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30年振りの帰省で...

作者: 三來 舎知生

両親が亡くなったとの妹からの連絡が入ったのが、10日も前のこと。


仕事を手早く片付けたようとしたが、何せインドに住んで30年、会社を共同とはいえ経営している身。しかも、大きな商談を抱えていたために、それらを投げうって帰る訳にも行かず、両親は既に亡くなっているのだから急いでも仕方ないと、仕事がひと段落するまで日本に帰らなかった。

そして、連絡から10日も経って仕事が一区切りついたところで、ようやく休みをとって帰国の途についた。


そして30年振りに故郷に戻る。

インドからのフライトの中、30年前の出来事を振り返る。

後悔で胸が痛い。

インドに来て30年。

それに意識を向けると後悔に苛まれることから、頑なに考えることを避けてきた。

が、両親が亡くなった今、向き合わざるを得ない。

30年前に家を飛び出した時のことは、鮮明に思い出せる。


31年前、国立大学の電気工学科を卒業し、大手電力会社に入社。側から見ると順風満帆。両親にとっては自慢の息子。親父は周りに自慢しまくりで、母さんに何度もたしなめられていたほどだ。


だが、半年してある程度会社に慣れ、会社の上司や先輩達を客観的に見れるようになり、違和感を感じるようになったのだ。


定年まで無事勤めて、引退してそれなりに自適な老後...

今考えると、それはそれで良いかともおもうが、そのときは、若さゆえか、そんな刺激の少ない人生で果たして自分は満足なんだろうか、と思ってしまったのだ。


一度思うと、止まらない。

どんどん深みにはまってく。

自分で自分を責めてしまう。


そして、居ても立っても居られなくなり、結局、11月末に退職届けを出した。

理系の新人が理由も無くやめるという。当時はかなり問題になり、毎日、上司や先輩はもちろん、役員まで出てきて、慰留されたが、決意は固く、12月の最終日29日の朝、上司と課の先輩に一方的に退職の挨拶をして、会社を退出。

その足で実家に戻った。


実家に戻り、話しがあると両親に、退職したことを初めて打ち明けた。

親父に怒られるのは覚悟のうえだったが、既に会社を退職済みだと説明した途端、相談もなく勝手に辞めたことに親父が激昂。

言い合いになり、売り言葉に買い言葉、

「誰のおかげで大学まで行けたと思ってるんだ」

「自分の人生は自分で決める」

「勝手にしろ」

「勝手にする」

「なんだとぉ!出てけ!二度と家の敷居を跨ぐな」

「わかった、出て行く。二度と敷居を跨がない」

で、年末・年始を過ごすどころか、帰宅した夜には家を出た。


それ以来30年、宣言通り実家には一度も戻らず、連絡すらほとんどとってない。


実は、その秋にあった青年海外協力隊の採用試験を受け、無事合格していた。

いま思い返せば、あのとき、少なくともそのことを話すべきだったし、その後も意地をはらずに、せめて母さんにはちゃんと連絡してたら良かったな、と思う。

家を出る間際、母さんからもう遅いし、今晩だけでも泊まりなさい、というのを、振り払って、家をでた。

車のミラーに映った母さんの切なそうな目が、今も鮮明に脳裏に残る。

それが、母さんと会った最後になってしまった。


年明けから70日間の派遣前訓練、終わるとすぐに海外に派遣される予定で、年末・年始は、借りてたアパートで過ごし、アパートを引き払って、訓練に参加。春からインドに派遣された。

大学で学んだ電気工学の関係での派遣であった。



なんだかんだでインドに馴染み、2年の派遣を終えるころ、このまま日本に帰るのもなぁ、と思っていた。

何か現地でこれからのことでインドにちょっとでも貢献できれば、なんて考えた。


ちょうどパソコンのハシリの時期で、元々、大学時代にFortranで簡単なプログラムを組んで、ゲームを遊んでいたこともあり、また、インド人は数学の素養が高いので、面白いんじゃないかな、と気軽な気持ちで、現地で知り合ったインド人とプログラム開発の会社を立ち上げた。


