ヤンキーちゃんをわからせる 1
「あの、すみません」
それは新学期が始まって数日も経たない、ある水曜日。
学校がある最寄り駅の改札機を出ようとした時に、天使と出会った。
「これ、落としましたよ?」
さらさら、ふわふわしたミディアムボブの黒髪。あどけなさを残しながら、どこか大人びた面持ちで、背は低いのに制服の上からでもわかる大きな膨らみ。
小さな手のひらにには、確かに俺が使っている定期券ケースが乗っていた。
「あっ、俺の……すみません、ありがとうございます」
恐らく電車の中でスマホを操作していたため、スマホを取り出す際にポケットから落ちてしまったのだろう。
それを拾ってくれた少女を一目見て、俺は一気に胸が高鳴るのを感じた。
「それじゃ、私、行きますので」
「あ、あの!!」
思わず呼び止めてしまった。
名前が知りたい。
今まで人生で、初対面の人に対して、そこまで熱烈にそう思った事はなかった。
「はい、なんでしょう?」
「本当にありがとうございます、もしかして……一年生ですか?」
「はい、一年生ですけど、あなたは先輩ですか?」
「二年っす」
「でしたら別に、敬語じゃなくてもいいですよ」
可愛いけど、無表情で、ちょっと不愛想だなと思った。
だけど、そんな彼女の態度が余計に俺の興味をそそった。
「あの、俺、二年の倉野遼祐だけど、君は?」
そう問うと、少女は無表情なまま俺を見つめる。
「白瀬紗雪です」
拒否するわけでなく、だけど笑うわけでもなく、淡々と名乗った。
「白瀬……本当にありがとう。俺、改札から出れなくて困るところだったよ」
「いえ、別に、大した事はしてません」
「いや、白瀬は俺の恩人だ。よかったら仲良くしてくれないか?」
そう言って、手を伸ばす。
自分で何をやっているんだろうと思ったけど、無意識に握手を求めていた。
「……まあ、別に構いませんよ。よろしくお願いします」
これが本心なのか、社交辞令だったのか、知る由はない。
だけど白瀬は手を返してきてくれて、俺たちは握手を交わした。
柔らかい手、そして温かい。
だけど握手中も白瀬は無表情だった。
白瀬と握手を交わしているうちに、新たな気持ちが俺の心の中で芽生えていた。
この子の笑っている顔が見てみたいと━━。
* * *
「遼祐ー!! 起きなさい、遅刻するわよ!!」
親の顔と同じぐらい聞いた怒鳴り声で、一気に現実に引き戻される。
目を覚ますと俺の部屋の天井が視界に入る。
カーテンの隙間から日光が入り込んでいて、ベッドに横たわっているという現状から、今が朝であるとようやく認識した。
夢、か。
白瀬と出会った時の夢を見た。
そうか、今日も学校。
ということは通学路で白瀬と会える。
そう思ってウキウキしながら朝の支度を終え、朝食を取りに居間へ降りる。
「全くアンタはいつも起きるの遅いんだから、早く食べて学校行きなさい」
「はーい……眠い」
四十歳にしては若作りだけど、喉元とか指先に隠せない年齢を感じる母親からの叱咤を適当に受け流しながら、俺は朝食を取った。
テレビの画面上に表示される時刻を見ながら、食事を進める。
朝のワイドショーは現在、芸能関係の特集を取り上げていた。
画面には金髪の短ランにボンタンを履いた俳優と、黒髪でウニのようにツンツンした頭にした長ランの俳優が、ある有名な不良ソングをカバーして歌っていた。
歌う男優たちの横でコーラスを入れながら、踊る制服姿の女優たちの姿も映る。
どうやら漫画原作の不良漫画がドラマ化されたらしく、それに出演する俳優へのインタビューがワイドショーの特集内容で、その過程で主題歌とイメージビデオが放送されている様子である。
別に興味ないけど。
不良か、不良ね。
ふと、嫌な事を思い出した。
そうだ、今日学校に行ったら、猪熊亜也加と会う事になる。
昨日の記憶が鮮明に蘇る。
アイツ、絶対俺に絡んでくるだろうな。
そう思うと昨日と同じく、憂鬱な気分になってきた。
「アンタどうしたの、冴えない顔して」
「なんでもない……学校行ってくる」
朝食を食べ終えると洗面所で口を濯ぎ、家を出た。
自宅最寄り駅まで自転車を漕いで移動すると、駐輪場に見知った顔がいた。
「あ、りょーくんおはよー!!」
赤みがかった短めのツーサイドアップの女の子が、元気よく挨拶をしながら駆け寄ってきた。
ぱっちりした赤い瞳で童顔で、だけど出るところは出ている。
制服のスカートから覗かせる脚は健康的な肉付きで、屈託のない笑顔と相まって結構可愛い子という印象だった。
俺にとっては見慣れた人物なので、あまりどうとも思わないけど。
「楓か、おはよう」
「相変わらず眠そうだね~」
「眠いんだからしょうがないだろ、母さん朝からうるさいし……」
「明日からわたしが起こし行ってあげよっか?」
「起こさなくていいよ、ていうか起こさないでくれ」
「幼馴染の女の子に起こされるとぐっとくるんだって、田村くん言ってたよ?」
「アイツのいう事は真に受けるな、ただの漫画の読みすぎだから」
越谷楓、俺の幼馴染。
家が近所で、物心がついた頃には関りがあったけど、昔はもっとボーイッシュというか、やんちゃというか、とにかく俺より男らしかったようで、実際に俺も楓が女子だと気づいたのは小学校に通い始めてからだった。
