贖罪の意識
「────で?」
美都の目の前に座る四季は見るからに怒っている。当然と言えば当然だ。連絡も無しに家を後にしてしばらくの時間音信不通となっていたのだから。家の扉を開けた瞬間、彼は心底安心したような顔を覗かせていた。しかしすぐに背後にいた人物に目を見開いた。それが水唯だったからだろう。何かを察したのか「とりあえず入れ」と彼を招き入れた。そして水唯は今、美都の隣に座って身体を竦めている。四季が説明責任を求めているからだ。
「水唯、あの──ゆっくりでいいから」
元々四季は圧が強い。それが怒っているとなると更に気圧されそうになる。だからひとまず水唯には落ち着いてもらい、そこから話していけば良いと促したかった。意図が伝わったのか、水唯はその言葉に頷いた後小さく深呼吸をする。
「俺は──お前に謝らなきゃいけない」
水唯が喉を引き絞った後そう口にすると、四季の瞼がピクリと動いた。
「お前が考えている通り俺は──相反する人間だ。守護者と敵対し、鍵を持ち帰る。それが俺の役割で……」
目を伏せながら、いつもよりも小声で己の立場を説明していく。四季はその様をただ黙って聞いていた。水唯が一旦口籠もる。そして苦々しい顔で先程起こった出来事を話し始めた。
「美都に、手を掛けようとした。……いや、『掛けようと』じゃない。実際掛けたんだ。自分の立場を守る為に」
隣では美都が心配そうな顔で水唯を覗き見る。口を挟もうとした彼女を、水唯が首を横に振って制した。自分には説明責任があると重々理解しているからだ。己がした罪を自覚する。そうしなければここにいる資格がない。そして水唯はおもむろに立ち上がる。
「──ごめん。謝って済むことじゃないのは理解している。だからこれは自己満足だ。でも俺は……!」
「待った」
水唯の言葉が途中で遮られる。その短い言葉に彼は頭を下げたまま口を噤んだ。責められるのも尤もだ。その覚悟もある。むしろ今まで何も言われなかったのが不思議だったくらいなのだ。そんなことを考えながら、水唯は言葉通り身体を硬直させた。そして直ぐに「座るように」と視界の端で捉えた四季の手で指示がある。それに異を唱える事なく静かに腰を下ろした。口を挟んだ本人ははぁ、と息を吐いて頭を抱えている。
「手を掛けた、ってどういうことだ」
「……文字通り、彼女の中にある鍵を奪おうとした」
「じゃあなんで今こいつは無事なんだ?」
「それは──」
先刻起こったことを脳内で繰り返す。彼女は苦しみの最中にいながら、懸命に名前を呼び続けてくれた。止められたのは奇跡にも近い。あのまま心のカケラが出現してもおかしくなかったのだ。すると今度こそと言わんばかりに美都が口を開いた。
「途中で止めてくれたの! だからわたしも大丈夫だし水唯もこうやって話してくれてて……」
彼女が隣にいる水唯を庇うように目の前の少年に状況説明を付け加えた。すると四季は再び大きな溜め息を吐く。
「──美都」
「は……はい」
眉間に深いシワを寄せている四季に名前を呼ばれたため、美都は肩を竦め佇まいを正した。彼の声のトーンから判断するにこの流れは恐らく良くない、と考えて。すると。
「こんの──ばか」
率直で短い単語で罵られ、言わずもがな返す言葉もなくうぅっと喉を詰まらせる。
「あれだけ家から出るな注意しろって言っただろうが!」
「だって! 水唯から電話掛かってきて出たら呻き声が聞こえたんだもん! 心配になるでしょ⁉︎」
「それが甘いって言ってんだ! 俺がこれまでどんだけ気ぃ遣ったと思ってる!」
「放っておけなかったの!」
やいのやいのと四季と美都の言い合いが始まる。段々とヒートアップしていくその様に、止めようと思っても原因となった己がどうして口を挟もうかと水唯は迷ってしまった。恐縮気味に二人のやり取りを眺めながら眉を下げる。
「あ、の……」
