プロローグ
「おはよう、白瀬」
最寄り駅の改札を通ろうとしていた黒髪ミディアムボブの美少女に、俺は爽やかな声で挨拶をした。
「……せんぱい、もう夕方ですけど」
白瀬紗雪は振り返ると、無表情のまま、無機質な声で冷たく言い放った。
「まあいいじゃないか、俺と白瀬の仲だろ」
「私とせんぱいは先輩と後輩で、それ以上でもそれ以下でもないですよね」
ごもっともな事を言う。
少女らしいあどけなさを僅かに残しつつも、大人びていて澄んだ顔つきの彼女は、毛先から綺麗な肌に至るまで、何もかもが柔らかそうだった。
何より、二つの膨らみはブレザーの上からでもはっきりわかるほど。
そんな美少女だけど、白瀬は冷たい。
否、冷たいというよりは、他人に興味がなさそうという感じか。
実際のところ、俺は毎日のようにこうして軽くあしらわれているが、今日こそは白瀬の笑った顔が見たい。
その一心で俺は、無い知恵を絞って白瀬を笑わせる方法を考えた。
「白瀬、聞いて欲しい事があるんだ」
「なんですか、せんぱい」
無表情、そして退屈そうな目、トーンの変化に乏しい声。
氷のような白瀬の態度が心に刺さりながらも、俺は勇気を振り絞った。
「すぅー、はぁー…………オラに元気を分けてくれぇ!!」
「…………。」
白瀬に向かって叫びながら両手を伸ばすと、白瀬は俺に背を向けてICカードを改札機に翳し、無言のまま立ち去って行った。
「あ、ちょ、白瀬、おい!!」
呼び止めるものの、白瀬は足を止めることなく、無情にも立ち去っていく。
そんな白瀬を見送る俺の肩に、男の手が置かれた。
「……お前さあ、オラに元気を分けてくれは意味不明すぎるだろ」
眼鏡をかけた天然パーマの男は、ため息を吐きながら俺の発言に突っ込んだ。
「なっ、もしかしたら白瀬が俺に元気を分けてくれるかもしれねーだろ!!」
「無理だろ、お前サイヤ人の王子より人望なさそうだし」
「なっ、田村……変態のお前にだけは言われたくない」
田村の両肩に手を置きながら、俺は田村に項垂れた。
「そもそもお前、なんで白瀬に毎日ダル絡みしてるんだ?」
「そんなの決まってるだろ、白瀬の笑顔が見たいからだ」
「お前、ああいうのがタイプなのか? 確かに可愛いけど、素っ気ないじゃん」
「そこがいいんだよ。あんな可愛いのに孤高な雰囲気を醸し出しててさ、なんかお人形さんみたいで可愛いし、だけどああ見えて実は優しくて……何よりおっぱいデカいじゃん!!」
自信満々に白瀬の魅力を語ると、田村は呆れかえった様子で俺を見つめていた。
「……胸目当てかよ」
「お前だって白瀬のおっぱい揉みたくないのか?、きゃっ、せんぱいのえっちとか言われたくないのか?」
そう言うと田村は腕を組んで考え始めた。
その表情は悶々としていて、最終的には鼻の下が伸び始めた。
「……確かに、あのおっぱいは揉みたいな」
「だろ!? それに白瀬ずっと無表情だからさ、やっぱ笑った顔が見たいんだよ!!」
「わからんでもないけど、倉野には越谷がいるんじゃないの?」
「楓か? いや、ただの幼馴染だし、多分向こうもそんな事は微塵も思ってない」
「ひでえヤツだなお前は、まあ別にいいけど」
何故か田村は素直に気持ちを言うたびに呆れた顔を浮かべる。
そんなやりとりをしているうちに、駅の放送がまもなく電車が到着することを伝えてきた。
「やべ、乗り遅れたら道場に遅れる。じゃあな、田村」
「へいへい、また明日」
田村に別れを告げて改札を通り、電車に飛び乗る。
電車の窓に時々薄っすらと反射される自分の顔を見て、我ながらあまり強そうな容姿には見えないと思ったのだが、こう見えて俺は小学生の頃から空手道場に通っている。
道場に到着して、道着に着替える。
電車の窓の反射よりも鮮明に自分の姿が映し出される、更衣室の鏡。
個性のないナチュラルな黒髪に、自分では悪くはないと思う、個性のない顔。
こんな自分が空手をやっていると言っても誰も信じてくれないのだが、一応は初段なので黒帯を締める。
空手の稽古は基本の形の反復練習、形稽古、そして組手である。
これを二時間、みっちり心と体を鍛える。
終わった後に自動販売機で飲む飲料水ほど、最高に気持ちいいものはない。
帰り道、道場から自宅までは自転車だ。
道場に駐輪場がないので、いつも道場からほど近い最寄り駅の駐輪場に自転車を置いているため、いったん駅まで向かう。
