなりの面積を占めていた。
それに比べ『ふぎー』のスペースは両手を広げた幅しかない。
「逆に見落として、買い忘れとかなさそうだな」
ポジティブに考えようと呟く隣で、顔がくっ付くほど寄せて品定めをする赤利香。
「ああっ、全部買いたいけど予算が足らない。それに出来るだけ、さり気なくアピール出来る普段使えるやつが欲しい」
ステッカーやアクリルフィギュアなど、まじまじと見ては難しい顔で元の場所へ戻す。
彼女には棚の広さなど関係なく見えた。
「書き下ろしも良いな。でも、普段のイラストが一番可愛さを出せてると思うし」
小声で悩んでいるつもりだと思うが、声が通るので意識せずとも聞こえてしまう。
前屈みで迷って身体を揺する度、後頭部のポニーテールとスカートの裾が小さく揺らぐ。
そんな普段のイメージにない仕草をする彼女。
新雨はその隣に立ち、棚を一瞥してプリントマグカップを手に取る。
次は少し離れて台に積まれた十数枚入りのプリントクッキーの箱を選び、めいいっぱい悩む赤利香の元に戻った。
かなり真剣に選ぶ赤利香は、一息吐くために顔を上げた。
「クッキー?」
「うん、雨の日に出かけるって言ったら、濡れるだけだし家で遊ぼうって妹に引き止められてさ。お土産でも買って機嫌直してもらおうかなと」
「妹、いるのね」
彼女は軽く目を見開き、新雨を見つめて言う。
「やっぱり美人なのかしら?」
「美人というよりも、カワイイ系かな。僕に比べたらずっと明るくて、社交的で、友達も多いよ」
答えて苦笑い気味に返す。
口には出さないが、今の悩む赤利香の姿も、ある種かわいらしい方に入る。
そうとは知らない相手は、クッキーの箱を見て目を細めて呟く。
「それにしてもランダム系はちょっと躊躇うのよね」
一枚ランダムでステッカーが封入されているプリントクッキーに、顎に手を当てて悩ましげに唸る。
新雨は先に会計を済ませ、一定額購入すると一枚もらえるポストカードを受け取った。
銀色の袋に包まれ、中身は開封するまで分からない。
「どう? 決まった?」
戻って声をかけると、今度は十分に吟味し終えた赤利香が、何点かグッズを胸に抱えてレジに向かう。
「お待たせ」
そう彼女は二枚の特典を手にやって来る。
つまり新雨の倍額使った事になる。
「とりあえず、座れそうなところで一旦休もうか?」
相手にそう提案してみるものの、休憩用に設置されたベンチは、見える限り埋まっている。
考えてみたら、今日の予定で決まっている用事はすでに終えていた。
だから、他に遊びに行く予定が無い。
遊べる場所は他のフロアにあるゲームセンターか、外に出て近くのカラオケ店くらいしか思い当たらない。
ボーリング場もあるけれど、彼女のイメージに無いし、行くなら三人からの方が気まずくなくて良い。
このままデパート内の店舗を見て回るとか、映画館へ行くのも手だけれど、彼女の様子からして一度落ち着ける場所が良いような気がした。
購入したグッズを手に、隠しきれない喜びが冷静な印象から滲み出ている。
「確か、一階にカフェが入ってたよね? 全国的なやつ。そこで休もうか」
同意を得るため、目配せして確認をすると、異論は無い様で下りエスカレーターに足を向ける。
カウンターで飲み物を注文し、縦に長いイートインスペースを奥に歩いて進む。
「ここら辺で良い?」
飲み物を手に振り返り、奥過ぎず、手前過ぎず、周りに気をかけずお喋りしても大丈夫そうな位置の席を取る。
向かい合って二人、頑張って三人かけられる丸いテーブル席。
椅子を引いて彼女に勧め、自分は向かいの椅子に腰を下ろす。
「ありがとう」
赤利香は椅子に座り、フローズンドリンクのストローを咥える。
新雨も一口含む。
「貴方は何にしたの?」
「ほうじ茶のラテ。コーヒーを飲んだ後口に残る味が苦手でね」
眉尻を下げて質問に答え、手を伸ばして彼女の前に手の中の物を置く。
「良かったらどうぞ」
レジ横に列ぶパッケージされた大きめのクッキーで、こっそりではないけれど購入したそれを差し出す。
「ありが……と」
お礼の言葉に小さく笑って応え、ほうじ茶ラテをもう一口。
赤利香はテーブルにポップアップショップでの特典を出し、パリパリと糊面をゆっくり剥がしていく。