「お前もお前だ、水唯!」
突然怒りの矛先が自分に向いたことに肩を竦める。だが何に関して咎められているのか判断に困った為そのまま四季の言葉を待った。
「明らかに何か隠してます、みたいな顔しやがって──何かあったら相談しろってこいつに言われてたろうが!」
怒りのままに言われたことに対して水唯は目を見開く。四季の怒りが自分が思っていたことへの怒りではなかったからだ。
「……それはなかなか無茶なのでは」
珍しく美都が四季の発言に対して揚げ足を取る。敵である者に相談しろ、とはなんとも無理な話であるという美都の主張はもっともだった。しかし彼女も四季の考えを汲み取ったようだ。苦笑しつつ今度は水唯へ向き直る。
「あのね水唯。わたしも四季もすごく心配してたんだよ。最近思い詰めたような顔してたし、顔色も良くなかったからどうしたのかなって。ずっと一人で悩ませちゃってごめんね」
違う、と咄嗟に声が出なかった。そうじゃないと否定したかった。決して二人のせいではないのだと。彼女が謝る必要は全くない。それに事あるごとに美都は気にかけてくれていた。自分が主命の為に動かなければいけなかった。だからこれは自業自得なのだ、と。しかし上手く言葉に出来ず口籠もる。
「自惚れかもしれないけど、わたしたちのことを考えててくれたんだよね──? 水唯は優しいから、誰にも相談せずにずっと一人で抱えてきたんでしょう? 苦しかった……よね、きっと」
美都の言葉に水唯は俯いて顔を歪めた。彼女の優しさに胸が詰まる。考えていたのは事実だ。ずっと葛藤していた。彼女を手に掛けることを。こんな自分が傍にいていいわけないと距離を取ろうとした。だが何も知らない彼女が無邪気に話しかけてくるから。それが苦しかったのだ。
「俺は──君が思っているような人間じゃない」
優しくなんかない。弱いだけだ。だから何一つ完全に行えなかった。
すると美都が首を横に振る。
「そんなことない。水唯が優しいの、わたし知ってるよ。そうじゃなきゃあの時止めることなんて出来なかったはずだもん」
「違う……俺はただ弱いだけだ」
俯いたままポツリと呟く。自分の弱さは理解している。美都に言わせればそれは優しさなのかもしれない。
直後四季が大きく息を吐く音が耳に届いた。
「責められたいのか? お前は」
その言葉に唇を噛み締めた。そうなのかもしれない、と心の中で反芻する。今は美都の優しさが逆に苦しくも感じるのだ。上手く答えられないでいると四季がそのまま続けた。
「謝らなきゃいけないって俺に言ってたけど、お前赦されようとも思ってなかっただろ」
「それは──」
「そりゃ責められた方が楽になるだろうな。お前の場合、罪の意識をずっと抱えてたんだから。責められることでお前はそれを更に自覚する。で、自分が悪かったんだって思って一人で完結させる。お前の言う通りただの自己満足だよ」
淡々と、しかし少しだけ語気が強い彼の言い方に肩を竦ませる。やはり頭の回転が早い。四季は既に見抜いていたのだ。自分の中に隠した本心を。
そうだ。赦されるつもりはなかった。自分が赦されてはいけないと考えていたのだ。彼女を傷つけ、己の立場しか考えなかった自分が赦されていいはずがない。特に目の前に座る少年には。本当は合わせる顔さえないと考えていたのだ。しかし現状自分に出来ることを考えればこうするしかなかった。
素っ気なく聞こえたのか、美都は四季を嗜めようとする。しかしそれを四季が遮った。
「だとしたら俺はお前を責めることも赦すこともしない。それでお前が楽になるのなら尚更な」
「四季……!」
「──ただし、それは現状での話だ」
見かねて美都が名前を呼ぶ。しかし四季の話には続きがあったようだ。補足的な接続詞が用いられたことに、対面に座る二人同時に彼に視線を遣った。すると四季は複雑そうな表情を浮かべ腕を組みながら口を開く。
