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狼の子と猫の子のアルフライラ  作者: 日崎アユム
第8夜 僕たちの価値

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第3話 やっと気づいた

 円城の中心、皇帝スルタンの住まう宮殿は、果てなく続く列柱、高い曲面架構ヴォールトの天井にある小さなくぼみの連なりでできた鍾乳石飾り(ムカルナス)、そして透かし彫りの窓から差し入る幾何学模様の月明かりで構成されていた。雄大で、壮大で、ギョクハンの語彙では言い表せない世界が広がっていた。


 大小さまざまな九つの噴水が並ぶ中庭を通り、その奥にある、中庭側の壁がない部屋、前面開放広間イーワーンに通された。敷かれた絨毯には植物のつるの紋様が編み込まれている。正面には啓典の文句が縫い取られた大きな壁飾りの布が掛けられている。その手前、玉座は四本の柱に支えられる天蓋付きで、肘掛けに紅玉ルビーが埋め込まれていた。


 ギョクハンは、玉座の前で、ファルザードと並んでひざまずいていた。ギョクハンの斜め後ろにはアズィーズが、同じくファルザードの斜め後ろにはジーライルが控えて、同じようにひざまずいている。


皇帝スルタンのおなり!」


 近衛兵たちがひとりの男を囲んで隣室から出てきた。

 ギョクハンは、その男を見て、不思議な感傷に包まれていくのを感じた。

 ハサンと同じくらいの年の男性で、巻き布(ターバン)を巻いた頭の栗色の髪には白髪が交じっている。伸ばした背もそれなりに高そうである。しわの刻まれた目元は穏やかで、優しそうな男だった。だが、ウスマーン邸に入ってきた時のアズィーズに感じたような力強さ、頼もしさはない。もっと言うなら、覇気がない。


 目が合いそうになった。慌てて頭を下げ、目線を斜め下に移した。

 玉座にあぐらをかく、その膝だけが見える。


「顔を上げよ」


 低く落ち着いた声だった。しかし攻撃的ではない。


 ギョクハンは顔を上げて皇帝スルタンの顔を見た。


 皇帝スルタンサラーフだ。


 やっと会えた。自分たちは、ようやく、ここまで来ることができたのだ。


「話はすべて息子から聞いた」


 サラーフが言う。


「ワルダからの長旅、ご苦労であった。ここに至るまでの道中での数々の活躍も、アズィーズやジーライル、ほか各地の代官から情報が寄せられている。さぞや大変であっただろう」


 労をねぎらわれ、胸の奥が温まる。


 同時に、ギョクハンは悲しくなった。

 サラーフが悪だとは思われなかった。むしろ優しく穏やかで、地方の城主であれば領民たちに仰がれて静かな人生を送るだろうと思えた。ただ、この男がウスマーンやアズィーズのような気の強い連中に囲まれると意見できないのも、何となく、伝わってきてしまった。皇帝スルタンとは、優しいだけではやっていけないものなのだ。


「特に大宰相(ワズィール)ウスマーンの件は大儀であった。あとで褒美を取らせようと思う」


 ファルザードが「そのお言葉をお待ちしておりました」と言った。ギョクハンはついファルザードの方を見てしまった。彼はまっすぐサラーフを見つめていた。


「たいへん不躾ではございますが。さっそくですが、褒美として頂戴いたしたいものがございます」

「なんと。そなた、なかなかの豪胆であるな」

「申し訳ございません。たいへん急いでおりますので」


 そんなファルザードを叱る者はなかった。ギョクハンは少し焦ったが、ジーライルは澄ました顔をしているし、アズィーズなどは声を漏らして笑っている。


 ファルザードは、揺らがなかった。


「援軍を」


 その言葉は明瞭で、高い天井に反響するかのようだった。


「ワルダ城をお救いください。城主ハサン様の姫君であるザイナブ様が、陛下のお力を必要としております。今もお待ちしていることと思います」


 首を垂れ、「どうか」と懇願する。


「一刻も早く……! 今すぐにでも! ナハルを倒し、ワルダ城を解放してください。僕が――僕たちが望んでいるのは、それだけです」


 サラーフは、しばらくの間沈黙していた。嫌な沈黙だった。ギョクハンの緊張はさらに高まった。


 やがて、溜息をついた。


「ムハッラムか」


 ぽつりと呟く声は物悲しく、


「可哀想だが、それは、気が進まぬな」


 静かで、弱々しくて、


「ナハルが離反したら、帝国は揺らいでしまうのだ……」


 ギョクハンも、大きく息を吐いた。


「ハサンはやはり、死んだのか」


 ファルザードが、「はい」と頷いた。


「そうか……残念だ」


 指輪をつけた両手で、自らの顔を覆う。


「ハサンが、どうしても、と申すならば。余ではなく、ハサンの意思であると言えるのならば。少し考えたのだがな。万が一のことがあった時、余の責任にされたくない」


 ギョクハンの心が波立った。


 この弱い男に振り回されて帝国は揺らいでいるのだ。


 それに自分たちの失敗もあった。ザイナブの手紙があれば――ザイナブが皇帝スルタンの力を求めているという証拠があれば、もう少し揺さぶれたかもしれない。ザイナブの名の下に戦うという大義名分ができればこの男は動いたかもしれないのだ。ザイナブはきっとそこまで見越して手紙を書いたのだろう。だがその手紙はもうない。