その後、いろいろあったが、仕事は面白く、夢中で仕事に打ち込んだ。

はっと気づくと30年もたっていたか、と思うほどだった。


その間、仕事で日本に戻ることはあっても、実家どころか、妹にも、高校や大学の友人にさえ、会わなかった。

僅かに妹に連絡先だけ教えており、妹からは、インドに来た最初の頃はそれこそ、やれ帰って来いだとか、せめて、母さんに連絡して、だとか、頻繁に手紙があったが、ほとんど、返事をしなかったので、あきらめたのか、ここ数年は連絡も途絶えていた。

返事をわざとしなかった訳ではなく、どう返事していいか、わからなかったし、仕事で忙しかったこともある。

いや、今考えると、仕事に逃げていたんだろう。


そんな中の突然のメール連絡。なんだろう、と開けると、衝撃的な内容だった。


+++++

兄さん

お母さんが同乗していたお父さんが運転の車に、トラックが突っ込んで、崖から落ちて、二人とも亡くなった、と、さっき警察から電話があった。

今から向かう。また、連絡する。

晶子

+++++



私の秘書を10年以上やって3年前に結婚した、妻のアリシャが、日本に行ってみたい、と言われていたこともあって、さすがに、来年あたりには一度帰省してみようかなぁ、と思っていたこともあり、両親が亡くなったことは、頭をハンマーで殴られたくらいショックだった。


出来るだけ早く帰るようにする。

とだけ妹には返事した。


その連絡から10日も後なので当然だか、通夜、葬式には間に合わず、妹家族も葬式後の始末を終え、自宅のある大阪に戻っている。

四十九日にはまだ早い。

中途半端な時期に帰ってきたことになる。


因みに妹は大阪の外語大学を卒業し、そのまま大阪で、就職、結婚、旦那さんと一男一女の家庭を築いている。


私は、いま住んでいるバンガロールから、ムンバイに出て、仕事もあってムンバイで一晩泊まったあと、次の日の夕方発で成田へ。今回は残念ながら、妻は別の用事があり、スケジュールが合わず、単身での帰国だ。

朝、成田到着して、成田空港の入国審査を終えて、すぐにあらかじめ予約してた携帯電話を借り、教えてもらった妹の携帯へ電話した。


「もしもし、ノリユキです。アキコか?」


「あぁ、兄さん?本当にひさしぶりね。いまどこなの?」


「成田に到着したところ。この電話は借りたヤツで、日本滞在中は通じるから、なんかあったらこの電話ね。...」


共働きで会社勤めをしており、更に二人の子供がいる妹は、平日朝は忙しく、相手している時間は無いとのことで、実家にお骨はある、実家の鍵はポストにあるとだけ教えられた。


成田から空路、広島空港へ。空港で少し早めの昼食をとり、そこからレンタカーを借りて、実家へ約2時間半。

高速道路を降りてすぐに、スーパーがあったので、2日程度の食料と酒に供花や線香などを買い、実家に到着したのは、なんだかんだで午後4時過ぎだった。


カーナビに住所を入れて、その住所に到着したのだが、家は建て替えたのか、30年前の記憶とは全く異なっていた。

もしかして、間違えたかとも思ったが、ナビの住所は間違ってない。


30年のうちに整備された高速道路はどこを走っているか、全くわからなかったが、高速降りてからは、途中、見覚えのある箇所もあったなぁと思い返し、また、郵便ポストを確認すると妹に教えられた通り鍵があった。

流石に30年も経つと風景はかなり変わるのか、と自分を納得させていた。


周りは何軒かの民家はあるが、家の裏手は山が迫っていて、100mも山に入ると、先祖代々の墓所があると記憶している。

村には(と言っても、後で気付くが、平成の大合併で市になっていた)、スーパーなど無く、雑貨屋さんが部落に一つづつあるだけと記憶している。


そんな光景を彷彿とさせる周りの情景に、どこか、なぜか、納得してしまった。


後で思うと、取り込まれつつあったんだと思う。


恐る恐る家に入る。

なんとなく、こっちだっけ、と思った部屋が、仏間だった。


仏間に入ると、目に飛び込んできた、二つの骨壷。


なんだろう、言葉にすれば、大きな違和感、のひと言。

30年前、家を飛び出した時の光景がまざまざと脳裏に蘇る。

あの時の親父と母さんがこの骨壷?