「んっ」
親指と人差し指で中身を軽く摘まんだ彼女は、眉間にシワを寄せて口をへの字にした。
新雨も受け取った特典を取り出し、銀色のパッケージを開封する。
そうしている間に、二つ目の確認をする向かいの相手。
「……」
少し引き出したポストカードを、すぐに戻してしまう赤利香。
無言でドリンクのストローに口を付けて、答えが分かりやすい反応だった。
新雨は自分の特典を引き出し、クッキーと同様にテーブルへ置く。
「どうぞ」
「へえ?」
不意の新雨の言葉に、間の抜けた彼女の声。
涼しげな目元を大きく瞬きし、渡されたポストカードを手に取る。
書き下ろしイラストに目を丸くし、彼女は新雨の顔をまじまじと見つめた。
「良いの?」
「僕はマグカップが欲しかっただけだからね」
「返さないよ」
「中途半端に好きな人間より、本気で好きな人にもらわれた方が幸せでしょ?」
「でも、貴方だって」
「余りしつこくするなら返してもらうけど」
わざとらしく手のひらを向けると、すっとポストカードを胸に抱えて彼女は睨む。
「……嬉しい。ありがと」
表情と言葉が合わない反応に、新雨は飲み物に手を伸ばす。
「どういたしまして」
そこから赤利香による推しキャラ独唱会が始まり、新雨は終始相づちで応えた。
「……」
学校でお弁当を手に迎えに行った時に、彼女に声をかけていた男子と、帰りの電車でばったり行き会う。
先に彼が座っていたので、赤利香は表情を動かし、斜向かいの座席に腰を下ろした。
車内はガランとしていて乗客の姿はほぼ無く、屋根に雨が打ち付ける音がやけに響く。
「……」
「……」
お互い相手には気づいているけれど、すぐに声をかけなかったがために変に意識する羽目になっている様に見える。
たぶん彼女の性格から、車両を変えたりしたら印象悪いし、意識している様に見られてしまうから妥協案で斜向かいなのだと思う。
男子の反応から、新雨は彼に声をかけた。
「もしかして、帰る方向同じ?」
「……」
警戒されてか睨まれ、また気持ちが急いていたと反省する。
同時に隣から肘打ちが飛んで来るも、予想はついていたので、新雨は一人分跳ねるように避ける。
彼女には睨まれたが、ここで会ったのも何かの縁と思う新雨。
「ごめん、隣のクラスの藤谷新雨。よろしく」
「貴方っ!」
横に身を捻り、座席に片腕を突いて身を乗り出し、新雨の服を指で摘まみ、続くだろう言葉を止めるようとする。
しかし、新雨は気にせず続けた。
「突然なんだけど、僕じゃ彼女を守れないから助けてくれないかな?」
彼の様に好意を持つ人であれば、聞いてしまうと無視できない言い方をする。
赤利香はその横顔を今までに無い形相で睨むけれど、本人は気にかける様子をこれっぽっちも見せずに男子に言う。
「彼女、誰かに狙われてるかも知れないんだ」
そう声を潜めて明かす前から、彼女を助けて欲しいと口にした瞬間から、すでに男子の目の色は話に乗って来ていた。
彼は指を組んだ肘を、開いた両膝に乗せて身を乗り出し、新雨の言葉を聞く姿勢になる。
「もしかしたら勘違いかも知れないから警察とかには言ってないけど、一週間後までには勘違いかどうか分かるんだ。そのために僕は最近彼女の傍に居たんだけど、力関係というか腕っ節は全く期待できないから、誰か候補を探していたんだ」
予知のことは伏せて彼に語る。
「だから、一緒に彼女を守って欲しい」
途中、彼女が手を伸ばして口を押さえに来た。
けれど手首を取り、赤利香を真剣な顔で見つめ返して黙らす。
「僕は友達でも恋人でも、ましてクラスメイトでもないけど、彼女の命を守りたいんだ」
ブレーキ音と窓を叩く雨粒の音、雨足が強くなったからか、車両の速度が落ちている気がした。
意識せずとも天井を絶えず叩く鳴り止まない音。
それが他の乗客に会話を聞き取らせないカーテンになってくれている。
「君なら彼女を守るにも、連れて逃げるにしても良いんじゃないかと思った。だから、僕らに協力してくれると心強い」
相手の顔を見つめ、彼の反応を待った。
「そこまで考えているなら、なぜ警察でなくとも大人に相談しない。赤さんの両親でなくても、担任や保健医だっているだろ」
まだ大人ではない自分たちには、背負うには問題が重すぎだと相手は言っていた。
