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部活終わりの下校時。
わたしと美山はバスに乗っていた。
わたしたちは最後列の長椅子に並んで座っていた。
最初に美山が隣に座ってきたとき、わたしは彼女に別の席に行けと言った。
でもまったく聞いてくれなかった。
自分が移ろうとするも美山に窓際へ追いやられて、その小柄な身体で閉じ込められてしまった。
無理矢理に通ろうとすれば絶対に騒がしくしてしまうだろう。
周りに迷惑をかけるわけにはいかない。
そんなわたしの心を見透かしたように、美山に「ホント真面目だね」と言われた。
バスの中で騒がないようにするなんて普通のことだろ。
美山はよくわたしのことを真面目だと言う。
課題を忘れたことがないだとか、授業をサボったことがないだとか。
ゴミ箱の周りに散乱したゴミをちゃんと捨て直したり、校則に則った学校生活をしたり。
そんなわたしのあたりまえの行動を知る度に、美山はわたしに真面目だと言ってくるのだ。
わたしから言わせれば美山が不真面目すぎるだけだ。
課題はしょっちゅう忘れるわ、遅刻はあたりまえだわ。
授業はよくサボるし、持ち込み禁止物の携帯ゲーム機を学校に持ってくる。
授業中に棒キャンディを舐めるなんて言語道断だ。
それなのにテストの成績はいいのが謎で、めちゃくちゃ腹が立つ。
とにかく不真面目というのが美山愛梨という女だ。
だからわたしは美山が嫌いだった。
「凜香ちゃんって、なんであたしのラノベばっかり読んでるの?」
バスに揺られてどれくらい経ったか。
美山がそんな質問をしてきた。
美山の――明野海浜のラノベを読んでいたわたしは、顔を上げて美山に視線を向ける。
「……別にばっかりじゃねえよ。違うのだって読んでる」
「それはそうだけど。でもあたしのが圧倒的に多いじゃん」
「そんなことねえって」
「そんなことあるよ。しかもそんなに付箋貼りまくってるし、読みすぎてちょっとボロボロになってるし」
わたしは手元を見下ろす。
そこには明野海浜が書いた【俺の青春ラブコメに不可能はない】ーー通称【おれない】の第三巻。
タイトルにある通り青春ラブコメだ。
それははたしかに少しよれよれになっているし、付箋も大量に貼ってある。
天才や鬼才と呼ばれる明野海浜のラノベだ。
本当は大嫌いで読みたくはないが、参考や勉強になることは間違いない。
だから繰り返し読んでるだけに過ぎない。
……本当にそれだけだ。
「全冊、もう何周もしてるでしょ?」
「しかたないだろ。お前がずっと新刊出さねえんだから」
「……それは今、関係ないじゃん」
美山は不貞腐れたような顔で言った。
美山にとって彼女の新刊については言われたくないことのようで、いつもわたしがそれを話題に出すと今と同じ顔をする。
わたしは美山が不貞腐れようがどうでもいいから、気にせず話題に出しているが。
明野海浜がラノベを出さなくなって二年が経った。
本人曰く書けなくなったという話だった。
どうしてそんなことになっているのか、わたしにはわからない。
美山がそれ以上語らないからだ。
本人が言わない以上、わたしにわかるわけがない。
天才の気持ちなんてわからない。
「あたしのことはどうでもいいの。いいから理由教えてよ」
参考や勉強になるから。
そう言えばいいだけなのはわかっている。
でもこいつにそんなことを言うのが癪だった。
「……つまらねえとこを探してるだけだ」
「ふうん。……ねえ、ここなんで付箋貼ってるの?」
急にわたしの手元の本を覗いてきた美山が言った。
わたしは「は?」と言いながら美山の視線を辿る。
わたしが開いていたページにはたしかに黄色い付箋が貼ってある。
そこは主人公ととあるヒロインのシーンだった。
いつも主人公の飲みかけの缶ジュースを奪い、平気な顔して飲めていたボーイッシュ系幼馴染ヒロイン。
そんな彼女がいつものように主人公から缶ジュースを奪ったあとで、それを飲もうとして直前に「やっぱ気分じゃない」と言ってやめるというシーンだ。
