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明野海浜の引退発言騒動から一夜明けた。
わたしは学校にいて、部室に向かって廊下を歩いていた。
夏休み中の校舎内はいつもより人の気配が少なく、いつもよりも静かだった。
一晩開けた今、わたしは昨日よりはいくらか冷静になっていた。
でも胸の中はモヤモヤでいっぱいだった。
そのせいかイライラとした気持ちになっている。
美山はいったいなにを考えているのだろうか。
大人気作家の影響力がどれほどあるのか、まさかわからないわけはないだろう。
だからいくら美山が不真面目であろうと、引退発言は冗談で発したものじゃないはずだ。
……なんであんなことを言ったんだ、あいつは。
あれだけの才能を持っていながら引退?
信じられない。
バカだ。
バカとしか言いようがない。
それだけの才能をどれだけの人間が欲していると思ってるんだ。
「……クソったれ」
歩きながら悪態が口から漏れ出てしまう。
イライラが美山への怒りに変わっていくのを自覚しつつも、それを制御することができなかった。
だって許せるわけがない。
どれだけの人間がその才能によって振り落とされていると思ってる。
筆を折った人間だって多くいるはずだ。
それをたったの一文で捨てようとするなんて、あまりにも馬鹿げている。
「クソ、クソっ、クソ!」
ふざけるなと言いたい。
だからなんとしてでも問い詰めてやる。
そのために今日はここにきたのだ。
それは今朝のことだ。
ようやく美山からラインの返事がきた。
曰く『今日の部活で説明する』とのことだった。
それ以上にメッセージはなく、こちらがメッセージを送っても既読すらつかなかった。
電話も相変わらず繋がらなかった。
わたしは仕方なく部室まで行くことにしたのだった。
部室の前にたどり着く。
扉の向こう側に人の気配がした。
どうやら美山はもうすでに来ているらしい。
わたしは部室の扉を乱暴に開け放った。
部室の中で、美山は椅子に座っていた。
その口はいつものように棒キャンディを咥えこんでいて、その視線は窓の外へと向けていたようだった。
わたしが扉を開けてから数瞬あけて、美山はゆっくりとこっちを向いた。
そして――。
「おはよー、凜香ちゃん」
まるで昨日しでかしたことなんてなかったかのように、美山の表情はいつも通りに笑顔だった。
いくら美山であってももう少し殊勝な態度になっているだろうと思っていた。
それが蓋を開けてみればなにも気にしていない様子を見せられるだなんて、わたしはまったく思ってもみなかった。
……本当に、なにを考えているんだ。
なんでこんな平然としてられるんだ。
わたしにはまったくわからない。
「あ、ごめんね。ラインも通話も出られなくて。いやね、担当編集とかレーベルの編集部からひっきりなしに連絡くるからさ。スマホの電源切ってたんだよね。あはは、困っちゃうよn――」
「美山。お前、自分がなにをしたのかわかってんのか?」
「ん? ……あー、昨日のことか。すっごいよね、あんな話題騒然になるなんてさ」
「あたりまえだろ。お前、自分が明野海浜だって自覚あんのかよ」
「さあ?」
「さあじゃねえだろ! だいたいなんで辞めるんだよ!」
「……もう書く気がないからだよ。もうさ、どうでもいいんだ。明野海浜も作家って仕事も。だから辞めるんだ」
「どうでもいい……? どうでもいいってなんだよ。……なあ、なんだよそれ。……わたしに対してそれを言うのか、お前が? どうでもいいって?」
……ああ、本当にムカつく。
明野海浜がわたしになにをしたと思ってる。
お前はわたしに――。
なのに勝手に辞めていいわけないだろうが。
そんなこと、許せるかよ。
……ふざけんなよ。
「ふざけんじゃねえぞ!」
わたしは美山に詰め寄って、その胸ぐらを掴み上げていた。
やっぱりこいつのことは許せないと思った。
「お前は天才なんだよ! たくさんの奴が手にしたくて必死に手を伸ばしても届かない、そんな才能を持ってるんだよ! わかってんのか! それなのに、才能があるくせに作家を辞めるなんて……お前はバカだ! ぐだぐだ言わずに書き続けろよ!」
「嫌だよ。……というかどうして止めるの? 凜香ちゃんに止める理由なんてないじゃん」
「……どういう意味だよ」
「だって凜香ちゃん、明野海浜を殺したいんでしょ?」
「それは……」
「だったらあたしを止める理由、凜香ちゃんにないじゃん。むしろそのほうがいいでしょ? なにもしなくても明野海浜が消えるんだから」
気がつくと、わたしは美山から手を放していた。
美山の言葉が胸の奥深くに入り込んだ。
入り込んだそれはだけど溶けていかない。
まるで拒絶するかのようで。
でもそれはおかしいのだ。
だって美山の言うことは正しいのだから。
たしかにわたしは明野海浜を殺したい。
でもそれは現状では難しいことで。
いつか達成できる保証なんてどこにもなくて。
”……本当に、わたしは明野海浜を殺せるのだろうか”
昨日浮かんできた不安を思い出す。
もしデビューというスタートラインに立てたとして、明野海浜を殺すというゴールまでの道のりは長く険しい道のりだ。
その道をわたしは歩き続けられるのか。
スタートラインに立とうとしている今でさえ、未だに四苦八苦しているというのに。
でもここで明野海浜が勝手に消えてくれたら、わたしはデビューして作家を続けることだけ考えればいい。
鬼才と呼ばれる明野海浜を殺すよりも、達成できる可能性はぐっと高まる。
大嫌いな明野海浜自身もいなくなる。
それは殺すこととなにが違うのか。
きっと同じだ。
なら別にいいじゃないか。
それなのどうして、モヤモヤとした気持ちが消えないのだろう。
わたしにはわからなかった。