ガード下にある駐輪場は夜にもなれば薄暗く、人通りも疎らだ。
だからと言って特別治安が悪いと思った事はないのだが、この日は違った。
「ねえねえいいでしょー、一緒に遊びに行かない?」
「オレらさっきパチンコで勝ったからさぁ、金はあるんだよねー」
駐輪場に入ると、いきなり下衆な声が耳に入ってきた。
いかにも治安の悪そうな見た目をした若い二人組が、どこかの高校の制服を着ているあたり、俺とそう年が変わらない女の子を囲っていた。
白地に文字入りのパーカーの上に、黒っぽいブレザーとグレーのチェック柄スカート。その下にタイツを履いて、靴はよくある黒いローファー。
ていうか、うちの高校の制服だ。
「ねえねえ、この髪って染めてんの? すごい色してるね~」
下心に満ちた男の手が少女の肩に伸びると、長い銀髪をシュシュで縛ってサイドポニーにした女の子は、鋭い碧眼で男たちを睨んだ。
瞳が透き通ったように綺麗で、肌が白く、とても整った可愛い顔をしているが、とにかく目つきが悪い。
凄い眼光、そして殺気を感じる。
ていうか、あの子は同じのクラスの、確か名前は猪熊亜也加。
凄いヤンキーだと噂で、学校はサボりがちで、今年から同じクラスになったらしいが、お目にかかった事は指で数えられる程度しかない。
耳にピアスをつけているし、見た目が派手なので覚えてはいるが、当然関りは一切なく、向こうも俺のことなど認識はしていないだろう。
猪熊のことを思い出していると、何かを叩く音が響いた。
「気安く触んじゃねーよゴミ共どもが、失せろ」
初めて口を開いた少女の声はとても澄んでいたが、とても口が悪かった。
どうやら猪熊は男の手を叩き、振り解いた後、啖呵を切り始めた。
「なにすんだよこのアマ」
「うるせーな、アタシはテメーみたいなのに付き合うほど暇じゃねーんだよ」
「あ? オイオイオイ、何だよオトナに対してその口の聞き方はよ?
「メスガキが、ちょっと可愛いからって調子に乗ってんじゃねーぞ」
猪熊の反抗的な態度に、当然のように怒りを見せ始めた男二人。
自分たちから絡んでおいて身勝手すぎると思ったが、概ね俺の予想通りの展開になってきている。
さて、どうしたものか。
触らぬ神に祟りなし。
この件に俺は関係ないのだから、無用なトラブルに巻き込まれないためには、この場は猪熊を見捨てて帰っても罪ではないとは思う。
しかし猪熊の相手は大の男二人。
いくら猪熊がヤンキーで有名だったとしても、流石に分が悪い。
そう考えると、放っておくのは人間としてどうかと思ってしまう。
「テメーらが言うガキ相手に必死こいてよ、惨めだな。とっとと失せろ」
「このアマ、痛い目見ねーとわからねーようだな」
「男と女の力の差ってモンを見せてやるよ!!」
そう男たちが殴りかかろうとした瞬間、無意識のうちに俺は動いていた。
二人組の片割れの手首を、拳を振り上げた瞬間に握った。
「イテッ……な、なんだテメーはよ!?」
「邪魔すんなよヒョロガリが、殺されてぇんか!?」
吠える二人組の言葉には耳を貸さず、交互に見比べて冷静に戦力を見定める。
威勢はいいが、少年部の中学生よりも弱そうで、大した事はなさそうだ。
「お前ら、こんな女の子相手に恥ずかしくないのかよ。その辺でやめとけって」
「なっ、カンケーねぇだろテメーにはヨ!!」
「テメーみてぇなナヨナヨしたヤツがオレらに喧嘩売ってよ、勝てると思うの?」
「別に勝負する気はないけど……そっちが引き下がってさえくれれば」
こういう時、つくづく母親似の容姿をしている自分を恨みたくなる。
何を言っても迫力がないので、相手はヒートアップする一方。
腕を掴まれた男は、もう片方の手で拳を作った。
「うるせえ!! もうオメーはオレに喧嘩売ってんだよ、ぶっ殺してやる!!」
止むを得ない。
そう覚悟を決めて、呼吸しつつ戦闘態勢が整った瞬間だった。
「が、はぁっ!?」
俺に殴りかかろうとしていた男が地べたに倒れた。
「……へ?」
あれ、俺、まだ何もしていないけど。
そう思って倒れた男に向けていた目を再び上げると、猪熊が物凄い形相で倒れた男を見下ろしていた。
「オイ!! 喧嘩吹っ掛けてきといてよ、アタシを無視してんじゃねーよ!!」
大声で啖呵を切る猪熊。
もしかして今、猪熊がこの男を倒したのか?