「それは勘……みたいなものだから、説明する材料として納得してもらえないと思わないかな?」
「だったら、それは俺に頼むのも同じことだろ。赤さんが危ないっていうなら、根拠か確証が欲しい」
「ごめん、僕たちの言葉を信じてもらうしかない」
「……」
余りにも誤魔化さない言葉に、信じ切れない表情を男子は浮かべる。
「彼女の最寄り駅までの送り迎えだけでも良い。ホームが一番危ないんだ。軽く背中を押しただけでも、落ちて怪我を負うし、最悪……」
言葉を途中で切り、新雨からしたら正面に座る男子の言葉を待つ。
そうしている間に、二人が降りる駅のアナウンスが流れ、あと一分二分で着く状況に迫る。
「ごめん、突然。もし協力してくれるなら、返事は赤さんか僕に学校で声をかけてくれれば良いから」
そう口にして新雨は減速し始めた電車の席を立つ。
「いや、俺も降りる。隣の駅だから」
彼の最寄りが隣の駅なので急がないし、歩いても帰れるという事なのだろう。
ホームに降りると雨音は大きくなり、男子は足早にベンチに座り込む。
あとこれが最後のチャンスかと思ったのか、赤利香はクラスメイトを巻き込もうとしている新雨を止めようとする。
「最悪一週間休めば良いし、ホームの真ん中に居れば問題ないんでしょ? それなら彼に協力を頼まなくたって、貴方さえ居れば十分じゃない」
咎める眼差しを向けられるが、新雨は首を横へ振る。
「何度も言うようだけど、命がかかっているんだ。僕だけじゃ守り切れないかもしれない。だから彼には赤さんの隣を、僕が少し離れた位置から警戒しときたいんだ」
「なら、逆でも良いじゃない!」
「ダメだ。僕は力に自信ないし、手を引いて走れるだけの体力も無い。適材適所だ」
「だったら筋トレしなさいよ」
「日曜日だから、予知はもう今週だよ? 誰が聞いても間に合わない。これが最善なんだ」
それが分かっているのか、赤利香は目元を険しくする。
彼女はクラスメイトの男子を一瞥し、新雨に顔を戻す。
「貴方、分かっててわざとやってるでしょ?」
予想はしていたが、人の好意を利用する様なやり方にも納得いかないらしい。
「……そうだね。話を信じてもらうなら、最初から好意を持っている人の方が、協力してもらえそうだったからね」
「……ワタシの気持ちもよ」
囁くような彼女を横目で見やり、新雨は男子に向き合い問う。
「ごめん、こっちで話してて。改めて漠然とした心配だけど、協力してくれないかな? 僕は赤さんを助けたい。それだけだ」
彼の前に膝を突いて、相手より僅かに下になった位置から見つめる。
「分かった……赤さんを守るのに協力させて欲しい」
「ありがとう」
相手に微笑み返して立ち上がると、画に描いた様な不満顔と目があった。
話を聞くと陸上部は朝練もあるそうだけれど、大会などの時を除き、うちの高校は朝練の参加は絶対ではないらしい。
だから、朝駅に集合との話を持ちかけるがノーは無かった。
「一応距離は取るけど、僕もこれまで通り、登下校は一緒だから」
放課後は部活が終わってから、彼が演劇部に迎えに行くという取り決めをして解散する。
「おはよう」
「おは……何で貴方居るの?」
駅にやって来た赤利香に挨拶すると、彼女は目を見開いてその場に固まった。
「たぶん、一本早く乗るんじゃないかなって。彼を引き込むの反対してたから」
登校を遅くしたら待たれてしまうから、彼女なら早くするのではと予測を立てていた。
電車の時間を後にずらしたのなら、彼を先に登校させて彼女の確認してもらえば、ギリギリに登校する彼女を捕まえられば済む話。
「悔しい……」
驚きから戻ってきた赤利香は、読まれていた悔しさにそう呟いて、自動改札を通る。
跨線橋を下った先のホームには、クラスメイトにして陸上部男子の姿があった。
ちょうど前髪を直していたところらしく、こちらに気づくと小走りに彼女の前へやって来る。
「おはよう、赤さん」
「おはよう……」
ちょっとトーンは低いけれど、彼女は無視したりせず彼に挨拶を返す。
「良かった。勝手に話を進めたから、怒ってもう話してくれないかと思った」
ホッと一安心した顔を見せ、朝に相応しい爽やかな笑顔を浮かべた。