違う、という感覚なのだが、なぜか、そこに靄がかかったようで、違和感だけが感じられる。


とはいえと、気を取り直し、途中で買ってきた花を飾り、仏間を後にする。


後になって考えると、何故、仏壇を開いて確認もせず、単に骨壷の前に花だけを飾ったのか、蝋燭も線香もあったのに取り出しもせずに放置したのか、

最早、取り込まれた状態にあったのだろう。



その後、家の中をひと通り確認し、シャワーを浴びた。

家の中は、2階にベッドがある部屋が二つあったが、妹が片付けたのか、殺風景だった。

持ってきたジャージに着替えて、ほっとひと息。

時計を見ると既に6時前。

それから簡単に食事の支度をして、さて、テレビでも見ながら、食べようかと、電源を入れてみる。

だが、故障のようで、画面が映らない。

まあ良いか、とひとりでもそもそと食事をとり、片付けをして、仏間の隣の客間と思われる部屋に布団を敷いた。

布団はその部屋の押し入れにあった。


とはいえ、まだ7時過ぎ。

手持ち無沙汰である。

そういえばと、小学生の頃に親父にもらった小さい鉱石ラジオを持ってきたのを、思い出した。


実家は第一種兼業農家。つまり、農家では食っていけないので、親父が建設会社に日雇いのような形で働いていた。

母さんも途中から女だてらに親父と一緒に働いていた。

兄妹共に大学に行けたのは、母さんの稼ぎと、また奨学金のお陰である。

そんなわけだから、家は、食べる分には問題ないが、余裕はなかった。


その鉱石ラジオは、小学生の頃、親父がある日持って帰ってきたもので、確か、誰かに貰ったと聞いた覚えがある。

誕生日はちょっと贅沢な食事程度で、クリスマスは祝わなかったので、プレゼントらしいものは記憶の限り、そのラジオだけだ。

そのラジオがあったから、電気工学に興味を持ち、大学は電気工学科に入った。そのラジオは、何度も分解して組み立てて遊んだし、性能は低いが簡単な作りなので、今も現役で動く筈。

何十年も使うことはなく、ずっと仕舞いっぱなしだったが、唯一の親父ゆかりの品なので、供養の意味もあり、持ってきた思い出の品だった。


さて、久しぶりに動くかな、とラジオをつける。

だが、性能は低いのに加え、かなりの田舎のこと、雑音でかろうじて聞き取れるかと、いうくらいだ。

まあ、いいか、とラジオをつけたまま、やはりインドから持ってきたペーパーバックを読む。

...


ふと気付くと、いつのまにか寝ていたのか、布団に足を突っ込み、上半身は仏間と客間を仕切る襖側にはみ出た形で寝転んでいた。半身を起こし、時計を見ると、夜の2時すぎ。

いわゆる丑三つどき。


ラジオの酷い雑音が入る。

が、途中、パタッと静かになり、しばらくすると、また酷い雑音が入る。

雑音の中、低い男の声のような音が聞こえる。

ん、何て言ってる?

また、パタッと静かになった途端、男の声が...

「(ザァザァ)カヤロウ、なんで帰ってきた、いいから直ぐにカ(ザァザァ)...」

また、一段と酷い雑音で、声が遮られる。



えっ、何?『なんで帰ってきた』って言った?どういうこと?意味がわからない...



