離れた場所で
午後の外来が終わった直後にスマートフォンを確認すると、四季から新着メッセージが届いていた。
【瑛久さんの読み通りでした】
一行目にそう綴られており、二行目には具体的な内容について記載されていた。やはりか、と息を吐く。ちょうど診察も終了したところだったのでカルテを入力しそそくさと席を立った。ここで先輩医師に捉まると長くなることを学習している。無論普段であればそういった指導はありがたいしこちらとしても願ったりなのだが今日だけは向かいたいところがあった。先程の四季からの連絡をもらったからには、確認できるだろうと。
ここからは業務時間外だ。本来ならば特定の患者の元へ赴くことはしない。患者に余計な不安を与えてしまう恐れもあるからだ。しかし以前一度回診に訪れた際に「また来て欲しい」と言われているため問題ないだろう。そう考えているうちに該当の病室へ着いた。扉を軽く二度叩くと「はい」と柔らかい声が響く。
「失礼します、星名さん」
「あら、櫻医師」
瑛久の姿を確認すると、ベッドの上から明るい声が飛んだ。この女性と顔を合わせるのは二度目なのだがすぐに名前が出てきたところを見ると余程記憶力が良いように思える。
「調子はどうですか?」
「いつも通り、元気ですよ」
その答えには思わず困った笑みを浮かべる。療養病床にいる患者の台詞としては喜ばしいことなのかもしれないが複雑なところでもあった。
「先程別の医師が回診にいらしたけど、また診察ですか?」
「いえ。今日は少し世間話をしに立ち寄りました」
「あら嬉しい。退屈してたんです」
瑛久が用向きを伝えると女性はパッと顔を綻ばせた。こうして見ている限りでは、至って普通の患者だ。長期療養が必要な程に病状は決して芳しいとは言えない。だから例えこの女性が彼の母親だとしても、やはり息子がしていることには関与していないのではないかと考えてしまう。
彼女の側に寄ると堰を切ったように話し始めた。どうやら発言通り余程退屈していたらしい。日中ベッドの上にいれば当たり前か。話し相手がいることが嬉しいようだ。
(しかし良く喋るなこの人……)
止まらない話題に思わず苦笑いを浮かべてしまいそうだった。なんとかあの話に持って行けないかと考えていたところ、ちょうど子どもの話になった。
「医師のお子さんは今おいくつなの?」
「4歳です」
「あらあら。じゃあ先生は随分早くに結婚されたのね」
「えぇ、まあ……。星名さんの息子さんは何歳なんですか?」
早くに結婚したことに突っ込まれると目を逸らさざるを得ない。後ろめたさはないのだが、やはり学生結婚しただけあって周囲からの反応も様々だった。それを全ていなしてはきたのだが。話を切り替えようと同様の質問を送ると、瞳の奥に何かを浮かべるようにその目を細めた。
「──15歳なんです。中学三年生」
四季の言うことは間違いない、と確信に変わる。彼もまたその年齢だ。思い切ってその人物の名前を口にしてみる。
「もしかして……水唯くん、じゃないですか?」
「……まぁ。医師はエスパーなの?」
彼の名前を出すと、その大きな瞳が揺らぎキョトンと言う表情を見せた。言質は取れた。ここからは更に慎重にいかなければならない。
「私の親戚の子が同級生なんです。実は息子さんとも会ったことがあるんですよ」
「えぇ? そんな偶然あるんですね……!」
その事実に驚きながらも嬉しそうな顔を覗かせていた。確かに親戚でもいなければ接点もないような年頃だ。親戚と言って良いのかの疑問は残るが。
「水唯は元気でした──?」
心配そうにそう呟く様はやはり母親だなと感じる。息子ならば母親の入院先に来ても良いような感じがするが彼をこの病院で見かけたことはない。それに女性の訊き方からしてもしばらく会っていないようにも感じた。