「反省してるなら、美都の好意を無下にするな。こいつはずっとお前のことを考えてたんだ。それが分かったからお前も止められたんじゃないのか?」
水唯の瞳孔が開く。先程まで繰り返されていた否定の返しは無い。四季の話す内容が少なからず当たっているということだろう。
同じく目を見開いていた美都も四季の想いを感じ、再び水唯の方へ首を捻った。
「水唯あのね。お節介だって分かってたんだけど、わたしはどうしても──……」
話している途中で、不意に彼の背後に見えたリンドウの花が目に入った。瞬間、菫との会話を思い出す。
──『振りかざすのではなく、寄り添ってみてください。あなたが信じる想いに』
彼女はリンドウの花言葉である正義について、そう説いた。
再び水唯と視線を交わす。金色の瞳がまるで幼い子どものように揺れているのが見て取れた。
自分の正義──自分が正しいと思うこと。それは殊に難しい。しかし今この場面において、彼に掛ける言葉は既に決まっていた。一拍置いてゆっくり息を吸う。上手く伝えられるだろうか、と少しだけ緊張しながら。
「────あなたを、ひとりにさせたくなかった」
「……!」
小さく息を呑む音が耳に届いた。これが、自分が信じる想いに寄り添うということだ。続けて一刻前にも伝えたことを繰り返す。
「水唯のことが大切なの」
痛いくらいに知っているから。独りでいることは、苦しいのだと。もしこの考えが違っているのだとしたら、水唯は首を横に振るだろう。しかし彼は硬直したままだった。
しばらくして水唯がゆっくりと美都から視線を逸らす。しかし表情が曇っているわけでは無い。ただ呆然と何かを考えているようだった。
四季に揶揄されたことで脳内にはこれまでの彼女の表情が浮かんでいた。ずっと自分を気にかけてくれていた姿を。
「俺、は──……」
常に優しい笑顔を向けてくれていたこと。苦しみの最中、諦めずに自分を信じてくれたこと。そして弱い自分を守ろうとしてくれたこと。彼女はずっと自分に寄り添っていてくれていたのだと気付かされる。
自分の存在意義を考えなかったわけでは無い。それでも自分に意志は不要なのだとそう考えてきた。ここにいるのは命令があるからなのだと。己への価値を見出すことはなかったはずだ。しかし。
大切だと言ってくれる人が、こんなに近くにいた。何者でも無い自分を、ひとりにさせたくないと。それは奇跡だ。
先程抑えた感情が再びこみ上げてきた。心が温かくなるのはいつだって美都が関わっている。知らないうちに、こんなにも彼女の存在が大きくなっていただなんて。
「……っ、ごめ──……」
嗚咽を漏らさないように手で口を押さえる。贖罪の言葉を口にしながら水唯は俯いて目に涙を浮かべた。彼自身驚いているようだ。一日でこんなにも感情が揺れ動くことがあるなんて、と。視界の端から美都の手が伸びてくるのが見え、膝に置いたままだった片方の手を優しく握る。その温もりに安心感を覚えた。
「泣くなよ……」
「もう、四季」
半ば呆れ気味に四季がそう呟くと今度こそ美都が彼を窘める。彼にとってこの状況は確かに面白くはないはずだ。そう考え、そしてなぜ自分がここに居られるのかを思い直し必死に感情を整える。彼の言う通り泣くだけでは何も進まない。己の責務を果たさなければ。
「悪かった──もう……大丈夫だ」
深呼吸を二度繰り返し、顔を上げて二人を見る。真剣な眼差しをする四季と心配そうに見つめる美都の対照的な表情を目に入れると水唯はおもむろに口を開いた。
「俺が知っていること──俺がしてきたことを全部話すよ」
そして水唯はこれまでの顛末をポツリポツリと語り始めた。
◇
水唯の話は思った以上に二人が驚く内容であった。
「……じゃあ水唯は、いつから自分に宿り魔が憑いているか分からないってこと……?」
