ヤンキーちゃんをわからせる 2
教室に入ると、まだ全員ではないが、ほぼ大半の生徒が登校してきていた。
その中に猪熊の姿はないか教室を見回すが、まだ来ていないようだ。
確か猪熊は授業をサボりがちだし、来るとしてもギリギリか、下手したら遅刻してくる事のほうが多い。
学校に着いて居ないからといって、まだ安心することはできない。
「よう倉野、なんか朝からげっそりしてるな」
「りょーくんったらいつもの子にこっぴどく振られちゃったからね」
「そうか、倉野……気を落とすな、次があるさ」
「振られてないし、まだ始まってすらいないんだけど!?」
席について田村や楓とバカな話をしていると、教室のドアが乱雑に開けられた。
この不良が殆どいない高校において、こういうドアの開け方をする者は、俺の知る限りただ一人しかいない。
俺が今、もっとも会いたくない人物が、遂に登校してきた。
「おい、猪熊だぜ……」
「なんか怒ってるみたいだよ、怖いわ……」
「いつもより機嫌悪そうだけど、なんかあったんだろうか?」
明らかに不機嫌そうな猪熊の姿を見て、クラス中がざわめく。
彼女の座席は前のドアから入ってすぐなので、猪熊は自分の席まで近寄る。
「……ぎろ」
「うっ……」
猪熊が鬼の形相で俺を一瞬睨んで、学生鞄を乱暴に机に置いて。
そして大きく音を立てながら椅子に座り、後頭部に腕を組んで、机に脚を伸ばして太々しい態度で着席した。
完全に俺に対してお怒りだな、アレは。
「ねえちょっと、りょーくんのこと睨んでたよ?」
「お前、猪熊に何かやったのか?」
「べ、別に? 心当たりがないなー、ははは」
笑うしかなかった。
昨日の喧嘩を見る限り、猪熊は狂暴である。
二人を巻き込みたくはないので、知らんぷりをする以外に選択肢はなかった。
「お前、なんか気に障る事したなら謝っとけよ。やべーぞ猪熊を怒らせたら」
「そうだよ。猪熊さん、すごく喧嘩が強いって噂だよ?」
すごく小さな声で、二人はコソコソと両耳に猪熊のことを話してくる。
「アイツ中坊の頃、暴走族を潰して支配下に置いていたって噂だぜ?」
「気に入らない人はみんな病院送りにされたらしいよ?」
「悪い事は言わない、マジで心当たりなくても謝っとけ」
「そうだよ、いくらりょーくんが空手やってても、猪熊さんだけはまずいよ」
田村も楓も、猪熊の嘘か本当かわからない伝説を吹き込んでくる。
病院送りにしたのはともかく、暴走族を潰したのは本当なのか?
確かに猪熊は喧嘩慣れしているし、普通の人よりは強いとは思うけど、十人も二十人もいるような暴走族を単独で潰せるとは思えない。
流石にそれは噂が独り歩きしているだけなのではと思ったが、まあ絡まれたら面倒くさい人物であることは間違いないだろう。
とにかく、今日は徹底的に猪熊を避けて生活しよう。
そう心に決めた俺の行動は、徹底的だった。
五分休みの間は必ず男子トイレに逃げ込み、昼休みが始まったら田村と楓を誘って他のクラスの友達と違う教室で昼食を取った。
午後になると、猪熊の姿は見えなかった。
正直、ほっとした。
帰りのホームルームが終わると、掃除当番を終えた俺は玄関へ向かう。
なんかとか一日を終えた。
そう安心しきって下駄箱を開けると、一枚の紙が入っていた。
「なんだこれ、嫌な予感がする……」
果たし状と書かれた紙を開くと、すごく汚い字で文章が書かれていた。
「なになに。昨日はよくもアタシに恥をかかせてくれたな、学校が終わったら五丁目の河川敷の橋の下の来い、タイマンでケリつけっから。もし来なかったら明日学校でブッ殺す。猪熊亜也加……」
字が汚くて解読に時間がかかったけど、これはどう見てもアレだ。
「マジかぁ、どうするコレ……」
行ったら行ったで猪熊は絶対殴りかかってくるだろうし、無視したら無視したで明日以降が面倒くさそうだ。
いくら猪熊が狂暴なヤンキーとは言え、見た目は結構可愛い女の子。
女の子を殴る趣味はないし、第一こういう無用な喧嘩をするのは、人間としても空手家としても好ましい事ではない。
むしろ、全力で避けなければならないことだ。
とはいえ、猪熊に話が通じるのだろうか。
昨日助けに入ったらいきなり殴りかかってきた相手だ、話は通じないだろう。
でも、だからといって果たし状を無視したら、明日ブッ殺すとか物騒なことを書いているんだから、田村とか楓とか、クラスのみんなに危害が及ぶ可能性もゼロではない。