「こ、このアマ!!」
仲間が倒され、もう一人が激昂して猪熊に殴りかかった。
隙だらけのテレフォンパンチだが、気迫だけは一人前で、こんなのに襲われたら一般人だったら怖気づいて何もできないまま、一方的にタコ殴りにされてしまうだろう。
しかし猪熊は男による顔面への殴打を寸前で避けた。
「おらぁっ!!」
「ご、ふっ!?」
カウンターとして打ち込まれた猪熊の右拳は、男の水月、つまり鳩尾を正確に打ち抜いた。
アッパー気味に放たれた右拳は、男のテレフォンパンチのように大振りではなく、最短距離をカットして放たれる効率的な打撃技。
すかさず猪熊は拳を引いて、左足を軸足に右足で大きく蹴り上げた。
「く、くろ……」
一瞬、スカートの中から覗かせた、タイツ越しのパンツを見逃さなかった。
猪熊の上段への回し蹴りは、粗削りの素人技っぽかったものの、男のこめかみを正確に打ち抜いて、男の意識を遠い世界へと送ってしまった。
力なく倒れる男たちを、鋭く睨みつける猪熊。
起き上がって反撃してくることを警戒しているようだ。
猪熊は、喧嘩慣れしている。
「う、ぐ……あ、あれ、おい、ちょ、しっかりしろ!!」
最初に倒された男が起き上がると、仲間の心配をして揺さぶる。
しかし猪熊の攻撃によって完全に失神した男は、全く返事をしなかった。
「おい、まだやるかい? アタシは一向に構わねえ……やるならかかってこい」
「ひぃっ!? す、すいませんでした!!」
完全に怖気づいた男は、失神した仲間を抱えてそそくさと立ち去っていった。
想像していた以上に猪熊は強かった。
これって俺が首突っ込まなくても、猪熊一人で一瞬で終わっていたのでは?
「ぎろ…………」
敗走する男たちの姿が見えなくなると、猪熊の鋭い目が今度は俺に向けられた。
「オイ」
「ええっと、その、なんでしょうか?」
「テメー……アタシの邪魔すんじゃねえよ!!」
どうやら俺に割って入ってこられた事が気にくわなかったのか、駆け出した猪熊は拳を作って俺に向かってきた。
おいおい、猪熊に襲われるだなんて想定外だ。
どうしようか迷う間もなく、間合いを詰めてきた猪熊の右拳が振るわれる。
「……なっ!?」
猪熊の目が見開かれ、驚きで大きく口を開けて、八重歯が覗く。
小さくて、柔らかいけど、確かな威力を込めた右拳を、俺は平手で受け止めた。
「いきなり何するんですか、俺は君と争う気なんてないですよ?」
そう呼びかけると、再び猪熊は俺を睨んで唇を噛み締めた。
攻撃を受け止めたのは失敗だったか、よっぽど俺に攻撃を受け止められたのが悔しかったのか、猪熊は拳を引いて、今度は俺の脛を狙って蹴りを入れてきた。
反射的に俺は内股気味に、重心を落とす。
「痛っ!? うう、くぅぅ……」
痛がったのは俺ではなく、猪熊のほうだった。
甲高い唸り声をあげながら、猪熊は蹲って自分の右足を両手で抑えていた。
空手とは、五体を武器化する武術。
当然、俺だってそれなりに脚も鍛えている。
そんな俺が打たれる覚悟をした際、その脚の硬さは常人の理解を超えるもの。
木製バッドで打たれると、打ったバッドのほうが折れる。
それが空手家の脚である。
「えっと、俺はこれで失礼しますね!!」
「くぅぅ、あっ、ちょっと、待てコラ!!」
目に涙を浮かべながら叫ぶ猪熊に、背を向ける。
これ以上、猪熊に絡まれても面倒なので逃げることにした。
速やかに自転車を解錠し、競輪選手のような勢いで自転車を漕いで、駐輪所を後にした。
ていうか、逃げて意味あるのだろうか。
猪熊って確か、俺と同じクラスだったはず。
ということは明日もし猪熊が登校してきたら、百パーセント間違いなく猪熊とは再会するわけで、今日のことで因縁をつけられるのではないだろうか。
やってしまった。
女の子が絡まれてると思って、首なんか突っ込まなきゃよかった。
猪熊のやつ、女の子というか、素人レベルでは普通に強いじゃねえか。
おまけに血気盛というか、短気で手が出るのも早いときた。
帰路につく中、早くも明日は登校したくないと憂鬱な気分に襲われていた。