「えぇ。家が近いのでたまに見かけますが特に悪いところはないと思いますよ」
「そう……良かった。それにしても医師もあの辺りに住んでるんですね」
「? はい、まぁ」
こちらの回答に安心したように胸を撫で下ろす。直後の彼女の言葉に引っかかりを覚えたが水唯とは一部屋挟んで隣なので迷わず肯定した。
「水唯は……あまり感情を表に出さないでしょう? だからちょっと心配で。長男だからしっかりしなきゃって言う意識が強いのかもしれないけれど……本当は側に付いていてあげたいんです」
彼女の発言で二人いる息子のうち、水唯が長男なのだと知る。兄弟がいると必然的に長子はそう言った意識になるものが多い。彼女の考え方は恐らく間違ってはいない。それに離れていても母親だけあって水唯の性格を良く理解している。
「確かに感情の起伏はそんなにある方ではないように思えますが、ちゃんと話はしてくれますし……何より纏う雰囲気は柔らかいものだと感じますよ」
「そうなの──。医師の親戚の子のおかげかしら」
「かもしれないですね。あの子も不思議な子ですから」
謙遜するでもなく、そう頭の中に思い描いた少女の挙動を考えた。純粋無垢なあの少女には恐らく誰も敵わない。周囲の空気を懐柔し、己のペースに持っていく様はもはや才能に近い。不思議な子、と言う評価はあながち間違っていないはずだ。
「もしかして女の子なのかしら? その同級生の子って」
さすがに鋭い。性別については言及していないもののやはりわかるものなのか、と少しだけ口籠もる。
「え? あー……両方、ですね」
「でもどちらかと言えば女の子の方の気に当てられてそうね」
言いながらふふ、と笑みを零す。彼女の予測は当たっている。四季とは今の状態に陥るまでも友人ではあったが深入りはしていなかっただろう。対して美都は積極的だった。その様は弥生からも聞いている。
「そうなのね。あの子にも……そんな友だちが出来たのね」
瞳の奥に息子の姿を思い描くように、彼女は柔らかく微笑んだ。言い方からしてやはりしばらく会っていない雰囲気が覗いている。
「あの……少しだけ立ち入ったことをお伺いしても良いでしょうか?」
「あら。何かしら?」
佇まいを正し、本題に入る。慎重に、慎重に。この女性との因果関係をはっきりさせなければ。その為にはまず。
「水唯くんはなぜあんな中途半端な時期に転校を?」
彼の転校理由。中学三年生の夏休み前に転校してくるのはどう考えてもおかしい。何か特別な理由がなければ転校することもないだろう。三年生というと内申点にも関わってくる。そう簡単には他の学校に移ることは得策ではない。
「転校──……?」
しばらくの無言の後、女子がポツリと復唱する。目を見開きながらその身体を硬直させて。
その様子に瑛久は首を傾げる。
「7月に転校されましたよね? 第一中に」
「いいえ……? あの子は私立の学校に行ってるはずで──」
噛み合わない会話に瑛久自身も声を詰まらせた。星名水唯、なんて同姓同名早々いない。それに先程交わした内容で本人で間違いないと確信もある。ということは、と思わず口を押さえて目を逸らす。知らされていないということか。
「水唯が転校……? 第一中に……?」
唖然と呟く声から戸惑いの色が感じられる。それもそのはずだ。離れて暮らしているとはいえ母親なのだ。それに息子はまだ義務教育の法のもとにいる。それを肉親が知らないなどあるものなのか。
「ご存知、なかったんですか……?」
「──えぇ。息子のことは夫に任せていますから。でもどうして……」
失言だったかと恐縮気味に問うと女性は尚もその事実に動揺して声を震わせていた。ここで疑問に思うのはなぜ彼女の夫が話さなかったのかだ。その理由を考えていると小さく息を呑む音が聞こえた。