「そう思うなら断ってよ」
「出来ると思う? 俺に」
歯を見せてはにかむ彼。
ジト目を向けて、新雨に首を回す。
「貴方が吹き込んだのかしら? 絶対彼のキャラじゃないのだけど」
その恨みの籠もった瞳には答えず、薄く笑い口を開く。
「学校の奴らに二人も侍らせてるところ見られたら、赤さんの立場が悪くなるし、早速僕は一定の距離から警戒させてもらうね」
「そこまで分かってて、待ちなさいっ……!」
素早く彼女が手を伸ばすも、新雨が離れるのが早く、細い指先が朝の空気を掻く。
「赤さんの事、ちゃんと守ってね」
そう言い残して数メートル離れ、見ているからと身体の前で小さく手を振った。
「まったく……勝手すぎ」
相手がその気ならと、無視してやるつもりで身体の向きを変えた。
日曜の雨降りとは打って変わり、晴れた朝の澄んだ空気に包まれる。
「ずいぶん親しげだけど」
「そう? 先週会ったばかりでイライラさせられっぱなしよ」
イライラさせられっぱなしは言い過ぎたかもしれないけれど、今までに無い気持ちの揺さぶられ方を新雨にされてるのは確かだった。
「そっか」
彼女の隣に立った彼は、返事を聞いて口元を引き結ぶ。
まだ電車の時間まで少しあり、お互い無言になる。
「あぁっと、ネコ? 可愛いね」
「ん? あ、ありがと」
リュックの肩ベルトに付けたポップアップショップで購入したアクキーを、彼に褒められたのだと頷く。
「ムスッとしてて、何かのキャラ?」
「そう、ネコだけが暮らす島のアニメの」
「へぇ、赤さんアニメ観るんだ。意外。俺も観てみようかな」
スマホを取り出して調べ出す彼。
チラリと赤利香は、話題を見つけて喋ろうとするクラスメイトを盗み見た。
身長は新雨よりも高く、体つきも運動部なだけあり、横から見ると厚い。
読めないところのある新雨に比べ、彼は笑顔が似合い素直な反応で、一生懸命なところが垣間見える。
そんな比べる様な事をしていると、電車がやって来て列の最後に彼と乗り込む。
一方新雨の方は同じ車両でも後方のドアを先に潜り、座るより二人が見えるだろうポジションに立つ。
話し声は、他の乗客の会話や走行音に紛れて聞こえないけれど関係無いので支障はない。
ある程度の距離を保ちつつ、三人での登校は学校まで続いた。
電車が一本早かったので、今日は交差点で部活の先輩と一緒になることもなかった。
チャイムが鳴り、教室の雰囲気が一気に解放される。
ガヤガヤとお昼の準備が始まり、陸上部の男子が固い表情でやって来た。
「赤さん、お昼一緒にどうかな?」
二度目ともなれば皆それほど気にしないのか、前回や新雨が迎えに顔を見せた時の様な注目は浴びずに済んだ。
「今日は皆と食べるからちょっと……」
「そうだよね」
彼は頷くも去らず、変な沈黙が生まれてしまう。
「……また、ね」
「あぁ……」
生返事をする相手に背を向け、いつもの女子グループに入る。
何も言っていなかたが、新雨が来るのではないかと、彼女は内心焦り輪に加わった。
お弁当を広げてしばらくすると、友達から気をつかう様な声がかかる
「何かあった?」
「最近迎えに来る藤谷くんも来ないし」
「……何も、約束もしてないし」
気をつかわせてしまって反省し、お茶を飲むフリして気を入れ直す。
こんなのいつもの自分じゃないと……脳裏に浮かべた相手を睨む。
「最近が普通じゃなかったの」
「確かに。私たちからしたら、利香が男子と一緒なのも違和感だもんね」
「そうそう。絶対相手が劣等感覚えてアウトでしょ」
「酷い、そんな風に思ってたの?」
「その目その目、陰キャの男子ならビビるから」
そうしていつもの雰囲気に戻すことに成功し、午後の授業も特別なことなんてなく時間が過ぎる。
帰りのホームルームも、特段連絡事項も無くあっさり終了。
「赤、さん……部活終わったら迎えに行くから」
「分かったわ。でも、たぶん演劇部の方が先に終えるわ。そしたら下駄箱で待ってる」
日曜話した取り決めをそのまま、彼とのやり取りに引用する。
「了解。部活頑張ってね」
「お互いね」
彼女は最低限の返事をして、クラスメイトを見送る。
「なになに? 一緒に帰るの?」
お昼も一緒だった友達が、興味を示しながら席にやって来た。