今じゃ男勝りな要素はなりを潜め、ただの明るい女の子といった印象だ。
「はぁ~」
電車に乗ると、俺は大きくため息を吐いた。
「どうしたのりょーくん? なんかいつもより冴えない顔してるけど」
「お前は母ちゃんか、全く同じこと言われたな」
「だって明らかにいつもより暗いもん。家族に愛想を尽かさ、職場でも腫れ物扱いされてい四十七歳派遣社員みたい」
その妙にリアルな設定は何だよ。
どんな顔してるんだよ、俺。
「俺ってそんな加齢臭するの?」
「加齢臭はしない……ていうか、りょーくんってどんなにおいしてたっけ」
「知らないよ……」
「どれっ、くんくん」
「ちょ、おいっ」
突然、楓が俺の胸に顔を埋めてきて、俺の体臭を嗅ぎ始めた。
シャンプーなのか、ほのかに香る甘い匂い。
こいつ、こんないい匂いしていたのか。
しかも鼻から息を吸う感覚が妙にくすぐったくて、流石にこれは恥ずかしい。
「うーん」
「……なんだよ、その微妙な顔」
「洗剤のにおいしかしない、りょーくんって無味無臭なの?」
「いや無味って、味は関係ないだろ」
ていうかシャワーは毎日浴びているし、同じワイシャツを毎日着ているわけじゃないし、上のブレザーだって二着あるうちのクリーニングから帰ってきたほうなので、そんなの俺の体臭より洗剤の匂いのほうが強いに決まっている。
楓とそんなやり取りをしているうちに、学校の最寄り駅に到着した。
跨線人道橋を渡り、改札に差し掛かると、見覚えのある後姿が目に入った。
今日も同じタイミングで登校か。
憂鬱だった俺の気分が少し、晴れやかになった。
「おはよう、白瀬」
楓をそっちのけで白瀬に声をかけると、振り返った白瀬は俺を無言で見つめた。
「……白瀬?」
今日はあいさつすら帰ってこないので、不思議に思ってもう一度、名前を呼ぶ。
「…………。」
そして白瀬は目を瞑ったと思いきや、何も言わず俺に背を向けた。
黒髪を靡かせて歩き始める白瀬の後姿に、俺は結構なショックを受けた。
「ちょ、ちょっと白瀬さん!? 流石に無視はひどくないっすか!?」
小走りで白瀬の横に並んだ。
歩みを止めない白瀬の横顔は、相変わらず表情の変化がなかった。
「だってまた茶番が始まるんですよね?」
白瀬は横目で俺を冷たく見ながら、冷たくそう聞いてきた。
「ちゃ、茶番って……」
「茶番じゃないですか。今日はかめはめ波ですか? どどん波ですか?」
「なっ、じゃあ魔貫光殺砲でどうだ!?」
「せんぱい、私それの元ネタ見た事ないので、面白くもなんともないです」
「……あ、はい」
俺はただ、白瀬の笑っている顔が見てみたいから、あの手この手でボケてみたり、漫才をやってみようとしたり、面白そうな話を振ってみたりしているだけ。
しかし白瀬はなんだか、日に日に俺に冷たくなっていくような気がする。
「あのー、白瀬さん?」
「なんですか、せんぱい」
「ひょっとしてなんだけど、俺のこと……嫌い?」
「いえ、嫌いではないです……興味はないですが」
「はぅっ!?」
興味がない。
無表情でそういわれた事が、一番俺にとってはショックだった。
「あははは、りょーくん今日もコテンパだね」
俺の無様な姿を見てか、楓は同情するかのように肩に手を置いてきた。
「それじゃせんぱい、私もう行きますので」
「あ、おい、白瀬、ちょっと!?」
白瀬の表情変化が乏しすぎて、白瀬の感情を読みにくいが故、余計に白瀬の言葉に棘があるように感じて、俺のメンタルはもうズタボロだった。
今日はこれ以上、絡んでも鬱陶しいだけかと思い、白瀬を追う事はなかった。
「りょーくん、もうあの子に絡むのやめたら? 流石に迷惑そうだよ?」
「くそっ、白瀬……俺は諦めないからな、絶対お前の笑顔を見るんだ!!」
「ダメだこりゃ……ねえ、ほら、りょーくん!! にこっ!!」
俺を呼ぶや、楓は満面の笑みを向けてきた。
眩しい、とてもいい笑顔だとは思った。
だけど……。
「……どうした、楓?」
「ほら、笑顔だよ、笑顔!!」
白くて並びが大変よろしい歯まで見せて、楓は笑顔をアピールしてくる。
「お前の笑顔は毎日見てるから、新鮮味がないんだよなぁ」
「ひどっ!? 流石に今のは傷ついた、りょーくんのバカ!! 鬼畜!! 童貞!!」
「ど、ど、ど、ど、童貞ちゃうわ!!」
「え、じゃあ相手いるの? いつ? どこで? 誰と? どうやって?」
「……すみません、童貞です」
なんで白瀬はおろか、楓からもメンタルを削られなきゃいけないんだ。
「ていうか、お前だってどうせ処ーーうぐっ!?」
楓のことを鼻で笑いながら暴言を吐こうとした瞬間、楓の手のひらで口を鼻ごと覆われる。
楓は満面の笑みを浮かべているが、目は全く笑っていない。
「それ以上言ったらキンタマ潰すけど、いいよね?」
わなわなと左手の指を動かす楓に、心底恐怖を覚えた。
「す、すみませんでした楓様……」
「わかればよろしい、ほら早く行こう? 遅刻するよ、りょーくん」
「はい……」
朝から白瀬にメンタルを抉られ、楓には脅され、この後は猪熊とクラスで会わなきゃいけないという。
今日は厄日なんだろうか、もう帰りたい。