すると、部屋の明かりが激しく点滅しはじめた。

寒気がした。あれっいま6月だよな、と呑気にも思った。

だが、寒気はぞくぞくと増していった。

そしてしばらくすると、部屋の明かりが完全に消えた。

ラジオの小さなライトだけが残った。

その小さな明かりだけが、唯一の希望の光のように感じたが、あまりに小さかった。


隣の仏間から、ずりっ、ずるっ、と、何か引きづるような不気味な音がする。

ずるっ、ずりっ、ずるっ...

その音が仏間との間の襖の前まで来ると、襖が音もなく、ゆっくりと開いていく。

鳥肌がどんどん立っていく。全身がそそけだつ。


ラジオの雑音がどんどん大きくなる。


「*☆¥#.+〆$°*-。」

と、雑音に混じって、ラジオから何か声が聞こえる。

が、何を言っているのか、わからない。

それどころか、体は金縛りの状態だと気づく。

暗闇の中、物音は明瞭に聞こえて、布団の感触は明確に感じてはいるものの、体は我知らず震えていて、自分では指一本動かせない状態だった。


襖が更に開くにつれ、寒気がぞくぞくから、ぞぉおお、へと、凍死はこんな感じなのかな、と思うほどの寒気だった。


僅かなラジオの明かりに照らされて、襖の開いたところに見えたのは、真っ黒に焼け爛れた髪の長い、若い女の人だった。

その女が、開いた襖の横奥に座っていた。


女がいることはわかるが、女からは、ラジオの小さな明かりに反撃するように暗闇が広がっていた。

暗闇が広がっているせいで、女の輪郭はぼやけ、ともすれば暗闇そのものかと思うほどなのに、その女の焼け爛れた顔や手足は何故かはっきりと知覚でき、それが一層の恐怖を煽った。


ひぃー、ひぃー、と金切り声が聞こえる。

誰かいたっけ?と思ったが、直ぐにそれが自分が叫んでいるんだ、と気づいた。


体も意識も、恐怖に完全に囚われているものの、どこかで冷静に分析する自分もいる。

自分が自分でなくなる感覚だ。

これはもしかして、女に体を乗っ取られるのでは、と、更なる恐怖が心を縛る。


「*@?」

女がひと言発する。

なぜ?と言ったか?

こっちが聞きたい、なぜ、全く覚えのない怨霊が実家にいるのか?