恐る恐る美都が訊ねる。その質問に水唯はコクリと頷いた。
「記憶に無い程幼い頃なのか、もしくは前後の記憶を消されたのかすら分からない。気付いた時にはもう、この印があった」
言いながら彼は右手に浮かぶ宿り魔の印を眺める。一刻前、美都が感じたのは間違っていなかったのだ。水唯の中の宿り魔の力は、ほぼ彼と同化している。宿り魔が憑けられた時期に見当が付かなくても、相当長い年数だと察することが出来る。美都が青ざめながらその話を聞いていると今度は四季から質問が挙がった。
「水を使役出来るのも宿り魔の力によるものか?」
衣奈の時はそうだったはずだ。宿り魔の力を駆使し、彼女は気砲を扱っていた。その威力は凄まじく当たれば並みの怪我では済まない。前者に倣えば、水唯が操る水の力は宿り魔が憑いていることが要因だと言えるだろう。しかし彼は肯定せず眉根を顰めた。
「──これは、俺自身の力だ」
「……?」
その回答に二人は首を傾げた。彼自身の力、という意図を測りきれずにいるとそのまま水唯が説明を続ける。
「非科学的な話だけどーー水の加護があるんだ。簡単に言えば名は体を表す、ということになる。宿り魔の力が補助にはなっているが……水は分身のようなものだ」
そんなことがあり得るのか、と目を瞬かせた。宿り魔の力ではない水唯自身の力。彼が水を操る様は実際に目にしている。まるで水唯に従うようだった。説明通り非科学的なものだ。ただの人間が、水を操ることが出来るなどとは到底思わないだろう。
「──じゃあ、宿り魔を祓ってもその力は消えないってことだな?」
おもむろに放った四季の言葉に、美都と水唯は同時にハッとして彼を見た。そうだ、水唯には宿り魔が憑いている。守護者である以上それを祓う義務があるのだ。しかし水唯は違う意味で驚いていたようだった。困惑気味に眉を下げている。
「祓える……のか──? 俺に憑いてるのは平野の時とは全く別物なんだ」
「つってそのままにはしておけないだろ。それに──」
はぁ、と四季がおもむろに息を吐く。そして水唯と視線を交わした。
「今の話聞いてる限り、お前割と中核で動いてたんだろ。戻れるのか? こんだけ話しておいて」
真正面からそう言うと水唯は声を詰まらせ目を伏せた。全てを話す、と言ったものの恐らく彼は今後のことをぼんやりとしか考えていなかったに違いない。それは彼に憑いている宿り魔のせいもあるだろう。しかし四季の言うようにこれまで中核で動いていた水唯には、あちらにとって必要な存在ではないのだろうか。そう美都が考えていると再び四季が口を挟んだ。
「──まぁ、戻すわけにもいかねぇけど」
「……そうだね」
思わず同意する。水唯が元いた場所に戻るということは再び自分たちと相反することになるのだ。そんなことはしたくない。恐らくは水唯も望んでいないはずだ。だからこそここまで話してくれたのだろう。
水唯はゆっくりと瞳を閉じた後小さく頷いた。
「……無論、戻るつもりはない。だが──」
目を開いて先程の不安を物語るように、己の手のひらを見つめた。宿り魔の刻印が浮かんでいる右手のひらだ。水唯の様子にすかさず声を上げる。
「祓えるよ──! わたしやってみる」
「だな。俺より美都の方が向いてそうだ」
勢いで口にしたことに四季も同意した。衣奈の時も武器を使わずに退魔できたのだ。あの時出来て今出来ないなんてことはない、と意気込む。
「ただ──相当根深そうだし一筋縄じゃいかない可能性はある」
「? どういうこと?」
四季が示唆する意味が分からず首を傾げた。すると腕を組み、眉間にしわを寄せて考えを並べ始める。
「多分、水唯と宿り魔はほとんど同化してる。平野の時は上部だけだったかもしれないけど、恐らくそんなもんじゃないだろうな。それを引き剥がすとなると──」
そこで一旦口を噤んだ。四季の表情は芳しいとは言えない。その理由を表すように彼は自論を述べる。