「信じてもらえないから詳しく言えないけど、ちょっと事情があって。今週いっぱいね」
「じゃあ、終わったらまた隣のクラスの藤谷くんと帰るの?」
首を傾げて踏み込んでくる態度に、少し煩わしさを覚えた。
けれど抑え、遠くを見る。
「さぁ、どうなんだろ」
たぶん、一緒には帰らないーーそう思う気持ちが心の隅にあった。
友達にさよならと声をかけて演劇部へ、部室のドアを開く。
そこには何も雰囲気が変わらない新雨の姿があり、小道具や裏方担当の先輩と一緒に、棚前でテーブルに出された台本の整理をしていた。
何でもない様子がまた、彼女の気分を逆なでする。
「あっ、赤ちゃん来たよー。赤ちゃん、今日は外のランニングからだよ」
「特に目的も無く走るのって、何となく青春ぽいでしょ?」
部長がボソリと筋トレだと言うけれど、誰も聞いていない。
先輩二人から言われてしまうと、頷かない訳にはいかなかった。
「はい」
「と言うわけで、着替えて学校の外周をランニングだ!」
周りが盛り上がると、逆に冷静になる赤利香。
その視界の端でも、付き合って無い二人がイチャついていた。
「じゃ、今からランニング行ってくるから麦茶お願いね」
「俺はマネージャーか。今から煮出してだと生ぬるいからな」
「そこは気合で冷やして」
「出来るか」
そう裏方男子先輩は愚痴り、新雨に声をかけた。
「とりあえず、調理室まで麦茶作りに行くか」
そう言って二人並んで出て行った。
敷地の外周を走る関係上、グランドや他の運動部もランニングに出るので、そこでチラリとクラスメイトと顔を合わせたりもする。
汗だくで走り終えて、他の部が活動するグランドが見える木陰で休む。
「はぁはぁはぁ、麦茶ー!」
「はいはい、粗茶ですが」
体育会系のイメージの再現か、大きなヤカンから紙コップに注ぎ渡す。
「あっつぅっ!」
受け取ったお茶に口をつけた女子が、大袈裟なほどよく通る声が空に抜ける。
「生ぬるいどころか、熱いんだけど!」
「いや、女の子だし冷たい物ばかり摂るのはどうかと。身体の冷やしすぎはダメでしょ」
「そんな優しさは要らないよ! 絶対わざとでしょ。キンキンに冷えた麦茶が欲しい!」
突き返す彼女に、裏方男子は慣れた仕草で答える。
「わがまま言うなら水道へどうぞ」
麦茶は確かに熱いけれど、紙コップでも持てる温度なので、走った後と気温もあり飲む気にならない。
中でも部長は文句すら言えないのか言わないのか、口を付けてはお代わりまでしている。
「味は悪くないんだけどな」
赤利香は汗が肌を伝うのに、更に温かい麦茶で水分補給をして、熱中症にならないか少し不安になる。
「もっと早くに分かっていたら、冷蔵庫の許可取ってお昼休みに作ったのにって先輩言ってたよ」
紙コップの束を手に、登校の時以来の新雨の声を彼女は聞いた。
「貴方……」
下から睨みつけるみたいに見やり、一日もやもやしていた気持ちを眼差しに乗せる。
幸い他の部員からは離れていたし、聞こえる範囲内に誰も居ない。
「彼にワタシと貴方の仲が近いって言われたわ」
「気のせいでしょ。そう感じたのは彼だからじゃないの」
そう平然と答える新雨が気に障り、彼女は棘のある言い方をしてしまう。
「そのせいで告白された」
「おめでとう」
「わざとなの? 貴方に言われたくない台詞なのは」
正直、クラスメイトの彼が、藤谷新雨の仲を勘ぐって、自分をホームから突き落とすのではと思っていた。
しかし、この新雨がそんな可能性に気づかない訳も無い。
「付き合ってから気になる存在になる、好きになるって事もあるみたいだよ?」
むしろ新雨をこそ、陸上部の彼が突き落としそうなものだけど。
そんな新雨に目を細める。
「貴方、まだ何か隠してるわね?」
「何のこと?」
「惚けないで。彼をワタシの傍に置いておきたい理由があるのでしょ?」
紙コップを胸に押し返し、思いっきり険しい表情で睨みつける。
今後何かあった時にせめて言葉も聞いてもらえないと困ると、誤魔化せないと観念して話す。
「予知を見た時、たぶん少し先の未来も見えたんだよ」
迷子みたいな目を空に向け、新雨は顔がハッキリしないけれど、と前置きをして続けた。