 何を言えばこの男を鼓舞できるのだろう。思いつかない。


 ギョクハンがうつむいた、その時だ。


「――王の中の王、カリーム諸王国のすべてを統べる者」


 ファルザードが、呪文を唱え始めた。


「アシュラフ帝国の正統な後継者にしてミスライムとトゥランとユーナーンとサカリヤの庇護者、二つの河を有し肥沃な土地を守る豊かなる者、神に選ばれ天下を治める者、正しく裁く者にして寛容なる者、栄誉と博愛の主、正しい導き手、神の恩寵を一身に受ける、ムブディの子のハミードの子のザーヒルの子、アブー・アズィーズ、皇帝スルタンサラーフ陛下」


 そのままの姿勢で、目を、丸くした。


 あの、長い美称だ。


「かの邪知暴虐のムハッラムが侵攻せしめるは我が父ハサンの統治したる薔薇の都ワルダ、慈悲深く叡智あるサラーフ陛下におかれては哀れなる小娘をお見捨てにならぬとのこと我確信せり。刮目されよ、ワルダ城の行く末、その先に見ゆる帝国の末路を。ワルダ城まさに落ちんとす」


 ギョクハンは鳥肌が立つのを感じた。


 ファルザードはあの手紙を暗記したのだ。ワルダ城を出た翌日の昼、緑地オアシスで寝転がっていたあの一瞬で、すべて記憶したのだ。

 いまさら、ファルザードが実はとてつもない賢者なのではないか、というのに思い至った。考えの足りないギョクハンのために、ザイナブは頭脳を授けたのではないか。


「ザイナブ様からの伝言です」


 サラーフも驚いたようだった。上半身を起こし、目を大きく見開いてファルザードを見ていた。


「ザイナブ……!」


 自分の口を手で覆い、「あの小さかった娘が」と呟いた。


「確かにザイナブだ。その美称は、ハサンが考えたもので、ハサンとその子供しか知らぬのだ」


 立ち上がり、二人の方へ歩み寄る。


「おお、可哀想なザイナブ! すぐに余がザイナブを助けに――」


 途中で「いや、ならぬ」と言って立ち止まる。


「ここで情に流されては……、焦って行動しては……また……」


 ファルザードが怒鳴った。


「では! 何をしたら動いてくださるんですか!」


 サラーフが気おされた様子で、おびえた目でファルザードを見た。


「ワルダを救って、ナハルを攻めて、帝国はいかなる得をするのであろうか」


 ファルザードは即答した。


「帝国は知りませんが陛下に利益はあります」

「何か」

「僕が陛下のものになります。お好きなようにお使いください。僕は百万金貨(ディナール)ですので」


 声は力強く、いつかの夜に聞いた弱さやためらいは一切感じられず、それが彼の矜持なのだと確信する。


「いえ、一千万金貨(ディナール)、一億金貨(ディナール)の価値のある奴隷ですので。もし望まれるのでしたら、陛下のために、帝国を大きくしてご覧に入れましょう。僕は可愛いだけではありません。僕の――僕たちの力には、陛下が賭けるだけの価値があります」


 ついでとばかりに「ギョクもつけますので」と言われた。ギョクハンは反射で「いや俺おまけかよ」と言ってしまった。


 サラーフが笑った。

 彼は、玉座に戻って、座った。そして、こぼれ落ちる涙を自らぬぐった。


「そなたたちがかように戦っておるというのに、余が何もせぬのでは、ハサンにも他の民にも申し訳が立たぬな」


 すぐさま「アズィーズ」と息子の名を呼んだ。アズィーズが前に歩み出てから膝をつき、「はっ」と返事をしながら改めてひざまずいた。


「一週間以内に直属軍および皇帝スルタンに従う国々の全兵力を集めてワルダ城に向かえ」

「御意」


 アズィーズが深く礼をする。そして立ち上がり、家臣たちに向かって「戦支度をせよ!」と号令する。家臣たちが散っていく。


 ギョクハンは顔を上げた。自分の顔に笑みが広がっていくのを感じた。


「陛下……!」


 見ると、ファルザードも安堵した様子で笑っていた。


 サラーフが、満足そうに微笑んで、言った。


「分かった、分かったから。そなたたちにはそなたたちに見合うだけの――そう、百万金貨(ディナール)を授けるから。だから、アズィーズとともにワルダ城へ帰れ。そして百万金貨(ディナール)とそなたたち自身をワルダ城の再建のために使うのだ」


 ギョクハンもファルザードも、すぐに「はい!」と返事をした。





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