そのしばらくあとで、彼女が主人公への恋心に気がつく展開がある。
つまりこのシーンは伏線になっていたのだ。
ここの上手いところはさり気なさすぎてこの時点では伏線と気がつけないように書いてる点だ。
「ここ伏線だと思わせない書き方してるだろ? 普通に書いたら伏線かって疑っちまうが、お前はめっちゃ自然に書いてるからなにも疑えない。でもあとから読むとめっちゃ伏線じゃねえかってなる。このさらっとした書き方で、なおかつあとでやられたってなるのがすげえんだよ」
「へえー」
「それにヒロインすらまだなにも気がついてないのに、身体が勝手に反応してるんだよ。つまり無意識ではもう気がついてたんだ。その表現方法が上手いんだよ」
「上手いんだ、へえー」
「へえーってお前な、自分でそういうふうに意図して書いたんだろ。なんで知らないみたいな反応するんだよ。」
「だってそんなこと意図してないもん」
「……は?」
「むしろそこヒロイン本当に気分じゃなくなっただけだし。その時点じゃまだ無意識的にも気がついてないよ」
「……」
「っていうかめっちゃ褒めてくれたね」
「……何の話だ」
「え、すげえとか上手いとか言ってたじゃん。つまらないとこに付箋貼ってるんじゃないの? 本当はめっちゃ好きだったりする? ねえ、ねえ? 好き? あたしのこと好き?」
「好きじゃねえよ!」
大声を出してからハッっと気がついて、周りの乗客に頭を下げる。
美山は隣でケラケラ笑っていた。
……誰のせいだと思ってやがる、あとで覚えておけよ。
わたしは美山を睨みつけたが、彼女はそれでも笑っていた。
……本当に腹が立つ奴だな。
ひとしきり笑ったあとで、美山はわたしに視線を戻した。
「……凜香ちゃんを見てると、あたしときどき思うんだ。あたし――、ううん。明野海浜の作品が本当に嫌いなのかなって。好きなんじゃないの? って」
「……好きじゃないって言ってるだろ」
「ホントに?」
「うるせえな、大嫌いだよ」
「……ふうん」
「なんだよ」
美山が目を細めてわたしを見てきた。
その目はなにかを言いたげに見えた。
だからわたしは聞いたのだ。
美山は「別に」と言って、わたしから視線をどかした。
それっきりしばらくはなにも言わなかったが、数分後にまたわたしに声をかけてきた。
「……あのさ、凜香ちゃん」
「今度はなんだ?」
「凜香ちゃんがあたしに言った言葉、憶えてる?」
「言葉……?」
「ほら、凜香ちゃんがあたしの正体を知った次の日の部室で言ったことだよ」
「……ああ」
それで美山の言っていることがわかった。
部室でなにか言い訳をしようとした美山の言葉を遮って、わたしが言った言葉のことだろう。
「……憶えてる」
「凜香ちゃん、開口一番に『いつか絶対にぶっ殺してやるから覚悟してろ!』とか言うんだもん。びっくりしちゃったよ」
わたしは同い年でデビューした明野海浜が大嫌いだった。
憎くて憎くてたまらない。
彼女のデビュー作を読んだとき浮かんできたのは殺意だった。
殺したくて殺したくてたまらなかった。
それが今のわたしを形作った。
そんな感情を本人に暴露した日のことを、わたしは当然憶えている。
「……それがどうした」
「今でもちゃんとその気持ち、持ってる?」
「なんでそんなこと」
「いいから教えてよ。……ねえ、本当に殺したいの?」
「あたりまえだ。わたしは明野海浜を殺したい」
「……そっか。よかった」
変な奴だ。
誰かにお前を殺したいと言われて、「よかった」なんて言う奴がいるか。
そんなの美山愛梨以外にいないだろう。
……どうしてよかったなんて言うのだろう。
何を考えているのだろう。
わたしは聞きたいと思った。
だけど不思議なことに聞きたくないと思う自分もいた。
どうしてか聞いてしまったらなにかを失うような気がした。
なにか、大切なものを――。
揺れるバスの中、わたしはなにも言えなかった。
手の中の本が冷たくなったような気がした。
○
思えば、そのやりとりは予兆だったのだろう。
あのときなにか言っていれば、問いただしていれば。
なにかが変わったのだろうか。