「まさか……──っ!」
彼女の表情は、明らかに良いものではなかった。何かに気付き慄いている顔だ。するとすぐに視線がこちらに向いた。
「医師! すぐにその親戚の子と連絡が取れますか⁉︎」
「ちょ──ちょっと落ち着いて下さい星名さん。身体に障ります。どうしたんですか?」
「私のせいなんです──早く、止めないと……!」
段々と動揺の幅が大きくなり顔色も蒼白になってきた。理由を訊いてもその答えは返ってこない。代わりに女性は己を責める言葉を呟いた。余裕のなさそうな声にこちらも焦ってしまう。この挙動は良くない。精神的な動揺は身体に害を為す。そう考えている間にも少しずつ過呼吸の気が見え始めた。
「星名さん、ゆっくり息をして下さい。大丈夫ですから」
「は……、っ……! ダメよ──水唯……!」
上半身を屈ませながら、途切れ途切れに息子の名をなぞる。その様子にやはり只事ではないと瞬時に理解する。この女性は先程まで確かに現状を知らなかった。しかしやはり息子が噛んでいることに関与はしているのかもしれない。否、関与はしておらずとも息子が何をしようとしているのかは分かっているのだ。
「あず、さ──……?」
後方から聞こえる声にハッとして身体を捻る。以前病室の前ですれ違った人物が目を見開いたまま立ち尽くしていた。そしてすぐに状況を把握したのか慌てて彼女の元へ駆け寄ってくる。
瑛久はさすっていた背から手を離し、彼に場所を譲った。男は必死に彼女の名前を何度も呼びかける。過呼吸は少しずつ収まっているがそれでもまだ苦しそうに身体を竦ませていた。
「あなた──っ……どうして……!」
不意に向けられた男への言葉に、その人物は困惑して眉を顰ませた。女性がぎゅっと瞑っていた目を薄く開き、瞳を彼に向ける。
「お願いよ──子どもたちを……、巻き込まないで……!」
「……!」
懇願する女性の声を耳にすると、息を呑んで身体を硬直させた。直後女性が咳き込むのを確認し、瑛久はこのままにはしておけないと咄嗟に身体を動かした。
「処置を行います! すみません、少し離れて下さい」
彼女の夫と思われる人物にそう声をかけ、女性から距離を取らせた。普通に会話が出来ているので失念していたが彼女は長期療養が必要な患者なのだ。状態がいつ急変してもおかしくはない。医師でありながらそんなに大切なことを忘れるなんて、と己を苛みそうだった。しかしそんなことより目の前の患者の救護が第一だ。
すぐに応急処置の態勢に入る。幸い症状は軽そうだ。だからと言って気は抜けない。焦りながらも呆然と立ち尽くしたままの男の姿を視界の端で捉えた。容態が急変した彼女を心配しているのか、はたまた今彼女の口から語られたことに動揺しているのかは判らない。しかし彼もまた目の前の患者以上に蒼い顔をしているのは、明らかだった。
◇
衣奈は傾いていく陽の眩しさに少しだけ目を細めながら、塾の講義を耳に流していた。窓から差し込む西日が強い。もうすぐあの赤色が紫色に染まっていく。薄明だ。その様をぼんやりと見つめながら思い出すことがあった。
(あれが……所有者としての輝きなのね)
あの空と同じ色をした、美都の心のカケラ。これまで様々な心のカケラを見てきたが、彼女のものだけはやはり他者の物とは違っていた。あまりにも綺麗で澄んだ輝き。目が離せなかった。
手にすると壊れそうで心許ない物。小さくて繊細な物質。その中に鍵はあった。しかしなぜ。
(闇の鍵なのかしら……)
二種類ある鍵の内、破壊の力をもつ《闇の鍵》が美都の中にあった。純粋無垢な少女が所有するには似つかわしくないようにも思える。なぜ光ではなく闇だったのか、その理由は明らかになっていない。
(なんて──もう私には関係ないんだけど)