「もしかしたら、身体に相当負荷がかかるかもしれないな」
「……!」
ハッと目を見開いた後、思わず水唯の方へ向く。四季の言葉を受けて動揺しているのではないかと考えたが水唯は至っていつも通り冷静な表情を見せていた。
「構わない。やってくれ」
「い──いいの……?」
対照的に不安な顔を覗かせる美都に、水唯は宥めるかのように微笑んだ。
「大丈夫だから」
当事者からそう言われてしまえば、こちらが否と言うことは出来ない。美都は一瞬反芻した後「わかった」と小さく頷いた。
「その前にまだ少し話しておきたい。いいか?」
「あぁ」
四季の一言で退魔は一旦持ち越し、話を続けることとなった。そして彼は核心へと踏み込む質問を投げる。
「お前は誰の命令で動いてる? なんで鍵が必要なんだ」
一気に空気が張り詰める。水唯は回答を探すようにして目を伏せた。
「……それに関しては、恐らくお前が望んでいる答えに至らないことしか話せない」
「どういうことだ」
淡々とした口調で変わらず目線を落として声を発する水唯に、四季は鋭い眼差しを向ける。顔を上げて共に視線を交わすと水唯はその理由を口にしていく。
「話すときは必ず簾のようなもので場を隔てられていた。顔も名前も、年齢も背格好も判らない。見たことがないんだ。彼が──なぜ鍵を必要としているのかも」
言葉の最後の方には再び目線を逸らし、バツが悪そうに顔を歪ませた。水唯の言う通りなのだとすれば、その人物はかなり周到に自身の身元が割れないよう注意していたに違いない。重用する水唯にとってもそのあり様なのだ。余程その人物は周囲を警戒しているらしい。
「ならどうして、そんな素性の知れない奴の命令を聞いていたんだ」
「それは……」
水唯がおもむろに口籠もる。明らかに今までと違ってその回答に戸惑っているようだった。その様子を美都が不安げに見つめていると、対して何かを考えていた四季が鋭い一言を放つ。
「──親が関わってんのか?」
「……!」
小さく息を呑む音と同時に水唯がハッと顔を上げた。彼の瞳は驚きと戸惑いの色で揺れている。そう言えば、と美都も思い出したことがあった。水唯の転校理由。その際手続きに来た父親、そして入院中の母親の存在。それが関係しているのか、と。四季は独自で瑛久と話を詰めていたに違いない。その推察を水唯に問い質そうとしているのだ。
「主犯は父親か?」
「違う! だが──……関わっているのは事実だ」
珍しく水唯は語気を荒げて否定した。それだけは主張したかったと言わんばかりに。彼の曖昧な回答に四季は眉間にしわを寄せる。
「何がどう関わってる? 入院してる母親は無関係ってことか?」
「! ……なんで、それを──」
四季から語られることに心底驚いたような表情を見せ、水唯は目を見開いた。水唯はこれまで積極的に自身の話をしたことがないはずだ。四季の推察に驚くのも頷ける。
「こっちの質問に答えるのが先だろ。お前の父親は何を隠している?」
眉を下げたまま言葉を詰まらせる水唯に、四季は質問を止めない。もはや質問というよりは尋問に近かった。四季がここまでするのは守護者の責務のためだということは重々承知しているが、これでは水唯があまりにも気の毒だ。彼が口籠もるのは言い難いことが生じているからだろう。なんとかこの張り詰めた空気を和らげることが出来ないかと考えている間に、水唯がポツリと理由を語り始めた。
「……──母が、人質に取られている」
想像を逸した回答に、美都と四季は目を見開いた。人質、などという単語は生きていてそれ程耳にすることではない。まして身近でそんなことが起こっているとは考え難いものだ。しかし水唯の反応を見るからにそれは真実なのだろう。膝の上で手を強く握り締めている。