「僕が誰かと言い争う場面が。でも、相手は彼じゃない。安心して。それに何で赤さんを突き落としたのか、僕は必死に問い詰めていた……」
「貴方……」
「あの予知が僕は恐ろしい……だから赤さんの予知を変える以外は、僕にはどうでも良いことなんだ」
瞼を下ろし、新雨は固く目を閉じる。
「赤さんが告白されようと、誰かと付き合おうと、赤さんの命を守れるなら」
「ワタシの気持ちはどうでも良いってこと?! 迷っているのに?」
言葉を真剣に受け止めてくれない新雨に、彼女は噛み付いた。
「気づいているんでしょ? ワタシが貴方を好きなこと……!」
胸に手を当て、喉を絞められたかの様な声で訴えた。
まるで目の前で演劇を観ている様だった。
しかし、新雨は瞼を開いて酷薄な笑みを口元に浮かべる。
「それは、ホント?」
「え……」
「迷っているってことは、僕が赤さんを好きにならない事が分かっているからじゃないの?」
「……」
「そうじゃないなら、彼に告白された時点で断っているはずだよ。僕の知ってる赤さんなら」
「なに人の気持ちを勝手に……っ!」
言い返すべき言葉が見つからず、赤利香はただ相手の顔を睨みつけた。
「安心して。予知が去る今週いっぱい、ちゃんと近くに居て守るから」
予知が本当かなんて、新雨の言葉を信じるか信じないかでしかない。
嘘をついてからかっているのではないか? という疑いが脳裏をよぎる。
すると相手の態度が酷く気持ちを逆撫でして、その澄ました様な顔に言葉をぶつけた。
「バカにしないでよ! もう後悔しても、知らないからね!」
その声に、木陰に散らばっていた演劇部員全員の目が向いていた。
赤利香が誰よりも早く部室にスタスタと歩くので、残りのメンバーが戻りながら新雨を質問攻めにする。
「ちょっと何があったの? ケンカ?」
「もしかして、愛想尽かされて振られた?」
「そうなの? ずっと曖昧な態度というか、付き合うのかどっちつかずだったから?」
主に女子メンバーから質問にあい、やはり集団生活は苦手だと、空気を重くしない様に作り笑いを浮かべる。
「先輩たちはそんな目で見てたんですか? 僕は最初言いましたよね? 見学しているだけですって。別に彼女と付き合いたくて、見学していた訳じゃないので。気にしないで下さい」
そう普段通りのトーンで答えるも、受け取る側の反応の難しさを知る。
「演劇出来ない男子も居るわけだし、そうなのかなって」
新雨は言葉通りに受け取って欲しかったのだけれど、半分は気丈に振る舞った言葉と受け取ったらしく、半分が温かな目を向けて頷かれてしまう。
部活後、陸上部男子と合流。
今朝と同様、先を歩く二人を新雨は距離を保ちながらついて行く。
学校を出て電車に乗り、三人でホームに降りる。
改札を出て別れるが、赤利香が男子と示し合わせて歩き始める。
「二人ともまた明日。赤さん、もう時間をずらそうとしないでね」
新雨はそう言って、普段通り帰路につく。
別れ際、彼女の視線を感じたけれどあえて無視をした。
たぶんそれは相手にも伝わっている。
その上で赤利香が何も言ってこないなら、新雨がすることは何も無い。命に関わらない限り。
翌朝、駅に着くと赤利香が来る数分前に、陸上部男子がやって来た。
「おはよう」
「ああ……おはよう」
先に新雨から声をかけると、彼から少し固い挨拶が返ってきた。
知り合ってまだ数えるほどなので、男子としてはまだ親しくなれないのは当然だけれど、この時は他の要因が関係していた。
その答えは彼女が来てすぐ明かされたし、新雨の予想通りだった。
「ワタシたち付き合うから」
開口一番、赤利香は彼の隣に立ち報告した。
彼女は睨む様に、男子は少し気まずげに立つ。
「おめでと」
たった一言、他に気の利いた言葉も言えないので、控えめな拍手を送る。
「ありがとう。さ、行きましょう」
彼女は見せ付ける様に男子の手を取り、新雨を置いて改札を潜った。
もちろん、そんな態度を取ったところで、新雨の態度が変わることは無く、宣言した様に予知があった今週いっぱいは見守るのに変更は無い。
だから、放課後も演劇部に顔を出しては隅の方で見学したり、小さな雑務を手伝ったりして過ごした。
恋人宣言を受けても余りの変化の無さに、多少赤利香をイライラさせてしまうが、彼女も今週いっぱいだと眉間にシワを寄せたまま顔を逸らす。