目を背けたいほどの焼け爛れた顔が否応無く目に入る。

目を背けたいと思えば思うほど、目が離せなくなってしまう。

1秒が過ぎるごとに更に恐怖が増す。

逃げようと、そして、金切り声をあげようとしているのだが、今度はかすれ声すら出ず、指一本すら動かせない。


そうこうしてると、女の後ろから、これは何故かはっきりとわかる老婆が現れる。そして、こちらに近づいてくる。

音もなく、しかし、一歩一歩ゆっくりと。

老婆は、女の横に立ち止まり、哀しい眼で女を見る。

女は身じろぎもしない。

老婆がこちらを向く。

その顔は、真っ黒な目と口がぽっかりと大きく開き、目尻から血とはっきりわかるほど、赤い液体が大量に滴り落ち、老婆の怒りと憎悪が激しさを物語っていた。


恐ろしい。

老婆の激しい怒りと憎悪に当てられ、頭の中の感情を司る部分が全く麻痺した。

ぽっかり空いた目と口の虚無が、無間地獄に通じているようで、そこに吸い込まれるのか、という新たな怖れが、恐怖を上書きしていた。



「こりゃ、やめろ!恨むならワシじゃ。ノリユキじゃない。取り込むならワシじゃ!」

ラジオから、男の声がはっきり聞こえてきた。

これは親父の声だ、と思った。

「ノリユキ、しっかりしなさい。」

今度は女の声だ。母さんだ。

母さんの声で、全身を覆っていた何かが、頭に靄のようにかかっていた恐怖の呪縛か何かが、頭の一部分だけ、晴れた。


ちょっとだけ明瞭になった意識で、浮かんだのは、日本へのフライトの間に思い返していた後悔。

若さ故の自分の変な意地で、家を出て30年。

連絡も取らずにいたこと、特に母さんに対しては、謝っても謝りきれないほどの取り返しのつかないことをしたな、と、深い悔恨をあらためて思ったことだった。

『母さん、本当にごめんな、俺がホントに悪かった。

考えなしだった。ちゃんと説明すべきだったた。

父さん、ごめん、意地をはらず、ちゃんと父さんと話すべきだった...』

この世をあとにする直前の懺悔だな、と頭の片隅で思った。

最早、この呪縛を自力で抜け出すのは諦めていた。



すると、ラジオから二つの光の玉が出てきた。

光の玉はか細く、みていると切ないなにかがあった。

光の玉は老婆の周りをくるくる回った。

すると、老婆の顔が、怒りに満ちていた顔が、少しずつ、穏やかなものに変わっていった。

そして、何も言わず、少しづつ、薄くなり、最後には消えていなくなった。


老婆は消えて無くなる寸前に、何か、呟いたようだった。

『娘の供養をお願い』

そのように聞こえた。

我知らず、はい、と答えてしまった。


光の玉は、いつのまにか、消えていた。


呆然としていると、後に残っていた女も、何も言わず、頭を下げると、消えていった。






はっと気付くと、見覚えのない家の庭にいた。

朝日が眩しく、時計を見ると、朝5時過ぎだった。


居ても立っても居られず、妹に電話した。

すると、妹も起きていたらしく、ワンコールで、電話に出た。


妹は何故か、夜の2時過ぎに起きてしまい、変な胸騒ぎに、やたらと不吉な感じがして、まんじりともせず、朝まで起きていたそうだ。


信じられないかもと前置きして、昨日から昨晩にかけての出来事を話したところ、妹は、実はと、とんでもないことを、言い出した。


両親の車は峠道のカーブ手前で、カーブを曲がりきれずに突っ込んできたトラックに追突され、ガードレールを突き抜けて、転落、炎上。

転落した先にちょうど、山菜採りに来ていた女性がいて、巻き込まれて、焼死したとのこと。

その女性は一人暮らしで、母親が病気で入院していたそうだが、その母親も、一人娘を亡くしたショックか、間なしに亡くなったとのことだった。


その女性は山辺さんというそうだ。

目の前の家の表札には山辺とある。


更に妹が「言うタイミングも無かったんだけど..」と前置きして、不思議なことを口にした。


鉱石ラジオっていうけど、あれ、お母さんのお爺ちゃんが持ってたって聞いてる。兄さんが小学一年生のときに、誕生日に友達にはあるのにぼくには何もないって、泣いたの覚えてないの?お母さんがそれで思い出して、これでもって、渡したって聞いてる。

あのラジオ、全く聞こえないのに、兄さん、意地になって、いじくって、直ったって何度か聴かせてくれたけど、雑音だけで、何にも聞こえなかったんだよね。

最初は聞こえないって言ったけど、何度もやるし、お母さんが心配して、聴こえるって答えて欲しいって言われて、何回か目に聴こえるね、って言ったら、すごい嬉しそうにしたよね。

お母さん、心配してたんだよねぇ。


車に乗って、ふとナビを見ると、[結果はありません]との表示が出ていた。現在地を確認すると、ミツギシクダマチとなっている。

クダって確か隣村だったな。

そうか、30年前は「ソウザグンヌノムラ」だったが、今は平成の大合併で「ミツギシヌノマチ」に変わったんだ、と、妹から十何年も前に連絡があったことを、その表示を見て、思い出した。



その後四十九日もあり、我知らず約束してしまった供養に奔走し、インドに戻るのは、それから10日後になる。


インドへ帰るフライトの中のこと。

壊れた鉱石ラジオを手に、いろいろあったなぁ、と振り返りつつ、万事恙無く終えたと自負し、ほっとした気持ちでいた。


すると『元気でね』と女の声がラジオから聞こえた気がした。

それはちょうど、広島付近を飛行中のことだった。

来年の一周忌には妻と一緒に来よう、と思った。


fin

閲覧して頂き、誠にありがとうございました。


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