「父さんはそのせいで彼に従わざるを得ない。だから母は無関係だ。恐らく自分が人質だと言うことも知らない」
「待て。なんでそんなことが成立する? お前の父親は母親に接触できてるんだろ? ならいくらでも助ける方法はあるはずだ」
「──入院してまともに動けない母を、か?」
今度は四季が言葉を詰まらせる番だった。水唯の言う通りだ。入院患者を簡単に動かすことは基本不可能だろう。それこそ医療従事者──それも医師でなければその判断は殊に難しいはずだ。
「無理をすれば安全な場所に隔離できるだろう。しかし母の容態を鑑みると得策とは言えない。対外的には病院は安全な空間だ。彼の言うことに従ってさえいれば母に危害が及ぶことはない」
「……とんでもねぇ奴だな。その『彼』ってのは」
苦い顔を浮かべたまま四季がポロリと本心を漏らす。水唯の母親を人質に取り、あまつさえ彼の家族を巻き込んでまで鍵が欲しいと言うことか。その非人道的な行いには美都でさえも顔を歪める程だった。
「お前の家族が標的になった理由はなんだ?」
「──昔馴染み……だったと思う。良くは知らない。加えて後ろ楯だろうな」
「後ろ楯……?」
再び彼の口から語られる馴染みない単語に二人は眉根を顰める。自分で言った言葉を反芻しているのか、水唯は一拍呼吸を挟んだ。
「学校からの帰り道に、大きなガラス張りのビルがある。見覚えないか?」
そう言われて記憶を辿る。水唯が出した特徴のビルが、確かに通学で使う道にあったはずだ。車の通行量の多い大通りに面しており、所謂洒落た外観をしている。いつも綺麗だな、と横目に思いながら通り過ぎるので何の会社なのかは気にしたことがなかった。しかし四季は何かに気付いたようだ。
「──! ほしな……?」
ハッとしておもむろに水唯の苗字を呟く。今更彼の名前がどうしたのだろうと美都が首を傾げていると、四季の反応を察したように水唯が理由を話し始める。
「父親の会社だ。あのビル丸ごと、父さんの管轄下にある」
「え⁉︎ そうなの⁉︎」
思いもよらぬ規模の大きさに驚いていつも以上に声が出る。そしてすぐにはたと目を丸くした。と言うことは、となるべく冷静に話を整えていく。あの大きなビルの会社が水唯の父親が所有する物なのだとすれば、とてつもなく大きな事業を手掛けているのではないか、と。美都は混乱する頭で考えたことを口に出していく。
「しゃ……社長さんの息子……?」
「……そう言うことになるな」
バツの悪そうに目線を逸らしながら水唯が肯定する。つまり水唯は社長令息ということだ。因果関係を理解すると諸々事態も急にはっきりとしてきた。先程彼が言っていた「後ろ楯」という言葉は、父親の経営する会社のバックアップを得られるから。そして水唯があの広い部屋で一人暮らしを出来ている理由が。
「ねぇ水唯、お父さんと仲が悪いわけじゃないんだよね?」
羽鳥から、水唯は父親と二人で暮らしていることになっていると聞いた。しかし今の話を鑑みるとそれ程不仲のようにも感じない。むしろ父親のことを庇っているかのようにも思えたのだ。
「普通──だと思う。だが必要以上に連絡を取らないようにしている」
「どうして……?」
「──互いに自分の立ち位置を理解しているからだ。自分がすべきことは何なのかを」
直ぐには意味を理解することが出来ず頭を悩ませた。どういうことなのだろう、と必死に考えを導き出そうとしたところ、四季が途中で口を挟んだ。
「ちょっと待て。今の話を聞いてる限りお前は──……お前も、人質みたいなものなんじゃないのか」
「……さすがに頭の回転が早いな」
皮肉では無く四季に対して思ったことを言ったのだろう。再び口にされた不穏な単語に肩を竦める。水唯が人質、とはどういうことかと。
「原因は──宿り魔か」
「あぁ。俺に宿り魔が憑けられたことで、逆に母の安全は保証された。俺が彼に従いさえすれば──母さんを巻き込むことは無くなる」