はぁ、と息を小さく吐いて板書するために手を動かす。既に記憶は曖昧なのだ。宿り魔が祓われてから、その頃自分がどうしていたかはっきりと覚えていない。ただ誰かのために動いていたような気がする。こうやって段々と忘れていくのだろう。それでも罪の意識は残っている。だから彼女のために動くとしたら今しかないのだ。
(──同級生の男の子)
自分の隣にいた、あの少年の顔。どうしても思い出せないでいる。そもそも同級生の男子生徒の顔なんてほとんど見ていない。小学校からの同級生にしろロクに記憶していないのだ。
(こんなことならちゃんと見ておくんだったわ)
己の無能さに辟易とする。記憶力は良いはずなのだから。とは言えこればっかりは仕方のないこでもある。予め、宿り魔が祓われたらそうなるように仕向けられていたのだろう。記憶を残されては厄介だと思われていたのだ。なんとも用意が周到だ。
(何かきっかけがあれば──)
とは言え、今しがた自分で考えた通り同級生の顔など覚えていない。きっかけがあったとて思い出せるか怪しいものだ。自分の中で記憶があるのは、美都と一緒にいるからという理由だけで覚えている四季くらいだ。特に彼は転校生で──。
「……転校生──?」
周囲に聞こえないくらいの声量でポツリと呟く。自分で考えた単語にふと違和感を覚えたからだ。そう言えば他にも転校生がいなかったか、と。確かにいた。周囲がざわついていたのを覚えている。なぜ自分はその時興味を抱かなかったのか。彼女以外には関心がなかったからだ。それでも何かが自分の中で引っかかっていた。だってその転校生は7組に来たはずだ。ならば彼女が放っておくわけない。
「っ──……!」
頭に鈍痛が走る。思い出せ。あの子の周りにいた人物を。どんな様相をしていたのかを。
心臓が早鐘を打つ。自分の記憶にある彼女の姿、その周囲を取り巻く人間を一人ずつ並べていく。彼女の幼馴染み、友人──否、もっと違うアプローチが必要だ。ゆっくりと呼吸を正す。思い出せないのは──それが答えだからか。
そう考えた瞬間ハッとして息を呑んだ。そうだ。そうでなければここまで記憶が阻まれることはないはずだ。その少年と自分は話をしているのだから。屋上で何の話をした。
『守護者が所有者を兼ねることはあり得ない』
そう言っていた。彼の言い分も理解は出来た。しかしそこには少なからず私情が挟まれている気がしてならなかったのだ。なぜ彼が私情を挟んだのか。守護者の正体が美都だと判明したからではないか。その事に対して動揺したのではないか。なぜ動揺した。それだけ二人が親しくしていたからではないのか。
(そうよ……そうじゃなきゃあんな台詞が出るはずないわ)
守護者は敵でしかない。それなのに彼女を庇うとも取れる発言をしていた。それは情が湧いたからではないのか。もともと自分は守護者の正体を知っていた。だから彼に持ちかけたのだ。彼が、守護者の正体が美都だと知らず心を許していたから。
「……っ!」
瞬間、脳裏に映像が過ぎった。水色の髪に金色の瞳。常に感情を殺しているかのような気怠げな印象を持つ少年。思い出した。彼だ。
衣奈は思わず壁掛け時計を確認する。一刻も早く、彼女に知らせなければならないのに。
今スマートフォンを操作するわけには行かない。講義中なのだ。終わるまでまだ30分以上ある。
(どうして──っ……⁉︎)
思い出した途端、心臓が大きく鳴る。まるで警鐘のように。この30分で事態が急変するわけでもないだろうに。それなのになぜ、こんなに嫌な予感がするのか。手に汗が滲み始めた。
(美都ちゃん……!)
近くには四季がいてくれるはずだ。どうかこの嫌な予感が当たらないよう。そう祈るしかない。
衣奈は蒼い顔をしながら、ただこの時間が過ぎるのを待ち続けた。