7
数日後の部室。
わたしは部室の扉を開けた。
美山はすでに来ていた。
「おはよー、凜香ちゃん」
美山は相変わらず普段通りだった。
やっぱりその態度が気に食わない。
「美山……いや、明野海浜に話がある」
そういうと、途端に美山は不機嫌そうな顔になった。
「そっちの名前で呼ぶってことはさ、……もしかして昨日の話? 凜香ちゃんにとっても悪い話じゃないっていうことになったでしょ。もっと楽しい話しようよ」
「嫌だ」
「なんで」
「わたしは明野海浜にいてもらわなきゃ困るんだよ」
「……そんなの、無理だよ。だってあたしは作家を辞めるべきなんだから」
「なんでだよ」
「あたしには向いてないからだよ」
「なに言ってやがる」
美山が作家に向いていないならわたしはどうなる。
向いていないどころじゃない。
「お前が向いてないわけ――」
「あたしは臆病なんだ」
わたしの言葉を遮って、美山は言葉を続ける。
「デビューしたばっかりのころは嬉しかった。みんながあたしの作品を褒めてくれて、面白いって言ってくれて。本当に嬉しかった」
彼女の顔に嬉しさなん見当たらない。
彼女の中ではもうすでに遠い過去になってしまっていて、他人のことでも思い出しているかのようだった。
懐かしんで淡い笑みを浮かべることもしないし、できないのかもしれない。
「あのとき……。【おれない】の三巻が発売されたとき、あたしはいつものようにSNSでエゴサしてた。いつもみたいにみんなが褒めてくれてた。でもそこで気がついた。《《みんな》》、褒めてたんだ」
「……みんな」
「否定的な感想をだれも書いてないんだよ。それに気がついたら心がざわついた。不安に思っちゃったんだよ。あたしは慌てて感想をネットで探しまくった。ブログ、個人サイト、読書感想の投稿サイト、レビュー動画、通販サイトのレビュー欄、ネット掲示板。調べられるものを片っ端から全部。でも低評価なんて見つからなかった。たった一つも。アンチすらいなかった」
それは異様なことだ。
どんな作品にも否定的な感想はある。
どれだけ世間的に評価の高い、所謂国民的なんて呼ばれるような作品でも。
世界中で愛されていると言われる某アニメ会社の作品にも。
アカデミー賞を受賞した作品にも。
一定の低評価はつくものだ。
それがまったく見当たらないのはありえない。
世間や世界に比べれば小さいラノベ界隈とはいえ、それでもありえないことだった。
今まで、は。
だからこそ、明野海浜は鬼才と呼ばれた。
「あたしは急に怖くなった。みんながみんな褒めるからじゃない。もし失敗したとき。みんなの期待に応えられなかったとき。一気に反転するんじゃないかって。思った。こんなにも持ち上げられてるなら、反転したらありえないところまで落とされる気がした。何万何十万の人たちの手で、地獄に突き落とされると思ったら。……あたしはそれが怖かった」
わたしにはわからないことだった。
明野海浜のように脚光を浴びたこともない。
大勢に面白いと称賛されたこともない。
それどころか賞に応募しても芳しい結果が出ない。
きっと才能なんてない。
明野海浜の足元にも及ばない。
わたしはまだ底辺物書きでしかない。
目の前の彼女の気持ちなんてわからない。
わかる日が来るのかさえ、わたしにはわからない。
彼女の恐怖をわかってあげることはどうしたってできない。
「それであたしは書けなくなった。書きたい気持ちはあったけど、恐怖を乗り越えられなかった。……臆病、だよね。そんなことで書けなくなるなんてさ。……あたしは臆病で弱い」
美山は自嘲気味に笑った。
「あたしさ、思うんだ。そんな臆病な人間は作家になんて向いてないんじゃないかって。作家は他人の評価に左右されない、強いメンタルが必要なんだって、そう思うんだよね」
だからね、と美山は続けて。
「あたしは明野海浜を辞めることにしたんだ」
うるせえな、と思った。
美山はわたしにはわからない恐怖を抱えていた。
書けなくなるほど怖かったのだろう。
それはよくわかった。
でもだからなんだ。
それでもわたしは書いてほしいんだ。
「臆病? 知るかそんなこと!」
明野海浜を辞める?
そんなこと許せるわけがない。
明野海浜の才能もセンスも捨てるなんて、他の誰が許してもわたしが許さない。
「そんなことって、あたしにとっては――」
「他の読者なんて見るな!」
「……え?」
「わたしだけを見ろ!」
「なにを言って」
「わたしだけを見て、わたしのためだけに明野海浜で居続けろ!」
「どうして? 明野海浜を殺したいんじゃなかったの?」
「だからだよ! 言っただろ、明野海浜にいてもらわなきゃ困るって!」
「……どういうこと?」
「初めて明野海浜の作品を読んだときわたしは心が折れそうになった。でも殺意なんて醜い感情で補強してでも立った。夢を諦めたくなかった。小説を書くのをやめたくなかったから。わたしはもう小説から離れられないんだ。だったらもう書くしかない。書かずにはいられない。きっとお前を、明野海浜をこの手で殺さない限り止まれないんだよ。もう進むしかないんだよっ。わたしにはこれしかないから。だから、明野海浜にはいてもらわないと困るんだよ! だから勝手に死ぬのは許さねえ!」
「……意味わかんないよ。凛香ちゃんが何言ってるのかわかんないよ」
「これを読め! ここに全部つめこんだ!」
わたしはスクールバッグから、印刷した紙の束を引っ張り出した。
それを美山の胸に叩き付ける。
「こ、れは……?」
「わたしの小説だ!」
口で伝える言葉はひどく曖昧なものだ。
だってそれは簡単に嘘になる。
自分の言葉すら嘘になっている気がしてならない。
本当は嫌いという言葉だけでは片付かない感情を抱えているくせに、簡単に嫌いという言葉を口にしてしまうのだから。
だから伝えたいことが伝わっているのか不安になる。
もしかしたら相手には届かないかもしれないと疑ってしまう。
今だって上手く伝わっていない。
不安はいつだってそばにいる。
自分自身の言葉すら信じられない。
わたしはそれを信じることがどうしてもできない。
でもわたしは文字だけは、文章だけは信じている。
物書きだから信じられる。
そして美山愛梨も――明野海浜も物書きだ。
だからきっと伝わるはずだ。
美山に――明野海浜にわたしの想いを伝えるために。
わたしは小説という術を使った。
小説という形にすべてをつめこんだ。
「……頼む、読んでくれ。お前に読んでほしいんだ」
「どうして」
「読めばわかるはずだ」
「……」
美山が紙の束を掴む。
その手付きは緩慢で、なにかを恐れているようにも見えた。
わたしはそっと美山から離れた。
わたしの小説をじっと見つめる彼女を、わたしもまたただ黙って見つめる。
やがて静寂の中で、美山はただ「わかった」とだけ口にして。
わたしの小説を読み始めた。