やはり行くしかないのか。
だけど、行っても猪熊には反撃しない。
できるだけ平和的に解決しよう。
難しいけど、挑戦してみるしかない。
覚悟を決めて、俺は果たし状に書いている場所へ向かった。
指定された場所は学校からほど遠くない、市内でも大きな川の河川敷にある橋の下で、徒歩にして十分ほどの距離だ。
堤防を降りて橋の下へ向かうと、何やら様子が変だった。
猪熊の姿はそこにあったのだが、居るのは猪熊だけではない。
十人近くの、特攻服を着た男たちが、猪熊と相対していた。
「総長、猪熊のヤツ、いましたぜ?」
「よう、相変わらずイキってるみたいだなぁ」
「総長ねえ……へっ、アンタが伝華瑠斗の総長かよ、随分な出世じゃん」
伝華瑠斗の総長と言われた男は、まるで今朝テレビでやっていたウニ頭みたいにツンツンした髪型だが、髪色は茶髪だった。
眉毛がなく、身長も近くて、長くて白い特攻服には伝華瑠斗と、自分が率いる暴走族の名前が刺繍されていた。
話を聞く限り、猪熊と伝華瑠斗の総長は知り合いなのだろうか。
「テメーが昨日やってくれたヤツはよ、伝華瑠斗のOBなんだよ」
「へっ、だからアタシにお礼参りってわけかい? ヘタレのテメーがよ」
「チッ、このアマが、オレはあの時から変わったんだ。テメー、あんま調子こいてんじゃねぇぞコラァ……二度とワルさできねぇよう捻り潰してやっからヨ」
総長が啖呵を切ると、手下たちは猪熊を囲って各々の武器を構えた。
木刀、バッド、バール、何でもアリ。
流石に一人の女の子に対して過剰ともいえる武装勢力だ。
「ちっ、タイマンも張れねえのかよ。相変わらず根性ないんだね」
「黙れ。力こそ正義、数こそ力なんだぜ?」
「シャバ僧が……生憎とアタシはここで用事があるんだ、失せろ」
「今更引き下がれると思うなよ、潰してやっからよ……テメーらやっちまえ!!」
まずい、戦闘が始まった。
武器を持った男たちが一斉に猪熊に襲い掛かる。
「ちっ、おらぁっ!!」
しかし猪熊は振り下ろされる木刀を躱すと、構成員の鼻っ柱に拳頭を叩き込み、ダメージから構成員が手放した木刀を手早く回収する。
背後からバールを持って襲い掛かる構成員の殴打を、顔面の前に両手で木刀を持って木刀で殴打を受け取め、怯んだ構成員の金的を蹴り上げた。
さらに後ろから来る構成員に対し、猪熊は無造作に木刀を振り、木刀が顔面に直撃した構成員は血飛沫をあげて倒れた。
強い。
いや、強いというより慣れている。
上手く立ち回り、武器を鹵獲し、一気に三人を畳み込んだ。
実戦経験が豊富でなければできない芸当だが、それでもまだ七人が控えている。
「な、なんてヤツだ!! たった一人でよ!!」
「怯むな!! 全員で畳みかけろ!!」
総長の指示にバッドを振り回しながら飛びかかった一人に、その殴打を三度避けた猪熊は、脇腹ががら空きになった一瞬を逃さず、木刀で男の脇腹を殴打する。
「オラァーーーッ!!」
しかし次の瞬間、木刀を振り回した男が猪熊の背後に飛び込む。
「ぐっ……ッッ、野郎!!」
木刀が背中に直撃した猪熊は一瞬怯んだが、果敢に立ち上がる。
「させるかよォ!!」
「うぐっ!?」
しかし大声で突撃した総長の体当たりにより、猪熊は何メートルも突き飛ばされてしまい、遂に苦悶した表情で地べたに倒れてしまった。
それでも猪熊は木刀を手放さず、立ち上がろうとする。
だが彼女は既に息を切らしており、背中を撃たれた際に頭にも当たったのか、それとも突き飛ばされた時に打ったのか、額から血を流していた。
それでも目つきは鋭いまま。
まだ戦意は失っていないが、ぞろぞろと六人が猪熊を囲う。
「はぁ、はぁ、はぁ……くっそ」
「流石の猪熊亜也加サンも、この人数相手にゃ息も上がるってわけか……」
「ふざけんなよテメー、大人数で武器まで使いやがってよ」
「関係ねえよ。テメーら、全員で猪熊を畳み込め!!」
……ああもう、汚いヤツらだな。
いくら猪熊と言えども、たった一人の女の子を相手に、大の男が武器を持って大勢で襲うっていうのか許し難い。
残り、棒切れ持ったヤツが六人。
流石に不利だけど、このまま猪熊がフクロにされるのは見過ごせない。
気づけば俺は駆け出していた。
「チェストォーッ!!」
猪熊に襲い掛かろうとしていた構成員の一人に、俺は飛び蹴りを入れた。
「なっ……お、お前はっ!?」