淡々と説明が付け加えられていく。その壮絶な背景に美都は口を覆った。水唯がしきりに命令を遂行しようとしていたのはそのためか、とようやく把握する。水唯はただ命令に従うだけだと事あるごとに口にしていた。自分の意思は関係無く、命じられたことをこなすことが己の役割であると。全容が見え始めたことで、彼が置かれてきた立場がどれほど不条理なものか理解してしまった。
(ひどい……)
彼の心中を慮るかのように、美都は顔を歪ませる。水唯は今までこのことを誰にも話してこなかったはずだ。この苦しみをずっと一人で抱えていたのか。だから水唯は、似たような立場に置かれている自分を哀れんだのかと。あれは恐らく重ね合わせていたのだろう。自分では如何ともし難い立場に置かれている自身に同情したのだ。
「なるほどな。お前──しばらく母親と会ってないだろ」
「……? そもそも入院先を知らされてない。父さんの悪あがきなのか知らないが転々としているから」
「なら、これは朗報だな」
それまで組んでいた腕を解き、四季は少しだけ雰囲気を和らげた。対して水唯は意図が分からず怪訝そうに眉を下げている。
そしてフッと四季が息を吐いた。
「お前の母さんは、瑛久さんの病院にいるよ。間違いない。だから大丈夫だ」
「……!」
思いがけない情報を耳にして、水唯は息を呑み目を見開いた。少しばかり信じられない、といった様子を覗かせている。しかし四季からの「間違いない」という確信の言葉に少しずつ己の中に落とし込んでいるようだった。
「そう、か……──だから……」
水唯はそれまでずっと強張らせていた肩から力が抜け、長く深い息を吐いた。彼はどれ程長い期間、己の役割と向き合ってきたのだろう。相当神経をすり減らしていたに違いない。手ずからで無くとも命令により他人を襲うことは、自分で思うよりも心に負担を掛けていたはずだ。これでようやく解き放たれるだろうか。
「──しかし俺が言うことじゃないけど……お前それで良く止められたな」
半ば呆れ気味に四季が呟く。
「結果、母親の安全は確保されたけどさ。その命令って本当は従わなきゃヤバいやつだったんだろ。だからこれまで動いてきたんじゃないのか?」
「それは──……」
四季にそう指摘されて水唯は思わず口籠もった。否、口籠もると言うよりは何かを考え始めたようだ。四季の言うことももっともだ。家族のためにこれまで動いてきた努力を失うことになるのだ。もちろんその内容は到底見過ごせることではない。しかし水唯は水唯なりに考え、行動してきたはずだと。それを覆すことは簡単に出来ることではないように思える。
「…………傷つけたくないと、思ったんだ」
ポツリとそう呟くと、ゆっくりと視線を動かし美都を見つめる。彼の澄んだ金色の瞳に吸い込まれそうになった。美都は目を見開いた後ふっと彼に笑みを返す。
「ありがとう。ずっと……名前を呼んでくれて」
それは、水唯からようやく溢れた感謝の言葉だった。これまでの彼の話を聞いて、少しだけ不安になっていた。自分のした事は、大きなお節介だったのではないかと。水唯を止めなければと必死だったが、彼にも彼の事情がやはりあった。それでも今の言葉を聞いて間違いではなかったのだと思える。彼に寄り添うことが出来ただろうか。
「待て待て」
大きな息を吐きながらおもむろに四季が口を挟んだ。見るとその眉間にはしわが寄っている。
「まだ解決してないだろうが、色々と」
後頭部に手を回し、現状を思い出させるかのように呟いた。はたと目を瞬かせる。全くもってその通りだ。まだやるべき事はたくさんある。「とりあえず」と仕切り直す声が聞こえ一旦四季と視線を交わす。恐らく考えている事は同じだ。
「それをどうにかするか」
互いに視線は水唯の方へ動いた。彼の右手に刻まれた、宿り魔の証に。