「イライラするから、ワタシの視界に入らないで!」
「分かった。空気、悪くしても嫌だし、まとめたゴミ一旦捨てて来ます」
もう棚などの整理も終盤、二袋になったゴミを右腕に下げ、部室を出る。
すると後から裏方の男子先輩がやって来て、列ぶと同時にゴミ袋を一つ新雨から奪い取った。
「言えなかったら黙秘しても良いからさ。赤さんが、君じゃない男子と付き合い出したってホント?」
相手の性格上、こういう話に首を突っ込む人では無いはず。
けれど逃げ道を作ってまで聞いて来たので、演劇部に迷惑をかけている手前、彼に探らせようとしているメンバーに対して答える。
「本当ですよ。すみません、変な空気にしてしまって」
「いや、そんな……ことも無いのかな。分からん。皆、赤さんの自爆と思ってる。どうせ素直になれなかったんだろうしって、気が立ってるの彼女だけだしね」
廊下に二人分の足音が吸い込まれる。
「一応お邪魔するの、今週いっぱいなんで安心して下さい」
「そうか、入部してくれると助かるのにな。雑用係が二人になるから」
「二人も居たら、手が余っちゃいますよ。そしたらサボるなって、誰かとは言いませんけど怒られるんじゃないですか?」
今度は新雨が相手に踏み込むと、本当に嫌そうな顔をして頷いた。
「違いない」
ゴミを集積場に捨て、回り道をして戻る。
「アレですよ。赤さんの付き合っている相手」
そうグランドの見える位置から、目を凝らして指を指す。
休憩中なのか、他の男子と談笑している風に見える。
「へー」
「陸上部です」
それ以上の会話もなく、時間をかけて二人、部室に戻った。
一日一日と週末に、予知に迫るほど新雨は緊張した。
予知が今日ではないか? 明日なのか? と無口になり、新たに予知が脳裏を過らない様に祈った。
予知の存在を知らない演劇部員たちの中には、新雨の顔色が優れないのを気にされたが、今週までなので無理に誤魔化した。
朝と夕方、電車を利用する度に表情に出さないが焦り、何事もないと分かるとホッとする。
そして登校する予定の無い日曜日で一息吐き、月曜日に何もなかった事、新たに予知が無い事により回避に成功したと確信した。
「これでもう安心だ。でも、予知が無いからってケガや事故に巻き込まれないとも限らない。普段通りで良いから気をつけて」
演劇部には土曜日の時点で、挨拶を済ました。
入り浸っていた事もあり、少ない男子部員からは惜しまれ、誘われたが断った。
そして今、赤利香にも最後の言葉をかけて背中を向ける。
学校で顔を見る事は何度となくあるだろう。
けれどクラスが違うので、これまでに比べたら、本当会うのは少なくなるのは確実だった。
「後悔しろー!」
背中にぶつけられた叫びは、余り演劇部らしくない語彙力に、新雨は小さく笑わされた。
まだ校内は活気が溢れている。
彼女は付き合い始めた陸上部男子との登下校は続け、新雨は放課後残らずに帰宅部らしく下校した。
夏は続くし、これからだと言うのに一つ夏が終わった寂しさを覚える。
玄関で靴を脱ぎ、リビングにやって来る妹の足音。
「ただいま!」
「おかえりなさい」
新雨は手元のスマホの画面を落とし、今日もはつらつとしたピンク髪が顔を見せた。
「やっぱりにーちゃん帰ってたんだ。今日早くない?」
「前に言ったでしょ、二週間くらいは遅くなるって。それが終わったの」
新雨と違いデフォルトで笑顔の環音は、部屋着に着替えるため、一旦下がった。
半袖シャツにスカート姿で戻って来た彼女は、小首を倒して目をぱちくりする。
「ちょっとご機嫌斜め?」
「そんな事無いよ。これで早く帰って来れるし、遅かった理由の子に彼氏も出来て問題ない。ただ……ちょっとね」
予知で言い争っていた相手が現れるか、見つけられると思っていたけれど、そんなこと全然無かった。
人の予感なんて、こんな物だろう。
離れた位置から二人を俯瞰しても、特に赤利香を見つめたり狙っている様子の人は居なかった。
「もしかしてだけど、彼氏の出来たその子の事、好きだったりする?」
新雨に近づいて顔を覗き込む様にして、不安な表情を浮かべる環音。
「そんなこと無い。環音に誓うよ。何せ彼を仕向けたのは僕だからさ」