驚いた猪熊に声をかけられる。
「猪熊さん、助太刀するよ」
「な、なんでお前がここに?」
「いや、猪熊さんが俺を呼び出したんでしょ……」
そう猪熊とやり取りをしていると、相手側から複数の怒声が沸き起こる。
「なんだテメーは、猪熊の仲間か!?」
「誰に喧嘩売ってっかわかってんのかコラァ!!」
吠える相手に、俺は静かに呼吸を整え、腰を落とし、拳を握る。
「神谷派糸東流拳法空手道初段、倉野遼祐、俺が相手だ」
「ざけんなよコラァーッ!!」
「空手だか何だか知らねーけどヨォ、この人数相手にイキってんじゃねえぞ!!」
迫る相手。
対武器の実戦は初めてだが、猪熊にこれ以上の深手を負わせないためには、戦うしかない。
振り下ろされるバール、上段受けでそれを受ける。
骨身に滲みる破壊力だったが、四肢をバットや角材で打つ稽古をしていたからこそ、耐えられる程度の衝撃。
素手で受け止められる事が想定外だった相手は隙だらけ。
すかさず足を運び、むき出しの顎へ順突きを放った。
「野郎ォッ!!」
相手を倒しながら、背後の気配を感じ取って、身を左に躱した。
振り下ろされる鉄パイプの風圧を感じながら、相手の水月を狙って肘を打つ。
「チェストォーッ!!」
空手に先手なし。
しかしどうしても避けられない喧嘩、何より守る対象がある喧嘩に限り、空手に先手あり。
駆けて跳躍した俺は、その姿にあ然とする構成員の顔面を蹴り込む。
格闘技の経験者には通用しないオーバーアクションな技だが、呆気に取られている素人のコイツらにはむしろ効果絶大。
こういう芸当ができるということを知らしめ、残った総長ともう一人は焦った様子で俺を見ていた。
というより、一人はもう完全に戦意喪失していた。
「ひぃっ!!」
武器を手放し、尻餅をつく構成員。
「残るは総長さん、アンタ一人ですけど、どうしますか?」
「チッ、数集めてるだけでアタマ張ってると思うなよ空手野郎……オラァッ!!」
地面に落ちていたバッドを拾った総長は、それを振り回しながら俺との間合いを一気に詰めてきた。
オーバーアクションだが、威嚇のつもりだろうか。
一撃を躱すと、総長はすかさず追撃してくる。
「死ねやぁーッッ!!」
無造作に振り回されるバッド。
バッドの材質は木製。
木材は上手く衝撃を伝える事ができれば、真っ二つに割く事ができる。
巻き藁を突き、石を打ち、熱した砂に貫手を繰り返した、己の肉体を信じる。
「チェストォーッ!!」
完璧なタイミング。
振り下ろされたバッドと、そのバッドを目掛けて放った手刀が合わさる。
大きな音を立てて、真っ二つになったバッドの切れ端が宙を舞っていた。
「……はえ?」
脇を締め、腰を引き、あ然としている総長に向けて、すかさず作った正拳を放つ。
「ひぃっ!?」
正拳は直撃せず、総長の鼻先一センチのところで寸止めした。
恐らく拳先から風圧を感じたことだろう。
当てずとも、その威力は総長に伝わったはずだ。
「これを当てれば顔面へのダメージは計り知れませんが、続けますか?」
「わわわわ、わかった!! オレの負けだ、勘弁してくれぇ!!」
情けない声で降伏宣言をする総長の目は、心底俺を畏怖している様子だった。
勝負は決した。
日頃の稽古の賜物か、武器を持った大人数を相手に、想像以上にうまく立ち回ることができた。
なんとか状況を打開できたことに安堵のため息を吐きながら、今日ほど空手をやっていてよかったと思った日はないと思った。
その瞬間だった。
「おらぁっ!!」
殺気を感じ取って、振り向きざまに腕をクロスさせた瞬間、その腕に強烈な衝撃が走った。
「……ちっ、防がれたか」
蹴り足を下ろし、舌打ちをしたのは猪熊だった。
「い、猪熊さん……何するんですか!?」
「何って、元々はアンタとアタシがタイマン張る予定だっただろ」
「いや、こんなことがあったばかりだし、ていうか喧嘩はよくないよ?」
「うるせえ!! 一度のみならず、二度もアタシに恥をかかせやがって……昨日は不覚をとったけど、今日は絶対アンタを倒す!!」
完全に頭に血が上っている様子だが、この子もしかしてバカなのだろうか。
昨日の一件、そして伝華瑠斗との戦い。
これらを経ても、猪熊は俺との実力差を理解していないのか、それとも分かっていても意地で戦いを挑んでくるのだろうか。
何にしても、今日の本題は猪熊が突っかかってきた事でスタートしてしまった。