「そうなの?」
目の前の妹の問いかけに頷いて頬笑む。
「そんな付き合いたての邪魔、しちゃいけないでしょ」
「だね。にーちゃんは邪魔者にならないうちに帰って来れて、よく出来ました。わたしが褒めてあげる」
「なんだよ。それ」
妹からの言葉に苦笑いで答える。
「だからもう待たなくて良いから、前の時間には帰って来られるよ」
「やった」
新雨の言葉を聞いて、小さく手を握り喜ぶ。
そんな夏の妹は部屋着にミニスカ姿で。
新雨は小さく息を吐き、指を差して注意する。
「涼しいのは分かるけど、外で穿くときは気をつけなよ」
街中でミニスカートを見かけても、キレイな脚と思うくらいだけれど、妹が穿くと見えないか注意したくなる。
だから自ずと眉間にシワが寄った。
そんな新雨の心配なんて知らない環音は、平然とソファに座ってあぐらをかく。
「大丈夫、家でしか穿かないから。それならにーちゃんにしかパンツ見られないでしょ」
「別に僕は環音のパンツが見たいなんて一言も言ってない」
「わたしだって、にーちゃんにパンツ見せるなんて言ってないよ。見られたとしても、にーちゃんだけって言っただけで」
「上げ足を取らない」
「どっちが」
何の会話なのかと、新雨はちょっと後悔する。
そんな様子も妹は気にせず、忙しく立ち上がり身体を一回転。
「なので水着以外でわたしの生脚が見られるのは、にーちゃんだけだよ」
全然環音との会話が噛み合っていない自覚はあるし、回って広がった短いスカートの下は、ギリギリ見えなかった。
妹の言う健康的な生脚が、太股の丸みが覗いただけ。
「はいはい、ありがたいありがたい」
軽くあしらって麦茶のため、冷蔵庫まで移動する。
「この肉感的でエッチな太股を拝んでくれて良いんだよ。膝枕でもしてあげようか?」
スカートを見えない限界までたくし上げ、瑞々しくプニプニした太股を晒して煽る妹。
冷蔵庫の麦茶のボトルを手に取る時、ちょっと違和感を感じたけれど、妹の言葉に目を向ける。
「環音。調子乗りすぎ、言ってて恥ずかしくないの?」
麦茶をグラスコップで飲みながら近づき、カシャッとスマホで撮影して画面を彼女に見せる。
「んん~!」
耳を赤くしてスカートを押さえ、唸りながら羞恥に俯いた。
「今度からは自嘲しような。他の人に見せたら簡単に拡散されちゃうぞ。そんな事になったら、僕許さないから」
そう言ってソファに座り、画像を見せられた事により自覚し、羞恥に黙る妹を見上げる。
「はぁ……ごめん、言い過ぎた。ほら、座りなよ」
ソファの隣を叩き、座ったら? と促す。
「んん~」
まだ赤さの引かない耳で唸りながら、自爆した環音が隣に座る。
「お詫びににーちゃんには無いボリュームのおっぱい触らせてあげるから、許して」
決して大きくないが、Tシャツを押し上げる胸に環音は手を充てた。
「冗談でも止めな。母さんに聞かれたらどうするんだよ。僕はそんな要求していないだろ」
「でも、チラチラ見てる時あるよね」
「……ないよ。それより環音が何考えてるか、本気で心配なんだけど」
ふざける様な事はあっても、今日みたいな事をしてきた記憶は無い。
「それは、もっとにーちゃんと仲良くなろうかなって」
「方法、他にあるだろ。変な方法でなく」
環音こそ何かあったのか心配になる。
「んー、にーちゃんはわたしと仲の悪いのと良いの、どっちがマシなの」
「聞き方がズルいぞ。それに、そんな方法は要らないよ。周りと比べると、僕らは十分仲良いんだから」
「はーい」
素直に返事をする事で、一旦の解決をして落ち着いたところ、不意に冷蔵庫の違和感を思い出す。
「環音……?」
「なに?」
「僕のキープしといたリンゴゼリーが無かった様だけど?」
前屈みに相手の顔を見つめて疑問を振ると、彼女の目が横へスライドした。
「にーちゃんとわたし、仲良しだよね?」
新雨は会話を無視して、妹の質問に質問で返す。
「環音はもう二つもリンゴゼリー食べてたよね?」
「リンゴゼリーがわたしの好物なのがいけないと思わない? ……あ! とりあえず妹の膝枕で眠っとく? 今見てるの悪夢かもしれないよ?」
そう引きつった笑みで膝を揃え、環音は自身の太股をペチペチ叩いた。